第1話:知能の檻(1)
王都を離れた束の間の休息。それが、これほど非合理的な事態に発展するとは、エラーラ・ヴェリタスの計算にはなかった。
彼女が調査で立ち寄ったのは、霧深い山間に沈む田舎街「クロンヴィット」。エラーラが王立アカデミーからの依頼でこの地を訪れたのは、古代の魔導通信に関する稀少な古文書が、ここの市庁舎に蔵されていると聞いたからに他ならない。
日没。調査を終えたエラーラが、埃っぽい書庫から出た、まさにその瞬間だった。
耳鳴りのような高周波と共に、街全体が蒼白い光の膜に包まれた。窓の外、夕闇に染まりかけていた空が、不気味なオーロラのように揺らめいている。
「……フム」
エラーラは即座に市庁舎のバルコニーに出た。街は完全な静寂に包まれていた。
「古代の封印術式……『クロノスの揺りかご』か。大規模すぎる」
市庁舎のロビーでは、数人の役人がパニックを起こしていた。
「王都と連絡が取れん!」
「魔導灯が消えたぞ!」
「外に出られない! 透明な壁がある!」
「全員、落ち着け」
エラーラの冷静な声が、低い天井のロビーに響いた。
「これは外部からの魔術的封鎖だ。物理的な脱出は不可能。そして、見ての通り、あらゆる魔導通信は遮断されている」
彼女は、すぐさま市庁舎の地下にある、古文書保管庫へと戻った。この街の成り立ちに関する、埃を被った羊皮紙の束を、凄まじい速度でめくっていく。
「……あった。『クロンヴィットの礎』……魔導脈の制御術式……」
彼女の指が、ある一点で止まった。
「……揺りかごは、時が来れば、棺となる…?」
彼女は、血の気が引くような記述を発見した。
「この術式は、街の地下に眠る膨大な魔導脈を強制的に活性化させ、障壁を形成している。だがこれは『爆弾』だ。制御中枢は…エネルギーの飽和……すなわち、日の出、午前6時に暴走し…?」
非論理的な状況だ。外部への救援要請も、内部での市民への避難勧告も不可能。この街の全住民の命が、エラーラ一人の肩にかかった。
彼女の目的は、ただ一つ。12時間以内に、街のどこかにある「中枢」を見つけ出し、この巨大な魔導爆弾を解除すること。
エラーラが市庁舎から出た、その時。
「……あのねお、ねちゃん…?あたまいいしとですか…?」
ぬるり、と背後から声がした。
振り返ると、そこにいたのは、不潔なローブをまとった、焦点の合わない目をした男だった。街の厄介者として知られる、精神異常者だ。彼は、何故かこの緊急事態にも、不気味なほど落ち着き払っていた。
「……ぼくがね、ばくだん、しかけたよ。すごい、ばくだん。ぱちんぽしちゃうの。あたまいいしとが。うーっ!」
男は、片言でそう言いながら、エラーラににじり寄ろうとした。
「あたまがと、ぶんだ。えらいしとの、あ、たまが。ぶじゅんって。うーうーっ!」
「……?」
エラーラは、その存在を「論理の外」にあるものとして即座に切り捨て、男の横をすり抜けた。今は、一秒たりとも無駄にはできない。
彼女は懐から魔力探知機を取り出した。障壁を維持するために、街の魔導脈が異常な流れを示している。
「エネルギーの収束点は、ただ一つ。街の最古の建造物……時計塔だ」
霧の向こうにそびえる「クロンヴィットの時計塔」を睨み据え、彼女は足を速めた。
同時刻、街の警察署。
この街の古株刑事、ゼップ警部は、王都警察の秘密部署から、障壁発生直前にギリギリ届いた緊急魔導通信を、震える手で読み返していた。
彼は、魔術とは縁遠い、現場一筋の叩き上げだ。だが、その正義感は誰よりも強い。
『ゼップ警部。緊急事態だ。クロンヴィットで『クロノスの揺りかご』が起動した。王都の古代文献によれば、これは特定の『キーストーン』の魂に連動している』
『文献によれば、『最上位の魔術師が死ねば、事が終わる』とのことだ。』
『ところで、街の訪問者名簿を確認した。…王都から、エラーラ・ヴェリタスが滞在しているはずだ。彼女はこの国で五指に入る『最上位の魔術師』…』
ゼップは息を呑んだ。エラーラ・ヴェリタス。王都でその名を知らぬ者はいない、天才探偵。あのエリート中のエリートが、この街の爆弾の「起爆装置」だというのか?
ゼップの脳裏には、街で暮らす商人たち、子供たちの笑顔が浮かんだ。
「……すまない、探偵君」
ゼップは、長年連れ添った魔導銃を握りしめた。彼は、自らの正義を完遂するため、「非情な決断」を下した。
彼の目的は「エラーラを殺す」こと。
同時刻、街の廃教会。
指名手配中の連続殺人鬼サイラスは、闇ギルドの雇い主から、特殊な魔導具で命令を受けていた。
『仕掛けた『本命』は順調だ。だが、保険として『ダミー』も起動させた。それが『クロノスの揺りかご』だ』
雇い主の声は、愉悦に歪んでいた。
「当然、王都の天才、エラーラ・ヴェリタスが、その『ダミー』の解除に向かうだろう。それでいい」
「……どういうこった?」
サイラスは退屈そうにナイフを磨く。
「彼女がダミーの解除に集中し続けることこそが、本命の起動を隠蔽し、成功させる鍵だ。彼女が解除作業を続けられるよう、邪魔者から守れ」
「邪魔者?」
「無能な王都警察は、おそらく文献を読み違えて、エラーラを殺しにくる。その刑事が、我々の計画の唯一の不確定要素だ」
「……フン。つまり、刑事から天才探偵を守る、か。面白え仕事だ」
サイラスの目的は「エラーラを守る」こと。ただし、それは「解除作業を『失敗するまで』続けさせる」ためだった。
三者の歪んだ論理が、雨が降り始めた時計塔で交錯しようとしていた。
雨が降り始めた時計塔の扉は、エラーラの予測通り、二重のロックが施されていた。
「……フム。錬金術と、古代術式による魔導封印の複合か。」
エラーラは即座に解析ツールを取り出した。物理錠には、魔力制御のシリンダー。魔導封印は、即座に術者に呪詛が返るトラップ。
「解除には……最低でも10分。しかも、物理操作と魔術操作を同時に行わなければならない……」
エラーラは、自らの両手を異なる動きで制御し始めた。右手は繊細なワイヤーピックでシリンダーを探り、左手は魔導回路に自らの魔力を流し込み、封印パターンをハッキングする。
「エラーラ君。こんな場所で何を?」
背後の湿った階段から、ゼップ警部の押し殺した声が響いた。その手には、魔導銃が握られている。
「ゼップ警部?…ちょうどよかった。この街の封鎖解除の『鍵』を……」
「そう…」
ゼップは、エラーラの頭部に向けた。
「その『鍵』は君だ。街のために死んでくれ、エラーラ!」
エラーラは、解錠作業を続けたまま、冷静に言葉を返す。
「……非論理的だな、ゼップ警部。私の『死』が、この術式を解除する、と?」
「君の『魂』こそが、この爆弾の起爆装置なのだ!」
「フン?…デマだねェ。私の『頭脳』こそが、この爆弾の唯一の解除キーだ。君は、街を救うどころか、唯一の希望を自ら殺そうとしている。……自明の理だ」
「問答無用!」
ゼップが引き金を引こうとした、まさにその刹那。
時計塔のステンドグラスが派手に砕け散り、黒い影が二人の間に割り込んだ。
「……そいつに触るなよ、刑事さん」
連続殺人鬼、サイラスだった。彼の手にしたナイフが、ゼップの銃を構えた腕を、肉ごと弾き飛ばす。
「ぐあっ!」
ゼップの銃が床に落ちる。
「お前ッ!…なぜテロリストを庇う!」
「知るかよ。俺はそこの女を『守る』よう言われてるんでね。お前こそ、正義の刑事さん……なぜ、非武装の女を殺そうとするんだ?」
二人の男が、互いの「矛盾」に満ちた正義と任務をぶつけ合い、激しく交戦を始めた。
ゼップは負傷した腕で予備の短剣を抜き、サイラスのナイフと火花を散らす。
エラーラは、この三つ巴に、瞬時に思考を巡らせた。
(……状況が確定した。ゼップ警部は、私の死を爆弾の解除と誤信している。サイラスは、私の生存を利益と信じている)
(どちらも信用できない。私の理論だけが、この街を救う唯一の解だ)
エラーラは、二人の死闘を背に、解錠作業に全神経を集中させた。
流れ弾が彼女の頬を掠め、血が流れる。だが、彼女の手は止まらない。
物理錠が開いた。
と、同時に、魔導封印が解ける。
「開いたぞ!」
エラーラは、戦闘を続ける二人を尻目に、重い扉を押し開け、内部の螺旋階段を駆け上がった。
「待て!」
「逃がすか!」
ゼップとサイラスも、戦闘を一時中断し、互いに牽制しながらエラーラを追う。




