第28話:逆境の教官!
私の名はエラーラ。私の全ての行動原理は、ただ一つ。「知的好奇心」。
その日、私の研究室の静寂は、野蛮な男たちの怒声によって無残に引き裂かれた。
「おい!エラーラ!いるんだろ!うちのエースを助けてくれ!」
扉を蹴破らんばかりの勢いで入ってきたのは、王都陸上アカデミーの監督と、彼に担がれた一人の青年だった。青年…ハヤトは、陸上界の至宝とまで呼ばれる短距離選手。その彼は今、大会直前の練習で右足を酷く捻挫し、苦痛に顔を歪めていた。
「医者からは最低一週間は絶対安静だって言われた!だが、大会は一週間後なんだ!あんたのイカれた科学なら、どうにかなるだろ!」
「私の研究室を、ただの病室にする気かねぇ」
私は心底うんざりしたが、苦痛に耐えながらも、悔しさに唇を噛むハヤトの、その鍛え上げられた肉体に目を向けた時、私の思考は切り替わった。トップアスリートの肉体が、極限状態からどう治癒していくか。その生体データは、実に興味深い。
「よろしい。では、私の実験対象として預かろう。だが、私の指示には絶対に従ってもらう。いいかね?」
私はハヤトをベッドに寝かせると、彼の足に自作の精密な治癒測定器を取り付け、冷徹に告げた。
「フム…腓骨筋腱の亜脱臼か。論理的に考えて、損傷した筋繊維と靭帯の修復には、最低でも72時間の完全な静止が不可欠だ。一切の運動を禁ずる」
だが、太陽のように明るいこの青年が、おとなしくベッドに寝ているはずもなかった。
安静生活二日目にして、ハヤトは吠えた。
「もう無理だ!少しでもいいから外の空気を吸いたい!」
彼は、松葉杖を頼りに、ベッドから抜け出そうとする。
「非論理的だ!データが汚染される!」
私がそう叫ぶと同時に、彼の足元に「局所的低重力フィールド」を展開した。ハヤトがベッドから足を下ろそうとすると、まるで水中で足踏みをしているかのように、異常な抵抗がかかる。
「な、なんだこれ!?足が…重い…!」
「無駄な足掻きだねぇ。私の計算によれば、君の筋力では、そこから一歩も動けんよ」
しかし、ハヤトは諦めなかった。彼は雄叫びを上げ、その見えない重力に逆らい、一歩、また一歩と、足を前に出そうと必死にもがき始めた。汗が噴き出し、全身の筋肉が隆起する。
「…フム。被検体が、損傷部位に負荷をかけずに、異常なまでの筋収縮を繰り返している。実に興味深いデータだねぇ」
私は、彼の行動を、冷静に記録していた。
三日目、ハヤトは作戦を変えた。足がダメなら、腕の力だけで窓から脱出しようと、ベッドの上で上半身を起こす。
「チッ…学習能力のない男だ」
私は、彼の背中に、複数の「魔力粘着パッド」を貼り付け、ベッドに吸着させた。
「ぐっ…!身体がベッドから剥がれない!」
「当然だ。君の上半身の質量と、私のパッドの吸着力とでは、勝負にならんよ」
だが、ハヤトはそこからが常人ではなかった。彼は、まるで巨大な怪物に押さえつけられているかのように、全身を震わせ、顔を真っ赤にして、それでも起き上がろうと、腹筋と背筋に全力を込めた。
「負けて…たまるかぁぁぁっ!」
その姿は、痛々しくも、どこか美しかった。
「…ほう。安静時と比較して、体幹部の筋繊維活動量が1200%を超えている。面白い。実に面白いじゃないか!」
五日目、ついにハヤトの精神が限界を迎えた。
「暇だ!死ぬほど暇だ!何かやることがないと、頭がおかしくなる!」
私は、深いため息をつくと、彼に、自作のパズルを課した。
「このパズルを解けばここから出してやろう。頭を使えば、身体を動かす必要もないだろうからねぇ」
それは、私の研究の合間の、単なる気まぐれだった。しかし、ハヤトは、血走った目で、そのパズルに食らいついた。アームを操作し、リモコンを掴み、ボタンを押す。その指先の動きは、最初はぎこちなかったが、数時間後には、常人ではありえないほどの精密さと速度を身につけていた。
「…脳波に、極めて特殊なシータ波を観測。被検体の集中力が、極限まで高まっている。なるほど…」
そして、運命の一週間後。
私は測定器のデータを見て、満足げに診断を下した。
「ふむ、論理的な治癒プロセスは完了した。これで私の実験も終わりだ」
「まあ、棄権が論理的な判断だろうがね」
私が呟くと、ハヤトはベッドから飛び起きた。そして、その場で数回ジャンプすると、信じられない、といった顔で自分の身体を見下ろした。
「エラーラさん…!なんだか、怪我の前より、絶好調です!行ってきます!」
彼は、太陽のような笑顔で、大会会場へと走り去っていった。
私は、観測の最終段階として、大会の様子を研究室のモニターで観測した。
そして、信じられない光景を目撃する。
ピストルの音と共に、ハヤトは、まるで弾丸のように飛び出した。彼の動きは、他の選手とは明らかに次元が違った。怪我をしていたのが嘘のように、自己ベストを大幅に更新する驚異的な走りで、後続をぐんぐん引き離していく。
『な、なんだこの速さはーっ!?奇跡的な回復力!いや、むしろ以前よりパワーアップしている!一体どんな魔法のトレーニングを積んだのでしょうか!?』
解説者の絶叫が、研究室に響き渡る。ハヤトは、圧倒的な差をつけてゴールテープを切り、天に拳を突き上げた。
優勝インタビューで、ヒーローになったハヤトは、マイクの前で屈託なく答えた。
「はい!エラーラさんっていう、すっげー体育教師が、今まで誰もやったことのない、最高のトレーニングをしてくれたおかげです!マジで地獄でしたけど!」
その言葉を聞いた私は、自らの研究室で、一週間の観測データを見返し、完全にフリーズした。
筋繊維修復プロセスのデータ。低重力下での筋力増強データ。魔力パッドによる体幹強化データ。サイコキネネシスによる集中力向上データ。
私の「絶対安静のための妨害」という、純粋に論理的な行動が、皮肉にも、怪我の治療と、肉体の強化を同時に行う、究極の超回復プログラムとして完璧に機能していた。
私は、研究日誌を取り出すと、震える手で、しかし、恍惚とした表情でペンを走らせた。
「結論。被検体の非論理的な意志は、術者の論理的な命令を、予測不能な形でオーバーライドし、より高次の結果を生み出す可能性がある。フム…」
私はペンを止めると、モニターの中で誇らしげに金メダルを掲げるハヤトの姿を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
「実に興味深いじゃないか、この『心と体の相互作用』というバグは。次の実験は、この私自身を被検体として、試してみるかねぇ」
私は、自らの「失敗」から、全く新しい、最高の研究テーマを見つけ出したのだった。




