第26話:重力下の戦い!
私の名はエラーラ。私の全ての行動原理は、ただ一つ。「知的好奇心」。
その日、私は、最新鋭の屋内プールを完全に貸し切っていた。目的は「感覚遮断状態における、術者の魔力伝導率の変化」を観測するため。完璧な無菌室ならぬ「無思念空間」を求め、私はプール施設全体に、自らが編み出した最高レベルの『認識阻害結界』を展開した。外部の人間が、この施設の存在そのものを「認識できなく」なる、究極の隠蔽魔術だ。
プールサイドには精密な観測装置と、結界を解除するための魔道具一式を設置。私は、自ら開発した特殊な感覚遮断スーツを着用し、プールの中心で浮遊しながら、意図的に深い瞑想状態に入った。
完璧な孤独。完璧な静寂。最高の実験環境だ。
…そう、確信していたはずだった。
目覚めは、唐突だった。
見上げれば、遥か4メートル上に、自らの研究機材が、まるで遠い星のように虚しくまたたいている。
プールの水は、一滴残らず抜かれていた。
倶楽部の自動メンテナンスシステムが、些細なバグで早期作動したらしい。
壁面は、継ぎ目のない滑らかな特殊樹脂。梯子は、水圧がなければ作動しないよう、壁に完全に格納されている。
そして、最悪なことに、私が張った完璧な結界のせいで、絶対に、誰も、助けに来ない。
「フム…実に、非効率で、原始的で…そして、完璧な罠じゃないか…」
私は、生まれて初めて、論理では解決できない、純粋な物理的「絶望」の淵に立たされたことを理解した。
私は、壁を登ろうと試みた。爪を立てようとするが、滑らかな樹脂の前では無意味。私の指先が、虚しく壁を引っ掻く音だけが響く。
助走をつけて、壁を駆け上がる。だが、濡れた床が、私の運動エネルギーを、無慈悲に霧散させた。数歩駆け上がったところで、無様に滑り落ちるだけ。
大声を出す。完璧な静寂の中、私の声は不気味なほど大きく反響し、しかし、すぐに壁に吸い込まれて消えていく。自らが作り出した結界の、完璧な遮音性能を、皮肉にも再確認させられただけだった。
時間だけが過ぎていく。冷たいプールの底で、体温が奪われていく。飢えと渇き。私の脳裏に、初めて「死」という、最も非効率な結末が、データとして浮かび上がり始めた。
数多の怪異と戦い、高次の存在と対峙し、死の淵すら観測対象としてきたこの私が。ただのコンクリートの箱の中で、低温症と栄養失調という、実に凡庸な原因で機能停止する、と?
私は、プールの底に座り込み、天を仰いだ。
そこには、ただ、遠い天井と、無慈悲に私を引っ張り続ける、この惑星の重力があるだけ。
ああ、そうか。私は、この絶対的な法則の前では、あまりにも無力なのだ。どんな魔術も、どんな論理も、この抗いがたい力の前では、意味をなさない。
初めてだった。この私が、自分の無力を、心の底から実感したのは。
だが、科学者とは、絶望的な状況下でこそ、新たな仮説を構築する生き物だ。
ポケットの中に、唯一、武器になりうるものがあった。実験器具の調整に使う、精密ドライバー。
私は、最後の実験を開始することにした。
私は、自らが着用している感覚遮断スーツを脱いだ。ドライバーの先端を、スーツの縫い目に突き立て、体重をかけ、少しずつ、少しずつ、繊維を切断していく。それは、私のプライドをズタズタにするような、泥臭く、あまりに非効率な作業だった。
数時間後、私は、ついにスーツの腕の部分から、一本の細長い帯を切り出すことに成功した。
それを投げ縄とし、先端にドライバーを結びつける。狙うは、プールサイドの清掃用ネット。何十回もの失敗の末、ついに、投げ縄はネットの柄に絡みついた。
次に、そのネットのフレームを力ずくで折り曲げ、鉤爪を作る。それを、プールサイドの最も重そうな金属製のデッキチェアの脚に、狙いを定める。数度の試行錯誤の末、フックは、ガキン!という音を立てて、チェアの脚に完璧に引っかかった。
私は、その柄を、命綱として、ゆっくりと登り始める。それは、天才科学者の姿とは程遠い、泥臭く、必死で、実に「見苦しい」姿だった。腕の力だけで、滑りやすい金属の柄を登っていく。途中で手を滑らせ、数メートル落下し、全身を強打する。だが、私は、歯を食いしばり、再び登り始めた。
夜が明け始める頃、満身創痍になりながらも、ついに、私の指先が、プールサイドの縁にかかった。
生還。
私は、しばらくの間、ぜえぜえと荒い息をつきながら、床に倒れ込んでいた。
しかし、数分後。私は、ふらつきながらも、むくりと起き上がると、自分が閉じ込められていた、巨大なコンクリートの箱を見下ろし、不敵な、そして、最高の笑みを浮かべた。
「フフフ…アハハハハ!最高のデータだ!重力こそが、最高の敵であり、最高の観測対象だったとはねぇ!実に、有意義な実験だったじゃないか!」
私は、研究日誌を取り出すために、プールサイドに設置した自分の観測装置へと歩み寄る。そして、震える手で、しかし、その瞬間。
極限の緊張から解放されたことによる安堵、全身の打撲、そして、一晩中の肉体労働による極度の疲労。それらが、一気に私を襲った。
私の視界が、急速に暗転する。
(フム…私の身体が、許容量を超える負荷により、強制停止する、か…)
それが、私が最後に観測したデータだった。私は、勝利の余韻に浸る間もなく、その場に、静かに崩れ落ちた。
だが、その口元には、確かに、満足げな笑みが浮かんでいた。




