無をいただきます!
現在滞在している古い港町には、ある、興味深い噂があった。
街外れの、廃業したはずのレストラン。
その主は、何年も人前に姿を見せていない。
にも関わらず、毎晩きっかり日没になると、その厨房からは、心を蕩かす香り『だけ』が漂ってくるのだという。
その香りは、まさに芸術だった。
芳醇なバターがハーブと共に溶け合う、焦がれるような香り。
飴色になるまで炒められた玉ねぎの、甘く、深く、心を落ち着かせる香り。
煮詰められた葡萄酒と、牛肉の出汁が織りなす、複雑で官能的な香り。
そして、焼きたてのパンが放つ、温かく、慈愛に満ちた、幸福な香り。
それらは街の人々の心を掴んで離さなかったが、同時に、えもいわれぬ不気味さを感じさせた。
「無資源……からの、複雑な芳香データ出力、か。質量保存の法則を無視した、なかなか興味深い現象じゃないか!」
私は、そのレストランを見渡せる宿の一室を借り、早速、観測を開始した。
夜の帳が下りると、噂通り、レストランの窓には明かりが灯る。
厨房に立つ店主の影が見えた。
彼は一人、完璧な、そしてどこか祈るような手つきで調理をしている。やがて、彼は二人分の皿をテーブルに並べると、客席の椅子に腰掛けた。
しかし、向かいの席は空席のままだ。
彼は、その誰もいない席に向かって、愛おしそうに微笑みかける。自らは一切手を付けず、ただ、夜が更けるのを待ち続けていた。
夜明け前。
彼は、皿を全て片付けると、また静寂の中に沈んでいく。
そして、次の夜も。
またその次の夜も。
次の夜。
私は、裏口の錠を破り、レストランへと侵入した。
そして私は、彼の神聖な儀式を、物陰から観測した。
そこで、私はこの怪異の、あまりにも悲しく、美しい真実を目の当たりにした。
店主は、完璧な動作で調理をしていたが、そこには食材などなかった。
彼は「空っぽの何か」を、まるでそこに最高の食材があるかのように、慈しみながら調理していたのだ。
だが、彼が皿に料理を盛り付けた瞬間、魔法が起きる。
見た目も香りも完璧な、最高級のフルコースが、そこに出現するのだ。
私の魔導観測器は、それらが純粋な『幻』であることを示していた。
彼の瞳は、狂気に満ちてはいなかった。
ただ、ひたむきなまでの愛と、一途な想いに満ち溢れていた。
彼は、空席に向かって、優しく語りかける。
「待たせたね。今日は、君が好きだった森の茸のポタージュだよ。覚えているかい?初めて君に作った時、君はとても喜んでくれた……」
その姿はあまりに切実で、痛々しいほどに一途だった。
私は、室内に残留する魔力を分析し、全てを理解した。
店主は、かつて、愛する人と「特別なディナー」を共にする約束をしていた。
しかし、その約束の日、相手は彼の元に現れることはなく、帰らぬ人となった。
その「果たされなかった約束」に対する、彼の強すぎる想念と後悔が、「約束の残響」という怪異を生み出し、彼を呪いの円環に閉じ込めてしまったのだ。
「なるほど!これは、完了の命令が入力されない限り、永遠に繰り返される……というわけか!」
ループを終わらせるには、誰かが「ゲスト」の役割を果たし、この儀式を正常に『完了』させるしかない。
私は、店主が幻影の料理をテーブルに並べ、「さあ、召し上がれ」と空席に語りかけた、その瞬間。
物陰から姿を現し、その空席に……静かに座った。
店主は、突然現れた私を見て、その瞳を困惑に見開いた。
彼の世界に、初めて予測不能なバグが発生したのだ。
私は、彼の動揺など意にも介さず、目の前の幻影の料理に向き合った。
私はそれを食べはせず、代わりに……ナイフとフォークを手に取り、まるで精密な解剖でもするかのように、その「料理」の分析を始めた。
「フム……このソースは、記憶情報への直接干渉を目的とした魔術構成だねぇ。メインディッシュの構造は……なるほど、これは『期待』という感情を核に練り上げられたエーテル体だ。実に興味深い!」
全ての「料理」のデータ分析を終えた私は、ナイフとフォークを皿の上に静かに置く。
そして、エリアスに向かって、はっきりと告げた。
「『ごちそうさま』、だ。」
その言葉が、引き金となった。
ゲストが食事を終えたという、「完了」の事実!
それが成立したことで、怪異「約束の残響」は、存在理由を失い、やがて霧散した。
テーブルの上の美しい料理は、淡い光の粒子となって消え、あの心を焦がした香りも、もう、どこにもなかった。
店主は、何年もの間自分を縛り付けていた呪いの円環から、ついに解放された。
彼は、空っぽになったテーブルと、目の前の私を見て、全てを悟り、その頬を、一筋の涙が静かに伝った。
しかし。
ループから解放された彼は、同時に、生きる目的そのものであった「約束」を失ってしまった。
彼はもう……ただの抜け殻になってしまったのだ。
私は、その様子を冷静に見届けると、研究日誌に最後の結論を書き込んだ。
「結論。未完了事象に起因するループ怪異は、第三者が代理として強制的に完了させることで、その存在基盤を消去し、無力化できる。あの被検体は、目的そのものを失ってしまった……。まあ、私の観測はここまでだ。有益なデータだったよ」
私は、虚無に座り込む男には一瞥もくれず、次の興味深い「現象」を求めて、静かになったレストランを、後にするのだった……。




