第19話:朝陽の中へ!
長きに渡った旅路の果てに、私、アリア・フォン・クライフォルトは、ようやく穏やかな日々というものを手に入れた。愛する夫と、そして、私たちのかけがえのない宝、ゴウと共に。
「ただいまー!」
玄関の扉が勢いよく開かれ、泥と、それから微かな獣の血の匂いをまとった風が家の中を駆け抜ける。10年前に生まれた私たちの息子、ゴウだ。私の銀髪と、ケンジの黒い瞳を受け継いだ、エネルギーの塊のような少年。
「おかえりなさい。今日の獲物はどうでしたか?」
キッチンから顔を出すと、ゴウは肩に担いでいた巨大な猪のような魔獣の牙を掲げて、誇らしげに笑った。
「こいつ、けっこーしぶとくてさ!でも、父さんに教わった通り、崖際に追い込んで足場を崩したら一発だったよ!」
「また無茶な戦い方を…。怪我はありませんか?」
「へーき、へーき!母さんの訓練に比べたら、こんなの散歩みたいなもんだって!」
その言葉に、私は知らず笑みをこぼしていた。傍らで薬草を調合していたケンジも、穏やかな眼差しで息子を見つめている。
この子は、ケンジの明晰な頭脳と、私の剣の才を受け継いでくれた。逞しく、そして心優しく育ってくれていることを、私たちは何より誇らしく思っている。
ただ一つ、親として頭を悩ませていることがあるとすれば、その猪突猛進な戦い方だった。状況を判断する前に、とにかく真っ直ぐに突撃してしまう。ケンジの知識を活かすのは、大抵、一度痛い目を見てからだ。その危うさが、いつかあの子の命を危険に晒すのではないかと、一抹の不安が常に胸の内にあった。
「それじゃ、これ市場で売ってくる!晩飯は奮発するからな!」
獲物を解体し、売り捌ける部分だけを器用にまとめると、ゴウは再び駆け出していく。その背中を見送りながら、私はケンジに語りかけた。
「あの子のあの癖、いつか大きな失敗に繋がりはしないでしょうか」
「大丈夫だよ、アリア。あいつは君に似て、決して折れない強さを持っている。それに、俺たちの子供だ。いざという時は、ちゃんと頭を使って切り抜けられるさ」
ケンジの言葉は、いつも私の不安を和らげてくれる。そうだ、あの子を信じよう。私たちは、あの子がどんな困難にも立ち向かえるように育ててきたのだから。
その頃、ゴウは森の奥深くで、ヒュドラという凶悪な魔獣と対峙していた。
「へへっ、面白え!いっちょやってやるぜ!」
ゴウは剣を抜き、果敢に攻め立てる。だが、ヒュドラの驚異的な再生能力の前に、次第に追い詰められていった。
「くそっ…!こいつ、無限に再生するのかよ!」
疲労が限界に達し、ついに足がもつれてしまう。無数の牙が迫り、死を覚悟した、その時だった。
「――おーい、そこの猪武者。そんな戦い方じゃ百年経っても勝てやしないぞ」
凛とした、しかしどこか面白がっているような声が、頭上から降ってきた。見上げると、木の枝に腰かけた一人の少女が、ゴウたちの戦いを退屈そうに眺めていた。
陽に焼かれた褐色の肌に、理知的な光を宿す切れ長の瞳。その肌とは対照的な、純白の生地を重ねたような異国の装束を纏い、豊かな胸のラインが強調されている。
「な、誰だてめえ!」
「通りすがりの者さ。フッ、実に興味深いねぇ、君のその戦い方は。力任せで、頭の悪さが滲み出ている。だが、面白い!」
そのムカつく言い方に、ゴウは苛立ちを覚える。
「いいかい?あの蛇の首をいくら斬っても無駄だ。あいつの命はそこじゃない。よく見な、首が生え変わるたびに、胸のあたりが一瞬、淡く光るだろう?あそこが奴の心臓、力の源さ。首を囮にして、本体を守ってるんだよ」
言われてみれば、確かにそうだ。なぜ今まで気づかなかったのか。
「頭を狙うフリをして、懐に飛び込んで心臓をひと突き。単純な理屈だろう?さあ、私の言う通りになるか、試してみなよ」
少女はニヤリと笑った。腹は立つが、今は彼女の言葉を信じるしかない。
「サンキュー!借りは必ず返すぜ!」
ゴウは最後の力を振り絞り、少女の助言通りにヒュドラの懐へ飛び込む。
「うおおおおお!これで、終わりだああああっ!」
断末魔の叫びを上げて、ヒュドラの巨体が崩れ落ちた。ゴウはへなへなと座り込む。
「やった…勝ったんだ…」
安堵の息をつき、傷だらけの腕を押さえながらも、彼は倒したヒュドラに向かって小さく呟いた。
「…だけど、こいつ、強かったな…」
そして、木の上の少女に向き直ると、泥だらけの顔でニカッと笑った。
「助かったぜ!あんた、すげえな!」
その瞬間だった。少女の胸に、今まで感じたことのない衝撃が走った。
(なんだ…?この胸の高鳴りは…。非論理的だ。彼の行動原理は単純明快、思考ルーチンは猪突猛進。私の好みとは真逆のはずだ。だが…なぜだ?)
敵であった相手への敬意。助けてくれた相手への、裏表のない素直な感謝。その強さと純粋さが同居した姿に、少女は初めて自分の理屈が通用しない感情の奔流を感じていた。
(なぜ、この男から目が離せない…?解析不能だ。…実に、実に興味深い…!)
その日の夕暮れ時、私の胸を嫌な予感がよぎった。ゴウが戻らないのだ。
私が剣を手に取ろうとした、その時だった。
「…ただいま」
か細い声と共に、玄関の扉がゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、服のあちこちが破れ、腕に痛々しい傷を負った息子。そして、その隣には――白い装束を纏った、褐色の肌の少女が立っていた。
「ゴウ、その怪我は…!それに、こちらの方は?」
私が駆け寄ると、ゴウはばつが悪そうに顔を伏せた。
「ごめん、母さん…。森の奥で、"沼地の多頭蛇"に遭って…。死ぬかと思ったところを、こいつに助けてもらったんだ」
私の視線は、自然と隣の少女へと向かった。純白の衣に、豊かな胸。そして、全てを見透かすような切れ長の瞳。
「それを、この方に助けていただいたと?」
ケンジが問いかけると、褐色の少女が口を開いた。
「フッ、助けた、という表現は少々正確ではないねぇ。私はただ、非常に面白い観察対象を見つけただけだ。彼の戦いの仕組みは実に興味深い。騎士団長たる君の動きを真似たであろう高い身体能力と、考えなしに突撃するという致命的な思考。このアンバランスさが、どんな結末を導き出すのか、この目で見たくなったのさ」
早口でまくし立てる彼女の言葉は、屁理屈のようでいて、その実、物事の本質を的確に捉えている。
「…貴女がいなければ、この子はどうなっていたことか。感謝します。名を聞いても?」
私が改めて礼を述べると、少女は一瞬、視線をゴウに向け、それからふいと逸らした。少しの間があった後、彼女は観念したように、しかしどこか楽しむように口の端を上げた。
「…フッ。…イオだ。好きに呼ぶといい」
イオ、と名乗った少女。彼女はゴウの腕の傷に視線を落とす。
「その傷、魔獣の牙によるものだね。放置すれば毒が回る。これも実験だ。私の調合したこの薬が、君の体にどう作用するか、見させてもらおうか」
手際よくゴウの傷の手当てを始める横顔に、私は得体の知れないものを感じていた。
この少女は、一体何者なのだろう。
少女は手際よくゴウの傷の手当てを始める。その横顔を見つめながら、私は言い知れぬ既視感を覚えていた。全ての本質を見抜こうとするかのような瞳。理屈で世界を組み替えようとする、危ういほどの探究心…。
手当てが終わり、ゴウは改めて少女に向き直った。
「本当に助かった。あんたがいなかったら、俺は死んでた。このとーりだ」
そう言って、ゴウは深く頭を下げた。そして顔を上げると、真っ直ぐな瞳で言った。
「俺はまだまだ未熟だけど、今日のあんたみたいに、知恵と勇気があれば、どんな敵にだって勝てるって分かった!だから、俺はもっと強くなる。父さんの知識と、母さんの剣技、どっちも受け継いで、俺は俺だけの強さを見つける!」
その言葉を聞いた瞬間、少女――イオの時間が、完全に止まった。
(なんだ、これは…?この感情は…?)
力への渇望と、知への敬意。野蛮なようでいて、理知的。矛盾しているはずの二つの要素が、ゴウという少年の中で、完璧な調和を保って存在している。それは、イオがこれまで追い求めてきた、世界の真理そのものにも似た輝きを放っていた。
(わからない…わからない…わからない!だが、知りたい!この感情の正体を、この男の隣で解き明かしたい…!)
衝動は、言葉となってイオの口から飛び出した。
「面白い!気に入ったぞ、ゴウ!君という存在の仕組み、私が解き明かしてやろう!さあ、私と共に来い!この世界の果てまで、冒険と洒落込もうじゃないか!」
あまりに突拍子もない提案に、ゴウは目を白黒させる。
「はあ!?冒険って…いきなり何を…」
戸惑ったゴウの視線が、助けを求めるように父であるケンジに向けられた。
その時、私は確信した。
この少女は――。
「行きなさい、ゴウ」
私の言葉に、ゴウとケンジが驚いてこちらを見る。
「母さん…?」
「その方の言う通りになさい。今のあなたに必要なのは、父でも母でもない、未知なるものとの出会いです」
私はイオの瞳を真っ直ぐに見つめた。そうだ、間違いない。その突拍子もない提案の仕方、自信に満ち溢れた仕草、世界の真理を探求しようとする魂の輝きは、かつて偽りの平和を憂い、たった一人で真実と戦い、散っていった亡き友――エラーラの生き写しだった。
「イオと言ったか。息子を、よろしくお願いします」
私が頭を下げると、イオは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「フッ、面白い母親だ。わかった。このゴウという最高の観察対象、私が責任を持って世界の果てまで連れ回してやろう!」
翌朝。
朝日に照らされた街の門の前に、二つの人影があった。
「いいかイオ!主導権は俺が握るからな!」
「フン、寝言は寝て言うことだね。君は黙って私の指示に従っていればいい」
言い合いをしながらも、二人の顔は希望に満ち溢れている。
新たな世代が、新たな物語を紡ぎ始める。その輝かしい旅路を、私たちはいつまでも見守っていこう。