第17話:平和を守れ!(刑事ドラマ)
白亜の城壁に囲まれ、魔法技術によって制御された穏やかな気候が一年中続く国、クライフォルト。
人々は歌い、笑い、その豊かさを享受している。
長年の研究開発の末に得たという絶対的な『抑止力』を背景に、永世中立国としての地位を確立し、完全平和を成し遂げた理想郷。それが、騎士アレクトが命を懸けて守るべき祖国だった。
その日、王都中央広場は一つの騒動で揺れていた。
一人の男が、衛兵に取り押さえられながらも、怨嗟の声を張り上げていた。彼は、この国で忌み嫌われる被差別階級『旧人』だった。
「離せ! 過去から学び、より良い未来を考えることが、なぜ罪になるのだ!」
そこへ、群衆をかき分けるようにして、一人の騎士が静かに現れた。王国最強の騎士、アレクト。彼の姿を認めると、騒ぎが嘘のように静まり返った。アレクトは衛兵たちに目線だけで下がるよう命じると、男と向き合った。
「その『学び』とやらが、今の平和を乱すのだと、なぜ分からん」
氷のように冷たい声だった。男は、アレクトの圧倒的な存在感に一瞬怯んだが、すぐに顔を憎悪に歪め、最後の言葉を投げつけた。
「…なんだと! どうせ俺が『旧人』だからと見下しているんだろう!」
その言葉は、この国の体制の根幹を揺るがす問いだった。
だが、アレクトの表情は一切変わらなかった。
「勘違いするな。俺がお前を断罪するのは、お前が『旧人』だからではない。お前がただの反逆者だからだ」
アレクトはそう吐き捨てると、男に背を向けた。完全に気圧され、言葉を失った男を、衛兵たちが静かに連行していった。
その数週間後、事件は起きた。
王都の心臓部ともいえる中央魔導力供給公社。そこへ、「鉄槌団」を名乗る武装した思想家グループが侵入。十数名の技師を人質に取り、立てこもった。
彼らは一つの魔法具を持ち込んでいた。『真実の水晶』。
王都の各広場に設置された映像水晶には、公社内部の緊迫した様子と、鉄槌団リーダーの演説がリアルタイムで映し出されていた。
「我々はテロリストではない!我々は、王家の独裁から民の自由を取り戻すための義士である!聞け、クライフォルトの民よ! この国の平和は、偽りの楼閣なのだ!」
映像水晶に映るリーダーの叫び。その背後では、怯える人質たちが縛られている。騎士団は建物を完全に包囲していたが、下手に突入すれば、人質が殺される場面が王都中に中継されてしまう。誰もが、打つ手なく膠着した状況に歯噛みしていた。
その時、現場に静かな、しかし圧倒的な存在感を放つ一団が到着した。
先頭に立つのは、王国最強の騎士、アレクト。彼は犯人の叫びを一瞥すると、冷ややかに吐き捨てた。
「…またその手の妄言か。祖国の平和に泥を塗る輩が!」
彼にとっても、犯人の告発は国を貶めるためのテロリストの常套句に過ぎなかった。
映像水晶にアレクトの姿が映し出されると、民衆の雰囲気は一変した。
「英雄アレクトだ!」
「来てくれたのか!」
「あのテロリストどもを黙らせてくれ!」
アレクトの作戦は、単純明快だった。
「奴らは、その中継が、あたかも自分たちを守る盾だと信じ込んでいるらしい。ならば、その盾で、奴らの頭をかち割ってやろう」
アレクトの作戦は、単純明快だった。
「奴らが民衆に見せたいのは、『自分たちの正当性』だ。ならば、交渉の場を設け、リーダーをその舞台の主役にしてやる。その間に、裏からカタをつける」
すぐに、アレクトは単身で公社の正面ゲートへと進み出た。
「鉄槌団に告ぐ! 俺は国王陛下の代理、騎士アレクトだ! お前たちの話を聞こう!」
内部のリーダーは、アレクトが一人で現れたのを見て、要求が通ると考えたのだろう。勝ち誇ったようにゲートの傍まで進み出て、水晶の前でアレクトとの交渉を始めた。
その隙に、アレクトの部下である精鋭たちが、音もなく建物の裏手、中継の死角となる壁面を登り、屋根裏の通気口から内部へと侵入していた。
アレクトは、交渉の中で巧みにリーダーを挑発する。
図星を突かれたリーダーは激昂し、近くにいた若い女性技師の首にナイフを突きつけた。
「こいつの命など、いつでも奪えるのだぞ!」
その凶行が王都中に中継され、民衆の同情は一気に鉄槌団から離れていった。
――今だ。
その瞬間、王都中の映像水晶の映像が、魔法的な干渉によって、ほんの数秒間だけ、事前に記録されていた「犯人たちが警戒しているだけの公社内部の映像」にすり替わった。
発信元の犯人たちは、自分たちの送る映像が乗っ取られていることなど知る由もない。
そのわずか数秒が、勝敗を決した。
中継を気にせずよくなったアレクトの部隊が、屋根裏から一斉に工房内へ突入する。閃光魔法が炸裂し、犯人たちの視界を白く染め上げ、音響魔法が鼓膜を突き破るような轟音を立てた。
混乱する犯人たち。その首筋に、背後から忍び寄った騎士たちの剣の柄が、的確に叩き込まれていく。
そして、交渉の場にいたアレクトもまた、動いた。
ループ映像が終わり、中継が正常に戻った時、王都の民衆が見たものは、劇的な結末だった。
そこには、怯える人質を背にかばい、全ての犯人たちを無力化して静かに佇む、英雄アレクトの姿が映し出されていた。
王都は、割れんばかりの大歓声に包まれた。
アレクトは、部下たちの手際の良さを静かに労い、解放された人質の無事を一人一人確認すると、騒ぎ立てる民衆に背を向け、静かに現場を去っていった。
彼の顔には、国と民を守ったという、曇りのない誇りが浮かんでいた。
ある日、アレクトは王城の中庭にある噴水の縁に腰掛け、深くため息をついていた。先日完遂したばかりの任務は、隣国の新兵器「キメラ」の開発研究所の破壊。公式には「テロリストによる犯行」として処理されたが、その実態はアレクトの単独潜入工作だった。成功はした。しかし、彼の心には鉛のような重りが沈んでいた。
「またそんな顔をして。世界を一人で背負っているような顔は、あなたには似合わないわ、アレクト」
凛とした声と共に、隣に腰を下ろす影があった。陽光を反射して輝く銀色の髪、勝ち気な光を宿す翠玉の瞳。アレクトの数少ない親友であり、この国の騎士団を束ねる女騎士団長、アリア・フォン・クライフォルトその人だった。
「アリアか……。いや、団長様、と言うべきか」
「ここではアリアでいい。」
アリアは悪戯っぽく笑う。その屈託のなさに、アレクトの強張っていた頬が少しだけ緩んだ。
「すまない。少し考え事をしていただけだ」
「考え事? あなたが? 珍しい。いつもは何も考えずに剣を振るっているだけの猪武者なのに」
「ひどい言い草だな」
軽口を叩き合いながらも、アリアはアレクトの瞳の奥に宿る翳りを見逃さなかった。
「……また、辛い任務だったのでしょう?」
「……いつものことだ。この国の平和のためなら、どんな汚れ仕事も厭わない。そう、誓ったはずだからな」
そう、誓ったはずだった。だが、最近、その誓いが揺らぐのを感じる。破壊した研究所で見た、研究者たちの恐怖に歪んだ顔。彼らもまた、自国の平和を願って働いていただけかもしれないのだ。
自分の振るう剣は、本当に、正義なのだろうか。
「…考えすぎよ」
アリアはアレクトの肩を軽く叩いた。
「あなたの働きがあるから、この国の子供たちは笑っていられる。誰もがみな安心して暮らせるこの平和な国を作ったのは、あなたよ。あなたは私たちの誇りよ、アレクト」
アリアの真っ直ぐな言葉が、アレクトの心を温める。そうだ。自分は彼女が、彼女の家族が、この国の人々が笑って暮らせる世界を守っているのだ。迷うことなど何もない。
「……ありがとう、アリア。君にそう言ってもらえると、力が湧いてくる」
「それでこそ、私の知るアレクトよ」
アリアは立ち上がると、アレクトに手を差し伸べた。
「さあ、次の任務の指令が出ているわ。今度は『不可能』と名高い任務らしいけど……あなたなら、大丈夫よね?」
その笑顔に背中を押され、アレクトは立ち上がった。
「ああ。俺に不可能はない」
任務は成功した。バルトリア帝国の最高機密である魔導設計図の奪取。不可能と呼ばれたのは、帝国の心臓部、幾重もの魔法障壁と精鋭騎士たちに守られた宝物庫にそれが眠っているからだ。アレクトは影に潜み、風を欺き、ただ一人でそれを成し遂げた。
だが、帰還後の報告を終え、自室で奪取した設計図の写しを整理していた時、彼は気づいてしまった。設計図の隅に、極小の魔法文字で記された暗号。それは、クライフォルトでしか使われていない古い王家の暗号だった。
――なぜ、敵国であるはずの帝国の機密に?
嫌な予感が背筋を走る。アレクトは夜陰に紛れて王宮の禁書庫へと忍び込んだ。彼が今まで遂行してきた任務の、本来閲覧が許されないオリジナルの報告書を求めて。
ページをめくるたびに、血の気が引いていく。
『抑止力』。その正体は、大陸全土を焼き尽くすほどの威力を持つ『大量破壊兵器』。
平和。それは、この兵器を盾に、他国を脅迫することで得られた偽りの平穏。
富。それは、他国の要人を密かに拉致し、その返還と引き換えに搾取した財と技術。
自分が今まで行ってきた任務の全てが、その一片だったのだ。新兵器研究所の破壊は、ライバルとなる技術の妨害工作。要人の警護任務は、実は拉致対象の行動パターンを探るための偵察。そして今回の設計図奪取は、恐喝に応じない帝国への「見せしめ」と、さらなる脅迫の材料とするため。
アレクトは吐き気をこらえ、別の書架に手を伸ばした。そこにあったのは、『国内思想統一計画・全記録』と題された、黒い革で装丁された何十冊にも及ぶ報告書だった。
記されていたのは、数十年前、現国王の祖父の代に行われた、大規模な粛清の記録だった。
『大清掃』と名付けられたその計画は、国の平和と安定を脅かす「不穏分子」を排除するという名目の下、この国から「考える力」を持つ者たちを根絶やしにするためのものだった。
歴史学者、哲学者、高度な魔導理論を研究する学者、体制を風刺する詩人や芸術家。国王の政策に異を唱えた貴族。彼らはある日突然「反逆者」のレッテルを貼られ、裁判もなく、歴史の闇に葬られていった。報告書には、処刑された者、強制収容所で死んだ者、その家族に至るまで、びっしりと名前が記されていた。血が滲んだような赤インクの×印と共に。
クライフォルトの国民が皆、穏やかで、国の政策に疑いを持たないのはそのためだったのだ。異を唱える者、深く考える者は、過去に全て「掃除」されていた。残ったのは、与えられた平和を疑うことなく享受する、思考停止した民衆だけ。
そして、その計画は過去のものではなかった。
書架の隅に、真新しいファイルの束を見つける。そこには、ここ数年の間に「処理」された者たちのリストがあった。「事故死」「病死」「謎の失踪」。公にはそう発表された者たちの名前がそこにはあった。アレクトが尊敬していた王立魔導学院の老教授の名も、リストの末尾にあった。彼の死因は「書庫の階段からの転落死」とされていた。
この国の平和な日常は、活発な議論や多様な思想の自由を許さない、徹底的な管理社会の果てにある歪んだ果実だった。国民は巨大な鳥籠の中で、知る権利も、考える自由も奪われたまま、ただ生かされている家畜に過ぎなかった。
全てが繋がった。
この国の平和も富も、全てが盗品であり、恐喝の成果だった。そして自分は、その最も汚れた部分を担う、ただの凶刃に過ぎなかった。
その事実は、国王一族以外、誰も知らない。アリアでさえ、きっと知らない。彼女のあの真っ直ぐな瞳は、こんな汚れた真実の上にある平和を、誇りだと言ったのだ。
「……は、はは……」
乾いた笑いが漏れた。誇り? 正義? 全てが偽りだった。自分はただの人殺しであり、国ぐるみの巨大な犯罪の片棒を担いでいただけだった。
アリアの顔が浮かぶ。彼女にだけは、知られたくなかった。自分の手が、どれほど血に汚れているのか。彼女が誇るこの国が、どれほど醜いものか。
禁書庫からどうやって自室に戻ったのか、アレクトの記憶は曖昧だった。窓の外はとっくに白み始めている。彼はベッドに腰掛けたまま、虚空をただ見つめていた。思考は麻痺し、感情は凍りつき、まるで魂だけが肉体から抜け落ちてしまったようだった。
その時、控えめながらも確かなノックが部屋の扉を叩いた。
返事はない。構わず、扉が静かに開かれた。入ってきたのは、国王側近の文官だった。
「アレクト卿、ご在室かな。……どうされた、顔色が優れんようだが」
文官はアレクトの異様な様子に気づきながらも、構わず羊皮紙の巻物を広げた。
「陛下より、直々の新たな勅命である」
文官は、抑揚のない声で告げた。
「昨夜、王都南方の森に時空の裂け目が生じ、異世界より転生者が出現した。このまま放置すれば、王都に被害が及ぶやもしれぬ。よって、アレクト・シュヴァルツァーに命ず。直ちに現場へ赴き、かの転生者を討伐せよ、とのことだ」
転生者。異世界。討伐。
かつてのアレクトであれば、胸を躍らせ、即座に剣を取っていただろう。
だが、今の彼には、その言葉の一つ一つが、ひどく空々しく、茶番めいて聞こえた。
「……」
アレクトは何も答えない。ただ、虚ろな瞳で正面の壁を見つめているだけだ。文官は眉をひそめた。
「アレクト卿? 聞こえているのか?……」
返事はない。アレクトの耳には、文官の声も、勅命の内容も、まるで遠い世界のざわめきのようにしか届いていなかった。
(……転生者、か。また、この国の、嘘を、塗り固めるための、英雄を、演じろと……)
心の内で、自嘲の言葉が浮かぶ。この国が作り上げた偽りのドラマの中で、自分は道化の主役を演じさせられているに過ぎない。
「……先の任務でお疲れと見える。勅命はここに置いておく。準備が整い次第、速やかに出立されよ!」
そう言い捨てて文官が部屋を出ていき、扉が閉まる音がやけに大きく響いた。
静寂が戻る。アレクトはゆっくりと視線を落とし、床に転がった巻物に目をやった。
――もう、剣を握ることはできない。
この手が守ってきたものは、醜悪な、偽りだった。
この命を懸けてきたものは、空っぽの、虚構だった。
自室の床に転がった勅命の巻物が、まるで嘲笑うかのようにアレクトの目に映る。召喚者討伐。また一つ、国民を欺くための茶番が始まる。だが、もう道化を演じる気力はなかった。
アリアの顔が脳裏をよぎるが、すぐに首を振った。彼女は王家の人間であり、この件とは無関係の騎士団長のままでいさせるべきだ。
ならば、頼れるのは、現場で苦楽を共にした「兄弟」たちだけだ。
夜が明けるのを待たず、アレクトは動いた。向かったのは、騎士団の溜まり場になっている場末の酒場だった。夜勤明けの騎士たちが数人、安酒を呷っている。アレクトは懐から、禁書庫から命懸けで持ち出した粛清記録の写しを忍ばせ、中でも腕が立ち、気骨があると見込んでいた戦友たちに声をかけた。
「…よう。なあ、一杯付き合えや」
「どうしたんだよアレクトの旦那、らしくもねえ」
「お前らに、見てもらいたいものがある」
アレクトは、酒場の隅のテーブルで、羊皮紙の写しを広げた。そこには、体制に異を唱えたというだけの理由で闇に葬られた学者や貴族の名前が、おびただしく並んでいる。
「なんだこりゃ…反逆者のリストか?」
「違う。これは、国王陛下が、この国の平和のためだとか言って『掃除』した連中の名前だ。俺たちが命張って守ってる平和ってのは、こういう、汚ねえもんの上に成り立ってる、ただのハリボテ、なんだよ」
アレクトは静かに、しかし熱を込めて語った。騎士たちの顔から酔いが醒めていく。だが、彼らの瞳に宿ったのは、義憤の炎ではなかった。
「やめろよ、アレクトさん…。そんなもん、見たかあないよ」
「だから!だから言うんだ!このまま、知らねえ顔して腐った国の、盃を飲み続けるのか、それとも…!」
その時、一人が真剣な顔で身を乗り出した。
「そうだな、アレクトさん。まあ、こんなとこじゃなんだ。場所を変えよう」
アレクトは、その男の目に一縷の望みを託し、二人で酒場の路地裏へと出た。
だが、路地裏に出た瞬間、男は懐から取り出した短剣をアレクトの脇腹に突き立てた。浅い。しかし、信じていた者からの、確かな裏切りの痛みが走った。
「…てめえ…!」
「悪いな、アレクトさん。俺には子供も女房もいるんだ。今の平和な生活を、あんたのわけのわからない正義ごっこのために捨てるわけには、いかねえんだよ」
男の背後から、見慣れない紋章を付けた者たちが現れる。王直属の暗部、『内務粛清部隊』。国の「汚れ仕事」を専門とする、アレクトのかつての同類だった。
「アレクトさん、なあ、お前もなあ、こっち側の人間だったはずだ。なのに、なぜ国王陛下に弓を引くような真似をする」
「筋の通らねえ仕事をするほど、俺はまだ、落ちぶれちゃいねえ」
「仕事。仕事はなあ……アレクトさん。仕事は、もう、しなくていいんだよ。お前はもう、ただの、一匹の、『反逆者』だ」
多対一。だが、手負いの獣と化したアレクトの剣技は凄まじかった。裏切り者の男を蹴り飛ばし、数人を斬り伏せて、辛くもその場を離脱する。しかし、脇腹からの出血が、彼の体力と時間を容赦なく奪っていく。
夜の王都を、アレクトは血を流しながら駆け抜ける。追っ手は巧妙に連携し、まるで網を絞るように彼を追い詰める。かつての部下、顔見知りの衛兵たちが、憎悪ではなく、ただ職務として彼を捕らえようとする。彼らは皆、「国のため」という大義名分の下、真実から目を背けている。アレクトは、彼ら全員がこの巨大な欺瞞の一部であることに絶望した。
もはや、仲間を集めて内側から組織を塗り替える道は絶たれた。ならば、残るはこれしかない。国に巣食う闇を、全てを白日の下に晒し、この巨大な欺瞞に一矢報いる。
アレクトは、王城の鐘楼を目指した。そこには国中に声を届ける魔法増幅装置がある。あれを使えば、真実を全ての民に伝えられる。
アレクトは隠し持っていた小瓶を取り出した。中身は、彼の故郷の村の。度数の強い薬酒。彼はそれを一口呷ると、残りを地面に撒いた。
「死んでいった兄弟たちよ、そして、この国に葬られた全ての人よ。見ててくれ。俺が、この命で、落とし前をつける」
傷口を押さえ、息を切らしながら城壁を駆け上がる。しかし、彼の行動は全て読まれていた。
鐘楼へと続く大階段で、彼を待っていたのは、武装した騎士団の一隊だった。昨日まで背中を預け合った仲間たちが、無表情に剣を構えている。
「アレクト卿! 乱心されたと伺いました! 武器を捨て、投降してください!」
「どけ…! お前らまで、俺に斬らせる気か!」
「我らも騎士! 王命には逆らえません!」
彼らは何も知らない。ただ命令に従い、錯乱した英雄を止めようとしているだけだ。彼らを斬ることなど、アレクトにできるはずもなかった。
四面楚歌。進むも地獄、退くも地獄。
アレクトは、この国という巨大な組織の掌の上で、ただ一人踊らされていたに過ぎないと悟った。自分が何を叫ぼうと、それは「英雄の悲しき発狂」として処理され、民衆は安っぽい同情を寄せた後、すぐに忘れて日常に戻るだろう。この構造は、決して変わらない。
完全に包囲され、投降を促す声が響く中、アレクトの口元に、ふと乾いた笑みが浮かんだ。
「…そうかよ。…これが、ここの『忠誠』か」
アレクトは、血に濡れた刀身を地面に突き立てた。キン、と乾いた音が響く。
「…ようし、かかってこい…!」
アレクトは吼え、死地へと身を投じた。だが、その剣は、かつての鋭さを持ちながらも、決して仲間の肉を裂こうとはしなかった。
「反逆者アレクトを、射て。」
隊長の非情な号令と共に、騎士たちが一斉に斬りかかってくる。
アレクトは、その全ての剣を驚異的な技で受け流し、弾き、捌いていく。剣と剣がぶつかり合う甲高い金属音が、大階段に鳴り響いた。
対峙するのは、昨日まで背中を預け合った部下。酒を酌み交わした同僚。その顔が見えるたびに、アレクトの心は万力で締め付けられるように痛んだ。
「どけよっ!」
剣の腹で相手の胴を打ち、体勢を崩させる。だが、その隙に別の方向から新たな剣が迫る。
反撃の刃を振るえば、一瞬で数人を斬り伏せられる。だが、アレクトにはそれができなかった。彼らもまた、国という巨大な組織に騙された被害者なのだ。
その一瞬の躊躇が、命取りだった。
若い騎士が、恐怖に引きつった顔で突き出した剣が、アレクトの肩の鎧の隙間を滑り、肉を裂いた。
「ぐっ…!」
焼けるような痛みが走り、体勢がわずかに崩れる。それを見逃すほど、彼らは甘くはなかった。
「今だ。かかれ。」
一人が傷を負わせれば、後は蟻が獲物に群がるようだった。
腕の鎧が砕け散り、むき出しになった腕に刃が走る。背後からの斬撃が、背中を斜めに切り裂く。太腿に槍の穂先が突き刺さる。
アレクトの体は、見る間にズタズタになっていった。全身からおびただしい血が流れ出し、足元に血だまりを作る。
「アレクト卿。なぜ、無駄な抵抗を。」
「我々も心苦しいのです。どうかこれ以上、ご自身を惨めになさらないでください。お覚悟を。」
かつて自分が手ずから剣術を指導した部下が、アレクトの命を奪うために剣を振るってくる。その剣が、アレクトの脇腹を深く抉った。
「う…ぉ…っ…!」
内臓まで達したかのような激痛に、思わず膝が折れそうになる。意識が朦朧とし始めた。
(…ここまで、か…)
このまま嬲り殺しにされる。それは、アレクトのプライドが許さなかった。
彼は、残された最後の力を振り絞り、獣のような咆哮を上げた。
「うおおおおおおおおっ!!」
防御を捨てた。
力任せに剣の峰で騎士たちを打ち払い、盾ごと突き飛ばす。がら空きになった体には、さらに容赦なく数本の剣が突き刺さる。骨にまで達する衝撃。だが、アレクトはもはや痛みすら感じていなかった。
血まみれの体で、鬼の形相で突き進む。その凄まじい気迫に、騎士たちの包囲が一瞬だけ緩んだ。
アレクトはその隙を見逃さなかった。
包囲網を強引にこじ開け、よろめきながら回廊を駆ける。床には、彼の命が流れ落ちた証である、おびただしい血の跡が点々と続いていた。
追手の怒声と足音を背に、彼は見慣れた自室の扉へとたどり着く。
もはや立っている力も残っていなかった。扉に倒れ込むようにして中に転がり込むと、最後の気力で内側から鍵をかけた。
扉を叩き、破ろうとする激しい音が外から響き渡る。
アレクトは、扉に重いタンスを押し付けてバリケードを築くと、その場にずるずると崩れ落ちた。
全身から流れ落ちる血で、床は瞬く間に赤黒く染まっていく。
張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「……ぅ…」
最初は、押し殺したような嗚咽だった。だが、一度漏れ出した感情は、もう止まらなかった…
「う…うわあああああああん……!」
騎士の誇りも、無法者の虚勢も、全てが剥がれ落ちた。まるで迷子になった赤子のように、彼は床に突っ伏し、声を上げて泣きじゃくった。床を何度も、何度も叩きつけた。
「ちくしょう…!ちくしょう…!なんでだよぉ…!」
その瞳から、涙が止めどなく溢れ出す。鼻水も垂れ流し、顔はぐしゃぐしゃだった。
「死にたくねえ…!死にたくねえよぉ…!怖いんだよぉ…!」
この期に及んで、死への本能的な恐怖が彼を襲う。こんなところで、誰にも知られず、犬死にする。その事実が、たまらなく怖かった。
「もっと…もっと上手くやれたはずだろうが…!なんでこう…なんでみんな、こんなんなっちまったんだよぉ…!」
後悔が胸を締め付ける。信じていた組織に裏切られ、兄弟分に売られ、結局何も変えられないまま、ただ追い詰められて終わる。あまりにも惨めな結末だった。
ガンッ!!と、扉がひときわ大きく軋む。もう、長くは持たない。
その音に、アレクトははっと顔を上げた。涙と鼻水で汚れた顔。
彼は、泣きじゃくりながらも、最後の虚勢を振り絞るように、よろめきながら立ち上がった。
「…してやるもんがよっ……ううっ…いのぢごいは…いのぢごいなんかしでやるもんがよ!いのぢごいずるより…おれは…ざいごまで…ざいごまで『きし』でいでやるっ…!」
彼は壁に立てかけてあった愛剣を、震える手で掴み取った。騎士団に入団した日に、自らの命を懸けてこの国に尽くすと誓った、あの剣を。
この手が守ってきたものは、醜悪な、偽りだった。
この命を懸けてきたものは、空っぽの、虚構だった。
「うううっ!……うううううっ!……はーっ……はーっ…はあ…はあ……はあ……。これが!俺の…!落とし前だぁ…!」
叫びは、嗚咽に混じってかすれていた。
扉が蹴破られるのとほぼ同時に、アレクトは泣き顔のまま、震える手で、その切っ先を自らの胸へと突き立てた。
親友の突然の死は、アリアの心に深い傷を残した。騎士団長の執務室で、アレクトの訃報を淡々と処理しながらも、彼女の胸は張り裂けそうだった。一体、何が彼を追い詰めたのか。なぜ、何も言ってくれなかったのか。なぜ、一人で逝ってしまったのか。
あの日、自分が彼を激励しなければ。不可能と呼ばれる任務に、彼の背中を押したりしなければ、彼は死なずに済んだのではないか。後悔の念が、波のように押し寄せる。だが、彼女はクライフォルトの騎士団長。悲しみに暮れている暇はなかった。
アレクトの後を継ぐため、アリアは自ら辺境への任務を志願した。
「団長自らが行かれる必要は……」
「いいえ、私が行く」
部下の制止を、アリアは強い口調で遮った。
「最近、東の国境近くの村で、謎の怪物の目撃情報が相次いでいる。放置はできない。これは、私自身の目で確かめるべき問題よ。それに、オークヘイブンは…私の故郷だ。」
それは、アレクトを失った悲しみから逃れるための、意地のようなものだったのかもしれない。
馬を駆り、王都の喧騒を離れる。豊かな田園風景が、荒涼とした山岳地帯へと変わっていく。オークヘイブンは、そんな山々の懐に抱かれるようにして存在する、小さな集落だった。
だが、アリアが村の入り口にたどり着いた時、彼女の目に飛び込んできたのは、のどかな村の風景ではなかった。
黒い煙が空に立ち上り、焦げ付くような匂いが鼻をつく。家々は無残に破壊され、あちこちで赤い炎が舌なめずりをするように燃え上がっていた。人の気配はない。ただ、不気味な静寂が、死と破壊の跡を支配していた。
「……間に合わなかった、というの……?」
アリアは唇を噛みしめ、馬から飛び降りると、抜き身の剣を手に村の中へと踏み入った。
村は、地獄だった。薙ぎ倒された家屋の残骸。引き裂かれた家畜の死骸。そして、言葉を失うほど無残な姿で倒れている村人たち。何かが、圧倒的な力でこの村を蹂躙したのだ。
アリアは生存者を探して、慎重に足を進める。その時、微かなうめき声が耳に届いた。
声のする方へ駆け寄ると、半壊した家屋の影で、二人の人影が寄り添うように倒れていた。
一人は、血まみれの老人。村の長老だろうか。その胸には、巨大な爪で引き裂かれたような、致命的な傷があった。
そしてもう一人は、その長老に必死に治療をしている青年だった。青年の着ている服はところどころが焼け焦げ、腕からは血が流れている。彼自身も満身創痍のはずなのに、その表情はただ、目の前の命を救うことだけに集中していた。
「よせ……若者……。おぬしだけでも……逃げろ……」
「嫌だ! あんたまで死なせはしない……! しっかりしろ、じいさん!」
青年の、自分を顧みず、他者を救おうとするその姿。その必死の形相。
アリアは、その横顔に、かつての親友の面影を見た気がした。あの優しい騎士の姿を。
――アレクト……。
思わず、心の中でその名を呟く。
アリアは青年に駆け寄った。
「しっかりしなさい! あなたも深手だわ!」
アリアが声をかけると、青年はハッとしたように顔を上げた。その瞳には、絶望と、それでも諦めきれない強い意志の光が宿っていた。
「あなた、まさか……騎士…様か……?」
「そうだ。何があった! この村を襲ったのは何者だ!」
青年は答えず、再び長老に視線を落とした。長老はぜえぜえと苦しそうな息をしながら、かろうじて口を開いた。
「……“クロウ・オブ・マウンテン”じゃ……。我らがそう呼んでおった……山のヌシが……」
「クロウ・オブ・マウンテン……」
「通称……“クマ”……。あれは、ただの獣ではない……怨念の……塊じゃ……」
そこまで言うと、長老はがくりと首を落とし、動かなくなった。
「じいさんッ! おい、じいさんッ!!」
青年の絶叫が、煙の立ち上る空に虚しく響いた。青年の体もまた、糸が切れたように崩れ落ちそうになる。アリアは咄嗟にその体を支えた。
「しっかりしろ! 君まで死ぬ気か!」
「……離せ……。俺は……俺は、誰も守れなかった……!」
悔しさに顔を歪める青年の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。その涙は、アレクトを失ったあの日、一人で流した自分の涙と重なった。
アリアは、彼の傷ついた腕に応急処置を施しながら、静かに、しかし力強く言った。
「君は、一人でも守ろうとした。その長老を、命がけで。……それで十分だ」
その言葉に、青年は虚ろな目でアリアを見上げた。
アリアは彼の目を見つめ返し、尋ねた。
「名を、聞かせてくれるか」
青年はしばらく黙っていたが、やがて、絞り出すように、しかしはっきりと答えた。その声は、不思議な響きを持っていた。
「ケンジ。……橘ケンジだ!」
その名乗りを聞いた瞬間、アリアは確信した。目の前の青年、ケンジの自己犠牲の精神と、その瞳の奥に宿る揺るぎない優しさに、亡き親友の面影を。
親友の死によって閉ざされたアリアの心に、小さな、だが確かな光が灯った。
それは、この絶望的な灰燼の中から始まる、新たな物語の狼煙のようだった。
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地平の彼方から昇る朝日が、瓦礫の大地に新しい生命の色を与えている。
この穏やかな風は、あまりにも多くの犠牲の上に吹いていることを、私は決して忘れない。
始まりは、十二年前の灰燼の中だった。
絶望の底で出会ったあなたの瞳に、私は確かに光を見た。
だが、私たちは多くの過ちを犯した。
一つの偽善を正すために、より大きな偽善を生み、理想を追い求めるあまり、世界そのものを滅びの淵へと追いやったのだ。
友を失い、信じた道に裏切られ、気づけば私の手には、守るべき何ものも残されてはいなかった。
…世界は、一度終わったのだ。私、アリア・フォン・クライフォルトの手によって。
しかし、ケンジ。あなたは、全てを失ったあの絶望の底でさえ、諦めなかった。
瓦礫の中でただ一人うずくまっていた私の手を、あなたは再び引いてくれた。
「まだ、終わらせない」と。
アレクト。あなたが見たかったのは、こんな世界だったのだろうか。
多くのものを失った先に、ようやく手にしたこの夜明けを、あなたなら何と言ってくれるだろうか。
その答えを、もう聞くことはできない。
犯した罪が消えることはない。それでも、私たちはこの再生された世界で生きていかねばならない。
失われた全ての命に、この夜明けを捧げよう。