第14話:苦しみから解放せよ!(ダークファンタジー)
世界を救ったというあまりにも空虚な称号を背負い、我々は再び、あてのない旅を続けていた。弟エミールとの戦いで、私の故郷クライン王国は半壊し、そこはもはや、私の帰る場所ではなかった。ケンジとアリアにも、帰るべき故郷はない。我々は、過去という名の亡霊に追われながら、ただ、南へ、南へと、歩みを進めていた。
道中、いくつもの街や村を通り過ぎた。復興に沸く街、いまだ戦火の傷跡が癒えぬ村。その全てが、我々の魂に刻まれた罪の記憶を呼び覚ました。人々は、我々を「世界を救った英雄」と呼び、賞賛の言葉を投げかける。だが、その言葉は、我々の耳には、我々が救えなかった者たちの、声なき怨嗟となって響いた。
「…疲れたな」
ある夜、焚き火の前で、ケンジがぽつりと呟いた。
「戦うのも、逃げるのも、もう、疲れた。ただ、静かな場所で、誰かの傷を癒して、穏やかに暮らしたい。そんな完璧な場所が、この世界のどこかにあるんだろうか…」
その、あまりにも純粋で、切実な願い。
そんな我々の耳に、ある噂が届いたのは、旅を始めて数週間が過ぎた頃だった。
山脈の奥地に、外界から完全に隔離された都市国家「サルース」。そこは、かつて人々を心なき怪物へと変える風土病「灰色の病」に苛まれたが、指導者ヴァレリウスの確立した奇跡の「治療法」によって、今では、病も、争いも、貧困さえも存在しない、「完璧」な楽園になっている、と。
アリアが口を開いた。
「灰色の病……銀の蝗害の、亜種……」
「…行ってみよう」
ケンジの提案に、アリアも、そして、私も、反対はしなかった。我々は、藁にもすがる思いで、その、最後の希望とも思える場所へと、舵を切った。
サルースの街は、噂以上に、完璧だった。
白亜の石で造られた街並みは、塵一つなく磨き上げられ、家々の窓辺には、色とりどりの花が、まるで計算されたかのように咲き誇っている。街を行き交う人々は、皆、清潔な白い衣服に身を包み、その表情には、穏やかで、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
「すごいな…こんなに平和な街は。みんな、幸せそうだ」
ケンジが、感嘆の声を上げる。
だが、私は、この完璧すぎる調和に、生命活動の根源であるはずの「混沌」が完全に欠落していることに気づき、背筋に、冷たい悪寒が走るのを感じていた。
「幸福という感情的状態を定義したまえ、ケンジ君。私の観測によれば、彼らの表情筋の動きからすると、これは幸福ではない。思考停止状態に近い」
「考えすぎだよ、エラーラ君。彼らは、ただ、苦しみから解放されただけなんだ」
ケンジは、そう言って笑った。
我々の到着は、すぐに、指導者ヴァレリウスの耳に入った。彼は、自ら我々を、彼の執務室へと招き入れた。
ヴァレリウスは、壮麗な玉座ではなく、簡素な木の椅子に座り、我々を、まるで古くからの友人のように、温かく迎え入れた。
「ようこそ、英雄殿。この街、サルースは、かつては絶望の地でした。人々は灰色の病に蝕まれ、心を失い、怪物と化していった。ですが、我々は『治療法』を見出したのです。それは、病の根源である、苦痛に満ちた記憶と、破壊的な感情を、その魂から優しく取り除いて差し上げること。我々は病を治しているのではない。魂を、救済しているのです」
彼の言葉は、あまりにも、甘く、そして、魅力的だった。
ケンジは、その、あまりにも博愛に満ちた思想に、深く感動していた。アリアでさえ、その穏やかな物腰と、街の平和な光景を前に、警戒を解き始めていた。
だが、私は、彼に問いかけた。
「魂の選択的消去…実に興味深い。その術式の論理構造を開示してもらいたい」
ヴァレリウスは、私の問いに、穏やかに微笑んだ。
「百聞は一見に如かず。今宵、最後の患者の『全快祝賀会』を行います。あなた方自身の目で、我が街の『救済』を、お確かめください」
その夜、我々は、街の中央にある、白亜の円形劇場へと招かれた。
観客席は、「治療」を終えた市民たちで、埋め尽くされている。彼らは皆、同じ、穏やかな笑顔を浮かべ、これから始まる儀式を、静かに待っていた。その光景は、あまりにも統制が取れすぎていていた。
やがて、舞台の中央に、一体の「怪物」が、枷に繋がれて引きずり出されてきた。それは、かつては人間だったのだろう。だが、「灰色の病」によって、その身体は醜く歪み、その瞳には、苦痛と、憎悪の光だけが宿っていた。
その怪物の家族であろう、一組の夫婦が、客席の最前列で、涙を流しながら、舞台を見つめている。
ヴァレリウスが、祭壇に登壇し、水晶の杖を天に掲げた。
「さあ、始めよう。最後の魂の、救済を」
杖から放たれた、温かく、そして、優しい光が、怪物を包み込む。怪物の、苦悶に満ちた絶叫が、次第に、穏やかな寝息へと変わっていく。その醜く歪んだ身体が、元の、人間の姿へと戻っていく。そして、その顔に浮かんでいた、苦痛と憎悪の表情が、すっと消え失せ、他の市民たちと全く同じ、穏やかで、空っぽの笑顔へと、上書きされた。
彼は、「救われた」のだ。
観客席から、嵐のような拍手が巻き起こる。
青年の母親が、舞台へと駆け寄り、変わり果てた、いや、元に戻った息子を、涙ながらに抱きしめた。
「ああ…!よかった…!本当に、よかった…!」
そして、彼女は、我々の席へと向き直り、深く、深く、頭を下げた。
「見てください!息子が…!あんなに苦しんでいた息子が、救われたのです!もう、悪夢を見ることも、悲しむこともない…!ヴァレリウス様…本当に、本当に、ありがとうございます!」
その、純粋な、感謝の言葉。
ケンジは、その光景に、涙を浮かべていた。彼が、ずっと探し求めていた、本当の「救済」が、ここにあると信じて。
アリアは、その母の涙に、自らの失った母の面影を重ね、静かに、目を伏せた。
そして、私は。
私は、その光が、青年の脳の、記憶を司る海馬と、感情を司る扁桃体を、完全に焼き切ったという事実を、冷静に、観測していた。
母親が抱きしめているのは、もはや、彼女の息子ではない。
ただ、彼女の息子の形をした、魂の抜け殻だ。
感謝…。救済…。
違う。
これは、観測史上、最も完璧で、静かな、虐殺だ。
私の、新たな実験が、この、感謝に満ちた地獄で、静かに、幕を開けた。
サルースでの日々は、静かな毒のように我々の魂を蝕んでいった。ヴァレリウスの招待を受け、我々は「市民区」の清潔で広々とした迎賓館に滞在していた。窓の外では、感情を失った市民たちが、穏やかな笑顔を浮かべて、完璧に調和した社会を営んでいる。
私は、この巨大な無菌室で繁殖する、目に見えぬバグの正体を突き止めるため、調査を開始した。
「ヴァレリウス殿。あなたの『治療法』の有効性は理解した。だが、いまだ病に苦しむ者たちがいる限り、この街のシステムは完璧とは言えない。我々も英雄として、その救済に協力しよう。胞子区への立ち入りを許可していただきたい」
私の申し出に、ヴァレリウスは、慈父のような笑みを浮かべて頷いた。
「おお、さすがは英雄殿。その博愛の精神、実に見事です。ですが、お気をつけなさい。あそこの者たちは、まだ『心』という病に冒されている。あなた方の善意が、彼らにとって毒とならぬことを、祈っておりますよ」
その言葉が、不吉な予言であったことに、我々が気づくのは、もう少し後のことだった。
胞子区と市民区を隔てる、巨大な壁。
その門の先は、地獄だった。
市民区の完璧な清潔さが嘘のように、胞子区の道は、ぬかるみと汚物にまみれていた。建物は崩れかけ、その壁には、「灰色の病」の病原体である胞子が付着し、まるで灰色の苔のように、不気味な模様を描いている。空気は、腐敗臭と、絶望の匂いで淀んでいた。物陰から我々を覗う人々の瞳には、希望はなく、ただ、猜疑心と、緩やかな死を待つだけの、諦めの色だけが浮かんでいた。
我々は、区画の奥にある、崩れかけた教会で、身を寄せ合って暮らす、数十人の生存者たちと出会った。彼らのリーダーは、元学者だという、痩せこけた老人のエリアスだった。
「…英雄様が、何の御用ですかな。我々のような、見捨てられた者たちの死に様を、見物しにこられたのですか」
彼の言葉は、棘のように冷たかった。
「我々は、助けに来た」
アリアが、力強く言った。だが、エリアスは、力なく笑った。
「助けるですと?我々に残された道は二つ。この場所で、肉体が腐り落ちるのを待つか。あの壁の向こうで、魂を殺されるか。どちらが『救い』だとおっしゃるのですかな?」
その時だった。教会の奥から、苦しげな咳の音が聞こえた。ケンジが、音のする方へと駆け寄る。そこには、小さな女の子が、灰色の毛布にくるまり、高熱にうなされていた。
「この子は…!」
「娘のニナだ…。症状が悪化してな…。もう、長くはあるまい」
エリアスは、そう言って、目を伏せた。
ケンジは、迷わなかった。彼の行動原理は、エラーラのそれとは違い、あまりにも単純明快だ。目の前に、苦しむ命があれば、救う。ただ、それだけ。
彼は、なけなしの医療品を鞄から取り出し、この密林で見つけた薬草を、慣れた手つきですり潰し始めた。
「エラーラ君、アリア。手伝ってくれ。この子の体温を、これ以上、上げてはならない」
私は、その非合理的なまでの善意に呆れながらも、彼の行動が、このコミュニティの信頼を得るための、最も効率的な手段であると判断し、手伝うことにした。
ケンジの、徹夜の看病が続いた。彼は、ニナの小さな手を握り、優しい声で、故郷の物語を語り聞かせ続けた。それは、医術というよりは、もはや祈りに近い行為だった。
そして、三日目の朝、奇跡は起きた。
ニナの熱が、嘘のように引いていたのだ。彼女の頬には、僅かに血の気が戻り、その呼吸は、穏やかになっていた。完治ではない。だが、彼女は、死の淵から、確かに生還した。
「ああ…!ニナ…!よかった…!」
エリアスと、その妻は、泣きながら、ケンジの前にひざまずいた。
「ありがとうございます、ケンジ様!本当に、ありがとうございます…!」
その声は、教会にいた、全ての人々の心を動かした。彼らの、我々を見る目が、変わった。猜疑心は消え、そこには、神を見るかのような、純粋な、信頼と希望の光が宿っていた。
「あなた様は、我々を見捨てなかった!」
「ヴァレリウス様は、我々を病原菌のように扱いますが、あなた様は、我々を人間として見てくださった…!」
「このご恩は、決して忘れません…!あなた様こそが、我々の、本当の希望です!」
彼らは、口々に、感謝の言葉を述べた。その、あまりにも純粋な温かい善意の奔流に、ケンジは涙を浮かべ、アリアもまた、固く閉ざしていたその表情を、僅かに和らげていた。
だが、その希望が、彼らを、より深い地獄へと突き落とす、死の宣告であったことを、まだ、誰も知らなかった。
ケンジがもたらした「希望」は、ヴァレリウスの完璧な統治システムにとって、最も危険な「バグ」だった。ケンジによって症状が緩和されたニナは、「治療」に対する、僅かな免疫を持ってしまったのだ。ヴァレリウスは、この「汚染源」を、根絶やしにすることを決意した。
その日の夜、胞子区の静寂は、無数の軍靴の音によって、引き裂かれた。
健康保安官の、一糸乱れぬ部隊が、教会を、完全に包囲した。
「なぜだ…!」
ケンジの絶叫も虚しく、扉は破壊され、屈強な兵士たちが、なだれ込んできた。
だが、彼らの目的は、ケンジを捕らえることではなかった。
彼らは、エリアスとその妻、そして、まだ病床にいるニナを、まるで家畜でも引きずり出すかのように、乱暴に捕らえた。
「治療に抵抗する危険思想に汚染された汚染体を確保した。これより中央治療施設へと連行する。」
隊長の、感情のない声が響く。
我々は、抵抗しようとした。だが、彼らの数は、あまりにも多かった。
そして、我々は、見てしまった。
健康保安官に、エリアスたちの居場所を密告したのが、教会の隅で震えている、一人の男であったことを。彼は、昨日まで、ケンジに、涙ながらに感謝の言葉を述べていた男だった。
その手には、一枚の紙が握りしめられている。市民区への、移住許可証と、一週間分の、特別配給切符。
彼は、自らの家族の安全と引き換えに、隣人の希望を、売り渡したのだ。
ヴァレリウスのシステムは、人間の、最も醜悪で、最も弱い部分を、的確に利用して機能していた。
連行される檻の中から、エリアスの妻が、隠れているケンジの姿を見つけた。
彼女の顔に浮かんでいたのは、怒りでも、恨みでもなかった。
ただ、深い、深い、悲しみと、そして、聖母のような、穏やかな感謝の表情だった。
彼女は、鉄格子の向こうから、涙に濡れた顔で、しかし、はっきりと、こう言った。
「先生、ありがとうございました」
ケンジの顔から、全ての血の気が引いた。
「あなた様がくださった、あの子の、三日間の安らかな寝顔…私は、一生忘れません。本当に、ありがとうございました…」
善意は。純粋な、命を救いたいという願いは。
感謝と共に。一家を、破滅へと、導いた。
善意が、最悪の結果を招き、にもかかわらず、感謝された。
ケンジは、その場に崩れ落ちた。
彼の、魂のない嗚咽だけが、静まり返った教会に、いつまでも、響き渡っていた。
私は、その光景を、ただ、観測していた。
ケンジの心が壊れた。
胞子区の、あの薄暗い教会で、彼は、ただの一点を見つめたまま、動かなくなった。彼を突き動かしていた、あまりにも純粋で、あまりにも非力な「善意」という名のエンジンは、感謝という名の、最も残酷な刃によって、完全に破壊されたのだ。アリアは、そんな彼の傍らで、ただ静かに、しかし、鞘に収められた剣が軋むほどの力で、拳を握りしめていた。
私は、その光景を、実に興味深く観測していた。
「ケンジ君の思考は自己矛盾に陥り、完全に機能を停止している。アリア君の生体反応は、アドレナリンの過剰分泌による攻撃性の増大を示唆している。だが、その『攻撃対象』が定まらないため、エネルギーは内部で空転している状態だ。実に非効率極まりない」
だが、感傷に浸っている暇はない。ケンジの失敗は、一つの重要なデータを示した。「対症療法は、バグの根本的な解決にはならん」と。ならば、私がやるべきことは一つ。この「灰色の病」という、非合理的な呪いを、根源からデバッグする、完璧な「解」を導き出すことだ。
私は、ヴァレリウスの監視の目を潜り抜け、アリアの助けを借りて、夜な夜な、胞子区と市民区の境界にある、封鎖された医療施設に侵入した。そこは、かつて「灰色の病」の最初の感染者たちが収容されていた場所。ヴァレリウスが、その存在そのものを歴史から抹消しようとしている、禁断の実験場だった。
私は、そこで、奇跡を見つけた。
「素晴らしい…!なんとエレガントな数式だ!」
私は、そこで発見した古い研究日誌と、残されていた組織サンプルを元に、ついに、完璧な治療薬を開発した。ヴァレリウスの「治療法」が魂を消去する減算の魔術であるならば、私の薬は、魂と肉体の繋がりを再構築し、病の因子だけを駆逐する、加算の科学だった。
「…見つけた。この非合理的な呪いを、打ち破る数式を」
私は、その薬を手に、胞子区で唯一、ヴァレリウスへの抵抗を続ける、小さなレジスタンスの拠点へと向かった。
彼らのリーダーは、かつては王国の騎士だったという、片腕を失った老兵、カエルスだった。彼は、私の姿を認めると、その目に、深い猜疑心を浮かべた。
「…英雄様が何の御用かな。我々のような、死にぞこないの反逆者に、慈悲でも、施しに来られたか」
「慈悲などという非合理的な感情は持ち合わせていない」
私は、単刀直入に言った。
「私は、君たちに取引を持ちかけに来た。君たちを、私の新しい薬の、最初の臨床試験の被験体にしてやろう」
私の、あまりにも不遜な申し出に、レジスタンスのメンバーたちが、一斉に武器を構える。
「ふざけるな!俺たちを、実験動物扱いする気か!」
「待て」
カエルスが、彼らを制した。彼は、私の目を、真っ直ぐに見据えた。
「…あんた、本気で、俺たちを治せると言うのか」
「成功確率は、99.8%。」
カエルスは、しばらく黙っていた。そして、深々とため息をつくと、言った。
「…分かった。だが、実験台になるのは俺一人だ。もし俺が、この病から解放されたなら、その時は、あんたを信じよう」
実験は、成功した。
私が投与した薬によって、カエルスの身体を蝕んでいた灰色の斑点は、まるで雪が溶けるように消え失せ、彼の失われた腕の断面から、新たな肉体が、ゆっくりと再生を始めたのだ。彼の瞳には、かつての騎士の光が、完全に戻っていた。
その光景を目の当たりにしたレジスタンスのメンバーたちは、武器を捨て、私の前に、ひざまずいた。
「おお…!奇跡だ!」
「女神様だ!救世主だ!」
「ありがとうございます、エラーラ様!この力があれば我々は勝てる!あの独裁者から、我々の魂を解放できる!」
彼らの瞳には希望の光が宿っていた。
「感謝は不要だ。君たちは、ただ、私の仮説の正しさを証明してくれた、貴重なデータに過ぎないのだからねぇ」
だが。
私がもたらした「希望」は、炎だった。それは、レジスタンスたちの心を、そして、胞子区全体を、瞬く間に燃え上がらせた。
「聞け、諸君!私の論理によれば、現在の戦力で、ヴァレリウスの中央施設に正面から攻撃を仕掛けた場合の成功確率は、3.7%だ。あまりにも無謀だ」
「もう、待てない!」
私の、冷静な戦術分析を、カエルスが、熱狂的な叫びで遮った。
「我々は、もう十分に待った!この手に、魂を取り戻すための剣があるのだ!今こそ、立ち上がる時だ!」
彼の言葉に、かつての力を取り戻した兵士たちが雄叫びで応える。彼らはもはや、私の論理など求めてはいなかった。彼らが求めていたのは、ただ、自分たちの怒りと希望を正当化してくれる、美しい物語だけだった。
その夜、レジスタンスは、武装蜂起を開始した。
「自由を!」
「魂の解放を!」
彼らは、そう叫びながら、市民区へと突入した。
だが、彼らが対峙したのは、ヴァレリウスの軍隊ではなかった。彼らの前に立ちはだかったのは、彼らが解放しようとしていたはずの、「治療」を受けて幸福に暮らす、一般市民たちだった。
市民たちは、レジスタンスを「我々の平穏を乱す、病に冒された狂人」と認識し、鍬を、鎌を、そして、憎しみを手に、彼らに襲いかかった。
「出ていけ、化け物!」
「私たちの幸せを、壊さないで!」
胞子区の出身者と、市民区の住民。かつては隣人だった者たちが、互いを殺し合う、凄惨な内戦が始まった。レジスタンスは、自らが守ろうとしたはずの民衆の手によって、一人、また一人と、無残に殺されていった。
ケンジとアリアは、その地獄絵図を止めようと、両者の間に割って入った。だが、彼らの声は、憎悪の連鎖に掻き消されるだけだった。
私は、その光景を、近くの建物の屋上から、ただ、観測していた。
私の論理的な救済は、感謝と共に、最も醜悪な、市民同士の殺戮という結果を招いた。
内戦の混乱の中、アリアは、ただ一人、非武装の市民を守るために剣を振るっていた。彼女は、どちらの側にもつかず、ただ、目の前の命を救うためだけに戦った。
彼女は、戦いを望まない胞子区の若者たちを集め、武器を取るのではなく、バリケードを築き、老人や子供を守るための「守備隊」を組織した。
「力は、誰かを傷つけるためにあるのではない。守るためにあるのだ!我々は、この不毛な争いが終わるまで、ただ、耐え忍ぶ!」
彼女の、騎士としての高潔な姿に、若者たちは心を打たれ、彼女を「我らが騎士団長」と呼んで慕った。彼らは、アリアの教えの通り、ただひたすらに、守りに徹した。
その、あまりにも高潔な正義が、最悪の裏切りを招く。
追い詰められたレジスタンスの残党が、アリアたちが守るバリケードの中へと、助けを求めて逃げ込んできたのだ。若者たちは、アリアの教えの通り、彼らを匿った。
その直後、ヴァレリウスの健康保安官が、大軍を率いてバリケードを包囲した。
「テロリストを匿う者も、また、テロリストである。残さず殲滅せよ」
アリアの教えた「守るための強さ」は、彼ら全員を反逆者へと仕立て上げ、無慈悲な殲滅の口実を与えてしまったのだ。若者たちは、最後まで武器を取らず、ただ守るために立ち、そして、皆殺しにされた。
一人の、まだ若い少年兵が、死の間際に、アリアの姿を見つけ、血反吐を吐きながら、笑った。
「…アリア様…あんたの教えは間違ってなかったぜ…。俺は、最後まで、守るために、ここに立てた…。ありがとう…ございました…!」
彼の感謝の言葉は、アリアの魂を、完全に、へし折った。彼女の正義は、凶器と化し、彼女を信じた者、全ての命を奪ったのだ。
三人は、この街の全ての希望が、絶望へと反転する呪われたシステムに、完全に心を打ち砕かれていた。私は、最後の賭けとして、この街の全てのプロパガンダを統括する、中央通信塔を乗っ取り、全ての真実を外部の世界に暴露する計画を立てる。
その、あまりにも無謀な計画に、一人の協力者が現れた。ヴァレリウスの側近の一人で、「治療」を受けながらも、奇跡的に自我を保っているという男、セバスチャンだった。彼は、夜陰に乗じて我々の隠れ家を訪れ、涙ながらにヴァレリウスの非道を告発し、協力を誓った。
「ありがとう…。あなた方のような方が現れるのを、ずっと、ずっと待っていたのです。私の妻も、娘も、『治療』によって、ただ微笑むだけの人形にされてしまった。この街を、本当の意味で救うために、どうか、この私を使ってください。私は、ヴァレリウスの懐刀。通信塔の警備システムの全てを知り尽くしています」
彼の、あまりにも誠実な言葉と、その瞳に宿る深い悲しみに、ケンジとアリアは心を動かされた。ケンジは、彼の震える手を握りしめた。
「分かりました、セバスチャンさん。我々と、共に戦いましょう」
「ええ。あなたの勇気に、感謝します」
アリアもまた、固い表情ながらも、敬意を示した。
だが、私だけは、彼の生体反応のデータに、僅かな「嘘」の波形を観測していた。彼の心拍数は、悲劇を語るにしては、あまりにも安定しすぎていた。だが、他に選択肢はなかった。我々は、彼を信じるという、最も非合理的な賭けに出るしかなかったのだ。
セバスチャンの手引きは、完璧だった。警備兵の交代時間、監視システムの死角、秘密の通路。彼の情報通りに進むことで、我々は一度の戦闘もなく、通信塔の最上階、中枢制御室の扉の前にたどり着いた。
「…さあ、英雄様。舞台は整いました」
セバスチャンが、そう言って、扉を開けた。
だが、その先にあったのは、放送設備ではなかった。
そこにいたのは、完全武装した健康保安官の精鋭部隊と、玉座に座り、勝ち誇ったように笑う、ヴァレリウス本人だった。
「感謝しますよ、英雄諸君。あなた方のおかげで、最後の反乱分子も、一網打尽にできました」
側近のセバスチャンは、ヴァレリウスの隣に恭しく立つと、我々に向かって、深々と頭を下げた。
「あなた方が与えてくれた『希望』こそが、彼らを炙り出す、最高の餌だったのです。私の演技に、心から感謝していただきたい」
彼の自我は、演技だった。全ては、我々を捕らえるための、完璧な脚本。我々の善意は、感謝の言葉と共に、最悪の裏切りとなって、我々に牙を剥いた。
ケンジが、震える声で尋ねた。「なぜ…」と。
セバスチャンは、心底不思議そうに答えた。
「なぜ?決まっているでしょう。ヴァレリウス様は、私に、安らぎと、秩序を与えてくださった。あなた方が持ち込んだのは、苦痛に満ちた『自由』だけだ。私は、私の楽園を、守ったに過ぎません」
彼の裏切りは、彼自身の「正義」だった。その、救いようのない断絶を前に、我々は、言葉を失った。
完全に包囲された我々は、アリアの騎士としての意地と、ケンジの土壇場での機転によって、何とか逃れることに成功した。
だが、その過程で、我々に最後まで味方してくれた、数少ない反逆者たちは、皆、命を落とした。
我々に残された時間は、もうなかった。
ヴァレリウスは、我々という最後の「バグ」を駆除するため、計画の最終段階「大浄化」を開始したのだ。胞子区の全ての住民を、巨大な広場へと強制的に集め、都市の地下に眠る、古代の魔術装置を暴走させ、上空から、街の全ての生命の魂を、一斉に消去しようとしていた。
我々の手元には、ケンジが作り上げた本物の治療薬が、ほんの数人分だけ残っていた。そして、私が密かに開発していた、ヴァレリウスの装置の中枢を破壊できる、小型の論理爆弾が一つ。
「ケンジ!薬を!」
アリアが叫ぶ。広場では、まさに「浄化」が始まろうとしていた。
だが、ケンジは、動けなかった。
「無駄だ…」
と彼は呟いた。
「数人を救っても、この街のシステムそのものを破壊しなければ、また同じことが繰り返されるだけだ…。僕の善意は、ただ、彼らを苦しませるだけだったんだ…!」
私は、彼の肩を掴んだ。
「その通りだ、ケンジ君。対症療法は、根本的な解決にはならん。我々が破壊すべきは、症状ではなく、病巣そのものだ」
我々は、爆弾を選んだ。最後に、息も絶え絶えだった反逆者のリーダー、カエルスが、我々に爆弾を託した。
「頼む…。俺たちを、この苦しみから、解放してくれ…。そして、俺たちの無念を、晴らしてくれ…。ありがとう…英雄様…」
彼の感謝の言葉を背に、我々は、装置の心臓部へと向かった。
我々の最後の戦いは、壮絶を極めた。我々に味方する者は、もう誰もいない。我々は、自らの最後の正義を執行するためだけに、ヴァレリウスの親衛隊と、そして、変わり果てた市民たちの群れを、突破していった。
アリアが、その身を盾に、血路を切り開き、ケンジが、負傷した彼女を、その身を顧みずに治療し、そして私が、ついに、「大浄化」装置の心臓部へと、論理爆弾を設置することに成功した。
装置は、暴走し、巨大な光の柱となって、天を突いた。
ヴァレリウスは、自らが作り出した光の奔流に飲み込まれ、断末魔の叫びと共に、消滅した。
我々は、勝ったのだ。
だが。
破壊された装置から、最後に放出されたエネルギーは、「治療」の光ではなかった。
それは、ヴァレリウスが最後の切り札として隠し持っていた、改良型の「灰色の病」のウイルスそのものを、高濃度で圧縮した、悪意の奔流だった。
光の柱は、サルースの街だけでなく、その周辺の国々までを、あっという間に覆い尽くしていく。
我々が、システムを破壊するという「正義」を執行した、まさにその瞬間。我々は、この世界そのものに、決して治療することのできない、絶望の病を、解き放ってしまったのだ。
我々は、サルースの最も高い塔の上から、その光景を、ただ、呆然と見つめていた。
街は、死んだ。かつて我々の過ちを知っていた、反逆者も、ヴァレリウスの配下も、全てが、この大災害の中で、死に絶えた。
やがて、瓦礫の中から、僅かな生存者たちが、姿を現した。彼らは、奇跡的に「治療」もされず、ウイルスにもまだ感染していない、ただの、普通の人々だった。
彼らは、塔の上の我々を見つけると、その場にひざまずき、泣きながら、祈るように、手を合わせた。
一人の老婆が、我々を見上げ、深く、深く、頭を下げた。
「ありがとうございます…英雄様…」
ケンジが、震える声で尋ねた。
「何がだ…我々は…全てを…」
老婆は、穏やかに、しかし、恍惚とした表情で、微笑んだ。
「はい。あなた様方が、全てを終わらせてくださったのです。希望も、絶望も、病に怯える苦しみも、魂を失う恐怖も…全て。見てください。世界は、静かになりました。もう、誰も、何も考えずに済むのです。ヴァレリウス様の完璧な世界も、あなた方の自由への戦いも、どちらも私たちには地獄でした。でも、あなた様方は、そのすべてを、破壊し尽くしてくださいました。これで…これでやっと、私たちは、本当に『救われた』のです」
彼らは、自分たちを、そして世界を滅ぼした我々を、真の救世主として、崇拝していた。
その、感謝に満ちた笑顔に見守られながら、世界は、ゆっくりと、静かな、灰色の死へと、沈んでいった。
ケンジは、その場に崩れ落ち、魂のない嗚咽を漏らした。
アリアは、その手にした剣を、虚ろな目で見つめたまま動かない。
そして、私は。
私は、自らの善意が生み出した、この、完璧なまでに救いのない結末を、ただ、観測していた。
私の論理は、最悪の形で、「正しかった」のだ。
人間というバグを、「完璧」に救済する方法は、ただ一つ。
その存在そのものを、「完璧」に、消去することだけなのだから。