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壊れた世界のやりなおし方  作者: 王牌リウ
第2章:白衣の騎士エラーラ篇
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第12話:飛行船から脱出せよ!(サバイバルアクション)

大陸間を繋ぐ巨大な魔導飛行船「天穹船ヘリオス77便」の客室は、私の思考を整理するには、静かすぎた。磨き上げられた金属の内壁は、魔導光を冷たく反射し、空調システムが吐き出すリサイクルされた空気は、無味無臭で、生命の気配がしない。ハグルマ・シティの猥雑な油と香辛料の匂いが、非合理的なまでに懐かしく感じられる。私は、この完璧すぎる無菌室のような環境で、ハグルマ・シティでの大失敗のデータを反芻し、不愉快な気分のまま次の観測地へと向かっていた。


「ヴェリタス様、お飲み物はいかがですか?当船自慢のスカイベリー・ジュースなど、旅のお疲れを癒すのに最適かと存じますが」


客室乗務員が、完璧に計算された笑顔を浮かべて、私に話しかけてくる。


「不要だ。君のその笑顔、実に非効率的な筋肉の運用だねぇ。君の口角の挙上角度と持続時間は、過剰なエネルギー消費を示唆している。実に興味深い無駄だ」


「…は…はあ…」


乗務員は、私の論理的な指摘の意味を解析できなかったようで、わずかに顔を引きつらせながら、すごすごと後ずさっていった。私の周囲の空気が、さらに5%ほど冷えたのを肌で感じる。結構。非合理的な干渉は、私の思考のノイズになるだけだ。


その、退屈なプロセスは、一人の男によって唐突に中断された。

前方で、短い悲鳴が上がる。私が顔を上げると、大柄な男が、乗務員の首にナイフを突きつけ、操舵室へと向かって叫んでいた。


「はい。動くなーっ。操舵室を開けろー。さもないとー、この女の命はないぞー。」


なんと古典的で、稚拙な手法だろうか。

私は即座に犯人の体格、装備、声のトーンから心理状態を分析する。


「声帯の緊張から極度の興奮状態にあると推定。成功確率12.4%。実に非効率な計画だ」


他の乗客たちがパニックに陥り、泣き叫ぶ者、硬直する者、実に興味深いサンプルデータを提供してくれる。その中で、数人の血気盛んな男たちが犯人へと飛びかかった。彼らの連携の取れていない動き、無駄な大声。そのもみ合いの中で、犯人の一人が懐から取り出した魔導銃が、あらぬ方向へと向けられる。と思ったまさにその瞬間。別の乗客が、無謀なタックルを仕掛けた。バランスを崩す犯人。その指が、引き金にかかった。パシュン、という乾いた音。そして、全てが始まった。

魔導銃から放たれた光弾は、客室の窓を粉々に砕き、そこに、絶対的な真空の口が開かれた。急減圧。凄まじい風が、全てを吸い出そうと牙を剥く。悲鳴さえもが、音になる前に風に奪われる。船はきりもみ状態で急降下を始めた。その無理な機動が、右翼に搭載されたマナ・エンジンの許容量を超えさせた。轟音。窓の外で、エンジンが真っ赤な炎を噴き上げて爆発した。


エンジン火災。


「見事な連鎖的故障だ!」


私は、次々と発生するエラーの奔流に、不謹慎ながらも知的好奇心を刺激されていた。

さらに、火災による魔力回路のショートが、貨物室に積まれていた可燃性の高い魔法薬の荷物に引火。貨物室で火災が発生し、黒く、有毒な煙が客室へと流れ込み始めた。警報が、断末魔のように鳴り響く。

船は、巨大な雷雲渦へと突入した。紫電が船体を何度も打ち据え、ついに操舵系統が完全に沈黙。


「衝撃に備えろ!」


船長の絶望的な絶叫を最後に、ヘリオス77便は、「龍のドラゴンズ・ジョー」と呼ばれる大陸南方の未踏の密林へ、断末魔の叫びと共に墜落した。

衝撃の直前、私の思考はただ一つ。


「この衝撃で得られる人体と船体の破壊データは、実に貴重なものとなるだろう」



意識を取り戻した時、最初に感じたのは、むせ返るような血と、焼けた金属の匂いだった。

無残に引き裂かれた船体の残骸。あちこちで上がる黒煙。そして、負傷者たちのうめき声が響く地獄絵図。

私は、自らのバイタルをチェックする。左腕に亀裂骨折、全身に打撲。許容範囲内だ。


私は、白衣の埃を払い、立ち上がった。


「実に興味深い臨床データの宝庫じゃないか」


私は、すぐさま負傷者のトリアージを開始した。


「助けてくれ…先生…足が…!」


足が瓦礫に挟まれ、粉砕骨折を起こしている男が、私に助けを求めた。


「君の左下肢は粉砕骨折、主要動脈も断裂している。この環境下での止血と固定は不可能。多量の失血によるショック死が予測される。生存確率は1.8%。君の治療にリソースを割くのは、極めて非効率だ。次の検体へ移る」


私の冷徹な宣告に、男は絶望の表情を浮かべた。

私は、生存確率の高い者から、的確に、そして迅速に処置を施していく。

生存者はわずか28名。その中には、他人を押しのけ、機内から食料や水をかき集める豪商バザロフの姿があった。


「自己の生存のみを優先する、最も原始的で合理的な個体。実に興味深い」


そして、もう一人。腕を骨折しながらも、その痛みを表情に一切出さず、冷静な目で周囲を観察している、あのハイジャック未遂犯「サイレント」。


「目的遂行のための論理的思考能力を持つ、実に興味深いサンプルだ」


夕闇が密林を包み込み、未知の獣の咆哮が遠くから響いてくる。救助が来る保証はない。絶望に顔を歪める生存者たち。

だが、私にとって、この状況は絶望ではなかった。

ここは、人間という最も興味深い検体を、極限状況下で観測するための、最高の実験場なのだ。



不時着から一週間が経過した。この原始的で非効率な環境は、私の忍耐という名のパラメータを著しく低下させていたが、同時に、最高の観測データを提供してくれる実に興味深い実験場でもあった。

私は、その圧倒的な医学知識、戦闘技術、そしてサバイバルに関する科学的知見によって、不本意ながら生存者グループの中心的存在となっていた。実に非合理的なことだ。私はリーダーなどという、感情的な責任を伴う役割には全く興味がない。だが、他の個体があまりにも非論理的で生存戦略に欠けるため、放置すれば私の貴重な観測対象が次々と機能停止してしまう。それは、科学的損失があまりにも大きい。


「いいかね、諸君。我々の残存リソースは、食料7日分、清潔な水4日分、医療品に至っては、重傷者3名を維持するのが限界だ。よって、労働は各個体の身体能力と専門知識に基づき、完全に最適化されたシフト制とする。異論は認めん」


私は、ヘリオス77便の残骸を拠点に、生存のためのシステムを構築した。密林の動植物を片端から採取・分析し、安全な食料と薬草を確保。負傷者の能力に応じて、水の濾過、シェルターの建設、周囲の警戒といった労働を厳密に割り振った。だが、食料をカロリー計算に基づいてミリグラム単位で厳密に配給し、感傷的な希望を「生存確率を低下させる非合理的なノイズ」として切り捨てる私の徹底的な合理主義は、人間的な感情を求める生存者たちとの間に、深刻な亀裂を生んでいった。


「エラーラさん…パン…もう少し、パン…を分けてはもらえないでしょうか。子供が、お腹を、空かせて…」


若い母親が、懇願するように私に訴えかけてくる。私は、手元のデータ水晶板から顔を上げずに答えた。


「却下する。君の子供の昨日の摂取カロリーは1250キロカロリー。生命維持に必要最低限の数値は満たしている。空腹感とは、栄養不足を知らせるための単なる生体信号に過ぎない」


母親は、絶望に顔を歪ませ、その場に崩れ落ちた。実に非効率な水分の排出だ。

そんな私の統治システムに、最初の、そして最大のバグが発生した。豪商バザロフだ。


「なぜ俺様が、あんたの決めた管理に従わなきゃならねえんだ!」


彼は、私が配給した栄養ペースト(味は保証しないが、栄養価は完璧だ)を地面に叩きつけ、「自由」という、実に抽象的で非科学的な概念を掲げて反旗を翻したのだ。


「いいかてめえら!…人間ってのはな、人間ってのは!管理されて生きる家畜じゃあねえんだ!……人は皆、明日を求めて、なににも縛られないで、自由に生きるんだよ!生きてるんだ!みんな、生きてるんだ!お前も、お前も、あんたも!みんな、明日を求めて生きてるんだよ!……だけど、この白衣の女は、俺たちから、自由を、奪っているッ!」


彼の、ヒロイックな扇動は、意外にも多くの支持者を集めた。恐怖と飢えで思考能力が低下した個体は、単純で感情的なプロパガンダに、実に脆弱なのだ。私はそれを「集団ヒステリーにおける知能指数の低下率を示す、実に興味深い実例だ」と冷静に分析し、データとして記録した。


密林の脅威もまた、私の探求心を刺激する、最高の研究対象だった。

夜になると、木の枝から巨大な蜘蛛が、その紫色の毒々しい体躯を現す。生存者たちは悲鳴を上げて逃げ惑うが、私はその毒に目を輝かせた。


「素晴らしい!この毒液に含まれる神経毒は、既存のどのアルカロイドとも違う、全く新しい分子構造をしている!これを解析すれば、画期的な麻酔薬が開発できるかもしれん!」


私は、他の生存者が寝静まった後、一人でその蜘蛛の巣へと向かい、実に有意義なサンプル採取を行った。

夜の闇に紛れて、獲物を狙う月光豹。その毛皮は月の光を吸収し、完全なステルス能力を発揮する。実に興味深い光学迷彩だ。私は、彼らの狩りのパターンを三日間にわたって観測し、その行動範囲と習性を完全にデータ化した。そして、彼らが決して近づかない、特定の匂いを放つ植物を発見し、キャンプの周囲にそれを植えることで、完璧な防衛システムを構築した。


突如として空が黒い雲に覆われ、全てを洗い流すかのようなゲリラ豪雨が襲いかかる。生存者たちはただ怯えるだけだったが、私はその雨水を集め、不純物の含有量を測定し、気圧と湿度の変化から、次の豪雨が訪れる時間を、誤差±5分以内で予測するモデルを完成させた。


そんな中、私は「サイレント」と名乗るハイジャック犯の、実に興味深い行動パターンに気づいていた。彼は他の生存者と一切の交流を断ち、一人で天穹船の残骸を漁っては、何かを探しているようだった。彼の目的は何だ?脱出か?それとも、何か別の、私にも予測できない変数か?


私は、彼の目的を探るため、彼に接触し、論理と知識をぶつけ合う、危険な知的ゲームを開始した。


「君のその行動、実に興味深い。残骸から電子部品を集めているようだが、その目的を提示したまえ。脱出用ビーコンの自作かね?」


サイレントは、私の問いかけに、初めて、その冷徹な仮面の下から、わずかな驚きの色を覗かせた。


「…お前は、一体何者だ」


「私はエラーラ・ヴェリタス。しがない科学者だよ。そして君は、私の最も興味深い観測対象の一人だ。さあ、君の論理を聞かせてもらおうか」


私とサイレントの、奇妙な知的交流が始まった。だが、その均衡を破ったのは、やはり、あの非合理的なバグ、バザロフだった。

バザロフのグループが、夜陰に乗じて、私が厳重に管理していた医薬品の半分を強奪したのだ。その中には、墜落の際に重傷を負い、感染症で危険な状態にあった患者の命綱である、唯一の抗生物質が含まれていた。


「あの薬がなければ、生存者3名の生命活動は72時間以内に停止する。貴重なサンプルが失われるのは、断じて許容できない」


私は、抗生物質がなければ数日内に大量に死者が出ることを計算し、バザロフグループの追跡を「非効率なバグの駆除」として決定した。


その頃、サイレントは、薄暗い船室の中で、私が組み立てたことを知る由もない遠距離通信機の最終調整を終えようとしていた。彼は、私の知的挑戦に対し、彼なりの回答を用意していたのだ。

だが、その通信機の電源回路には、私が仕掛けた、ささやかな「保険」が組み込まれていることを、彼はまだ知らない。


バザロフの追跡は、戦闘ではなく、純粋な数式の証明だった。私は密林の地形、天候、そしてバザロフという検体の心理プロファイル――彼は怠惰で、危険を避け、常に最も楽な道を選ぶ――から、彼の行動パターンを完璧に予測していた。私が示した最短ルートを、生存者たちは半信半疑で進んだが、三時間後、我々は予測通りの場所に追い詰めた彼らを発見した。

そこは、淀んだ沼地に面した、陰鬱な野営地だった。バザロフのグループは、仲間割れの末に内部から崩壊していた。彼の「自由」という非合理的なスローガンがもたらした結末は、食料を巡る醜い争いと、不衛生な環境による感染症の蔓延。実に、実に予測通りの結果だ。


そして、その中心で、一人の男が紫色の顔で喘いでいた。腕には、二つの牙の痕。この密林に生息する神経毒を持つ毒蛇だ。


「助けてくれ…エラーラ…先生…」


かつての威勢は見る影もなく、バザロフが私の足元に這いつくばって命乞いをした。


「薬を…薬を分けてくれれば、盗んだものは全部返す!だから、こいつを…!こいつは、昔からの、俺の子分なんだ…!」


私は、彼の感情的な懇願を無視し、毒蛇に噛まれた男を冷静に観察した。


「ふむ。組織壊死と神経麻痺が進行している。瞳孔の散大、呼吸不全。実に興味深い。……彼の死は、実に有益なデータとなるだろう」


「頼む!俺が悪かった!あんたの言う通りにする!だから、仲間を…!」


「君の命と、君が盗んだ薬、そして君の部下という検体の命。それぞれの価値を天秤にかける必要がある」


私は、しゃがみ込み、恐怖に歪むバザロフの顔を覗き込んだ。


「実に興味深い倫理的ジレンマだ。君という検体が、この状況でどのようなデータを提供してくれるか、見せてもらおうか」


私の言葉に、バザロフは絶望の表情を浮かべた。私は彼に、抗生物質と引き換えに、彼が強奪した全ての物資と、彼のグループの完全な解体を要求した。彼は、それを飲むしかなかった。


私がバザロフを捕虜としてキャンプに戻ると、そこは異様な緊張に包まれていた。サイレントが、キャンプの中央で、我々を待ち構えていたのだ。その手には、彼が船の残骸から作り上げた、魔導銃が握られていた。


「…見事な手際だ、エラーラ・ヴェリタス。だが、ここまでだ」


彼は、その銃口を我々に向け、本性を現した。

彼は国際的なテロ組織「沈黙の暁騎士団」のメンバーであり、ハイジャックの真の目的は、この天穹船で極秘裏に輸送されていた「『銀の蝗害シルバースワーム』と呼ばれる自己増殖型錬金兵器」のサンプルを強奪することだったと告白した。その兵器は、あらゆる有機物を分子レベルで分解し、自己増殖する、究極の生物兵器だという。


「通信機で、仲間を呼んだ。お前たちには、引き渡しまで静かにしてて、もらおうか」


彼は、生存者全員を人質にとった。

その絶望的な状況下で、私は、サイレントの不自然に固定された腕に目をやった。


「その腕、実に非効率な固定法だ。このままでは偽関節を形成し、君の戦闘能力は永久に30%は低下するだろう」


私は、銃口を向けられているのも構わず、彼に近づいた。


「なんだと…?」


「君という論理的思考能力を持つ貴重なサンプルが、こんなつまらない理由で機能停止するのは科学的損失だ。私が治療してやろう」


私の常軌を逸した言動に、常に冷静だったサイレントの論理的な精神が、わずかに揺らいだ。彼の表情に、初めて明確な困惑の色が浮かぶ。実に面白い反応だ。

事態は、その瞬間、急変した。


空が、鳴った。

雲の切れ間から、一隻の巨大な飛竜艇が、その威容を現したのだ。

船体は、無数の戦闘の痕跡で傷つき、その側面には、翼を持つ髑髏の紋章が、不気味に描かれている。

誰もが、安堵した。サイレントの仲間か、あるいは、私からの通信を受けた山脈連合の救助隊か。どちらにせよ、この地獄は終わるのだと。

飛竜艇が着陸し、その昇降口が開かれる。

だが、そこに立っていたのは、どちらの組織の兵士でもなかった。

彼らは、俺たちを一瞥すると、下卑た笑みを浮かべた。


「大当たりだ、野郎ども!こいつぁ上客に違いねえ!」


我々は、救助されたのではなかった。ただ、より大きな檻へと「捕獲」されたに過ぎなかった。


私とサイレントは武装解除され、他の生存者たちと共に、船内へと連行された。だが、私に対する彼らの扱いは、明らかに異なっていた。

屈強な男が、私の前に進み出た。


「あんたが、噂の『白衣の魔女』か。シルヴァングレイドを改革し、メルカンティルムを崩壊させたという、エラーラ・ヴェリタスだな」


男は、私の名を正確に知っていた。


「俺は、キャプテン・レイヴン。この船の船長だ。あんたの噂は俺たちの耳にも届いていた。あんたのやり口…気に入ったぜ」


彼は、部下に命じて、私の縄を解かせると、私にだけ、清潔なタオルと、上質なラム酒が入った銀のフラスコを差し出した。

彼の部下たちは、実に効率的な動きで、サイレントを取り押さえ、彼が命懸けで守っていた「銀の蝗害」のアタッシュケースを奪い取った。レイヴンは、そのケースを一瞥すると、興味なさそうに言った。


「へっ、こんなもんに命を懸けていたのかね。まあ、いい」


他の生存者が、薄暗い船倉に家畜のように詰め込まれる中、私だけは、船長室へと通された。そこは、書斎と、実験室と、武器庫が混じり合ったような、混沌とした、しかし、実に機能的な空間だった。


「ま、座れよ。」


レイヴンは、私に椅子を勧めると、ラムをグラスに注いだ。


「あんたがシルヴァングレイドでやったっていう、『制御された混沌』による統治。実に興味深い。俺のこの船も、似たようなもんでな、俺という絶対的な論理の下で、こいつらという非合理的の塊を、ギリギリのバランスで制御している。その最適解について、あんたの見解を聞かせてもらいたい」


彼は、私の科学者としての能力に、純粋な敬意と、好奇心を抱いていた。彼にとって、私は捕虜ではなく、同類だったのだ。


レイヴンは、私の目の前で、こともなげに「銀の蝗害」のケースを開けてみせた。銀色に輝く微粒子が、妖しい光を放っている。


「生命を喰らう塵、か。素晴らしい。だがな」


彼は、パチン、とケースを閉じると、部屋の隅にある、巨大な金庫の中へと、それを収めた。


「兵器ってぇのはな、実はな、使わないことにこそ、価値があるんだ。テロリストが持てば、ただの脅威。国家が持てば、抑止力という名の足枷になる。だが、俺たちのような、誰でもない者が持つことで、初めて、『切り札』となるのさ」


彼は、私の研究成果を、完全に、自らのコレクションの一つとしてしまった。

レイヴン号は、密林を後にし、どこまでも続く雲海の上を、飛び続けた。


やがて、我々の目の前に、信じがたい光景が広がった。

巨大な、嵐の渦。その中心に、それは、浮かんでいた。

何百隻もの、鹵獲されたであろう飛行船や軍艦が、巨大な鎖で連結され、一つの巨大な「浮遊城塞」を形成している。中央には、古代文明の遺跡と思われる、巨大な塔がそびえ立ち、そこから、街全体にエネルギーが供給されているようだった。鍛冶場の火花が散り、酒場の喧騒が風に乗って聞こえてくる。無数の旗がはためき、そこには、自由と、反逆の匂いが満ち溢れていた。


浮遊城塞アイテールガルド。

それが、空賊たちのアジトの、真の姿だった。

レイヴンが、私の隣に立ち、にやりと笑った。


「ようこそ、ドクター・ヴェリタス。」



浮遊城塞アイテールガルドでの日々は、私の論理体系に新たな、そして実に厄介な変数をもたらした。キャプテン・レイヴン。彼の統治するこの無法の城塞は、私がシルヴァングレイドで提唱した「制御された混沌」の、あまりにも巨大で、あまりにも成功した実例だった。ここは、私の理論の正しさを証明する場所であると同時に、私の理解を遥かに超えた、生命力の塊でもあった。

私は、レイヴンの客分として、彼の書斎で古代の文献を読み解き、空賊たちの持つ独自の魔導技術を解析するという、実に有意義な日々を送っていた。


だが、その平穏は、唐突に引き裂かれた。

発端は、城塞の下層にある酒場での、二人の空賊によるポーカーゲームだった。


「イカサマだろう!てめえよお、袖にカード、隠してやがったな!」


「あんだとコラ!証拠もねえのに、俺を侮辱するってえのか!」


口論は、すぐに暴力へと発展した。だが、彼らが抜いたのはナイフではなかった。懐から取り出した、護身用の小型魔導銃。放たれたエネルギー弾は、相手を逸れ、酒場の壁に設置されていた、城塞全体の魔力圧を調整する、古い真鍮製のバルブに命中した。バルブは、甲高い音を立てて破損。そこから、高圧の魔力蒸気が噴出した。その蒸気は、偶然にも、レイヴンの船長室の金庫に繋がる、予備の圧力調整管へと流れ込んだ。

そして、悲劇が起きた。

「銀の蝗害」を保管していた金庫が、内部からの異常な圧力上昇に耐えきれず、扉を歪ませ、爆発したのだ。

そこから、まるで溜息のように、銀色に輝く微粒子が、ふわりと、空気中に漏れ出した。

その瞬間、アイテールガルドの祝祭は、終わりを告げた。


最初に犠牲になったのは、喧嘩をしていたあの二人の空賊だった。漏れ出した「銀の蝗害」は、最も近くにいた彼らの身体に、静かに降り注いだ。


「なんだこの、キラキラは…」


男の一人が、自分の腕に付着した銀色の粒子を、不思議そうに眺めた。次の瞬間、彼の腕が、ぐじゅぐじゅ、と音を立てて溶け始めた。いや、違う。溶けているのではない。彼の皮膚、筋肉、骨、その全てが、銀色の、粘性を帯びた液体へと「変質」していくのだ。


「ゅぎぃぃぃあ!」


悲鳴を上げた時には、もう遅かった。彼の全身は数秒で銀色のスライム状の塊と化し、その塊は、生命を得たかのように蠢き、もう一人の空賊へと、津波のように襲いかかった。酒場は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。それはもはや捕食ではなく、感染であり、侵食だった。



城塞の中央広場は、様々な種族の商人たちで賑わっていた。その喧騒の中心で、一人のエルフの商人が、客との会話の途中で、ふと、言葉を詰まらせた。


「の」


彼の、白く美しい肌の表面が、さざ波のように、細かく震えた。そして、次の瞬間、彼は、まるで砂の城のように、音もなく、その場に崩れ落ちた。後に残されたのは、彼の着ていた衣服の抜け殻と、人型の、銀色の塵の山だけだった。その塵は、風に乗り、新たな宿主を求めて、静かに、広場全体へと拡散していった。人々は、何が起きたのか理解できず、ただ、そのあまりにも静かで、あまりにも美しい崩壊を、呆然と見つめていた。


「全区画、隔壁を閉鎖しろ!汚染を食い止めろ!」


レイヴンの怒号が響き渡る。だが、銀の蝗害の拡散速度は、我々の想像を遥かに超えていた。船長室にいた私とレイヴンは、隔壁が閉まる寸前、辛うじて外部の通路へと脱出した。

通路の先で、一人の屈強な獣人兵が、重火器の整備をしていた。彼は、城塞の重火器兵だった。だが、彼の背後から、換気口を通って侵入してきた銀色の塵が、音もなく彼を包み込む。


「ん。」


彼は、自分の身体が内側から蝕まれていくのを感じ、苦悶の声を上げた。


「いびぃぃぃぃっ!」


そして、その手に持っていた巨大な武器を、床に落とした。それは、魔力で駆動する、六つの銃身を持つ回転式機関銃。

レイヴンは、他の生存者を誘導するために走り去った。私は、その場に立ち尽くす。私の騎士としての剣技は、精密な一点を突くためのもの。このような、無数に拡散する敵には、あまりにも非効率だ。

私は、決断した。

私は、獣人兵の亡骸に一瞥をくれると、その巨大な機関銃を、よろめきながらも、その肩に担ぎ上げた。


「…運動エネルギーの浪費。弾薬消費率に対する命中精度。実に非合理的な兵器だ。だが…」


私は、通路の向こうから迫りくる、銀色のスライムの群れを睨みつけた。


「…『面』を制圧するには、これが最適解か!」


アイテールガルドの動力部、鍛冶場とエンジンが密集する「心臓区画」。そこでは、ドワーフの鍛冶師たちが、来るべき戦いのために、昼夜を問わず槌を振るっていた。そこに、銀の蝗害が到達した。

一人の、熟練の鍛冶師が、赤く熱した鋼を叩いていた、その時。彼の腕に、銀の粒子が触れた。蝗害は、彼の肉体だけでなく、彼が触れていた高温の鋼鉄、そして、その手にしたハンマーさえも、等しく侵食し始めた。


「ぐおおおおおっ!」


彼の身体と、武具と、そして、彼が作業していた金床が、まるで熱い蝋のように溶け合い、融合していく。


「…いあ……あついおお……あすけて……だえか……」


鍛冶場の灼熱の炉が、その変質をさらに加速させる。後に残されたのは、人間の苦悶の表情を浮かべたまま、鋼鉄の金床と一つになった、おぞましい、肉と鉄のオブジェだった。それは、まだ生きており、声にならない叫びを上げ続けていた。


私と、数人の生き残った空賊たちは、狭い通路で、最初の犠牲者たちが変質した、あの銀色のスライムの濁流と対峙していた。


「だめだ、斬っても再生しやがる!」


一人の空賊が、剣でスライムを切り裂くが、それは、まるで水面を斬るように、すぐに元通りになってしまう。


「下がれ!私の計算通りなら、この通路の幅では、あと30秒で我々は飲み込まれる!」


私は、肩に担いだ機関銃の安全装置を外した。そして、その重い銃身を、通路の向こうの濁流へと向ける。


「レイヴン!耳を塞げ!」


私は、引き金を引いた。

耳をつんざく轟音。閃光が、暗い通路を何度も照らし出す。薬莢が、床にけたたましい音を立てて弾ける。私のこれまでの戦闘美学とは、あまりにもかけ離れた、ただの暴力の奔流。だが、その圧倒的な運動エネルギーは、スライム状の敵に対して、絶大な効果を発揮した。銃弾の嵐は、銀色の濁流を物理的に吹き飛ばし、その勢いを霧散させる。それは、敵を殺すためではなく、ただ、我々が生き延びるための時間を稼ぐ、絶望的な面制圧だった。


「心臓区画」の最深部、アイテールガルドの全てを支える巨大な蒸気機関の部屋。そこに逃げ込んだ機関士たちは、自分たちが安全だと信じていた。だが、蝗害は、有機物だけでなく、稼働中の機械が発する魔力振動にも惹きつけられる性質を持っていた。

蝗害は、機関士たちを飲み込み、そして、巨大な蒸気機関そのものと、融合を始めた。

蒸気機関のパイプが、脈打つ血管のように蠢き、歯車は、肉をすり潰す顎のように変貌する。やがて、機関そのものが、一つの巨大な、生きた心臓と化した。それは、もはや機械の駆動音ではない、不気味な鼓動を、城塞全体に響かせ始めた。そして、その鼓動は、まだ汚染されていない区画の機械たちを共振させ、蝗害を呼び寄せる、死の道標となっていた。


船長室の隣にある、測量室。そこでは、一人の老いた測量士が、最後まで自分の仕事に没頭していた。彼は、アイテールガルドの航路を、羊皮紙の上に、美しい線で描き続けていた。

蝗害は、静かに、彼の背後から忍び寄った。

彼が、自らの死に気づいた時、それはもう、手遅れだった。

だが、蝗害は、彼をただ殺しはしなかった。蝗害は、彼の脳に残る、膨大な空間認識能力と、航海術の知識を吸収した。そして、彼の肉体と、彼が描いていた羊皮紙、そして、部屋の壁そのものを材料に、新たな「作品」を創造し始めたのだ。


「やだ!いやだ!痛い!痛いッ!痛い痛い痛い痛い!肉が、体が……いおがってうう……ぬぴぁち…ごぇ…」


後に残されたのは、部屋の壁一面に広がる、生きた航海図だった。それは、アイテールガルドの、全ての通路、全ての部屋を、完璧に再現していた。そして、銀色の血管のような線が、蝗害が今どこを侵食しているのかを、リアルタイムで示していた。それは、地獄の案内図だった。


一人の、腕利きの傭兵がいた。彼の自慢は、最新鋭の魔導義手。どんな敵も粉砕する、彼の力の象徴だった。

蝗害に襲われた時、彼は、その義手で、銀色のスライムを殴りつけた。

だが、蝗害は、彼の生身の肉体ではなく、その義手に興味を示した。蝗害は、義手の魔力回路に侵入し、その制御を乗っ取ろうとしたのだ。


「う…うおお…!動け!俺の言うことを聞け!」


義手は、彼の意志を完全に無視し、暴走を始めた。義手は彼を接続したまま、壁を殴り、床を砕き、天井を這いつくばり、そしてついに、その鋼鉄の指が、彼自身の、生身の身体へと向けられた。彼は、自らの手によって、自らの身体を、無慈悲に引き裂かれていった。


「ここを抜けなければ、上層階には行けない!」


私たちがたどり着いたのは、あの、生ける心臓と化した、蒸気機関室だった。融合した機関は、不規則な魔力パルスを放ち、我々の行く手を阻む。


「あれを見ろ!」


レイヴンが指さす。機関の中心部、かつて機関士たちがいたであろう場所が、硬い銀色の装甲で覆われている。だが、その装甲の隙間から、まだ完全に変質しきっていない、有機的な、柔らかい部分が、脈打っているのが見えた。


「エラーラ!」


「わかっている!」


私は、機関銃の弾倉を、徹甲弾が装填されたものへと交換した。


「援護を!」


レイヴンたちが、周囲から現れる小型の変質体を引きつけている間に、私は、機関銃を構え、狙いを定めた。

まず、徹甲弾の連射で、硬い装甲部分に亀裂を入れる。甲高い金属音が響き渡り、装甲が砕け散る。

そして、剥き出しになった、柔らかい心臓部。そこへ、通常の弾丸を、精密な射撃で、叩き込む。


「そこだ!」


「次は右斜め上!」


私の、外科医としての知識と、騎士としての戦闘技術が、この非合理的な兵器の性能を、極限まで引き出していた。

心臓部を完全に破壊された機関は、断末魔のような蒸気音を上げ、その活動を、完全に停止した。


通信室もまた、蝗害の餌食となった。

蝗害は、通信士を侵食し、彼の声帯と、通信設備の魔力回路を融合させた。そして、その口を通して、これまで殺してきた、全ての犠牲者たちの断末魔の悲鳴を、増幅させ、BGMとして城塞全体へと放送し始めたのだ。

『助けて!』『いやあああ!』『死にたくない!』

その絶叫のコーラスは、生き残った者たちの最後の希望と理性を、内側から、確実に破壊していった。


「飛行甲板へ向かう!そこから、小型艇を奪うぞ!」


レイヴンの決断で、我々は、城塞の上層部にある飛行甲板を目指していた。だが、そこは、吹きさらしの、最も危険な場所だった。

空には、蝗害に侵された鳥や、飛行型の魔獣が、銀色の翼を広げて舞っている。


「くそっ、囲まれた!」


甲板を渡る途中、一人の若い空賊が、足を滑らせて転倒した。彼の足は、折れていた。空から、無数の変質体が、彼めがけて急降下してくる。


「先に行け!」


彼は、レイヴンに向かって叫んだ。


「俺のことはいい!船長は、生き残らねえと!」


合理的な判断だ。この状況で、負傷者を助けるのは、全滅のリスクを高めるだけの、非合理的な行為。

だが。

私の身体は、私の論理を、裏切った。


「―――私の、貴重な観測対象を、勝手に機能停止(ころす)なッ!!」


私は、絶叫していた。そして、転倒した空賊の前に立ちはだかり、空を舞う敵の群れに向かって、機関銃の引き金を引いていた。

弾丸の嵐が、空中に、死の弾幕を張る。銀色の翼が千切れ、変質体たちが、次々と甲板に叩きつけられていく。

それは、あまりにも非効率で、あまりにも感情的な、ただの、援護射撃だった。

その隙に、レイヴンたちは、負傷した空賊を引きずり、甲板の向こう側にある、小型艇の格納庫へとたどり着いた。


格納庫へ続く、最後の通路は、二つの船体を繋ぐ、一本の細い吊り橋だった。

生き残った者たちが、その橋を渡り始めた、その時。

蝗害は、橋を支える、船体側のアンカーを、内側から侵食し、破壊した。

橋は、片方の支えを失い、巨大なブランコのように、奈落へと垂れ下がった。

橋の上にいた数名の空賊が、悲鳴を上げる暇もなく、雲海の下へと吸い込まれていく。

だが、蝗害の悪意は、それだけでは終わらなかった。橋のロープそのものが、銀色の触手へと変貌し、まだ船体に残っていた者たちの足に絡みつき、彼らを、次々と、奈落へと引きずり込んでいった。


格納庫にたどり着いたのは、私とレイヴンを含む、わずか数名だった。我々は、分厚い鉄の扉を閉め、バリケードを築いた。


「…助かった…のか…?」


誰かが、安堵の息を漏らした。

だが、その時、仲間の一人が、激しく咳き込み始めた。


「…まさか…」


咳き込んだ男の身体が、痙攣し、その七竅から、銀色の光が溢れ出す。

最も安全なはずの聖域が、最も絶望的な処刑場へと変わった。


「この船で、脱出する!」


格納庫にあったのは、一隻の、小型で高速な飛行艇だった。だが、そこへたどり着くには、内側から変質を始めた、かつての仲間たちを、突破しなければならない。


「エラーラ!援護しろ!」


レイヴンが、飛行艇のエンジンを始動させる。その間、私は、格納庫の入り口に陣取り、迫りくる「元仲間」たちに、機関銃の最後の弾丸を、叩き込んだ。


「すまない…君たちの変質プロセスは、実に興味深いデータを提供してくれた…!」


私は、科学者として、彼らに、最大限の賛辞と、そして、弔いの弾丸を送り続けた。

エンジンが始動し、飛行艇が浮上を始める。

私は、弾切れになった機関銃を捨て、跳躍し、開いたままのハッチに飛び込んだ。

レイヴンが、操縦桿を握る。


「行くぞ、ドクター!」


飛行艇は、格納庫の壁を突き破り、混沌の空へと躍り出た。眼下には、銀色の癌細胞に蝕まれ、ゆっくりと崩壊していく巨大な浮遊城塞アイテールガルドの、断末魔の姿があった。


私の、混沌の実験場は、こうして幕を閉じた。私の手の中には、この地獄から持ち出した一つのサンプル――銀の蝗害の、微量なサンプルが、残されていた。


「…ドクター、あれを」


操縦桿を握るキャプテン・レイヴンの、低い声。

私は、彼の指さす方向――アイテールガルドを見つめた。


上層区画の居住区と商業区を繋ぐ、最も長大で美しい吊り橋「虹の回廊」。爆発の連鎖によって、その両端の船体が、引き裂かれるように離れていく。橋の上にいた数百人の空賊たちは、どちらの岸にもたどり着けず、宙吊りの回廊の上で絶叫していた。次の瞬間、橋を支えていたワイヤーが断線。虹の回廊は、その上にいた全ての命と共に、ゆっくりと、しかし、抗いようもなく、雲海の下の奈落へと落ちていった。この城塞全体の浮力を支えていた、その心臓部も、ついに、連鎖爆発の衝撃で機能を停止した。巨大な塔は、全ての浮力を失い、ただの、数百万トンの鉄と石の塊と化して、落下を始めた。それに鎖で繋がれていた周囲の船体もまた、道連れにされる。一つの船の窓から、必死でこちらに手を振る、子供の姿が見えた。だが、その船も、次の瞬間には、巨大な重力に引きずり込まれ、他の船体と衝突し、圧壊し、ただの鉄屑となって、視界から消えた。


そして、全てが終わった。

バランスを失った残骸たちが、互いに引き寄せられ、中心で衝突する。残っていた全ての動力炉、全ての弾薬庫が、同時に、誘爆した。

音は、なかった。

ただ、巨大な、白い閃光が、世界を包み込んだ。

アイテールガルドは、一瞬だけ、太陽よりも明るい、偽りの星となった。そして、その光が収まった時、そこには、もう、何もなかった。ただ、燃え尽きた流星群のような残骸が、静かに、地上へと降り注いでいるだけだった。


安堵の時間は、一瞬もなかった。

飛行艇の中には、私、キャプテン・レイヴン、そして、彼の信頼する5名の部下だけが残されていた。


「…船ぃ長、針路んを…どね、しぅます…か…?」


操縦桿を握っていたのは、寡黙なドワーフの操舵手だった。だが、彼の声は奇妙に途切れ、その指が、操縦桿に、じわりと、銀色に融解していく。


「おい、しっかりしろ!」


レイヴンが叫んだ。だが、もう遅い。操縦桿から伸びた銀色の触手が、ドワーフの腕を、そして全身を侵食し、彼を、操縦コンソールそのものと融合させてしまったのだ。コンソールに、苦悶に歪むドワーフの顔が浮かび上がる。彼の両目だった部分から人間の小さいの腕が何本も生え始め、脇からは巨大なネズミの顔が服を破ってせせり上がってきた。船が、意志を持った。蝗害が、この船を乗っ取ったのだ。


「くそっ!」


次の瞬間、天井にある火災鎮圧用のノズルから、泡ではなく、強酸性の液体が噴射された。


「伏せろ!」


私は、レイヴンを突き飛ばし、床を転がった。酸の飛沫が、私の白衣の袖を掠め、ジュウ、と音を立てて溶かす。皮膚に、焼けるような痛みが走った。軽い火傷か。許容範囲内だ。私は、痛みよりも、私の完璧な白衣が汚されたことへの不快感の方が大きかった。


「全員、貨物室へ退避する!そこで、奴を船から追い出す方法を考えるぞ!」


レイヴンの指示で、我々は後方の貨物室へと続く通路を走った。


「俺が先に行く!」


部下の中でも、最も俊足な猫の獣人、リンクスが、偵察のために先行した。暗い通路の角を曲がり、彼の姿が見えなくなる。

数秒後、彼の声がした。


「船ん長!ぉこっちは安ん全です!」


私は、その声に、ノイズが混じっているのを聞き逃さなかった。


「待て、罠だ!」


私の制止も聞かず、別の部下が角を曲がった。その瞬間、彼の悲鳴が響き渡った。天井から、リンクスの腕を模倣した銀色の鉤爪が伸び、彼の頭蓋を、熟した果実のように貫いていた。リンクスは、蝗害に吸収され、獲物を誘き寄せるための、生きた罠へと作り変えられていたのだ。


「リンクス…てめええええっ!」


レイヴンが、怒りの咆哮と共に、通路へと突進した。彼の腕には、壁に備え付けられていた巨大なレンチが握られている。天井から襲いかかる、かつての部下の成れの果てを、彼は、鬼神のごとき力で叩き潰していく。

だが、その乱戦の最中、壁から伸びた、細い銀色の棘が、彼の腕を、僅かに掠めた。


「ちっ…!」


彼は、その些細な傷を気にも留めなかった。だが、私は見た。その傷口から、微細な銀の粒子が、彼の血管へと侵入していくのを。

戦闘の後、彼は、自分の手の甲を見つめて、目を見開いた。その皮膚から、小さな、しかし、完璧な形の、兎の耳が、一本、生えていたのだ。彼はそれを引き抜こうとしたが、それは、彼の肉体と、完全に一体化していた。


「エンジンごと破壊する!この船ごと、奴を墜とすぞ!」


レイヴンの決断は、非情だった。

機関室の扉を開けた我々を待っていたのは、蝗害の本体だった。それは、もはや定まった形を持たない。銀色の液体、機械の部品、そして、吸収した乗組員たちの、まだ原型を留める手足や顔が、混沌と混じり合った、巨大なアメーバ状の怪物だった。


「ひぃっ!」


部下の一人が、恐怖に腰を抜かす。怪物が、その巨大な質量で、我々を飲み込もうと迫ってくる。


「レイヴン!左舷の蒸気パイプを狙え!奴の動きを止める!レイヴンッ!」


私は、機関室の隅に転がっていた機関銃を、再び手に取った。そして、絶えず形を変える怪物の、その重心…質量の最も集中する一点を見極め、引き金を引いた。

私は、怪物を殺そうとしているのではない。ただ、その前進ベクトルを、銃弾の運動エネルギーで、逸らしているだけだ。レイヴンが、私の意図を理解し、レンチで蒸気パイプのバルブを破壊する。灼熱の蒸気が、怪物めがけて噴射され、その動きが一瞬だけ、止まった。


「今だ!行くぞ!」


我々が、機関室を駆け抜けようとした、その時。残っていた部下のうち、双子の兄弟が、足元の床に絡め取られた。蝗害が、床の金属格子を、粘着性の高い触手へと変質させていたのだ。


「兄貴!」


「助けてくれ、船長!」


彼らの足が、床の闇へと引きずり込まれていく。その下は、剥き出しになった、船の巨大な歯車が回転する、動力部だった。

我々には、もう、助ける術はなかった。


「船長!船長!……せんちょおおおおおっ!」


「あ、あああ、いやだいやだいやだいやだ……ぴじぃゅッ!?……ちぎぃぃぃっ!ぎじゃあああああっ!」


二人の、絶望的な悲鳴が、歯車が肉をすり潰す、ゴリゴリという、おぞましい音に変わるのを、我々は、ただ聞いていることしかできなかった。


「…はは…」


レイヴンの、乾いた笑い声がした。見ると、彼の肩から、馬の前足のようなものが、血肉を撒き散らしながら生えてきている。彼の身体の侵食は、確実に進行していた。


「おいドクター…科学者先生よぉ…。自分の身体が、自分の意志と関係なく、別の何かに作り変えられていくこの現象に、何か、なんかかっけえ学術名称は、ねえのかよ…?」


それは、あまりにも悲壮な、最後の冗談だった。


残る部下は、最後の通信士一人となった。彼は、最後まで諦めず、携帯用の通信機で、外部との連絡を試みていた。


「…駄目だ…!ジャミングが、強すぎる…!」


その時、彼が操作していた通信機そのものが、銀色に変質を始めた。ワイヤーが、蛇のように彼の首に巻き付き、ヘッドセットは、彼の頭蓋を締め上げる、拷問具へと変わった。彼は、声も出せず、ただ、白目を剥いて絶命した。彼の、助けを求める最後の表情が、沈黙した通信機のスクリーンに、一瞬だけ映し出されていた。


「…レイヴン。君の身体の変質速度を計算した。あと10分で、君の自我は、完全に、蝗害に乗っ取られるだろう」


私は、機関銃を、彼に向けた。


「その前に、君という貴重なサンプルを、私が、機能停止させてやる。感謝したまえ」


「…言ってくれるじゃねえか、ドクター…」


レイヴンは、よろめきながら、立ち上がった。彼の身体の半分は、もはや、植物の蔓や、獣の鱗、そして、機械の部品が混じり合った、異形のキメラと化していた。


「だがな…俺の船の、最後の舵は、てめえなんぞには、握らせねえよ…!」


怪物の本体が、私とレイヴンに、最後の攻撃を仕掛けてきた。

だが、レイヴンは、そのキメラと化した身体で、怪物の前に立ちはだかった。


「エラーラ!こいつの核は、動力炉と融合している!船の魔力制御装置だ!そこを破壊しろ!」


彼は、自らの身体を盾にしながら、私に、活路を示した。

私は、機関銃を構え、怪物と融合しかけている、船の心臓部…巨大な水晶でできた、魔力制御装置を、狙った。

私が、制御装置を破壊しようと引き金を引いた、その瞬間。レイヴンは、最後の力を振り絞り、怪物の腕を掴むと、その進路を、僅かに、逸らさせた。


「俺の船は…てめえのおもちゃじゃ、ねえんだ、よッ…!」


それが、私が聞いた、キャプテン・レイヴンの、最後の言葉だった。

彼の最後の抵抗によって、私の銃弾は、制御装置を破壊した。

船は、高度を急激に下げていく。

私は、急速に落下していく飛行艇の中で、操縦桿を握りしめた。

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