第11話:新技術を守れ!(ポリティカルサスペンス)
ピシリ、と嫌な音を立てて、私の生命線である遠隔相談用魔道具のスクリーンに亀裂が入った。この通信機は、ただの通信機ではない。私が唯一苦手とする「感情」「心」「過程」といった、論理で割り切れない非合理的な問題に直面した際、シルヴァングレイドにいるケンジとアリアの思考パターン――すなわち、「慈愛」と「正義」という名の、極めて厄介な感情的思考――をデータとして受信し、私の論理的思考を補完するための、いわば外付けの感情シミュレーターなのだ。これがなければ、私は人間という名の複雑怪奇なバグの塊を、正しくデバッグすることができない。
「修理には…『調律結晶』が必要か。これを製造できるのは、大陸広しといえど、ただ一箇所…」
私は地図を広げ、指で一つの地点を叩いた。 「歯車町」。
旅の道中は、私の仮説を補強する実に興味深いデータに満ちていた。立ち寄ったある宿場町では、岩塩の流通が滞り、住民が軽度のミネラル不足に陥っていた。私は、近くの温泉から高濃度の塩化物泉を汲み上げ、即席の製塩プラントを構築してやった。住民たちは私を「塩の聖女」などと呼び始めたが、もちろん私は彼らの感謝ではなく、塩分濃度と人間の味覚の相関関係に関するデータだけを収集して、さっさとその町を後にした。
またある時は、巨大な地中棲の魔獣「ギガ・モール」の群れが街道を寸断している現場に遭遇した。私は音波測定器で彼らの嫌う超低周波を特定し、巨大な鉄板を震わせることで、群れを別の方向へと誘導することに成功した。
だが、その戦闘の衝撃で、ついに私の通信機は完全に沈黙した。スクリーンは砂嵐を映し出すだけとなり、ケンジの「大丈夫かい?」という非合理的な心配の声と、アリアの「状況を報告しろ!」という合理的な怒声が混じり合ったノイズを最後に、完全に機能を停止したのだ。
「万事休すか…!」
私は、もはや一刻の猶予もないことを悟った。最も近い場所で『調律結晶』を手に入れるには、ハグルマ・シティへ向かうしかない。
数週間後、円環線に揺られ、私がハグルマ・シティの中央駅に降り立った時、その第一印象は、私の期待を裏切らないものだった。 空を見上げれば、磨き上げられた白銀の時計塔群が、寸分の狂いもなく正確な時を刻んでいる。その間を、最新鋭の流線型オートマタが、計算され尽くした軌道で音もなく飛び交う。素晴らしい!これこそ、論理と数式が支配する、美しい世界だ! 私は満足げに頷き、駅前の大通りを歩き始めた。だが、一歩、路地裏へと足を踏み入れた瞬間、私の完璧な世界は、音を立てて崩れ去った。
「な…なんだ、これは…!?」
そこは、私の理解を完全に超越した、混沌の坩堝だった。 壁からは、むき出しの配管やケーブルが、まるで内臓のように絡み合いながら伸びている。その配管を伝って、屋台から漏れ出す、香辛料と油の焼ける、実に非合理的な匂い。地面は古びた石畳で、所々が剥がれ、その隙間からたくましく雑草が芽吹いている。そして、最新鋭の警備オートマタが巡回するそのすぐ横で、老婆が小さな祠に手を合わせ、カタカタと音を立てて旧式のゼンマイ仕掛けの玩具が子供たちの足元を走り回っている。 未来と過去が、ハイテクとローテクが、秩序と無秩序が、猥雑で、エネルギッシュな不協和音を奏でながら、一つの空間に同居している。
「非効率的だ!エネルギー効率も、景観の統一性も、全てが最悪だ!」
私は科学者として、その光景を断罪した。だが、同時に、私の心の奥底で別の声が囁いていた。 ―――なんと、美しい。 その、猥雑で、生々しいまでのエネルギーに、私は、科学者としての純粋な好奇心を刺激されずにはいられなかったのだ。
私は、まるで何かに取り憑かれたかのように、その混沌の迷宮を彷徨い始めた。ネオンのように明滅する魔力看板が、古い木造の建物を妖しく照らし出す。その下では、屋台の親父が、古めかしい七輪で香ばしい匂いを立てる串焼きを焼いている。その隣の店では、若者がホログラムのディスプレイを指先で操り、最新のオートマタの部品を取引している。蒸気機関の蒸気が立ち上る洗濯屋の隣には、クリーンエネルギーで稼働する最新のカフェがある。蒸気の匂いと、焙煎されたコーヒー豆の香りが混じり合い、私の鼻腔をくすぐる。 非合理だ。だが、不思議と不快ではない。むしろ、この予測不能な情報の洪水が、私の停滞していた思考を、心地よく刺激している。 私は、この街が持つ、奇妙な魅力の虜になりかけていた。
私は、思考の混乱を振り払うように、街の最高権力機関である「長老会」の議事堂へと向かった。そこで、通信機の修理を依頼するも、白髪の老人たちは私の最新鋭の魔道具を一瞥すると、鼻で笑った。
「外部の得体の知れない機械に、我らが神聖なる技術は使えん。伝統を軽んじる若輩者は去れ」
なんと非合理的な! 修理ができないのなら、仕方ない。故障の原因を取り除けばいいのだ。私は独自に調査を開始し、すぐに通信機の故障原因を突き止めた。この街全体が、旧式の歯車から発生する膨大な魔力ノイズによって汚染されているのだ。
そのノイズが、精密機械である私の通信機を破壊したのだ! 原因を特定したからには、次はサンプルの採取と、より詳細なデータ収集が必要だ。
私の分析によれば、魔力ノイズの発生源は、街全体に存在する旧式のオートマタ。旧式機体が特に集中しているのは、行政の管理が行き届いていない下町地区に違いない。
私は、中央駅前の整然とした大通りから、下町へと続く、古びた単軌鉄道に乗り込んだ。車窓から見える景色は、次第に白銀の時計塔から、煤けたレンガ造りの建物へと変わっていく。
モノレールを降りると、そこは、私が今まで見てきたどの場所とも違う、異次元の光景が広がっていた。 空は、高層ビルと、無秩序に張り巡らされたケーブルによって、細切れの空色にしか見えない。建物の壁は、何世代にもわたる違法建築の積み重ねで、まるで生物のように有機的な凹凸を描いている。地面からは、正体不明の蒸気が噴き出し、屋台から漂う香ばしい匂いと、古い機械油の匂いが混じり合い、独特の空気を生み出している。耳をつんざくのは、露天商のダミ声、修理工場の金属音、そして、どこからか流れてくる、哀愁を帯びた異国の弦楽器の音色。
まさに、情報の洪水。データの奔流。私の脳内では、処理能力を超えた情報量に警報が鳴り響いていた。だが、私の口元は、自然と綻んでいた。
魔力ノイズの発生源を追ってたどり着いたのは、一軒の、今にも崩れ落ちそうなガレージだった。中から騒がしい声が聞こえてくる。だが、その声は怒声ではなく、若者たちの笑い声と熱気に満ちていた。 私が中を覗き込むと、壁には意味不明なスプレーアート、奥ではバンドが騒々しい音楽を奏でている。
その混沌の中心で、太陽のような笑顔を浮かべた、私より少し背の高い、そして実に非合理的なほど豊満な胸を持つ少女が、私の姿を認め、駆け寄ってきた。
「あらあら、どうしたの?迷子?あなた、こんなところに一人で来たら危ないじゃない!ほら、お姉さんが見ててあげるからね!」
彼女は、私の頭を、まるで子供にするかのように、わしわしと撫で始めた。その柔らかく、巨大な胸が、私の視界を完全に塞ぐ。なんと!初対面の相手に対し、この過剰なまでの母性!これもこの街のバグの一種なのか!?
「私は迷子ではない。それに、君より年上だ」
「えー、ほんと?ちっちゃくて可愛いから、妹かと思っちゃった。ねえ、お名前は?」
「…エラーラだ」
「エラーラちゃんね!私はクララ!よろしくね!」
この母性の塊め…!だが、悪くない…!私の思考回路が、混乱していく!
クララが指さす先では、一人の青年が、別の青年と口論をしていた。小学生かと思うほど背が低いが、その目つきは妙に鋭い。
「だから!この設計の曲線美は、黄金比に基づいた、完璧な芸術なんだ!エネルギー効率などという、無粋なモノサシで、僕の芸術がわからないのか!」
「こら、レオ!お客さんの前でみっともないでしょ!」
クララは、その小さなレオの耳を、ひょいとつまみ上げた。
「い、痛い!やめろクララ!俺は兄貴だぞ!」
「お兄ちゃんなら、もっとしっかりしなさい!」
なんと!この巨乳の少女が妹で、この少年のような男が兄だと!?この街の遺伝子情報は、どうなっているのだ! これが、私の革命のパートナー候補だと?私は、目眩がした。
クララは、私を「保護すべき対象」と認識したようで、親切にも、彼らの事情を話してくれた。レオの祖父は、この街の礎を築いた偉大な発明家だった。だが、今の長老会は、偉大すぎる父へのコンプレックスからか、父の技術を守ることだけに固執し、新たな変化を「悪」と断じるようになってしまったのだという。
「レオは、おじいさんに負けないくらい、すごいの!でも、私たちみたいな下町の人間は、中央の立派な学校には通わせてもらえなくて…だから、ここでこうして、みんなで助け合って生きてるんだ」
その時、私とレオの間で、最初の火花が散った。
「君か。その非合理的な『芸術』とやらで、この街に魔力ノイズを垂れ流しているのは」
「…はあ?誰だよあんた。いきなり」
「私はエラーラ。君のその、ガラクタ同然の工房と、非論理的な思考回路をデバッグしに来てやった、親切な科学者だ」
「上等じゃねえか、白衣のお偉いさん。俺のガラクタの何が分かるってんだ」
レオは、吐き捨てるように言うと、一つの歯車を私に放り投げた。
「そんなに言うなら、そいつを解析してみやがれ。おたくの、その自慢の頭脳でな。さあ、何が見える」
私は、その挑戦を、鼻で笑って受け入れた。そして、歯車を自作の解析機にかける。 次の瞬間、私は、自分の目を疑った。 表示される数値、数式、そして、その完璧すぎるまでのエネルギー伝達効率。
「なんだ…これは…」
私の声が、震える。
「魔力伝達ロス、0.003%未満…だと…?ありえん!この世界の物理法則を、完全に無視している!これは、もはや歯車ではない!芸術だ!論理と数式だけで構成された、完璧な、神の芸術作品だ!」
私は、レオに向き直った。その目には、もはや侮蔑の色はない。あるのは、同類の天才に対する、最大限の、そして、狂信的なまでの尊敬の念だった。
「レオ君!君は、何という、素晴らしいモルモットなのだ!」
「はあ!?誰がモルモットだ!」
「まあまあ、エラーラさんも落ち着いて。ほら、お茶でも飲んで」
クララが、私の両肩を優しく揉みほぐしながら、温かいお茶を差し出してくる。
翌日、私はレオを伴い、再び長老会の前に立った。そして、自信満々に進言した。
「この歯車を導入すれば、街の魔力効率は飛躍的に向上し、私の通信機も直る!さあ!この素晴らしき歯車を、受け入れるのだ!」
だが、長老議長は、その歯車を手に取ると、心底侮辱した目で見下した。
「若輩者の浅知恵で、我らが偉大なる創設者様の設計思想に手を加えるなど、片腹痛いわ!」
そして彼は、その歯車を、まるで汚物でも払うかのように、床に投げ捨てたのだ。
その瞬間、私の頭の中で、何かが、ブチリと音を立てて切れた。 侮辱されたのだ。私自身の科学者としてのプライドそのものが。
「面白い…!面白いじゃないか、時代遅れの歯車ども…!」
私の口元に、かつてないほど冷たい笑みが浮かぶ。 議事堂を出た私は、混沌の街を、当てもなく歩いた。ネオンの光、屋台の煙、人々の喧騒。古いものと新しいものが、不格好に、しかし、必死に共存しようとしているこの街。 この街の不協和音は、まるで、今の私のようだ。伝統と革新、老人と若者。その板挟みになっているこの状況は、実に不愉快だ。 だが。
―――面白いじゃないか。
私は、気づいてしまった。この、解析不能なカオスに、私の魂が、心の底から歓喜していることに。
「ふふふ…」
笑いが、こみ上げてきた。
「通信機の修理など、もうどうでもいい。私の、新たな実験が、今、始まったのだ!」
私は、空にそびえる白銀の時計塔を睨みつけた。
「この街の、最も根源的なバグ。伝統と革新の対立。それを、この私の手で、完璧にデバッグしてやろうじゃないか!」
私の、新たな挑戦の火蓋が、今、切って落とされた。
私の壮大なる「ハグルマ・シティ・デバッグ計画」は、開始早々、実に厄介なバグに直面した。革命の鍵である『調律歯車』の発明者、レオをはじめとする若者たちが、揃いも揃って
「どうせ言っても無駄」
「変わるはずがない」
と、完全に諦めきっていたのだ。
「なぜだ!生存戦略において、明らかに不利益な『無気力』という状態異常を、なぜ彼らは甘んじて受け入れるのだ!実に非合理的だ!」
私はレオの工房で頭を抱えた。私の完璧な論理による説得も、彼らの「どうせ」という一言の前では、暖簾に腕押しだった。 この、私の論理では到底解析不能な心理状態を前に、私は、不本意ながら、最終手段を行使することを決意した。鞄の奥で鎮座していた『因果性通信機』の応急修理である。筐体を力任せに叩き直し、断線したケーブルを唾液に含まれる電解質で無理やり繋ぎ合わせる。実に非科学的な修理法だが、背に腹は代えられん。
ザザッ、というノイズと共に、ケンジとアリアのホログラムが、おぼろげに浮かび上がった。
「もしもし、聞こえるかねモルモット君2号、3号。実に興味深い症例だ。検体たちが、生存戦略において明らかに不利益な『無気力』という状態異常に陥っている。原因が特定できん。対処法を提示したまえ」
『うーん…エラーラさん、大変そうだね。それは、心の、一種の防衛本能なんじゃないかな。期待するだけ傷つくからって…だから、まずは、彼らの気持ちに寄り添ってあげることが…』
『違うな。それは、戦うための誇りを知らないだけだ。言葉で何を言っても無駄だ。彼らには、自分たちの力で未来を勝ち取れるという、成功体験が必要だ』
「君たちの脳は本当にお花畑だな!だが…『成功体験』…ふむ、アリア君の提案は、実験としては一考の価値はあるな。感謝はせんが、データは利用させてもらう」
私は一方的に通信を切ると、レオの工房に乗り込んだ。
「レオ君!君の工房にある、最も非効率で、最もポンコツなオートマタを貸したまえ!」
こうして、私は街の広場の隅で、ホコリを被っていた旧式の清掃用オートマタ「ゴンスケ1号」を、一晩で改造した。その心臓部には、もちろん、レオの『調律歯車』が組み込まれている。
改造作業の合間、私は空腹を覚えた。クララが「エラーラちゃん、ちゃんとしたご飯を食べなきゃ!」と、私の手を引き、夜の市場へと連れ出した。
「ちゃんとした食事なら、栄養価の計算されたペースト食を摂取済みだ」
「あれは食事じゃなくて、ただの燃料!心が満たされないじゃない!」
心が満たされない。またしても非科学的な!だが、私の胃は、正直にも、路地裏から漂う香ばしい匂いに反応していた。 クララが連れて行ってくれたのは、様々な種族が営む屋台がひしめき合う、猥雑なフードコートだった。そこで、私は人生で最も奇妙な食べ物と出会うことになる。それは、巨大なタコの足を甘辛いタレで煮込み、それをパンで挟み、さらにその上からチーズと、なぜか苺のソースをかけた、常軌を逸したサンドイッチだった。
「なんだこれは!タンパク質、炭水化物、乳製品、そして果実!栄養素の組み合わせが支離滅裂だ!それに、この甘味と塩味と酸味の衝突!味覚中枢を破壊する気かね!?」
私はその食べ物を科学的に断罪しながらも、一口、また一口と、その未知の味の虜になっていた。不協和音のはずの味が、口の中で奇跡的な調和を生み出している。
「私の思考回路に、致命的なバグが、発生している…!」
私は、そのサンドイッチを夢中で頬張りながら、この街の混沌そのものを味わっているような、奇妙な感覚に陥っていた。
翌朝。街の住民たちが目にしたのは、信じたい光景だった。 ゴンスケ1号が、超高速で広場を駆け巡り、その両腕から伸びるモップを猛烈な勢いで回転させ、舞い上がるホコリを寸分違わず吸い込んでいく。 若者たちは、自分たちの技術が秘めた無限の可能性を目の当たりにし、そのくすんでいた瞳に、初めて闘志の火を宿した。
「すげえ…俺たちの歯車で…ゴンスケが、飛んでる…!」
レオは、自分の発明品が、初めて誰かを感動させる光景を目の当たりにし、その瞳から、静かに涙を流していた。 その様子を、時計塔の上から見下ろしていた長老たちは、苦々しい顔で呟いた。
「…忌々しい…」
反逆の狼煙は、確かに上がった。ハグルマ・シティの、錆びついた歯車が、今、ゆっくりと、しかし確実に、逆回転を始めたのだ。
その夜、私はクララを工房に呼び出し、いくつかの疑問をぶつけた。私の論理的思考を妨げる、解析不能なバグの数々。それを、除去する必要があった。
「クララ君。いくつか確認したい。まず、長老議長が、なぜあれほどまでに新技術を、特にレオ君の技術を憎むのかね?彼の反応は、単なる保守主義では説明がつかない。あれは、個人的な『憎悪』だ」
クララは、少しだけ悲しそうな顔で、工房の隅に置かれた古い写真立てに目をやった。
「あいつはね、技術そのものには興味がないの。完成された技術が生み出す『結果』…つまり、お金にしか興味がない。あいつは、略奪者なのよ」
「略奪者?」
「試行錯誤とか、研究とか、失敗とか…そういう、結果が出るまでの面倒な『過程』が大嫌いなの。レオが工房で何か新しいものを作ろうとすると、あいつはいつもこう言ったわ。『金になるものだけを持ってこい!』って。あいつは自分では何も生み出せないから、何かを生み出すレオが、憎らしかったのよ…」
略奪者…過程を憎み、結果のみを求める存在…。
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、シルヴァングレイドでの、あの二人のモルモットの言葉がフラッシュバックした。
ケンジの『心』…。それは、病が治るという結果だけでなく、寄り添い、励ますという治療の『過程』そのものを指していた。
アリアの『誇り』…。それは、戦いに勝つという結果だけでなく、血の滲むような鍛錬という『過程』にこそ宿っていた。
そうだ、あの二人が私に示そうとしていた非合理的な概念。この議長という男は、その全てを、真っ向から否定する存在だというのか…!
「次に、レオ君だ。彼の『調律歯車』は論理と数式の結晶だ。だが、彼はそれを『芸術』と呼び、効率以外の『ロマン』に固執する。なぜかね?」
「それは…レオが、おじい様から言われた最後の言葉だから。『技術は、人を幸せにするための道具だ。レオ、お前は、人の心を動かす、最高の芸術品を作れ』って…。レオは、ただ、おじい様との約束を守りたいだけなの」
「約束…。なるほど、感情的な刷り込みか」
私は最後の質問を投げかけた。
「そして、君だ、クララ君。君はなぜ、そこまでしてレオ君を守ろうとする?君の行動は、兄妹愛というデータでは説明できないほどの、自己犠牲的な献身性を示している。非効率極まりない」
クララは、私の目を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、私が知らない、深い、深い覚悟の色が浮かんでいたが、彼女は何も言わなかった。
しかし、彼女はふと、静かに、しかし、はっきりと告げた。
「ところで……その、長老議長はね、レオと私の、実の父親なんだ」
「……は?」
私の、完璧なはずの思考回路が、完全に、フリーズした。
「父親…だと?ならばなぜ君たちは、互いに協力しないのだ?家族というユニットは、最も効率的な協力体制のはずだ!」
私の、あまりにも論理的な問い。 その瞬間、クララの、太陽のようだった笑顔が、消えた。 そして、その瞳に、一瞬だけ、ゾッとするほど冷たい怒りの光が宿ったのを、私は見逃さなかった。
クララが放った「父親」という名の爆弾は、私の完璧な論理回路に、修復不可能なレベルのエラーを発生させた。親子でありながら、憎み合い、足を引っ張り合う。なんと非合理的で、なんと醜く、そして、なんと…人間的なのだろう。
「エラーラちゃん、顔色が悪いよ?ほら、夜は冷えるから、ちゃんと温かいミルクでも飲んで…」
クララは、何事もなかったかのように、再びあの過剰な母性を発揮し、私の世話を焼き始めた。この女、私の思考を意図的にショートさせようとしているのか…!?
私は、この解析不能な家族問題を一時的に棚上げし、より論理的な、経済という名の戦場に集中することにした。
「レオ君!君の『調律歯車』の設計図を、オープンソース化する!」
「はあ!?冗談だろ、あれは俺の芸術品だぞ!」
「独占は停滞を生む!自由な競争こそが、技術を進化させるのだ!」
私の号令の下、若者たちの間に、静かで、しかし熱狂的な革命が始まった。
クララの互助ギルド「フリー・ギアーズ」がハブとなり、レオの設計図は瞬く間に下町の若者たちに共有された。
街中のあらゆるオートマタが、彼らの手によって、次々と新時代のマシンへと生まれ変わっていく。運搬用オートマタはより多くの荷を、より速く運び、農業用オートマタはより少ない魔力で、より広大な畑を耕す。街の生産性は、もはや計測不能なレベルで、爆発的に向上した。
革命の喧騒の合間、私は、この街の「文化」という、実に非合理的なエネルギーの解析に乗り出した。シルヴァングレイドでの失敗を繰り返さないためにも、この街の住民がどのような「物語」を好むのか、データを収集する必要があったのだ。
まず向かったのは、長老会が後援する、伝統的な絡繰り人形の演劇場。演目は、建国神話。その動きは、鈍重で、物語は、退屈極まりない。私は、開始5分で眠りに落ちそうになった。
「なんと非効率な時間の浪費だ!物語の主題を伝えるのに、これほど冗長なプロセスは不要だ!」
次に、私は若者たちが集まる、地下のライブハウスへと潜入した。そこでは、ホログラム技術を使い、光と音が洪水のように溢れる、前衛的なデジタルアートが上映されていた。だが、その映像には、何一つとして、具体的な意味を見出すことはできなかった。
「なんと無意味な情報の羅列だ!ここには、物語という概念すら存在しない!」
私は、その両極端な文化を断罪した。だが、劇場とライブハウスが隣接するその通りで、私は奇妙な現象に気づいた。 絡繰り人形の、物悲しい笛の音。 デジタルアートの、攻撃的な電子音。 その二つの、全く相容れないはずの音が、この混沌とした街の喧騒の中で混じり合い、どこか心地よい、不協和音のハーモニーを奏でていたのだ。 私は、その場に立ち尽くした。 対立する二つのものが互いを引き立て合い、一つの、より高次元な「何か」を生み出す可能性も、あるのではないか?
しかし、そんな希望は、早々と打ち砕かれた。
若者たちの経済的成功が、旧来の職人たちの怒りに火をつけたのだ。彼らは自らの仕事を「神聖な伝統」と信じ、レオたちの新しい技術を「魂のない、安物の紛い物」と罵った。その怒りは、ついに、最も醜い形で爆発した。
その夜、レオの工房が、襲撃された。だが、それは単なる破壊活動ではなかった。犯人たち――旧式歯車職人ギルドの者たち――は、完成したばかりの美しい『調律歯車』を、ハンマーで叩き潰すだけでは飽き足らず、その残骸を動物の汚物と混ぜ合わせ、工房の壁に塗りたくり、「伝統を汚す者には死を」という血文字を残していったのだ。
それは、単なる意見の対立ではない。自分たちと違うものを認めず、その存在を貶めようとする、盲目的な差別の発露だった。翌朝、工房の惨状を目の当たりにした若者たちは、怒りに震えた。
だが、彼らが報復に出る前に、長老会が動いた。 彼らは、この事件を「若者たちの過激な技術革新が招いた、当然の帰結」と断罪。
そして、「街の安全と伝統を守るため」と称し、新たに「伝統歯車品質保証法」を制定したのだ。 その法は、残忍なまでに巧妙だった。表向きは「全ての歯車の品質を保証し、市民の安全を守る」という、誰も反対できないような美しい理念を掲げている。だが、その条文の細部には、悪意に満ちた毒が仕込まれていた。
「歯車の材質は、創設者様の時代から伝わる、我がギルドが認定した伝統的な合金でなければならない」
「歯車の製造には、最低でも20年以上の経験を持つ、ギルド認定のマイスターが必ず一人、監督として関わらなければならない」
「革新的な設計変更を行う場合は、長老会にその設計図を提出し、最低でも5年間の安全審査を受けなければならない」
それは、若者たちの自由な発想と、迅速な開発スピードを、完全に殺すための法律だった。彼らは、法という名の、目に見えない檻の中に、閉じ込められたのだ。 私は、悪意だけが完璧に記述された醜悪な条文を前にして、絶句した。
「なんと…!なんと…!」
若者たちは、再び絶望の淵に立たされた。工房には、重く、息苦しい沈黙が満ちていた。誰もが、もう終わりだと、諦めかけていた。レオだけが、「まだだ…まだ何か…」と、血の滲むような顔で、新しい設計図を描き続けていた。
その、絶望のどん底で、クララは諦めていなかった。彼女は、技術も知識もない。だが、彼女には「熱意」があった。
「大丈夫だよ、みんな!私が、私がなんとかするから!私が、あの石頭のじいさんたちを、一人残らず説得してみせる!だから、みんなは、希望を捨てないで!」
彼女はそう叫ぶと、一人でギルドを飛び出し、長老会の議事堂へ、街の有力者たちの元へ、無謀な陳情を繰り返した。だが、その熱意は空回りし、彼女は門前払いされ、時には罵声を浴びせられ、泥だらけになって、毎日工房に帰ってくるのだった。その姿は、痛々しく、そして、あまりにも、無力だった。
私は、クララを呼び止めた。
「クララ君。君の行動は、無駄だ。実に非効率的だ。感情論で、あの論理の通じない老人たちが動くはずがない」
「でも!でも、何もしないよりはマシでしょ!」
「ふむ…。君たちの父親…長老議長と、直接対話し、和解するという選択肢はないのかね?親子という関係性を使えば、あるいは…」
私の、あまりにも合理的な提案。それが、彼女の最後の理性の糸を、断ち切った。
「和解…ですって…?」
クララの瞳から、光が消えた。
レオが、俯いている。
「エラーラちゃん。あいつは…あの男は、父親である前に、私たちを個人的に憎んでいるのよ」
そして、彼女は語り始めた。それは、この街の、最も深く、そして、暗い場所に隠された、一つの家族の、悲劇の物語だった。
「私の人生は、物心ついた時から、あの男…父親という名の巨大な汚物に塗りたくられていたの」
クララは、遠い目をして、ぽつり、ぽつりと話し始めた。工房の隅では、それまで設計図を描いていたレオが、ピタリと手を止め、その小さな背中をさらに丸くしていた。
「あいつは、偉大な発明家だったおじい様の遺産に寄生し、一度も自分たちの手で何かを生み出すことなく、怠惰な日々を送る、社会の、寄生虫だったの。……父さんは、本物の『愚者』、だった……」
「あの日、レオが大切にしていた設計図。父さんはそれを突然ひったくると、真っ二つに引き裂いたの!何の感情も、見せずに!父さんは、レオの才能に嫉妬していたのよ!」
「自分に何一つ誇れるものがないことを、あいつは理解していた。だからこそ、他人が努力する姿を見ると、その光が、自分たちの暗闇を照らし出すことに、あいつは耐えられなかった。才能のあるものの努力を、持ち物を、尊厳を、破壊せずにはいられなかったのよ……」
「…才能への、嫉妬…」
「雨の日の出来事だったわ。ある事故で亡くなった職人さんのために、たくさんの花が広場に手向けられていた。私はその時、祈っていたわ。事故で亡くなった炭鉱の人たち、特に、ガジエルおじさんのことは一生忘れませんって。その時、その時よ。父さんは……父さんは、父さんは!一番大きな花束を蹴り上げたの!『職人風情に花などいらない』って!」
「…死者への、冒涜…」
「私が、初めて恋をした時もそうだった。相手は、別の街から来た、立派な鍛冶屋の息子さんだった。父さんは、彼の家柄を値踏みし、彼が持ってきた手土産を床に投げつけ、『賎民が人間の真似事をするな』と、侮辱した……。私は、私は……!」
クララの絶叫が、工房に響き渡る。レオは、耳を塞ぐようにして、その場にうずくまっていた。
「そして、おじい様からの遺産が底をつきかけた時、あいつは、最後の手段に出た。薬草を混ぜたお茶で、レオの意識を朦朧とさせ、この工房に監禁し、発明を強制させたのよ!『お前の才能で、俺たちを食わせろ』って!」
「…やめろ…」
レオが、呻くように言った。
「もう、やめてくれ、クララ…」
「いいえ、やめない!」
クララは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、私と、そして弟に向かって叫んだ。
「お兄ちゃんは黙って!私は忘れない!あいつらが、この子の魂にしたことを絶対に忘れない!だから、私はレオを守って、おじい様との約束も守って、世界で一番美しい『芸術』を自由に作れる場所を、私が守るの!私の敵は、お兄ちゃんの行手を阻むすべてのもの……お兄ちゃんは、私が守る!」
その、あまりにも壮絶な告白に、私は言葉を失った。私の論理的思考は、完全にその機能を停止していた。
「…すまない」
私が、ようやく絞り出したのは、そんな、ありきたりな言葉だけだった。私は、クララの、そしてレオの、魂に刻まれた傷の深さを、何も理解していなかったのだ。
「だから、エラーラさん」
クララは、涙を拭うと、私に向かって、力なく微笑んだ。
「もう、いいの。私たちに構わないで。あなたまで、あいつの、あの汚い泥の中に、引きずり込まれることはない」
私は、工房の隅で、一人、黙々と歯車の設計を続けるレオの、小さな背中を見つめた。
私は、目の前で、全てを諦めようとしている、この太陽のような少女の、絶望に満ちた瞳を見つめた。
私の脳裏に、あの忌々しい長老議長の、略奪者の顔が浮かぶ。 その瞬間、私の、冷却されきっていたはずの思考回路に、未知の熱が発生したのを、確かに感じた。 それは、同情でも、憐憫でもない。 もっと、純粋な感情。 そうだ、これは…怒りだ。
「…なるほど。」
私の口から、低い、低い声が漏れた。
クララとレオが、驚いたように、私の顔を見る。 私の口元には、かつてないほど、獰猛な笑みが浮かんでいた。
「長老議長が、『個人的』に、君たちに攻撃を仕掛けてくるのならば」
私は、立ち上がった。そして、二人の前に、仁王立ちになった。
「ならば、この天才エラーラ・ヴェリタスもまた、君たちに協力しよう。『個人的』に。そして、全力でな!」
私の、あまりにも唐突な、しかし、力強い宣言。
それは、この街の、錆びついた運命の歯車を、再び、大きく、大きく、動かすための、始まりの合図だった。
そして、静かに、確信を持って、告げた。
「だからこそ……祭りだ。」
「「…は?」」
「街の、あの伝統的な『祭り』で使われている、巨大な山車を、我々の手で復活させるのだ!」
祭りの山車は、旧式の歯車では、もはや動かすことさえ困難になっていた。それを、我々の『調律歯車』で、かつてないほど壮麗に動かすことができれば…。法で縛られた工房の中ではなく、全ての市民が見守る、神聖な祭りの舞台の上で、我々の技術の正当性を証明するのだ。 絶望に沈んでいた若者たちの瞳に、再び、かすかな光が灯った。
その夜、月明かりもない、漆黒の闇の中、私とレオ、そしてクララは、山車が保管されている巨大な倉庫の前に、息を潜めていた。
「完全に違法行為だな…」
レオが、面白そうに呟く。
「黙りたまえ。法が常に正しいとは限らん。非合理的な法は、ハッキングしてこそ、価値があるのだよ」
私がそう言い放つと、クララは呆れたように、しかし、どこか楽しそうに笑った。
「エラーラちゃん、意外とワルだね!」
警備のオートマタを、私が開発した魔力パルスで一時的に機能停止させ、頑丈な錠前を、レオが即席の工具でピッキングする。倉庫の中に鎮座していた山車は、想像以上に巨大で、そして、美しかった。何世代にもわたる職人たちの魂が込められた、芸術品。だが、その心臓部である歯車機構は、完全に錆びつき、死んでいた。
「…やるぞ」
レオの目が、真剣な光を宿す。 私たちは、夜を徹して、作業を続けた。古い歯車を一つ一つ丁寧に取り外し、代わりに、レオの『調律歯車』を、寸分の狂いもなく組み込んでいく。それは、古い魂に、新しい心臓を移植する、神聖な外科手術のようだった。
そして、祭りの日。 長老会が、自信満々に、祭りの開始を宣言する。山車が動かないことを知っている彼らは、若者たちが、伝統の象徴を動かせなかった無能な集団として、市民の信頼を失うことを、確信していたのだ。
だが、笛の音が鳴り響いた瞬間、奇跡は起きた。 沈黙していたはずの山車が、滑るように動き出し、かつてないほどダイナミックに、そして、優雅に舞い踊ったのだ。
伝統的な笛や太鼓の音色と、最新鋭の歯車が奏でる滑らかな駆動音。その完璧な融合は、長老たちを含む、全ての市民の心を、鷲掴みにした。 技術が、伝統を破壊するのではない。技術は、伝統を、より輝かしい未来へと、導くことができるのだ。 その、あまりにも美しい光景を前に、私は、科学者として、深く、深く、感動していた。
「なんと…!なんと美しい数式だ…!」
この街の混沌こそが、進化の、触媒なのだ。
山車の成功は若者たちに希望をもたらしたが、同時に、長老会の憎悪を決定的なものにした。 広場の中心で、歓喜に沸く若者たちと、その輪に加わる市民たち。
その光景を、長老議長――レオとクララの父親は、時計塔の最上階から、氷のように冷たい目で見下ろしていた。 彼の隣には、腹心の議員たちが並んでいる。
「議長…!このままでは我々の権威が…!」
「分かっておるわ」
議長は、短く吐き捨てた。
彼の目に映っているのは、自分より若くて優秀な者が、評価され、喝采を浴びているという、耐え難い光景だけだった。
彼は、祭りの成功が、レオの『調律歯車』によるものであることを、誰よりも正確に理解していた。だからこそ、なおさら、絶対に許せなかった。 彼は、立ち上がった。そして、階下の衛兵たちに、有無を言わさぬ口調で、命令を下した。
「―――祭りを、中止させろ。」
「は…?ですが議長、祭りはまだ始まったばかりで…」
「中止だと言っている。」
「ちゅ、中止の理由は……いかが、いたしましょうか…?」
議長は、一瞬だけ考え、そして、最もくだらなく、最も悪意に満ちた、完璧な口実を、でっち上げた。
「…そうだな。『祭りの騒音が、我が家のペットであるネコの睡眠を妨げている』とでも言っておけ。ネコは飼っていないが。……まあ、理由は何でもいい。」
数分後、広場は、完全武装した衛兵隊によって無慈悲に制圧された。 歓声は、悲鳴に変わった。笑顔は、恐怖と怒りに歪んだ。
老人と若者の間にあった溝は、もはや修復不可能な、血と暴力によって、決定的な断絶となった。
若者たちの抵抗は、長老たちにとって、待ち望んだ「口実」でしかなかった。彼らは、その抵抗を「暴動」と断じ、心から感謝し、心から喜んだ。自分たちの手を汚さず、若者を合法的に、徹底的に叩き潰せるのだから。 衛兵隊の弾圧は、凄惨を極めた。
まず、衛兵隊は巨大な金属の壁を連結させ、広場から逃げ出そうとする若者たちを、一切の出口のない鉄の円陣で完全に包囲した。
機械仕掛けの馬にまたがった重装騎兵隊が、広場へと突入した。彼らは全身から電鋸を生やして、逃げ惑う若者たちを、面白く無差別に切り刻み、楽しく踏み潰して殺戮していく。踏み砕かれた手足、砕かれた頭蓋。吹き飛ばされた四肢。広場は、瞬く間に血の海と化した。
何人かの若者が、小型の魔法記録水晶でこの惨状を録画しようとした。それに気づいた衛兵隊は、水晶と、録画しようとした若者を棍棒で殴りつけ、その指の骨が砕けるまで何度も踏みつけ、千切れかけた指先を齧って、美味しく食べた。
次に、放水用の巨大なオートマタが広場に引きずり出された。だが、それは群衆を解散させるためではなかった。高圧の魔力水流は、若者たちの顔面にゼロ距離で叩きつけられた。水圧で眼球が破裂する。
暴力の嵐が過ぎ去った後、目を潰された若者たちは、広場の中央に集められ、裸にされた。そして、女も男も関係なく、全員が、何時間も、両手を頭の後ろで組んで膝をつくという、屈辱的な姿勢を強いられ、もちろん、録画をされた。彼らの尊厳は、完全に踏みにじられたのだ。
時計塔の最上階。冷房の効いた快適なラウンジで、長老たちは、その地獄絵図を、巨大な魔法スクリーンで観戦していた。
彼らは、上質なワインを片手に、まるで、闘技場で繰り広げられる剣闘士の試合でも見るかのように、その光景を楽しんでいた。若者の腕が折れ、頭が割れるたびに、歓声が上がる。
「おお、見ろ!あの小僧の腕が、見事に折れたわい!」
「はっはっは、威勢のいいことだ!もっとやれ!」
興奮が最高潮に達したのか、一人の長老がやおら立ち上がると、その高価なローブを脱ぎ捨て、醜くたるんだ肉体を晒しながらシャンパンを開けては床にこぼし、シャンパンを開けては床にこぼし、そして、奇妙な踊りを始めた。
「ううううぅぅび!たーだら!ぬ!……祭りじゃあああッ!いっくぞぉぉぉッ!!!」
別の長老は、恐怖で震える若いウェイターの尻を執拗に何度もいやらしく撫で回し、その耳元で囁き、笑う。
「お前も、いい身体、しておるの…産みますかぁぁあああん!え?……だば。ちがう!産みますか?う、み、ま、す、か!……ウッ!ニュヤハハハハハ!」
また別の長老は、酒に酔って意味不明な歌を口ずさみ始め、もう一人は扇子を手に取り、獣のような必死な形相で、しかし優雅に踊っていた。
「ポン!……ちょん、ちょん、ちょこぽん、しょんちょ……何だっけ?しょんちょ、何だっけ?しょん、何だっけ、しょんちょこ?、しょんちょこ。しょん!ちょこ!ぽん!ぽんんんんんんッッッ!……ホイ!ホイ!あ、ホイホイホイホイ!」
そして、最も醜悪な光景が繰り広げられる。一人の長老が、わざと床にアルコール臭い下痢を漏らして、近くで控えていた若い従者を呼びつけた。
「おいこ、れを片付け、ろ。そ、れともお前もあ、あの暴動の中に入って楽しん、くるか、そとも俺の。この。あったかーい。美味しい下痢を。喰らうか。選ばせて。やろう」
血祭りにあげられる若者の叫びは、老人たちの醜悪な遊戯の、最高のBGMだった。
ラウンジは、もはや人間のそれではなく、地獄の悪鬼どもが繰り広げる、狂乱の宴の場と化していた。 そして、広場が死体の山になったのを見届けると、議長は満足げに、グラスに残ったワインを飲み干した。
「これこそ、祭りよのう。」
甘美な時間。至福のひととき。
「やめろ…やめてくれ…!」
レオは、自分の発明品が引き起こした惨劇を前に、ただ、泣き叫ぶことしかできなかった。彼の美しい芸術品は、人々を笑顔にするどころか、憎しみと暴力を生み出してしまったのだ。
「父さん…!どうして…!」
クララは、時計塔の最上階を睨みつけ、絶叫した。だが、その声が、父親に届くことはなかった。 若者たちの失意の声が、広場に響き渡る。
「嘘だろ…こんなのって、ないよ…」
「俺たちは、ただ、街を良くしたかっただけなのに…」
「やっぱり…俺たちが、間違ってたんだ…」
私は、その地獄絵図の中心で、ただ、立ち尽くしていた。 私の白衣が、まるで弔いの旗のように、血の匂いが混じる夜風に、虚しく、舞っていた。
その日から、街の空気は、完全に死んだ。 長老会は、祭りの暴動の責任を全て若者たちになすりつけ、「伝統」と「恐怖」という、最も非合理的な感情兵器で、街を支配し始めた。
「警告!専門家によると、『調律歯車』からは、人体に有害な『不協和魔力波』が放出されている恐れがある!頭痛やめまいの原因はこれだ!」
「諸君!考えてもみたまえ!これほどの高効率な歯車が、もし敵国の手に渡ればどうなるか!恐るべき戦争兵器が作られ、我々の平和が脅かされるのだ!」
街角の魔法掲示板では、連日、デマとプロパガンダが垂れ流された。私の完璧な論理も、この「空気」という名の、観測不能な壁の前では、あまりにも無力だった。 私は、自分の無力さに、そして、人間の愚かさに、苦悩した。
私は、この街の「信仰」という、最も非合理的なシステムの調査に乗り出した。何か、この状況を打開するヒントがないかと思ったのだ。
まず訪れたのは、街の中心にある、巨大な時計塔の最上階に設けられた、サイバーパンクな祭壇。そこでは、歯車と配線でできた抽象的な神体が祀られ、若い技術者たちが、システムの安定稼働を祈っていた。
次に、私は路地裏の、苔むした小さな祠へと向かった。そこでは、老婆が一人、古びた石像に手を合わせ、街の安寧を、静かに祈っていた。
「なんと非合理的な!神は一つではないのか!しかも、片方は機械で、もう片方はただの石ころだと!?これでは、祈りのベクトルが分散し、効率が著しく低下する!」
私は、その信仰のあり方を、科学的に断罪した。
だが、私は気づいてしまった。 最新のオートマタの安全を祈る若者の瞳と、古き良き街の安寧を祈る老婆の瞳。その奥に宿る「この街を愛する」という、純粋な想いの「色」が、全く同じであることに。 私は、言葉を失った。この街では、神さえもが混沌の中で調和しているというのか。
彼らは、対立しているのではない。ただ、同じ目的地に向かうための、「過程」と「手段」が違うだけなのだ。
その啓示を得た直後、私は、街の魔力ノイズによる汚染と、連日の心労がたたり、ついに街中で倒れてしまった。
私が目を覚ますと、そこは見知らぬ、薬草の匂いが充満する部屋だった。 介抱してくれていたのは、長老会の一人で、最も頑固だと噂の、薬師の老婆だった。
「…目が覚めたかい、嬢ちゃん」
老婆は、不思議な薬草を煎じたひどく苦い薬を、私に飲ませた。
「機械に頼ってばかりいるから、ひ弱になるんじゃ。人間ってのは、ちったあ、自分の力で、熱の一つも出すもんだよ」
そして、彼女は、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。
自分たちが、あれほどまでに伝統に固執するのは、この手で荒れ地を切り開き歯車を組み上げ、この街を無から作り上げてきたという、揺ぎない矜持。そして、その大切な宝物を、無秩序な変化から守ろうとする、不器いな「愛情」なのだと。
私は初めて、敵であるはずの長老の、人間的な側面に触れた。
私の思考は、かつてないほどの速度で回転していた。
先日の、あの惨劇。議長たちが見せた、あの醜悪な狂乱。あれは、「街への愛情」から来る行動では、断じてない。あれは、ただの破壊衝動。ただの嫉妬。ただの、略奪者のそれだ。
だが、目の前にいるこの老婆はどうだ。彼女の言葉には、不器用だが、確かに「矜持」と「愛情」があった。
同じ「長老」というカテゴリーに属しながら、彼らは、全く別の生き物だ。そうだ、この街の対立構造は、「老人と若者」などという、単純な二元論ではないのだ。
この街の真の病巣は、世代間の対立などではない。 それは、「創造者と、略奪者の対立」なのだ!
祖父の世代、そして、この老婆のような、自らの手で街を築き上げてきた『創造者』たち。
レオのように、新たな価値を創造しようとする、若き『創造者』たち。
そして、そのどちらにも寄生し、彼らが生み出した『結果』だけを貪り、その『過程』を憎み、破壊しようとする、議長たちという名の『略奪者』。
なんと、なんと美しい数式だろうか! 私は、ついに、とうとう、この街の病巣の正体を、突き止めたのだ!
老人の中にも、創造者はいる。若者の中にも、いずれ略奪者となる者が現れるかもしれない。
問題は、年齢ではない。
その魂が、どちらを向いているかなのだ。
ならば、私のやるべきことは一つ。 老人と若者を和解させる、などという、生ぬるいことではない。
この街から、全ての「略奪者」を、外科手術のように、完全に切除することだ。 そして、残された「創造者」たちが、世代を超えて、手を取り合えるシステムを、この私が、構築してやればいい!
その、あまりにも人間臭く、面倒くさく、そして、予測不能な問題の分析に、私の心の奥底が、歓喜していることに、私は気づいてしまった。
「まさか…この私が、このカオスを、楽しんでいるだと…!?ありえん!これはバグだ!私の思考回路に発生した、致命的なバグに違いない!」
私の高笑いが、薬草の匂いが充満する静かな部屋に、不気味に響き渡った。
その夜、ハグルマ・シティの空気は、奇妙なほど澄んでいた。 私とクララは、レオの工房の屋根の上に座っていた。眼下には、大小様々な歯車が、まるで生き物のように規則的な呼吸を繰り返している。遠くに見える白銀の時計塔群は、夜空の闇を切り裂くように荘厳にそびえ立ち、その間を縫って、オートマタの灯りが星のように流れていく。非合理的なまでに猥雑な下町の喧騒も、この高さまで来ると、心地よい生命のざわめきのように聞こえた。
「綺麗だね、エラーラちゃん」
私の隣で、クララがほう、と白い息を吐きながら呟いた。
「この街が、これからどうなっていくのかなって、時々、考えるんだ」
その声には、祭りの夜に刻まれた深い傷の痛みを滲ませながらも、それでも未来を見ようとする、か細くも確かな希望の響きがあった。私は、手元の携帯端末に表示された街のシステム図から顔を上げた。
「未来予測かね?不確定要素が多すぎる。だが、安心したまえ。心配は無用だ。私が新たに構築する社会システムは、この街の病巣を完全に切除する。完全にだ。すなわち、『創造者』と『略奪者』の行動パターンをデータ化し、明確に分類。後者の経済活動及び政治的権限を完全に凍結することで、街の生産性は飛躍的に向上し、世代間の対立という非合理的なバグは、根源からデバッグされる。合理的で、完璧な、美しい数式だよ」
私の完璧な論理による説明に、クララは少しだけ寂しそうに、そして困ったように笑った。
「そっか…。エラーラちゃんは、本当にすごいんだね。でも、なんだか、全部が正しくて、綺麗すぎると、ちょっとだけ息が詰まっちゃいそうだな。人間って、もっとぐちゃぐちゃで、ダメダメな生き物だから」
「ぐちゃぐちゃで、ダメダメ?それは、システムの不備、あるいは教育という名のOSアップデートが不足しているだけだ。修正可能なエラーに過ぎん」
「うーん、そうかなぁ…。でもね、そういうダメなところも、ぐちゃぐちゃなところも、全部まとめて、好きになってあげられたら、それが一番いいなって、私は思うんだけどな」
そう言って、彼女は空を見上げた。その瞳には、私がまだ知らない、深く、温かい光が宿っていた。私の思考回路が、その光の正体を解析しようと試みるが、該当するデータが見つからず、軽いエラーを起こす。
「…そうだ!」
クララは何かを思い出したように、ぱっと顔を輝かせた。
「エラーラちゃん、お腹すいてない?ちゃんとしたご飯を食べなきゃ、いい考えも浮かばないよ!」
「食事なら、栄養価の計算されたペーストを3時間前に摂取済みだ。」
「またそれ!あれは燃料でしょ、ご飯じゃないよ!心が喜ぶ食事をしなきゃ!……ねえ、『ラーメン』って知ってる?」
「ラーメン…?」
私のデータベースには存在しない単語。異国の言語だろうか。
「すっごく美味しいんだよ!下町の角にある、頑固なおじいさんが一人でやってる小さなお店なんだけどね。豚の骨をぐつぐつ煮込んだ、白くてとろっとしたスープに、小麦でできた細い麺が入ってて…。その上に、とろとろに煮込んだお肉と、味の染みた卵が乗ってるの。初めて食べた時は、こんなに美味しいものがこの世にあるんだって、びっくりしちゃった!レオも、あそこのラーメンが大好きで、新しい発明に詰まると、いつもあのお店に駆け込んでるんだよ」
クララは、本当に幸せそうに、その未知の食べ物のことを語った。その描写は、栄養素の組み合わせとしては極めて非合理的で、特に塩分と脂質の過剰摂取が懸念される代物だった。だが、私の脳は、その味を、香りを、温度を、必死にシミュレーションしようとしていた。そして、胃が無意識に、小さな音を立てた。
「今度、絶対に連れてってあげる。約束だよ!」
約束。感情的な契約。非論理的だが、不思議と、不快ではなかった。むしろ、私の胸の奥に、未知の温かい感情が灯ったのを、確かに感じていた。だが、その約束が、永遠に果たされることはなかった。
翌日、ハグルマ・シティは、音を立てて死んだ。
その兆候は、些細なものだった。街の時計塔の針が一瞬だけ、不自然に震えた。オートマタの動きが、僅かに同期を失った。だが、次の瞬間、街の心臓部『大刻針』が、巨大な獣の断末魔のような、耳を劈く金属音と共に、その永劫の動きを完全に停止したのだ。
システムダウンは、致死性のウイルスのように、瞬く間に街全体へと伝播した。円環線は制御を失って暴走し、高層ビルを薙ぎ倒しながら脱線し、家屋に突っ込んで、中の住民と乗客をまとめて圧殺し、あたりを巻き込んで爆発した。隣のビルで人々を運んでいた魔力昇降機は、爆発の衝撃で故障し、重力に逆らって昇降し、屋上から勢いよく飛び出した。街の至る所で爆発が起こり、黒煙が上がる。整備された美しい理想郷は、僅か数分で、阿鼻叫喚の地獄絵図へと変貌した。その混沌の坩堝の中で、報せは届いた。
下町の子供を庇ったクララが、落ちてきた昇降機の下敷きになった、と。
私が現場に駆けつけた時、そこは粉塵と硝煙の匂いが立ち込める、悪夢のような光景だった。レオが、血を流して動かないクララに必死に呼びかけている。
「クララ!クララッ!しっかりしてくれよ!」
私は、冷静に、しかし恐ろしいほどの速度でクララのバイタルをスキャンした。…全身の多発性骨折、内臓の損傷、出血多量。危険な状態だ。 私は、すぐさま長老議会に緊急通信を繋いだ。モニターの向こうには、安全な議事堂のラウンジで、この惨状をまるで観劇でもするように眺めている、醜悪な老人たちの顔があった。
「これは事故ではない!」
私の声は、怒りという未知の感情によって、自分でも驚くほど低く、鋭くなっていた。
「旧式システムの限界を放置し続けたお前たちの怠慢が招いた必然の結果だ!街が、市民が死にかけている!今すぐ復旧作業を開始しろ!」
だが、通信の向こうで、長老議長…レオとクララの父親は、グラスを片手に、心底愉快そうに、せせら笑った。
『やかましい小娘め。これは、伝統を軽んじた若輩者どもへの、天罰だろう。まあ、修理は行ってやる。だが、それが1ヶ月後になるか、1年後になるか…我々が、お前たちの反省の態度を見てから、決めてやろう。だからこそ……まずは、謝るのが筋だろう』
自らの街が、市民が、そして、実の娘が死にかけているというのに。 この男たちは、自分たちのちっぽけなプライドと、歪んだ支配欲を満たすためだけに、全てを破壊しようとしている。自らの生活を、未来を、全てを捨ててでも、創造者を貶め、その希望を奪いたいのだ。 その、あまりにも醜悪な悪意を前に、私の思考回路の、最後の安全装置が、音を立てて焼き切れた。
「…そうか」
私の口から漏れたのは、自分でも聞いたことのない、絶対零度の声だった。
「ならば、こちらも『個人的』に、全力で、お前たちという名のシステムエラーを、デバッグしてやろうじゃないか」
私はレオと共に、沈黙した時計塔の内部へと突入した。
時計塔の内部は、想像を絶する光景だった。
そこは、ハグルマ・シティの歴史そのものが、地層のように堆積した、巨大な博物館だった。 最上階の最新鋭の制御室。その床下のメンテナンスハッチを開けると、現れたのは、無数のケーブルと歯車が絡み合う、一世代前の魔力伝達機構。さらにその下には、街全体に蒸気を送っていた、巨大なボイラーとパイプの残骸。そして、最深部には、この街の創設期に使われていたであろう、巨大なゼンマイと、美しい装飾が施された、絡繰り人形のような、古の歯車たちが、静かに眠っていた。 不格好で、非効率で、無秩序な、歴史の積み重ね。
私はその混沌の中に、これまで感じたことのない種の「美しさ」を見出していた。私は、錆びついた歯車に、そっと指で触れた。ひんやりとした金属の感触。それは、ただの鉄の塊ではなかった。この街を築き上げた、名もなき職人たちの、情熱と、祈りと、魂の記憶が、そこに宿っているかのようだった。
「なんと…!なんと美しい、非合理性の集積体だ…!」
動力源は、創設者の「想い」そのものが、長い年月をかけて結晶化した『ソウル・クリスタル』だった。それは、最新技術だけでは再起動できず、レオの『調律歯車』が生み出す精密な制御と、長老たちが持つ旧時代の『伝統技術』による魂への呼びかけ、その二つが完璧に融合して初めて、再び心臓として鼓動を始める代物だった。 最新技術が、古の魂を呼び覚まし、伝統技術が、新たな心臓に正しい血の流し方を教える。対立するはずの二つの力が、互いを補完し合い、より高次元の存在へと昇華する。
「すごいな…エラーラ!これなら、クララを…街を救える!」
「ああ。成功確率は98.7%。もはや、確定した未来だ」
その時だった。 背後の暗闇から、あの忌ましい男…レオの父親が現れた。その手には、再起動に不可欠な最重要パーツ『調律コンデンサ』が握られていた。彼は、絶望に満ちた我々の顔を見て、歪んだ、満足げな笑みを浮かべた。
「無駄だ。この街も貴様らも、ここで終わりだ」
彼はそう吐き捨てると、階下に停めてあった最新鋭の高級車に乗り込み、夜の闇へと走り去った。
ただの、嫌がらせのためだけに。 娘が、街が、死にかけている、この瞬間に。 その、あまりにも無駄で、あまりにも悪辣な妨害行為に、私の論理で構築された精神は、完全に崩壊した。
私の思考回路が、燃え盛る怒りで真っ赤に染まる。 その行動に、何の論理的必然性もない!ただの感情的ノイズ!お前の存在そのものが、この世界の数式を乱す、許されざるバグなんだよ!
「レオ君!乗れ!」
そこに乗り捨てられていた、旧式のガソリン車にレオを無理やり押し込み、私は、内燃機関を獣のように咆哮させた。
轟音と共に、我々の旧式車は、黒い高級車を追ってアスファルトを削るように飛び出した。私はアクセルを床まで踏み抜き、エンジンが悲鳴を上げるのも構わず、街の血管とも言える狭い路地へと猛スピードで突っ込む。左右の壁に、ミラーが激突し、火花を散らしながら砕け散る。ネオンサインが、まるで光の津波のように、一瞬で後方へと溶けて消えていった。
父親は、常軌を逸していた。深夜の市場の屋台群に、躊躇なく突っ込んだのだ。色とりどりの果物や、山と積まれた雑貨が、爆発したかのように宙を舞い、人々の悲鳴が上がる。我々はその瓦礫の雨の中を、車体を激しく左右に揺らしながら、寸でのところで突き抜けていく。フロントガラスに叩きつけられたトマトが、まるでおびただしい血痕のように、私の視界を赤く汚した。
「あああああっ!」
レオの悲鳴が隣で響く。だが、私の思考は、怒りによって、驚くほど冷静だった。
立体交差の螺旋道路で、父親は、まるで我々を嘲笑うかのように、高度なドリフト走行を仕掛けてきた。甲高いタイヤの悲鳴が夜空に響き渡り、摩擦で生まれた白い煙が、彼の車体を覆い隠す。私もまた、寸分の狂いもなくカウンターステアを切り、遠心力に抗いながら、ガードレールとの数センチの隙間を保ち、そのテールに蛇のように食らいついた。
高架線路へと続くスロープを、父親の車はジャンプ台のように利用して、夜空へと舞い上がった。一瞬、巨大な車体が宙に浮き、胃がせり上がる不快な感覚に襲われる。我々もまた、躊躇なく続いた。火花を散らしながら線路に着地し、その衝撃で軋む車体で、今は沈黙した円環線のレールの上を、暴走列車のように突き進む。
その時、前方に、暴走したまま停まっていた終電の、巨大な影が見えた。父親は、線路から下の道路へと、躊躇なく飛び降りる。 「エラーラ!このままじゃ!」 レオの絶叫をトリガーに、私は咄嗟に分岐線へとハンドルを切った。列車の鋼鉄の側面を、車体を削りながら掠めていく。猛烈な風圧と、鼓膜が破れそうなほどの金属摩擦音の中、我々は再び父親の背後を取ることに成功した。
地下水路の、巨大なトンネルへ、二台の車が雪崩れ込むように突入した。反響するエンジン音は、もはや音というより、暴力的なまでの振動となって、我々の内臓を揺さぶる。ヘッドライトの光だけが、無限に続くかのような暗闇を切り裂き、壁から噴き出す不気味な水飛沫が、まるで嵐の中を進んでいるかのような錯覚を引き起こした。
建設中の高層ビルの骨組みの中を、二台の車は、まるで重力を無視したかのように、階層を駆け上るように疾走した。剥き出しの鉄骨と鉄骨の間を縫うように走り、いつ床が抜けてもおかしくない、極限の緊張感の中、父親は容赦なく鉄パイプの束を蹴り落としてくる。それが、下の道路に落下し、火花を散らすのが見えた。
やがて、我々は街のエネルギーパイプラインが並走する、最も危険な地帯へと迷い込んだ。父親は、そのパイプの一つに、わざと車体を擦り付け、激しい火花を発生させた。次の瞬間、パイプから漏れていた高圧ガスが引火し、巨大な火柱が、夜空を焦がすように立ち上った。
そして、ついに、廃工場が立ち並ぶ工業地帯で、父親の車の側面に、我々の車体が、牙を剥くように激突した。 ガシャアアアン!という、耳障りな金属の断末魔。二台は、もつれ合う獣のように、火花を散らしながら並走する。サイドガラス越しに、父親の、憎悪と恐怖に歪んだ顔が見えた。私は、勝利を確信し、壊れる寸前のアクセルを、さらに深く、深く、踏み込んだ。
コントロールを失った父親の車は、巨大な廃工場の壁に激突し、爆発炎上した。 これで、終わりだ。
そう思った瞬間、炎上する車体から、人影が転がり出てきた。瀕死のはずの父親だった。だが、その姿は、もはや人間ではなかった。片足を引きずり、全身から血を流しながら、それでも、地獄の鬼のような形相で、工場の闇の奥へと、這うように逃げていく。
私は、車を降り、その後を追った。
廃工場の中は、静寂と、死の匂いに満ちていた。私の足音だけが、冷たく、正確に、コンクリートの床に響き渡る。逃げ惑う父親の、荒い息遣いと、嗚咽だけが、不協和音だった。彼は、もはや父親でも、議長でもない。ただ、死の恐怖から逃げているだけの、哀れな獣だった。
錆びついた鉄骨が、巨大な骸骨のように迷路を形成している。父親は、物陰に隠れ、息を殺した。だが、無駄だ。私には、彼の恐怖によって分泌されるアドレナリンの、鉄錆びた匂いが、手に取るように分かったのだ。私は、わざとゆっくりと、通路を一つずつ確認していく。彼の心臓が、恐怖で張り裂ける音を聞くために。カタ、と彼が立てた小さな物音が、彼の最期の居場所を、私に教えた。
追い詰められた父親は、狂ったように、床に散らばる工具を、やみくもに投げつけてきた。だが、そのどれもが、私の周りの空間を虚しく切り裂くだけだった。私は、一切の感情を表情から消し、ただ、無言で、一歩、また一歩と、彼我の距離をゼロにしていく。私の瞳は、もはや獲物を嬲る捕食者のそれだっただろう。
私は、ついに父親の手から『調律コンデンサ』を奪い取った。 彼は、血反吐を吐きながら、憎悪の理由を、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
偉大すぎた創設者である父への嫉妬。
自分にはない才能を持って生まれた息子への嫉妬。
嫉妬、嫉妬、嫉妬。くだらない。あまりにもくだらない、矮小な理由だった。 私は、たかがその程度の理由で、この街と、二人の子供の未来をズタズタに破壊した男に、心底呆れ果てた。
この男は、もう、長くはもたないだろう。
私は彼をその場に放置し、時計塔へ戻ろうと、静かに背を向けた。
その瞬間、背後で、乾いた銃声が響いた。
レオの小さな体が、ぐらりと揺れた。 彼の胸に、真っ赤な、小さな穴が開き、そこから、おびただしい量の血が、まるで噴水のように溢れ出す。 彼は、何かを言おうとして、しかし、声にならず、私の腕の中でゆっくりと冷たくなっていった。
背後では、引き金を引いた父親が、既に、憎悪の表情を浮かべたまま、事切れていた。
大刻針は、復活した。 新旧の技術と思想が融合したハイブリッドな心臓を得て、その針は、以前よりも力強く、正確に、ハグルマ・シティに時を告げ始めた。
だが、全ては、遅すぎた。 クララもまた、弟の後を追うように、瓦礫の中で、静かに息を引き取っていた。私が工房に戻った時、彼女は、まるで眠っているかのように、安らかな顔をしていたという。
『創造者』も『略奪者』も、どちらも勝つことはなかった。
レオの父親の死は、むしろ長老たちの憎悪に火を注ぎ、若者たちへの報復心を煽った。 街の対立は、より一層、深く、暗く、激化していった。オートマタは兵器と化した。ハグルマ・シティは、終わりのない内戦の時代へと、突入したのだ。
夜が明ける。 私は、時計塔の頂から、その光景を、ただ眺めていた。 復活した大刻針の光が、血に塗れた街を照らし出す。
「…私が、間違っていたのだ」
私のデバッグは、完璧に失敗した。 人間という、最も根源的で最も美しいバグを、私は何一つ理解していなかったのだ。その複雑怪奇なプログラムを、解き明かすことなど、誰にもできはしないのだ。
「この街にはもう……いられない」
私は、血と埃で汚れた白衣を翻し、あてのない旅に出ることにした。
街を出る、その間際。
ふと、私の目に、一軒の古びた店が映った。 『ラーメン』と書かれた、赤い暖簾。 私は、まるで何かに導かれるように、その扉を開けた。
カウンターの隅に座り、クララが教えてくれた通りのものを、無言で注文する。
やがて、湯気の立つ白いスープの丼が目の前に置かれた。
レンゲでスープを一口。猥雑で、しかし、信じられないほど優しい味が、私の疲弊しきった体にゆっくりと染み渡っていく。
無言で、麺をすする。 熱い。 ただ、ひたすらに熱い。
寒さのせいか、麺の熱さのせいか、私の瞳から、一筋の熱い液体が静かに流れ落ちていた。 その、塩辛い液体の正体を、私の万能のはずの思考回路は、ついに、最後まで解析することはできなかった。