第1話RE:【ゲームオーバー】
主題歌:ソウ サウンドトラック
https://youtu.be/cv3OPTt5pLQ?si=NsJszJEUot8xKsz7
全17章です。まずは●印がついた章のみお読みください。
「フム……」
王都の喧騒から遠く離れた外れ、獣病院の二階に位置する私の研究室に、強烈な西日が差し込んでいた。
空気中を漂う埃の群れが、斜めに差し込む光の筋をゆっくりと横切っていく様を、ただ……ぼんやりと……そして、ひどく虚無的に見つめていた。
私の名はエラーラ・ヴェリタス、知識の探究者。
最高の医師、最高の騎士、最高の魔導士……
「……だが、それが、なんだというのかね?」
私は、冷めかけた珈琲のカップを見つめた。
最高。
なんと、空虚な響きだろうか。
魔術の真理は9割方、解明してしまった。
医学も究めた。
剣の道も極めた。
王都警察のカレル警部から時折持ち込まれる「非論理的な」事件も、私の論理の前では、数時間で解を露わにする。
つまり!
私は、この世界のほとんど全てを「観測」し、「解析」し、「理解」してしまったのだ!
『……いや』
私は、思考を修正する。
『一つだけ!……私の論理の外にある、「最大の謎」が残っている……!』
それは、他でもない私自身。
すなわち、エラーラ・ヴェリタスの「人生」……という極めて厄介で、捉えどころのない命題だ。
私は何のために、この、圧倒的な知性を与えられたというのか?
果てしない知識を蓄積し、万物の現象を解析し尽くしたその先に、果たして……何が待っているというのか?
胸の奥底で時折疼く、「虚無感」という名の感情は、いったい……どのような変数が組み合わさって生じているエラーなのだろうか?
「観測不能領域であるからして、つまり……」
私は、大げさな身振りで天井を仰いだ。
「ニャア」
黒猫が、鳴いた。
研究室に勝手に住み着いている、ならず者だ。
「つまり、ニャア?……うるさいねぇ。私は今、重要な哲学的思索の真っ最中なのだとも。君のような、論理性の欠片もない毛玉に、構っている時間は……」
と、言いながら、私は無意識に屈み、その喉を撫でていた。猫は、実に満足げに、不気味なゴロゴロ音を立てている。
「……フム?猫という生命体は、これだから好かん」
その時だった。
階下から、慌ただしい足音と、聞き慣れた声がした。
「エラーラ君!おるかね!」
息を荒く切らして部屋に飛び込んできたのは、王都警察の要であるカレル警部だった。
その疲弊しきった顔には、奇妙な困惑と、そして、隠しきれない興奮が入り混じった色が浮かんでいた。
「君のノックの仕方はまた相変わらず性急で、ひどく非合理的だねえ。それで?……今日はまたどのような『謎』を持ってきたのかな?」
「いやいや、今日は事件ではないんだ。実は、身寄りのない少年を一人、保護しておってな」
カレルの大きな背中の後ろから、一人の少年がおずおずと、まるで、怯える小動物のように顔を出した。
漆黒の夜空を切り取ったかのような髪に、深淵を思わせる、吸い込まれそうな黒い瞳。
歳は十五、六といったところだろうか。
「北の森で、気を失って倒れておるところを偶然発見したんだ。だが、彼は一切の記憶を失っておってな。魔法か、あるいは……。だが、問題はそこではない。彼の知性が、明らかに常軌を逸しておるのだよ。俺の部下が押収品の中から見つけた、長年未解読とされてきた古代魔導語の暗号文を、彼は一瞥しただけで、まるで……絵本でも読むかのようにスラスラと解いてしまったんだ」
「ほう……?」
私は弾かれたように立ち上がり、少年の顔を至近距離で覗き込んだ。彼の黒い瞳の奥には、【記憶喪失という状況に置かれた者が当然抱くべき恐怖も混乱の波も一切なく】、ただ、静かな、凪のような……底知れない知性が横たわっているのを感じ取った。
「君、名はなんというのかね?」
「タイガ・アリゾメ。……それしか、思い出せません」
少年の口から紡がれた声は、私のハスキーで低い声とは完全に対照的な、ガラス細工のように澄み切ったテノールだった。
「タイガ君か!記憶喪失という極めて深刻な脳内データの欠損状態にありながら、高度な演算能力と論理的思考回路だけは完全に無傷で残存しているとは!なるほど、実に、実に興味深いサンプルだ!カレル警部!この貴重なサンプルは、私が責任を持ってこの研究室で預かろうじゃあないか!」
タイガという少年の観測と解析の日々は、私の退屈な日常に久々の、そして強烈な論理的興奮をもたらした。
彼は紛れもない、本物の天才だった。
私が気まぐれに提示するいかなる難解な魔術理論も、複雑怪奇を極める物理法則の数式も、彼は瞬時に理解し、さらにはこの私ですら舌を巻くような、見事な独自の応用理論を黒板に展開してみせたのだ。
彼は常に謙虚で礼儀正しく、私が実験の合間に適当に淹れる泥のように苦い珈琲を、美味しいと微笑んで飲み干すことができる、世界で唯一の人間だった。
私の「人生の意味」などという非合理的な悩みは、この底知れない知性を持つ新しい観測対象の出現によって、すっかり霧散していた。
彼との高度な次元での議論は、私の脳髄を心地よく痺れさせ、私は、いつしか……彼をただの観測対象や助手としてではなく、対等な知の探究者として、私の研究室に欠かせない歯車として扱い始めていた。
【信頼】。
そう、信頼していた。
あの、運命の日までは……。
その日、私は王都の地下深くで脈打つ巨大魔力炉の、次世代安定化魔術式の構築という大仕事に没頭していた。
黒板を埋め尽くす数式は、あと数手、わずかな変数を代入するだけで、完全に完成する。
これが完成すれば、王都の魔力供給の効率はこれまでの数百倍に飛躍的に向上するのだ。
「タイガ君」
私は、背後で静かに資料の整理をしている彼に、いつものように声をかけた。彼は私の助手として、完璧に私の思考プロセスを先読みし、私が求めるデータを最適なタイミングで提示してくれていた。
「すまないが、後ろの棚の上から、『マギア・ロッド』を取ってくれないかね。今、この計算から手が離せんのだよ」
「……はい。分かりました」
いつもより、ほんの数ミリ秒だけ、彼の返事が遅れたような気がした。
だが、私は眼前の複雑な魔術式に意識のほとんどを割いており、その微細なノイズを、無意識のうちに処理領域から除外してしまったのだ。
「これでよし!やはり私のロジックは完璧だとも!この最終変数さえ組み込めば!さあタイガ君、その水晶を渡してくれたま……」
私が振り返った、その瞬間。
私の視界の中央に映し出されたのは、彼が一切の感情を排した無表情のまま、『マギア・ロッド』を頭上高く振りかぶっている姿だった。
「あ。」
それが、魔導師エラーラ・ヴェリタスがこの世に紡いだ、最後の言葉となったのだ。
次の瞬間、私の頭部に、凄まじい物理的な衝撃が加えられた。
それは、高度な魔術による攻撃ではない。
熟練の暗殺者が用いるような技術を要する暗殺術でもない。ただの、純粋な暴力だった。
視界が急速に黒く暗転していく!
なぜ?
彼は、なぜ、私を攻撃したのだ?
私の超高速の演算回路が、死の淵にあってもなお、眼前の信じがたい現象を解析しようとフル稼働する!
彼は、単なる記憶喪失の哀れで無垢な少年ではなかったのか?
いや、違う!
この一撃の精度、そして、殺意の純度の異常な高さ!
彼は最初から、この私を「殺害するためだけ」に、周到な計算のもとに、この研究室に潜り込んだ捕食者だったのだ!
ならば、なぜ私は、世界最強であるはずの私が、こんなにも容易く、ただの棒きれによる一撃で致命傷を負わされているのだ?
私の周囲には、常時展開されているはずの何重もの物理・魔力防壁が存在したはずだ!
いかなる奇襲も、自動的に弾き返すシステムが稼働していたはずだ!
だが、それらは一切作動しなかった!
なぜなら……?
ああ、そうか……。
私は、ようやく、理解したよ……。
私は彼に対して、全ての防壁のアクセス権限を付与し、彼が私の無防備な背後に立つことを、完全に、微塵の疑いもなく許容していたのだ!
警戒という、生物の生存において最も優先されるべき論理的行動を、私は自らの意思で放棄していた!
私という強固なシステムを内側から破壊し、私を殺した唯一の解!
それは、私の冷徹な論理の中にいつの間にか密かに混入し、私の……絶対的な観測眼を完全に曇らせていた、たった一つの致命的なバグ!
【信頼】という名の、ひどく温かく、そして致命的に非合理的な感情!
床に崩れ落ちていく身体の感覚が、無限に引き伸ばされていく!
薄れゆく意識の中で、私は自分の口の端が微かに弧を描くのを感じた……。
この、絶対的な「死」という名の未知のデータ。
そして、私という完璧な機械に生じた、この上なく愛おしいエラー。
実に、実に……興味深いデータだとも……!




