第1話:人生をやり直せ!
獣医を目指していた俺は、三流、と言ってもそこそこ頭の良い理系大学の獣医学科を卒業した。これでやっと、命を救う仕事のスタートラインに立てる。そう思っていた矢先のことだ。呆気ないほど簡単にトラックに撥ねられ、俺の最初の人生は幕を閉じた。
まあ、ここからはアニメや漫画で良く見た展開だ。次に目を開けた時、俺は見知らぬ森で、巨大な狼に似た魔獣に睨まれていた。ここまでがテンプレなら、次はチート能力に目覚める場面だろう。だが、そんな都合の良い展開は訪れず、そこいらの怪物に襲われ、俺はただ死を覚悟した。
その命を救ってくれたのが、白銀の鎧をまとった一人の女騎士だった。
異世界転生した俺、橘ケンジは、その女騎士――アリア・フォン・クライフォルトに拾われた。彼女の故郷である、魔の森と隣接する辺境の村「オークヘイブン」が、俺の第二の人生の舞台となった。
アリアとはすぐに打ち解け、仲良くやっていた。彼女は俺が持つ、動物や魔物に関する知識――前の世界で培った獣医学を、純粋な尊敬の目で見つめてくれた。だが、彼女の父であり、この地を治める辺境伯バルトール・フォン・クライフォルトとは、どうにも馬が合わなかった。厳格な彼は、娘が連れてきた「どこの馬の骨とも知れん、戦う力もない男」である俺を、決して認めようとはしなかった。
そして、バルトール様がこの世で最も恐れられている化物、クロウ・オブ・マウンテン――通称「クマ」に襲われてから、俺の人生は激変してしまった……。
「ケンジ、こっちだ!グリフォンの雛が翼を怪我したらしい!」
アリアの声に呼ばれ、俺は薬草をすり潰していた手を止めた。村の小さな診療所――といっても、俺が寝泊まりしている物置小屋を改造しただけの場所だが――には、今日も様々な「患者」が運び込まれてくる。
「今行く!」
駆けつけると、騎士団の厩舎で、アリアが小さなグリフォンの雛を抱きかかえていた。翼の付け根から血が滲んでいる。おそらく、飛行訓練中に木にでもぶつけたのだろう。
「暴れるなよ、ちょっと見るだけだ」
俺はグリフォンの呼吸が落ち着くのを待ち、素早く傷口を消毒して軟膏を塗り、固定具を当てて包帯を巻いた。獣医学科で学んだ知識は、この世界でも応用が利く。解剖学的な構造は、地球の生物と驚くほど似通っているのだ。
「ありがとう、ケンジ。お前が来てから、騎士団の魔獣たちの生存率が格段に上がった」
アリアが心底嬉しそうに微笑む。彼女のこういう真っ直ぐなところが、俺は好きだった。
そんな穏やかな日常に、不協和音が響き始めたのは数ヶ月前のことだ。王都に設置された、遠隔地の情報が映し出される「魔法通信盤」。そこに、一人の男が現れるようになってから、すべてが少しずつ狂い始めた。
男の名は、アルフォンス・ハイゼンベルク。王都の貴族で、「賢者」を自称する男だった。彼は安全な魔法障壁の内側から、甘く、耳障りの良い言葉を振りまいていた。
『――クマと共存せよ!討伐は罪である!彼らの聖域を侵したのは我々人間なのだから!彼らと対話し、心を通わせることこそ、我々が選ぶべき道なのです!』
その言葉は、魔獣の脅威を知らない王都の連中の心を掴んだ。彼が知る「クマ」とは、きっと王都で売られている、膝丈ほどの愛らしい魔法人形のことなのだろう。
だが、俺たちが知る「クマ」――クロウ・オブ・マウンテンは違う。一度その爪にかかれば、竜鱗の鎧すら紙屑のように引き裂かれる。対話など、冗談にもならない。
「またアルフォンス卿の放送か。父上が苦虫を噛み潰しておられるぞ」
アリアが通信盤を睨みつけながら言った。
アルフォンスの「聖なる啓蒙」は、やがて具体的な妨害工作へと変わった。辺境伯であるバルトール様のもとへ、王都から「公文書開示の魔法」が乱発されるようになったのだ。「討伐隊が消費したポーションの種類と本数」「亡骸の魔力処理方法」…すべては、俺たちの業務を麻痺させるための、正義の皮を被った嫌がらせだった。アリアの同僚である討伐隊員たちは、王都で「血に飢えた蛮人」と誹謗中傷され、皆、心身ともに疲弊していた。
そしてある日、悪夢は現実の姿となって村にやってきた。アルフォンス本人が、数人のお供を連れて「現地調査と啓蒙活動」とやらのために、オークヘイブンを訪れたのだ。
彼はバルトール様の前に立ち、芝居がかった仕草で言い放った。
「辺境伯よ、私は森の王と対話し、共存の道を開くために参りました。今日この時をもって、あなた方の野蛮な行いは、私が終わらせます」
その手には、妖しい光を放つ小瓶があった。「あらゆる魔獣と心を通わせる秘薬」だという。俺は本能的な危険を感じ、彼の前に進み出た。
「その小瓶を見せてもらえませんか」
「ほう、君が噂の…。元いた世界とやらの知識を持つという…」
アルフォンスは俺を見下すような目で見ながら、小瓶を渡してきた。
蓋を開けた瞬間、ツンとした刺激臭と、甘ったるい匂いが混じって鼻をついた。いくつかの知っている薬草。それに、ムスク系の興奮剤…おそらく、発情期の魔獣が出すフェロモンを凝縮したものだ。最悪なのは、微かに混じる血の匂い。これは…魔獣の闘争本能を極限まで刺激する、最悪の調合だ。
「やめろ、それは危険だ!そんなものを使えば、友好どころか、奴らを怒り狂わせるだけだぞ!」
俺の警告も、アルフォンスには届かなかった。彼は小瓶をひったくると、俺を鼻で笑った。
「無知な者の嫉妬は見苦しいですよ。君には理解できずとも仕方ない。これは、愛と対話の魔法なのだから」
彼はそう言い残し、忠告に耳を貸そうともせず、一人で魔の森へと消えていった。バルトール様の苦々しい表情と、アリアの不安げな瞳が、俺の網膜に焼き付いていた。
悲劇は、あまりにも早く訪れた。
アルフォンスが森に入って一時間もしないうちに、村全体が地鳴りのように揺れた。大気を震わせるほどの巨大な魔力の波動が、森の中心から溢れ出してくる。見張り台の鐘が、断末魔の悲鳴のように狂ったように鳴り響いた。
「『山主』だ!山主が縄張りを降りてくるぞ!」
村中の誰もが顔面蒼白になった。「山主」――それは、この森に数百年君臨する、伝説級のクマの個体名だ。その巨体は城壁に届き、もはや魔獣ではなく、歩く自然災害そのものだった。アルフォンスの使った愚かな魔法薬が、眠れる神話の怒りを買ったのだ。
「総員、配置につけ!民を避難させろ!」
バルトール様の檄が飛ぶ。彼は自ら、歴戦の傷が刻まれた白銀の鎧をまとい、大剣を手に取った。アリアも、固い決意の表情でその隣に立つ。
「ケンジ、村に残って負傷者の手当てを頼む!」
「…わかった。アリアも、親父さんも、絶対に無事でいてくれ」
それが、俺がバルトール様と交わした最後の言葉になった。
森の木々がなぎ倒され、現れた「山主」の姿は、まさに絶望の具現だった。討伐隊の放つ魔法も剣も、その分厚い毛皮と魔力障壁に弾かれ、まるで歯が立たない。
そんな地獄のような戦場で、状況を最悪の方向へかき乱す存在がいた。アルフォンスだ。彼は森から這い出てきたものの、腰を抜かして泣き叫び、戦場を無秩序に逃げ惑っていた。
「助けて!私を助けてくれ!なぜ私を守らないのだ!私は王都の賢者だぞ!」
その身勝手な叫びが、一瞬の悲劇を生んだ。アリアが、逃げ惑うアルフォンスを庇うために体勢を崩した、まさにその時。「山主」の巨大な爪が、アリア目掛けて薙ぎ払われた。
「アリアッ!」
バルトール様が叫び、娘の前に立ちはだかった。自らの身を盾にして。
ゴシャッ、と、聞きたくない鈍い音が響いた。鋼鉄の鎧がバターのように引き裂かれ、辺境伯の巨体が木の葉のように宙を舞った。
「父上!!」
アリアの悲痛な絶叫が、森中にこだました。その声に我を取り戻した討伐隊の決死の猛攻が、「山主」に深手を負わせ、なんとか森の奥へと追い返すことには成功した。だが、その代償は、あまりにも、あまりにも大きかった。
俺は駆け寄った。だが、獣医の知識など何の役にも立たない。バルトール様の傷は、誰の目にも致命的だった。
「アリア…民を…頼む…」
彼は娘の頬にそっと触れ、最期にそれだけを言い残すと、静かに息を引き取った。
傍らでは、アルフォンスが廃人のように座り込み、虚空を見つめて「対話を…愛を…」とぶつぶつ呟いている。彼の軽薄な正義が、この村の偉大なリーダーを、そしてアリアのたった一人の父親を殺したのだ。
その夜、父の亡骸を前に、アリアは静かに涙を流していた。だが、その瞳の奥には、憎悪と復讐の炎が、地獄の業火のように燃え上がっていた。
「…私が、討つ。必ず」
俺は、自分の無力さに打ちひしがれていた。守りたい人を守れなかった。知識はあっても、それを振るう力がなかった。だが、もう迷わない。
俺はアリアの隣に立ち、彼女の震える肩に手を置いた。
「俺も行く、アリア」
彼女が驚いて顔を上げる。俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「一人にはさせない。俺は剣も魔法も使えないかもしれない。でも、獣医の知識は、あいつの身体の構造を理解し、急所や弱点を見つけ出すのに役立つはずだ。治療のためだけじゃない。敵を解剖し、理解し、確実に殺すための知識として、俺はあんたの隣で戦う」
アリアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
父である辺境伯バルトールを失ってから、一月が過ぎた。アリアは悲しむ暇もなく、新たな辺境伯として気丈に振る舞っていたが、その横顔に浮かぶ疲労の色は隠せない。オークヘイブンは静かだった。それは平穏ではなく、巨大な厄災がすぐ隣で息を潜めていることを知る、緊張をはらんだ静寂だった。
その静寂を破るように、王都からの定期補給隊が到着した。物資はありがたいが、彼らがもたらす「王都の空気」は、今の俺たちには毒でしかなかった。
「いやぁ、辺境伯様も災難でしたな。なんでも、アルフォンス賢者様の忠告を聞き入れず、魔獣を一方的に刺激したとか…」
隊商の長が、アリアへのお悔やみの言葉に、そんな棘を混ぜ込んできた。悪気はないのだろう。ただ、王都で流布されている情報を鵜呑みにしているだけだ。俺は握りしめた拳が、怒りで震えるのを抑えられなかった。
アルフォンスは、王都で悲劇の英雄を演じているらしかった。
『私は対話を試みたのです!しかし、辺境の武力主義者たちがそれを台無しにした!慈悲深き森の王は、彼らの野蛮な攻撃に怒り、自衛のために力を使ったに過ぎません!』
魔法通信盤を通じて、そんな彼の演説の断片が伝わってくる。父を殺され、村を蹂躙されたアリアが「加害者」で、すべての元凶であるアルフォンスが「被害者」に仕立て上げられている。これが、安全な壁の内側で育った者たちの「正義」の正体だった。
「気にするな、ケンジ」
俺の怒りを察したのか、アリアが静かに言った。
「言葉で何を言われようと、事実は変わらない。私たちは、ここで生きている。それだけだ」
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の執務室には王都から送られてくる抗議の書状が山積みになっていた。「クマの過剰防衛を誘発した責任を問う」「討伐隊の武装解除を検討せよ」――無知と愚かさが、インクの染みとなって俺たちを精神的に追い詰めていた。奴らは知らないのだ。牙も爪も持たない「言葉」が、時としてどれだけ鋭く人を傷つけるかを。そして、本物の牙と爪が、どれだけ無慈悲に命を奪うかを。
「やはり、骨格構造が他の魔獣と根本的に違う」
その夜、俺は討伐隊の兵舎の一角に設けた臨時の解剖室で、先日討伐した小型のクマの死骸と向き合っていた。アリアが、夕食のパンとスープを手に、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「また徹夜か?少しは休め」
「もう少しだけ。…面白いことが分かってきたんだ」
俺は血まみれの手で、解剖用のナイフを手に取った。
「こいつらの大腿骨だ。見てみろ、この密度を。同サイズの魔猪の三倍は硬い。これじゃあ、並の剣士の斬撃は骨まで届かないわけだ。それに、この胸腔内の赤い器官…魔力循環を司る心臓とは別に、もう一つ、熱量を異常に高めるための補助器官がある。こいつらの驚異的な突進力と回復力は、ここから来ているんだ」
俺は没頭していた。恐怖や憎しみではない。純粋な、科学的探求心。獣医師として、未知の生体の謎を解き明かすことへの興奮が、俺を突き動かしていた。
「ケンジ…お前は、怖くないのか?」
アリアがぽつりと呟いた。彼女は最強の騎士の一人だが、父を殺した相手と同じ種を、俺が平然と切り刻んでいるのが信じられない、という顔をしていた。
俺は一度メスを置き、彼女に向き直った。
「怖いさ。もちろん。でもな、アリア。俺は獣医だ。獣医の仕事は、命を救うことだ。だが、時には群れ全体を守るために、病気にかかった個体や、狂犬病のように他の動物に危害を加える個体を、安楽死させなきゃならない時がある」
それは、俺が学生時代に直面した、最初の壁だった。救うことだけが正義ではない。より多くの命を守るために、一つの命を奪わなければならない矛盾。その重い選択を、冷静な知識と技術で実行するのが、プロフェッショナルなのだと教えられた。
「俺にとって、この村は…いや、この世界の人間や動物たちは、守るべき『群れ』だ。そして、クロウ・オブ・マウンテンは、その群れに感染した致死率100%の『病気』なんだ。俺は今、その病原体を分析している。どうすればこの病気を根絶できるのか、その方法を探しているんだ」
俺は戦士じゃない。復讐心だけで剣を振るうこともできない。
だが、獣医師として培った知識と、命を守るという誓いがある。それこそが、橘ケンジがこの非情な世界で戦う、ただ一つの理由だった。俺は、俺なりのやり方で、この世界の獣医師になるのだ。
「…そうか。お前らしいな」
アリアはそう言うと、ふっと柔らかく微笑んだ。彼女の中で、何かが腑に落ちたような、そんな顔だった。
数日後、村の静寂は、一人の男の絶叫によって引き裂かれた。北の森で林業を営むキコリの村から、一人の若者が、文字通り這うようにして逃げてきたのだ。彼の片腕はだらりと垂れ下がり、全身はおびただしい数の切り傷で覆われていた。
「た、助けてくれ…『影喰らい』が…」
アリアの執務室に運び込まれた若者は、途切れ途切れに惨状を語った。
一週間前から、村の家畜が姿を消し始めた。最初は、ただのクマだと思っていた。だが、ベテランの猟師が仕掛けた罠は、ことごとく無力化された。吊り縄はかじり切られ、落とし穴は丁寧に埋め戻されていたという。
そして三日前、ついに人的被害が出た。夜番をしていた若者が、音もなく背後から襲われ、半分食われた姿で発見された。まるで、熟練の暗殺者のような手口だった。
「奴は…姿を見せないんだ。霧の深い朝や、嵐の夜を狙って、必ず一人になった人間を襲う。俺たちが作ったバリケードも、一番弱い場所を見抜いて壊していった…。まるで、俺たちの考えを読んでるみたいに…。もうだめだ、あの村は『影喰らい』に喰われる…」
話を聞きながら、俺は背筋が凍るのを感じていた。
ただの獣ではない。それは、明確な知性を持って「人間を狩る」ことを楽しんでいるかのようだった。これは、災害ではなく、戦争だ。知性を持つ敵との、知恵と勇気を総動員した戦争なのだ。
これが「山主」の片鱗なのか? それとも、まったく別の、新たな脅威の萌芽なのか?
いずれにせよ、放置すれば被害は拡大し、いずれはオークヘイブンにも牙を剥くだろう。
「…討伐隊を出す」
報告を聞き終えたアリアが、重々しく口を開いた。だが、その声には迷いがあった。
「しかし、今、主力を北へ送るのは危険すぎる。オークヘイブンには『山主』の脅威が残っている。王都の連中も、私たちが動けば『新たな火種を生んだ』と非難してくるだろう」
新米領主としての重圧が、彼女の肩にのしかかっていた。父を失ったばかりの村を守らなければならない。だが、助けを求める民を見捨てることもできない。
その時、俺はアリアの前に進み出ていた。
「俺に行かせてくれ。アリア」
「なっ…何を言っている、ケンジ!お前一人でどうするというのだ!」
「一人じゃない。少数精鋭で行くんだ」
俺は壁に掛かった地図を指し示した。
「大軍で行っても無意味だ。相手は知性で戦ってくる。ならば、こちらも知性で応じるしかない。俺の知識と、アリアの剣。それに、ギムリさんのような経験豊富なベテランが数人いればいい。これは討伐じゃない。『調査』と『駆除』だ」
俺の目には、恐怖よりも獣医師としての使命感が燃えていた。
「これは、放置できない『症例』だ。この『影喰らい』を分析できれば、必ず『山主』と戦うためのデータが手に入る。これは、オークヘイブンを守るための戦いでもあるんだ」
俺の言葉に、アリアの瞳に宿っていた迷いが消え、かつての強い光が戻ってきた。そうだ、彼女はこういう状況でこそ輝く騎士なのだ。
「…わかった。私も行こう」
アリアは立ち上がり、壁に掛かっていた父の形見の大剣を手に取った。
「父なら、そうしたはずだ。目の前で助けを求める民を見捨てることなど、決してなさらなかった。領主として、私もその道を行く」
彼女はもう、迷ってはいなかった。
こうして、俺とアリア、そしてドワーフのギムリと二人のベテラン隊員を加えた、たった五人の「特別調査駆除部隊」が編成された。
出発の朝、俺は革鎧の胸ポケットに、数本のメスと解剖用の器具を収めた。アリアは、昇る朝日をその剣に反射させながら、静かに言った。
「行くぞ、ケンジ。私たちの戦いを、始めよう」
北のキコリの村「ウッドヘイブン」に到着した俺たちを迎えたのは、死んだような静寂だった。家々の窓は固く閉ざされ、道には人っ子一人いない。まるで村全体が、巨大な墓標であるかのように、重く冷たい空気が澱んでいた。
「…間に合わなかった、か」
アリアが唇を噛み締める。村の集会所から現れた村長は、生気を失った目で俺たちを見ると、力なく首を振った。
「もう、手遅れですじゃ…騎士様。昨日、また一人やられました」
新たな犠牲者。その名前を聞いた時、俺は言葉を失った。
リーナ。村一番の賢者と慕われるエイレルの、たった一人の娘だった。彼女は、病気の母親を持つ友人のために、夜中に薬草を届けに行った帰り道、影喰らいに襲われたという。
俺たちはエイレルの家へと案内された。かつては様々な研究資料と温かい暖炉の火で満ちていたであろうその家は、今や冷え切り、主であるエイレルは、窓の外を虚ろに見つめたまま、人形のように動かなかった。知性の輝きを宿していたその瞳は、今は深い絶望の沼に沈んでいる。
「賢者様は…リーナ様を失ってから、一言も口を利かれんのです」
村長の言葉が、重く響いた。希望の灯火だった賢者が光を失った今、この村にはもはや、影喰らいに抗う意志さえ残っていなかった。
翌日、俺は村の猟師長に案内され、これまでに「影喰らい」に破られた罠の残骸を見て回った。それは、俺の想像を絶する、知性による破壊の展示会だった。
「まず、これを見てくだせえ」
猟師長が指さしたのは、巨大な落とし穴の跡だった。深さは5メートル以上、底には鋭く尖らせた杭が何本も突き立てられている。だが、その杭はすべて、根元からへし折られていた。
「奴は、穴の縁を少しずつ、少しずつ崩して、中の構造を確かめやがったんです。まるで土木作業のように、丁寧に、時間をかけてな。安全だと確信してから穴に降りて、この杭をすべて破壊し、囮の肉だけを食って去っていった。まるで『こんな子供騙しが通用するか』と、俺たちを嘲笑うみてえに…」
次に案内された森の中では、鋼鉄製のワイヤーを使った吊り罠が、無残な姿を晒していた。ワイヤーは、近くの鋭い岩に何度も擦り付けられ、断ち切られている。ここでも、吊るされていたはずの肉は影も形もなかった。
極めつけは、村の鍛冶師が自信作だと語っていた、大型の挟み罠だった。強力なバネで、竜の脚すら砕く威力を持つはずの罠だ。しかし、その鋼鉄の顎が食い込んでいたのは、標的の脚ではなく、人間ほどの太さもある巨大な丸太だった。
「奴は…どこからかこの丸太を運んできて、遠くから投げ込みやがったんです。罠の仕組みを、完全に理解している…」
猟師長の顔は、恐怖と、それ以上に、自分たちの知恵が弄ばれていることへの屈辱に歪んでいた。毒餌は毒の入った肉だけを選り分けて残し、音で驚かせる罠は、風の強い夜にわざと作動させて無力化する。
それは、もはや獣の知恵ではなかった。人間の思考を読み、その裏をかく、悪魔的な論理。ケンジとしての俺の獣医学的知識が警鐘を鳴らす。これは突然変異か? それとも、何世代にもわたって人間との戦いを学習してきた、新たな種の誕生なのか? どちらにせよ、この村の人々の心が折れるのも無理はなかった。
その夜、俺はエイレルの書斎にいた。彼が残した研究資料に、何かヒントがないかと思ったからだ。本棚には、魔獣の生態に関する膨大な記録が並んでいた。その中に、一冊の日記を見つけた。
『――リーナが8歳になった。森で捕まえた角ウサギの怪我を、私の手当てを見て覚えて、自分でしたいと言い出した。あの子は、命を慈しむ優しい子だ…』
『――クロウ・オブ・マウンテンの知性について仮説。彼らは単に経験を学習するだけではない。道具を使い、未来を予測し、さらには「欺瞞」という概念すら持つ可能性がある…』
娘への愛情と、学者としての探究心が、そこにはあった。俺は、この知識をここで終わらせてはいけないと強く思った。
一方、アリアは、ただ静かにエイレルのそばに座っていた。何も語らず、しかし、同じように父を失った者として、その悲しみに寄り添うように。
数時間が過ぎた頃だろうか。エイレルが、ふと、アリアに問いかけた。
「…クライフォルトの、お嬢様。あなたも…父君を…」
「はい」
アリアは静かに答えた。
「父は、私と民を守ってくれました。最期まで、辺境伯としての誇りを失いませんでした」
その言葉が、エイレルの心の何かを揺さぶったのかもしれない。彼はゆっくりと立ち上がると、震える足で娘の墓へと向かった。俺とアリアは、少し離れてその姿を見守った。
「リーナ…すまない…。お前は、あんなに怖かったろうに…父さんは、何もお前にしてやれなかった…」
嗚咽が、夜の空気に溶けていく。だが、ひとしきり泣いた後、彼は顔を上げた。その瞳には、絶望の色ではなく、燃えるような決意の光が宿っていた。
「リーナ…見ていてくれ。父さんの知識の全てをかけて、お前の仇を…この村の悪夢を、終わらせてみせる!」
村に戻ったエイレルは、別人になっていた。彼は村人全員を集会所に集めると、巨大な羊皮紙を広げた。そこに描かれていたのは、もはや「罠」と呼ぶにはあまりにも巨大で、緻密な、一つの巨大な機械装置の設計図だった。
「これを、『万象の檻』と名付けた」
それは、村の脇を流れる渓谷そのものを利用した、多重連動式の巨大トラップシステムだった。村の水車を動力源とし、テコと滑車の原理で、数十トンもの岩盤を落下させて渓谷を完全に封鎖・圧殺する。あまりに壮大な計画に、誰もが息を呑んだ。
「無理だ…」
「こんなもの、俺たちに作れるわけが…」
諦めの声が漏れる。だが、エイレルは叫んだ。
「一人では無理だ!だが、我々は一人ではない!リーナは、この村の娘だった!あの子のために、我々の未来のために、力を貸してくれ!」
娘を失った父親の魂の叫びだった。その気迫に、絶望に沈んでいた村人たちの心が、再び熱を取り戻していく。
「賢者様…」
「リーナちゃんは、うちの娘ともよく遊んでくれた…」
「そうだ、このまま黙って喰われるのを待つなんて、ごめんだ!」
「やってやろうじゃねえか!賢者様、指示をくれ!」
こうして、村の反撃が始まった。木こりたちは木を切り出し、鍛冶師は鉄を打つ。俺は獣医学の知識を応用し、影喰らいの行動パターンを予測して誘い込みのルートを設計し、アリアたちは村の警護と建設作業の中心となった。何週間も、村が一つになった。それは、悲しみを乗り越え、希望をその手で作り上げる、感動的な光景だった。
そして、ついに「万象の檻」は完成した。決行は三日後の新月の夜。誰もが、今度こそ悪夢を終わらせられると信じていた。
だが、運命はあまりにも残酷だった。
決行の前日、完成した罠のいくつかが、何者かによって破壊されているのが見つかった。滑車を吊るす最も重要なロープが切られ、水門を制御する歯車が砕かれていた。
「いったい、誰が…」
村人たちが呆然とする中、アリアの部隊が森の中で不審な集団を捕らえた。彼らは、王都から来たという、アルフォンスの思想に染まった若者たちだった。「生命の友愛団」と名乗る彼らは、何の罪悪感も無く、こう言い放った。
「我々は、聖なる森の主を、あなた方のような野蛮な罠からお救いしたのです!対話こそが唯一の道だと、なぜ分からないのですか!」
無知な善意。それは、いかなる悪意よりも、タチの悪い厄災だった。彼らは自分たちが正しいと信じ、その結果何が起こるかなど、想像すらしていないのだ。俺は、言葉にならない怒りで、ただ奥歯を噛みしめた。
修復には時間がかかる。だが、影喰らいはもう罠の存在に気づいているかもしれない。今夜を逃せば、二度とチャンスはない。
その夜、エイレルの立てた最後の作戦が始まった。まだ生きている囮と罠を使い、影喰らいを渓谷へ誘い込む。そして、破壊された最終装置は、誰かが直接そこへ向かい、手動で岩盤を落とすしかない。
「私が、行く」
エイレルが言った。誰もが止めたが、彼の決意は鋼のように固かった。
「これは、私にしかできん。そして、私がやらねばならんのだ。リーナのために…」
影喰らいは、現れた。これまでの比ではない警戒心を見せながらも、誘い込まれるように渓谷の奥へと進んでいく。そして、最終ポイントを通過した、その瞬間。
「今だ!」
合図と共に、エイレルはたった一人で、最終装置が設置された崖へと走った。俺とアリアも、彼の援護のために必死に後を追う。だが、影喰らいは俺たちの思考の、さらに上を行った。誘い込まれたと見せかけ、一体を囮とし、本体は闇に潜んでいたのだ。
エイレルが、最後のロックレバーに手をかけた、その時。彼の背後の闇が、音もなく揺らめいた。
「賢者様、後ろだッ!!」
俺の絶叫は、間に合わなかった。
影喰らいの巨大な爪が、月光を浴びて鈍く煌めく。エイレルは、最期の瞬間、穏やかな顔で空を見上げ、愛する娘の名を呟いた。
「…リーナ」
知識も、愛も、村人たちの希望も、その全てが、肉を断ち骨を砕く生々しい音と共に、無慈悲に砕け散った。
俺とアリアは、目の前で繰り広げられた惨劇に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。嘲笑うかのような影喰らいの咆哮が、父と娘、二人の賢者を失った絶望の村に、いつまでも響き渡っていた。
夜が明けた。だが、ウッドヘイブンに太陽の光は届かなかった。深い霧と、それ以上に深く立ち込める絶望が、村のすべてを覆い隠していたからだ。
俺とアリア、そしてギムリたちは、夜通し崖の下を捜索し、夜明け前にようやく賢者エイレルの亡骸を見つけ出した。それは、あまりにも無残な姿だった。彼の誇りであった知性を宿した頭部は砕かれ、その手足はありえない方向に折れ曲がっている。俺は獣医師として数多くの死を見てきたが、これほど悪意に満ちた死に様は初めてだった。影喰らいは、ただ殺すだけではなく、その亡骸を徹底的に冒涜することで、自らの勝利を誇示したのだ。
村へ戻る道すがら、俺たちは「万象の檻」の残骸を目にした。村人たちの希望の結晶であったそれは、影喰らいによって徹底的に破壊され、もはや瓦礫の山と化していた。
「あいつ…罠の構造を完全に理解してやがる…」
ドワーフのギムリが、苦々しく吐き捨てた。
「これはもう、獣の知恵じゃねえ。悪魔の所業だ」
村にエイレルの亡骸を運び込んだ時、俺たちを待っていたのは、労いや同情の言葉ではなかった。集まってきた村人たちの瞳に宿っていたのは、恐怖、そして…憎悪だった。
「なぜ…なぜ賢者様を一人で行かせたんだ!」
最初に声を上げたのは、若いキコリだった。その声が引き金となり、抑えられていた村人たちの感情が、濁流となって俺たちに襲いかかった。
「そうだ!あんたたち騎士団がもっとしっかりしていれば、賢者様は死なずに済んだ!」
「そもそも、王都からきた愛護団体の連中を、ちゃんと捕らえておかなかったからこうなったんだ!」
「違う!こいつらがここへ来た時から、すべてがおかしくなったんだ!」
誰かのせいにしなければ、この耐え難い現実を受け入れられない。その捌け口として、最後にこの村へやってきた「余所者」である俺たちに、全ての矛先が向けられたのだ。
アリアは、領主として、そして騎士として、その罵声を一身に受け、唇を噛み締め、ただ黙って耐えていた。その姿は、あまりにも痛々しかった。
エイレルの葬儀は、静かに行われた。いや、静かというよりは、冷え切っていた。村人たちは、俺たち討伐隊のメンバーを、まるで汚物でも見るかのように遠巻きに見つめ、決して目を合わせようとはしなかった。
その日から、村の空気は完全に変わった。俺たちが食堂へ行けば、周りの席から人々がさっと立ち去っていく。俺が診療所を開けても、怪我をした子供さえ親に手を引かれ、「この人に見てもらっちゃ駄目よ」と囁かれる始末。俺たちは、この村で完全に孤立した。
「ケンジ。これを」
ある晩、アリアが俺の部屋に食事を運んできた。彼女もまた、領主としての執務を村人からボイコットされ、まともに食事もできていないはずだった。
「…すまない」
「いい。気にするな。今は、耐える時だ」
彼女は気丈に振る舞っていたが、その声は微かに震えていた。父を失い、信頼していた賢者を失い、そして守るべき民にまで背を向けられている。彼女の心が、限界に近いところまで追い詰められているのは明らかだった。
「俺が来たせいで、事態が悪化しただけなんじゃないか…」
俺は、思わず弱音を吐いていた。俺の知識も、計画も、結果として二人の賢者を死なせ、村を絶望させただけだった。
「お前のせいではない」
アリアは静かに首を振った。
「元凶は、無知な善意を振りかざしたアルフォンスであり、この村を弄ぶ影喰らいだ。そして…民を守りきれなかった、私の責任だ」
彼女は、あまりにも多くのものを一人で背負いすぎていた。
その夜、影喰らいが再び村に現れた。だが、今回は家畜も人間も襲わない。ただ、村の外壁を巨大な爪でこれみよがしに引き裂き、畑をめちゃくちゃに踏み荒らし、そして夜の闇に消えていった。それは食料目的の襲撃ではなかった。村人たちの心をさらに折るための、悪意に満ちた示威行動だった。
その挑発は、村人たちの最後の理性を焼き切った。
「もうだめだ、この村は呪われている!」
「村を捨てて逃げるしかない!」
「いや、奴が怒っているのは、余所者がいるからだ!あいつらを生贄に差し出せば、森の怒りは静まるかもしれない!」
統率者を失い、恐怖に支配された集団は、いとも簡単に崩壊していく。俺は、この村そのものが、ゆっくりと死に向かっているのを感じていた。
悲劇は、満月の夜に起きた。
影喰らいの襲撃で、村の若い夫婦が営むパン屋が半壊させられた。幸い死者は出なかったが、夫は腕に重傷を負った。それが、最後の引き金だった。
「もう我慢ならねえ!!」
パン屋の主人の叫びを合図に、村人たちの怒りと恐怖が、一つの悪意ある結論へと収束した。
「あいつらだ!あの余所者たちが、厄災を呼び込んだんだ!」
「そうだ!あいつらを追い出せば、村は元に戻るんだ!」
その夜、俺たちが拠点としていたエイレルの家に、松明を持った村人たちが集まってきた。その数は、みるみるうちに膨れ上がっていく。彼らの瞳には、もはや理性のかけらもなかった。あるのは、恐怖と憎悪、そして、自分たちが正しいと信じ込む、集団心理の狂気だけだった。
「出ていけ、厄災め!」
「人殺し!」
「お前たちが賢者様を殺したんだ!」
罵声が雨のように降り注ぐ。俺とアリア、そしてギムリたちは、家の内側で固唾を飲んだ。アリアは剣に手をかけたが、その刃を民に向けることなど、彼女にできるはずもなかった。
そして、群衆の中から一人の男が走り出ると、燃え盛る松明を、エイレルの家の乾いた木壁に向かって、力いっぱい投げつけた。
パチパチ、と小さな音がしたかと思うと、炎はあっという間に燃え広がった。乾いた木材が爆ぜる音。窓ガラスが熱で砕け散る甲高い音。そして、ゴウゴウという、全てを飲み込まんとする炎の咆哮。
「逃げるぞ!」
ギムリの叫び声で、俺たちは我に返り、裏口から辛うじて脱出した。振り返ると、俺たちのいた家は、巨大な火柱と化していた。
炎に照らし出された村人たちの顔は、まるで悪魔のようだった。彼らは、自分たちが何をしているのか、分かっているのだろうか。
ああ、燃えていく。
エイレルが遺した、膨大な研究資料が。娘リーナとの思い出が詰まった、ささやかな家具が。俺たちがこの村で過ごした、短い時間の記憶が。知識と、愛と、希望の全てが、無知と憎悪の炎に飲み込まれ、黒い煙となって夜空に昇っていく。
俺は、ただ呆然と、その光景を見つめていた。
やがて家は崩れ落ち、後に残ったのは、燻る炭と、絶望的な静寂だけだった。
俺たちは、村の中央で、松明を持った村人たちに完全に包囲されていた。彼らはもはや、アリアが守るべき民ではなかった。憎悪に駆られた、暴徒だった。
アリアは、父の形見の大剣を抜いた。だが、その切っ先を村人に向けることはせず、ただ、俺たちを守るように、静かに、しかし決して退かないという意志を込めて構えた。その瞳には、深い悲しみと、領主として民に裏切られた絶望、そして、すべてを焼き尽くすかのような、静かな怒りの炎が宿っていた。
俺は、燃え尽きた家の残骸を見つめていた。
もう、この村を救うことはできないかもしれない。人々は、恐怖に心を喰われてしまった。守るべきものは、この手からこぼれ落ちてしまった。
だが。
俺はゆっくりと顔を上げた。胸の奥底で、冷たく、そして硬質な何かが生まれたのを感じた。
獣医師として、群れを守るという誓い。それは変わらない。だが、その手段はもはや一つしか残されていない。
群れ全体を蝕む『病原体』そのものを、根絶する。
俺はアリアの隣に立った。
もう、この村人たちのために戦うのではない。彼らをここまで追い詰めた、元凶を断ち切るために戦うのだ。
「…行こう、アリア」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「俺たちのやるべきことは、変わらない」
炎が、燃え盛っていた。
俺たちが拠点としていた家が、賢者エイレルが娘と過ごした思い出の場所が、村人たちの手によって燃え落ちていく。憎悪に歪んだ顔、顔、顔。松明の明かりが、彼らの正気を奪い、集団という名の巨大な怪物へと変えていた。
「…行け」
背後から、低く、しかし鋭い声がした。ドワーフのギムリだ。彼と数人のベテラン隊員が、俺たちと村人の間に立ちはだかっていた。
「ここは俺たちが抑える。お前たちは一度、ここを離れろ。アリア様…いえ、辺境伯。あんたが今ここで倒れるわけにはいかねえ」
「しかし!」
「領主の仕事は、民を信じることだ。だが、時には民の愚かさから距離を置くことも、また仕事だ。今は行け!頭を冷やせ!」
ギムリの言葉は、命令だった。アリアは唇から血が滲むほど強く噛み締め、一度だけ深く頭を下げると、俺の腕を掴んで走り出した。背後で響く罵声と、崩れ落ちる家の轟音を振り切るように、俺たちは闇の中をただひたすら走った。
憎しみも、悲しみも、怒りも、今はどこか遠かった。ただ、胸の中にぽっかりと空いた巨大な穴から、冷たい風が吹き抜けていくだけだった。