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第1話:完成された天才!

「フム……」


王都の外れ。私の研究室に、西日が差し込んでいる。埃が、実に非合理的なブラウン運動を描きながら、光の筋を横切っていく。

私の名はエラーラ・ヴェリタス。知識の探究者。最強の魔導師。元・最強の騎士。


「だが、それが、なんだというのかね?」


私は、冷めかけた珈琲のカップを見つめた。

最強。最強ね。なんと空虚な響きだろうか。魔術の真理は9割方解明してしまった。剣の道も極めた。王都警察のカレル警部から時折持ち込まれる「非論理的な」事件も、私の論理の前では、数時間で解を露わにする。

私は、この世界の全てを「観測」し、「解析」し、「理解」してしまった。


(……いや)


私は、思考を修正する。


(一つだけ、私の論理の外にある、最大のブラックボックスが残っている)


それは、私自身の「人生」というやつだ。

私は何のために、この最強の知性を与えられたのか。知識を蓄積し、現象を解析し、その先に何がある?この胸の奥で時折疼く、この非合理的な「虚無感」という感情は、いったい何の関数なのだ?


「……フム。観測不能領域だとも」


私は、大げさな身振りで天井を仰いだ。


「ニャア」


足元で、押し付けがましい音がした。研究室に勝手に住み着いている、黒猫だ。


「うるさいねぇ。私は今、重要な哲学的思索の真っ最中なのだとも。君のような、論理性の欠片もない毛玉に、構っている時間は……」


言いながら、私は無意識に屈み、その喉を撫でていた。猫は、実に満足げに、不気味なゴロゴロ音を立てている。


「……フム。猫という生命体は、これだから好かん」


その時だった。階下から、慌ただしい足音と、聞き慣れた声がした。


「エラーラ君! いるかい?」


「……カレル警部か。ドアは開いているとも。君のノックの仕方は、相変わらず性急で非合理的だ」


息を切らして入ってきたのは、王都警察のカレル警部だった。その疲れた顔には、いつもの事件の匂いではなく、奇妙な「困惑」が浮かんでいた。


「今日は事件では……いや、ある意味、事件なのだが…」


「なんだね、歯切れが悪い。私の貴重な時間を、君のどもりで浪費するな」


「……。実は、身寄りのない少年を一人、保護していてね」


カレルの背後から、一人の少年が、おずおずと顔を出した。

黒髪。黒い瞳。歳の頃は、15、6だろうか。整いすぎた顔立ちは、まるで精巧な人形のようだ。


「森で倒れているところを、偶然……。そして、一切の記憶を失っている、と。持ち物も何もない。ただ……」


カレルは、声を潜めた。


「……ただ、彼の知性が、常軌を逸しているんだ。私の部下が、試しに解かせた古代魔導語の暗号を、彼は、一瞥しただけで解いてしまった。ありえない!」


「ほう……」


それは、私の興味を引くには、十分すぎるデータだった。

私は立ち上がり、少年の前に屈み込んだ。大げさな身振りで、彼の顔を覗き込む。


「君。名は?」


「……タイガ。……それしか、思い出せません」


声は、ハスキーな私とは対照的な、澄んだテノール。


「フム! タイガ君か! 記憶喪失でありながら、知性は残存している。実に興味深いサンプルだとも!」


私は、興奮で早口になった。


「カレル警部! このサンプルは、私が預かろう! 彼の『失われた論理』を私が解析してみせる!」


「し、しかしだね……」


「いいから、いいから! さあ、タイガ君! 君の脳に、一体何が記録されているのか、この私に観測させてくれたまえ!」


タイガは、困ったように、しかし完璧な人懐っこさで微笑んだ。



タイガの「観測」は、私の日常に、久々の「論理的な興奮」をもたらした。

彼は、天才だった。

私が提示するどんな難解な魔術理論も、彼は、スポンジが水を吸うように瞬時に理解し、応用してみせた。


「フム! 素晴らしい! その解に至るまでの速度、私の全盛期に匹敵するとも!」


「エラーラ先生の、ご指導のおかげです」


彼は、常に謙虚で礼儀正しく、そして、私の淹れる苦い珈琲を「美味しい」と微笑んで飲める、唯一の人間だった。

私の「人生の意味」などという非合理的な悩みは、この新しい「観測対象」の出現によって、すっかり霧散していた。

あの日まで。


その日、私は、王都の魔力炉の次世代安定化魔術式の構築に没頭していた。数式はあと一歩で完成する。


「タイガ君!」


私は、背後の彼に声をかけた。彼は、私の助手として、完璧に、私の思考を先読みして動いてくれていた。


「すまないが、棚の上から『A-38』の魔導水晶を取ってくれないか! 今、手が離せん!」


「……はい。分かりました」


いつもより、ほんのわずかに、返事が遅れた。だが、私は計算に集中していた。


「……フム。これでよし。やはり私のロジックは完璧だとも! さあタイガ君、その水晶を……」


私が、振り向いた、瞬間。

私の視界に映ったのは、彼が、無表情で、私の机の上にあった、ずっしりと重い魔力観測用の「水晶のロッド」を振りかぶっている姿だった。


「……フム?」


それが、私の、最後の「論理的」な言葉だった。

次の瞬間、私の側頭部に、最強の騎士であった私ですら反応できないほどの完璧なタイミングで、凄まじい「物理的」な衝撃が加えられた。

視界が、暗転する。


(……なぜ?)


(彼は、なぜ、私を?)


(……いや。待て。このデータは……)


(……ああ。そうだ。私は、ずっとこれを……)


(……最強の私を殺せる、唯一の『解』……)


(……それは、私の『論理』が、観測を放棄した、『信頼』という名の、非合理的な……)


最強の魔導師、エラーラ・ヴェリタスは、魔法も剣技も何一つ使うことなく、一人の少年の、単純な「鈍器」による一撃で、あっけなくその機能を停止した。

私の人生とは、何だったのだろうか。

ああ、だが、まあいい。

この、「死」という名の未知のデータ。

実に、実に……興味深い、とも……

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