一港人、小学校四年生
あの頃は真夏でも窓を開ければ、山から吹き下ろす夏草の匂いが混ざった風が気持ち良かった。
ここが俺の始まりの場所。この時の思い出は決して消えることはないだろう——
テレビでは、今日の天気と今日のニュース、それと昨日のゾーン発電での発電量が取り上げられている。
ここは村の外れの大きな家。民家がほとんどなく荒地ばかりのここは、テレビをつけないとシーンという音がうるさい。
俺、一港人はだだっ広いリビングダイニングの大きなソファーに一人ポツンと座ってテレビを観ている。
夏休みだけど、父さんも母さんも仕事。晴れていて電気をつける必要はないけれど、青白い程明るい照明をつけて寂しさを紛らわす。
暇でテレビのチャンネルを回していたら、また母さんが表彰されていた。昨日、地方都市分の電力を発電したそう。
「……母さんってやっぱ凄い」
今つけている電気だって、母さんたちが命をかけて発電したもの。そう思うと、部屋の明るさが少しだけ苦しく感じる。
「俺も頑張らないと」
テレビを消して、頬をたたき、ガラスのローテーブルに塾の宿題を広げて勉強を始めた。窓を開けているから風と共に、隣に住む幼なじみの家からわいわいと兄妹げんかする声が聞こえてくる。
「あー、この先生宿題多すぎだよ。 めんどくせせーなー」
大きな声で独り言を言う、隣の声に対抗して。書き殴るように宿題を終わらせても、まだ自分にはやる事が残っている。
窓を閉めて冷房をつけ、部屋の端にあるグランドピアノの椅子に座る。隣の家にはない冷房は、一度つけると頭が冴えるような涼しい空気が流れてくる。
視線を前に向けると、目の前にある本棚が目に入る。本や辞書、これまで使った問題集などがぎっしり詰まった本棚が塾の先生みたいにジッと俺のことを見る。
自分の頬をつねって気持ちを切り替え、今日分の練習をする。
これさえ終われば、あと少し、と何度も自分に言い聞かせる。
義務のように一時間の練習をこなした俺は、急いで学校のプールの道具を持って隣の家へ走った。走るほどの距離でなくても、体が勝手に動くんだ。
やたら大きい自分の家の隣には、小さな木造の家がある。
外から家の中が丸わかりになるほど小さな二階建ての家。その縁側ではよく似た顔立ちの兄妹が傷だらけのちゃぶ台で向かい合って宿題をしている。
「あっ! 港人くんー!」
ハツラツとした声で俺に向かって手を振っている彼女の名前は、二ノ宮市華。二学年下の女の子だ。
彼女の笑顔は、照明なんて必要ないくらい周りを明るく照らす。俺の服お下がりを着ている市華は、絵に描いたような女の子らしい可愛い顔つき。
「市華ちゃん、宿題終わった?」
「あとちょっとー」
側に寄って彼女の長い髪を優しく撫でる。サラサラしていて柔らかくて、風に乗って甘い香りがする。
いつも、そのままぎゅっと抱きしめたくなる衝動をギュッと我慢するんだ。だって向いには市華ちゃんの兄である二ノ宮朔臣がいるから、今じゃない。
朔臣は俺と同じ学年。彼は問題集に落書きを楽しそうにしている。丸坊主で、いたる所にかさぶたがあり、顔にだって傷がある。服もボロボロだ。
「おい朔臣ー、お前落書きばっかしてんじゃねーよ」
朔臣は口を尖らせる。
すると市華ちゃんは「お兄ちゃんまだその問題分からないのー?」と小馬鹿にしたように言う。
「俺バカだから分かんねーんだもんっ。 港人、俺の宿題代わりにやって!」
と問題集を投げだして、家の中に入っていった。あらゆる空白は落書きで汚いのに答えの所だけ何も書かれていなくてキレイなまま。
「それよりさー、早くしねーとプール遅れね? もういこーぜ!」
プールの道具を持った朔臣は畳の部屋中をクロールの動きをしながら走り回っている。そんな朔臣をブスッとした目で見る市華は「お兄ちゃんかっこ悪い」と呟き、宿題のプリントの問題を解いている。
市華ちゃんは小さな手で短くなった鉛筆を握り、小さな消しゴムで書いたり消したりを繰り返している。算数の問題に苦戦している様子だ。
「市華ちゃん。 あとどのくらいかかりそう?」
「えー、分かんない」
プリントの残りの問題と、念の為に裏側も代わりに見てやる。裏面に問題はなかったが、時計を見るとあと数分で出発する時間だった。
「市華ちゃん、残りは帰ってからやろ? 俺が分からない問題教えてあげる」
市華ちゃんは救われたみたいにパッと顔色を輝かせてニコッと微笑むと、釣られて俺も笑っていた。
「嬉しいっ! 港人くんに教えて貰ったら、私天才になれちゃうかもー!」
市華ちゃんはルンルンでプールの道具を取りにいく。その途中で兄の朔臣とぶつかって、バシバシとたたいてケンカをして。
この何気ない二ノ宮家の光景を見ると、胸がホッとする。照明のボタンに書かれている『日の出てる間はつけない』というメモ書きも、冷蔵庫に貼ってあるオヤツのメモも、開けたら閉めると赤い文字で大きく書いてあるのも、また二人がぶつかって喧嘩している声だって羨ましい。
家から出たら、市華ちゃんを真ん中にして三人で手を繋いで学校へと向かう。
一度家から離れると辺りは荒地ばかりで人陰すらない。俺たちがいくら声を上げて話しても注意されない、自分たちだけの世界。
「お兄ちゃんの手、あつーい」
「お前の手もあついけどっ!?」
それでも三人は決して繋いだ手を離さない。
『ここは村の外れだから学校へ行く時は必ず手を繋いで。 飢えた人に襲われたら、誰もいないから助けられないぞ』
という言い付けがあるから。
でもそんな言い付けなんて、俺はともかく朔臣はきっと忘れてる。
「やーい! 朔臣のバーーカ」
「お兄ちゃんのバーーカ」
「うるせーなー! 港人はちげーけど、市華も俺と同じバカだろバーーカ!」
また市華ちゃんと朔臣がケンカしても、暑くても、並んで歩いて腕を擦り寄らせ、大声を上げて笑っている。
夏の活気に負けないくらい騒ぐ俺たちを、遠くにそびえ立つ青白い光環タワーが静かに見下ろしていた。
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