北の麗しき獣
「止めろ」
馬車が止まり、御者台の覗き窓からこちらを伺う視線が降ってくる。
「銀貨を」
小間使いが、御者に銀貨を渡す。
「これをあの者どもに渡すので?」
路地裏からこちらを覗き込む幾つもの目。
欲し、諦め、それでも期待し、それを抑え込むのが生きる術だと。
そう思い知らされた者たちの弱々しい視線。
いつ消えても誰も気にも留めることのない、仄かな命の火。
「愚かだな。お前、銀貨を食って腹が膨れるか? 買えるだけパンを買ってばらまいてこい」
「……かしこまりました」
御者が台から離れ、一度馬車が大きく揺れる。
「さすがお姉様、お優しいのですね」
心酔と憧憬。
小間使いの目に映る私はさぞ素晴らしい女なのだろう。
くす。
「お姉様?」
「いや、なんでもない。お前は可愛いな」
頭を撫でてやると、小間使いは幸せそうにくしゃりと表情を崩した。
ハンスウェルド皇国の北、北部諸国連合を打ち立てた高級娼婦。
彼女は貧民だった家族に、端金と引き換えられた。
売られた娼館の女主人に問われる。
「人間、夢がないと目先のことに追われて小さくまとまっちまう。それじゃつまらないだろう?なんでもいい、お前の夢を言ってみな」
たった今売られたばかりの泥だらけの小娘に、このババァは何を言っているのか。
夢? そんなもの、腹の足しにもならない。
「わたしは…こんなクソみたいな世界、グチャグチャにぶっ壊してやりたい!」
噛み付くように、言い捨てる。
きょとん。
「は? ……ははっ、いいね気に入った!使い潰すつもりだったが、面白い。それが本気だってんならいいさ、私らなりの戦い方全部叩き込んでやる。あとは好きにしな」
たった一人の小娘が、か弱い国々を不壊の大国に牙を剥く獰猛な獣と変貌させる。
これは、そんな世界の断片。
娼婦狂いならずとも知らずにはおれぬ、至宝も霞む高級娼婦。
大金を積んでも地位を振りかざしても、目通りも叶わぬ高嶺の花。
諸王すら袖にするというまことしやかな噂が、口から口に飛び回る。
春を鬻ぐためでなく、掴めぬ明日を掴むため。
女たちがどれほど嗤おうとも、男たちは信じ縋り、全財産を差し出して智者との邂逅を願う。
事実、彼女が北部で並ぶものなき智恵と知見と人脈を備えていたのは確かだった。
恩恵にあずかれるか否か、それは彼女の気分ひとつ。
ある日、諸王が彼女の前で一同に会す。
「どういうおつもり?」
問うたのは彼女。
「潰し合い互いをすり減らすのはあなた方王族の癖というものでしょうか?
そうでないならいかがでしょう。皆さまで仲良く手を組みませんか? 敵は一つ。それで充分では?」
指し示すは南。
「諸国の境など曖昧にしてしまえばいいではありませんか。道を敷き、森野を拓き、街を増やしましょう? 私は、その方がずっと好ましい」
諸王を束ね皇国に対抗する連合の結成を約させる。誰がそのようなことを想像しえただろうか。
だが、国の境を飛び超えた共同体構想。それは成った。
兵士は剣を鍬鋤に持ち替え、それでも人が足りず貧民も孤児も駆り出しての急速な発展。
道は敷かれ、森野は拓かれ、新たな街が幾つも築かれた。
取るに足らぬ羊の群れが、突如巨獣の貌を見せる。
皇国は、静かに評価を改めた。
脅威の端緒はいずこか、と。
見えざる長い手は北部を舐めるように這い回り。
それはついに、端緒たる者の首に届いた。
処刑台の上から見える民衆の顔、顔、顔。
見たいのは、そんな表情ではない。
仕方ない、手本を見せてやるとするか。
「言い残すことはあるか?」
いよいよか。まぁそんなことどうでもいい。
高級娼婦として最初に身に付けた武器。
ババァ曰く生来の魅力。
客曰く天上の美。
焼き付けろ、これが至高の笑みだ。
誰もが皆貧しく、意味も益もなく下を向いてばかり。
そんな寒々しい世界が心底嫌だった。
だから壊した。
王でもなんでもないただの私が、私の手で。
「言い残すことはあるか?」
余計なことは言ってくれるな。
処刑官の表情が、覆面の上からでも透けて見える。
「ざまぁみろ」
北部一の大輪。
それは今こそ咲き誇った。
遠く、処刑場の喧騒。
空になった酒杯を転がす。
テーブルの端に至り、落ち、木杯の甲高い音が虚しく響く。
「……つまらなくなるね」
溜め息は静かに、場に溶けて消えた。




