【ケンジ】春樹
「瑞希、あなた何か食べないとダメよ。あれから2週間、ほとんど何も食べていないじゃない。そんな事じゃケンジくんや春樹が帰ってきても、喜んでくれないよ」
「うん」
「心配なのはわかるわ。だけど、信じましょう。あの子たちは、いつかきっと帰ってくるわよ」
「うん」
力なく笑顔を浮かべて頷いては見たものの、瑞希の手は膝の上に置かれたまま、軒先から広がる庭をぼんやりと眺めていた。すると玄関の方から勢いよく引き戸を開く音が聞こえてきて、家政婦から驚きの声が上がった。
「は、春樹さん!?」
春樹が唐突に帰ってくる事は珍しくはなかったが、髪や髭も無造作に伸び、ボロボロの服を身にまとい、悪臭を放つその変わり果てた姿を見て、皆が驚いていた。
「よお瑞希、母さん、久しぶり」
その匂いに怯んだ瑞希とは対照的に、良子は近寄ってまじまじと見つめた。
「ちょっと春樹、あんたどうしたのよ、その格好!? いつもより相当汚いわよ」
「ああ、最近風呂入ってねえし、着替えもしてねえからな。それより、ケンジいるか?」
「ううん。あの日から帰ってきてないの。ヒロさんやタケトさんに聞いても待ち合わせに来なかったって言うし。春樹、あなたこそ何か知っていたら教えて」
「瑞希はあれからずっと探し回ってご飯も食べないの。貴方からも食べるように言って」
「ああ、やっぱ帰って来てねえんだ。そうか……」
春樹は頭を掻きながら、また出て行こうとした。
「ちょっと待って。やっぱり、何か隠している事があるんじゃないの? 何でも良いの。何でも良いからケンジくんのこと、教えて」
春樹は立ち止まったが、振り返ろうとはしなかった。
「春樹、ケンジ君はね、あの日はキャニックスに行って、自分は辞退して春樹を加入させてもらえるように頼みに行くつもりだったのよ。あの子、近いうちにどこか遠いところに行かないといけないらしいの」
「何だって!?」
「あなたには話さないといけないと思いながらも、なかなか言い出せなかったみたいよ。理由は言えないらしいけど、どうしてもって。でも、その日が来るまではお世話になっているからって、ライブや練習が終った後、いつも家やお店の手伝いをしてくれていたわ。そして、いつも春樹の心配をしていたのよ。自分が来た事で、春樹に迷惑をかけているんじゃないかって」
良子の言葉に、春樹は立ち尽くしたまま動けなかった。
「あとどれくらいの時間が残っているのかはわからないけれど、私はケンジ君に会いたい。少しでも傍にいたいの。このまま会えなくなるなんて、耐えられない! だから春樹、教えて、何でも良いの。あなたが知っているケンジ君のこと、教えて、教えてください……」
その場に座り込んで泣き崩れる瑞希に良子が寄り添い、背中をさすった。
「春樹、ただ事じゃないことは私にもわかるわ。だけど、このままじゃ後悔するわよ。あなたたちの人生はこれからの方が長いの。今ここで正せるのなら、遅くはないわ」
春樹の両肩は震えていたが、しばらくすると顔を上げ、二人のほうへ振り向いた。
「帰ってきたら全て話す! 俺、ケンジ探してくるわ!」
「春樹! とにかくお風呂入ってから行きなさい!」
良子の叫びにも春樹は振り向かずただ右手を上げ、そのまま走り去った。




