【ケンジ】焦燥
タケトのカウントが聞こえ出すと、観客は一気に湧き上がり、会場は異様な空気に包まれた。ケンジのギターがうねり、いつもの様にスナッジのライブが始まった。
バラードを歌い終える頃には、透き通るような春樹の歌声に観客はすっかり酔いしれていた。照明が切り替わりアップテンポの曲が流れだすと、観客は先ほどまで流していた涙をぬぐいながら、笑顔で飛び跳ねだす。
春樹はその光景が大好きで、いつもの様にモニタースピーカーに足を置きながら会場を見渡していると、入口の脇に椿原が腕組みをして立っているのが見えた。ケンジの方へ振り返って見ると、いつものように淡々とギターを掻き鳴らしている。
二回目のアンコールを終えて、いつも通り通路での握手会で最後のファンを送り終えると、春樹は無言でツカツカと歩き、楽屋に戻っていった。
「春樹、今日は何か様子が違ったな。歌も、途中から必要以上にシャウトしていたし。ケンジ、お前は何か知っているか?」
「いや」
「ヒロは?」
「知らん」
「ん~、て事は、俺か? もしかして昨日のトンカツ弁当から、間の一枚を食った事かな?」
タケトが独り言を呟きながら楽屋の前に来ると、勢い良くドアが開き、春樹が出てきた。
「おい、ヒロ、タケト、今日は飲みに行くぞ。俺が奢ってやる。ケンジ、お前は未成年だからダメだ。大人しくホテルで寝ていろ」
「え? 春樹、もう着替えたのかよ? ち、ちょっと待ってくれよ」
ドアに鼻をぶつけて鼻血をボタボタと垂れ流しているタケトと、それを見ていたヒロは急いで着替え、慌てて春樹の後を追った。
いつも喉を大切にしてライブの中日には絶対に酒を飲まない春樹にしては珍しいと思ったが、疲れがたまっていたケンジは、そのままホテルに帰って倒れるように眠りについた。それからまたしばらく全国を巡り、ライブを繰り返した。
時々会場に椿原が現れると、その日の春樹は必ずヒロとタケトを誘って飲みに行くようになった。ある日のライブでハイ・トーンが出なくなった春樹は、観客席にマイクを向けてごまかしていた。
その日の終わりに、ケンジは春樹に声をかけた。
「大丈夫かよ? 喉、調子悪いんじゃないのか?」
「……俺に構うな」
「何かあったのか? 春樹くんらしくないぜ」
「ほっといてくれよっ! お前に何がわかる!?」
気がつくと春樹はケンジの左手を捻りあげていた。
「痛いよ」
春樹はふと我に返り、慌ててその手を離した。
「わ、悪かったよ。でもケンジ、本当に俺に構うな。ほら、ヒロ、タケト、行くぞ」
ヒロとタケトは何も言わずケンジの肩に手を置き、横を通って春樹の後について出ていった。春樹はこのまま腕を折ってしまいたいという抑え切れないほどの衝動に駆られた自分に驚き、しばらく自分の右手のひらを見つめながら、繁華街の中に消えていった。




