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「ばいばーい」

「ばいばーい」

 五歳くらいと思える子供が手を振りながら前方不注意に駆けていく。

 母親と手を繋いでもなお、たまにこちらを振り向く少年に遊季はずっと笑顔を向けていた。

 街中で見知らぬ――本人は面識があるらしい――子供に突然話しかけられるということは、双色紗季にとっては日常茶飯事である。そのせいもあって、容姿が酷似した遊季も同じ現象に見舞われることがしばしばある。駆け寄ってくる少年少女の中で、果たして同じ顔をした人物がこの街に二人いるということを理解している奴は何人くらいいるだろう。

 有り体に言うならば双色姉弟は街の人気者だ。声をかけてくるのは子供だけではない。商店街を歩けば八百屋でも肉屋でも、店屋のおっちゃんおばちゃんは何かを持たせたがるし、井戸端会議をしている主婦は嬉しそうに輪に引き入れようとする。この街で二人を嫌っている人物はおらず、みんながみんな二人を好いているといっていい。

「ごめんね律」

 笑顔のまま顔の前で手を合わせる。

「いや、いいけどさ」

 遊季や紗季と街を歩くと悪意のない足止めが数分ごとに訪れるが、それにももう慣れた。それくらいに仁徳のある幼馴染を持ったことを誇りに……は別に思わないが、二人のそんな素養には心から感心している。だから咎める理由はどこにもなかった。

「ふぅん」

 じぃ、と顎の下辺りから遊季の顔が見上げてくる。なんだろう。

「怒ってないんだね」

「まあな」

「さっきのでもう五回目だよ?」

「だな」

「今の子、男の子だったけど?」

「それが?」

「嫉妬しないの?」

 思わず変な声が出そうになった。

「――っん、んん」

 というか堪え切れていなかった。咄嗟に咳払いを被せて誤魔化してみるが、やはりそれでは遊季を躱せない。にたぁ、と悪戯を成功させた子供の笑みを浮かべる。こんな顔をした遊季は碌なことを言わないのを俺は知っている。

「はい、律の敗けー」

 何の勝負だよ。

「あは。でもあれだね。案外律も素直なんだね」

 待て、それだと嫉妬とか何とかいうおまえの妄想が、まるで俺の本心みたいじゃないか。俺はそんな風に否定しようとして、しかし寸でのところで思い留まる。ここで遊季のペースに飲まれてはいけない。そうなれば相手の思う壺だ。

 あくまで冷静に黙秘する。冷ややかな視線で遊季と対峙した。

 すると遊季は、なんだ、とか言いながら唇を尖らせる。そして、

「僕の敗けー」

 と勝敗の判定を覆す。こっちだってこんな性格の姉弟と十年も付き合っているのだ。いつもいつも思い通りにされてたまるか。

「つまんないなー、律は」

「おまえは楽しそうだな、遊季」

「そりゃそうだよー」

 くるくる回る。ふわりと舞って回転するスカート。夕日を浴びる白くて細い脚。誰がこの姿を見て、遊季を男だと思うだろう。顔立ちは中性的で体の線は細い。髪型と服装だけで簡単に自己を偽れる。

 遊季が女装しているのには理由がある。

 今からは想像もできないことだが、幼少期の遊季は酷く病弱な上にある持病を抱えていた。全身性エリテマトーデスという名の膠原病の一種。それも重度の。実は遊季はこの病気で一度死にかけている。

 男女比率では実に一対九の割合で発病するこの病気を、男である遊季が発病してしまったのだ。病気まで遊季の性別を間違えたのか、という軽口も言えない。俺は今でも、頬の下部に紅斑を現しながら苦しむ遊季の姿を覚えている。

 だが幼かった遊季が九死に一生を得た後、症状は一度も見られない。医療機関において用いられるのに相応しくない『奇跡』という言葉がこの件に関しては適当に思えた。一度死にかけた遊季の病状が奇跡的に完治したのだ。

 とはいえ。

 闘病生活が遊季から活気を奪った現実だけは直ぐには回復しなかった。子供の頃に、顔に痣を作って日々を過ごし、あまつさえ屋外で突然倒れるようなこともあったのだ。遊季が引きこもりがちになるのも無理はない。それでも遊季が今のように立ち直れたのは、姉である紗季の存在があったからだ。

 紗季は外に出られない弟の遊び相手として――俺や、蒼や、九ノ瀬……他にも沢山の同級生を家に連れてきたらしい。らしい、というのはこれが遊季からの伝聞だからだ。また、遊季はこうも言っている。お姉ちゃんの友達だから、女の子と遊ぶ機会が多かった、と。

 まさかそれだけで、と言いたいがこれが現実だった。

 ……まあ、小学生の間は紗季はまるで自分の弟を着せ替え人形みたいにしていたからな。遊季にも一切の抵抗意思が見られなかったし、やはり本人の素養という面も大きい気がする。

「ねえ律」

「なんだよ」

 くるくる回るのを止めて、遊季が後ろ向きに歩く。俺は前進しながら遊季を見、遊季は後退しながら俺と目を合わせる。アメフトのパスマークみたいだ。

「律は僕といっしょにいて、どきどきする?」

「誰がするかよ」

 いつ暗殺されるかケネディ的などきどきはなくもないが。それだって今日のこの瞬間においてはあり得ない。思いつつ、俺はちらりと背後を窺った。と、外れた視線を直ぐに呼び戻される。律、と呼ぶ短い声。俺は再び自分の前を行く人物に視線を移し――

「これで、どきどきする?」

 瞬間。

 そこにいる誰かを見間違うところだった。

「さ――――」

 紗季、ではない。

 それは、髪を解いた遊季だった。

 黒髪は、本人には及ばずとも肩口下まで伸びている。それが夕日の逆光で長さを曖昧に見せ、長く影を引いて彼女を幻視させた。瞳の色の違いも直ぐには気付けない。鮮やかに笑う姿が綺麗だった。その姿を紗季のものだと本気で思い込まされるほどに。

 風が吹いて遊季の髪を巻き上げる。それを、慣れない下ろした髪を指で押さえる姿を遠く眺めた。

 ぺろり、と遊季が舌を出す。

「えへへ。ロングも似合いそうかな?」

「……なにがしたいんだよ、おまえは」

「んー? お姉ちゃんの真似してみようと思って」

 そんなことをする意味がどこにあるのか、俺の顔はきっとそんな感じの不満を見せていたのだろう。遊季の頬がぷくぅと膨れる。当然だが細かい動作の一つ一つが紗季そっくりだ。瞳の色は解り辛く、髪の長さも測り辛い。今この場での擬態は完璧過ぎる。頭では目の前の相手が遊季だと理解しているのに、心はその認識と別に紗季を想起してしまう。

「だってさ、これ、デートなんでしょ?」

 昨日九ノ瀬は確かにそんな口上で遊季に約束を取り付けていた。しかしまさか本気にしているのか、こいつは。いくらなんでもそれほど馬鹿なことはないだろう。

 遊季は頬を膨らませたまま、子供のように剥れて文句を垂れ流す。

「律は、お姉ちゃんとデートしてる方が楽しいと思うから」

 ――だから。

「僕が、お姉ちゃんの代わりになってあげる」

 渚もきっと。

 そういうつもりで僕に、こんなことを頼んだんだと思うから。

 遊季の眼は、表情は、この時にはもう笑っていなかった。

 真剣そのものの眼差し。これ以上の黙秘を許さない真摯な瞳に唾を飲む。俺は、吸い込まれてしまいそうな遊季の瞳を覗いた。群青色、紺碧という方が正しいか。向き合ってみればなんてことはない。面影をいくら重ねてもやはり、それは遊季だ。

 臆することはなく、装うことも偽ることも必要ない。

 俺は自分でも驚くほどに落ち着いた口調と声で遊季に言う。

「代わりなんていらねえよ」

「?」

「遊季は遊季だろ。紗季の真似なんてしなくていい」

「じゃ、じゃあいいの? 律は僕でいいの?」

「ん、……あ?」

 少し、話の感じが妙になってきた。

 遊季の表情にシリアスな色は見られない。どころか、瞳には満点の星空が浮かんでいるように思える。

 どうしよう。そんな顔をされると答えに窮する。再び黙る俺。すると遊季はもうこちらの言葉など待たず、お構いなしに俺の腕を掴んで来た。ずい、と引き寄せられる。まるで恋人同士がするような腕の交差。俺はそれを反射的に拒む。一瞬密着した体を直ぐに引き離す。出来るだけ不快感を与えないように努力はしたつもりだが、これでは台詞と行動が裏腹な気がして後味が悪い。

 なにをしてるんだ。

 こんなのは可笑しい。相手は遊季なんだぞ。いつものように俺をからかって遊んでるだけじゃないか。なのにこんな、変に意識していたり心臓が早鐘を打ったりするのは変だ。

「律ー?」

「な、なんだよ」

 本当に――。

 気が動転しているせいもあって、髪を解いた遊季が紗季に見えて仕方ない。

「お腹空いちゃった。なにか食べよ」

「ああ、いいけど」

「ほら、最近出来たあそこ行きたい。お好み焼きの」

 確か先日駅の近くに出来た店だ。割と評判はいいと聞く。

 断る理由もないし、もともとノープランでぶらぶらしていただけなので、断る理由はなかった。何よりこの場で何もしないよりは精神衛生上そっちの方が助かる。直ぐにでも向かおう。遊季は、今度はもう俺の腕に抱きつくようなことはしなかった。ただ子供のようにはしゃぎながら先導する。

 遊季のそんな姿に俺もようやく平常心が戻ってきた。信号が変りそうな横断歩道を前に、先に辿り着いた遊季が俺を急かしている。自分だけ先に渡ってしまわないようにという意図だろう。早足に遊季に追いつき、その頃には点滅していた信号を一気に渡り切る。やや、駆足だ。

 が。

「……」

 どういうことか、遊季はまだ向こう側にいた。これでは危惧した結果があべこべだ。どういうことかと視線で問い質す。が、遊季はその時そもそも俺を見ていなかった。そして俺も遊季の様子を見て事の次第を了解する。遊季は傍にいたお婆さんに話し掛けていたのだ。どうやら歩道橋を渡ろうとしていたらしい。咄嗟にそれを発見してしまい、放っておけなかったのか。

 今まで、紗季と街に出ればこんなことが数え切れないほどあった。そんな体験がフラッシュバックして、余計に今の遊季が紗季と重なる。車道を走る車の音で会話は当然出来ない。遊季は目線だけで俺に謝る。

 こうなれば仕方ない。俺のすることは一つだ。

 俺は歩道橋を駆け上がり、また向こう側の歩道へ戻った。




 一日一善という言葉では、双色紗季の心情を決して表し切れない。むしろ一時間に善行を最低でも一回は行っているとかそんな感じの四字熟語が必要だ。遊季所望の店に到着したとき、俺はそんな感想を抱いた。

 距離にして徒歩で十数分の位置に辿り着くまでに、俺たちは実に半時以上もの時間を費やした。何故かと言えば、原因は双色遊季そのものである。歩道橋の件に始まりこいつは、困っている人(困っていそうな人も含む)を見つければ容赦なく声を掛けるのだ。そんな積極的な奴だったか? それは姉の領分だろう。俺は呆れながらそう思う。ほとほと双子というものは根源で似通っているらしい。これは今更になって思い知らされた。今まで遊季と外に出ても、ここまでのことはなかったのだが。

 トラック運転手の走り屋に声を掛けられたり、子供が野良猫とじゃれ合うのに参加したり、サラリーマンらしい男性が誕生日の娘に買って帰るケーキを選んでやったり、この一時間以内で一体どれだけの人間に関わったかはカウントしていない。ただのお節介にも思えたが、遊季とそんな風に関わった人間は全員、皆一様に笑顔で礼を言うのだ。

「またな、姉ちゃん! 楽しかったぜ」

「お姉ちゃん、またねえ!」

「助かったよ、ありがとうお嬢さん」

 須らく皆、遊季の性別を間違えていたのだが……。

 そんなこんなで店に入る頃の俺は中々に疲弊しており、空きっ腹が注文の品を平らげるのにかかった時間は思ったよりも短い。早々に自分の分を完食した俺は正面に座って口をほふほふしている遊季を眺めて過ごした。

 時折目を閉じて味わっている姿が姉に見える。座ってしまうと髪の長さが解り辛く、二人を判別するための瞳が隠れてしまうとどっちがどっちか解らない。こうならないために普段は髪を結んでいるはずなのだが。

 はあ、とため息を吐きそうになる。それを阻止したのはポケットで震えた携帯電話だった。短いバイブレーションが六回。メールの受信に設定しているバイブ。幸せそうに、まだ半分位残っている皿の上をがっついている遊季から死角になるテーブルの下でメールをチェックする。別に隠すことではないけれど。

 送信者、九ノ瀬渚。同時に時間も目に入ってくる。メールを受信した時間はそのまま現在時刻だ。十九時三分――日が落ちてそれなりに時間が経過してはいたが、もうこんな時間だったのか。素早く画面を操作する。九ノ瀬のメール内容は簡潔だった。

『首尾はどうだ? 

 連中は誘き出せたのか?』

 珍しく本分見失っていない生徒会長の業務確認である。俺はてっきりまた茶化すような軽口が綴られているのだと思っていたが予想が外れた。業務確認。画面から目を離す。携帯をポケットにしまって、俺は肘を付いて正面を見た。

 そう、これは生徒会長立案の奉仕活動なのだ。遊季と街を歩き回ることで暴走したファンクラブを誘き出して解散させる。俺と遊季に課せられたのはそんな使命だ。自覚して呆れる。いつから俺は、そんな素直な傀儡になったのかと。九ノ瀬なんぞに従う理由がどこにある。そもそも俺は生徒会役員でもなんでもないというのに。

 鉄板の熱を頬で感じられる、そんな今だからこそ、俺はどこか可笑しかったのかもしれない。あるいは紗季に似た少年の姿に気が狂ってしまったのか。この後のことなど何も考えずにまずは、九ノ瀬にメールの返信を打つ。

『悪いが手応えなしだ。

 普通のデートを楽しんでるよ』

 それが真実かどうかはともかく。

 続いて俺は遊季に言う。

「遊季、この後どこか行きたいところはあるか?」

「はへ?」

 既に遊季の皿も空になっていた。本人の反応を見る限り、おそらくここで食事をしてそれで解散、というつもりだったのだと思う。俺の言葉は俺自身も予想外であり、遊季にとってもそうであったのだ。ソースの着いた口元をおしぼりで拭い、遊季の表情が直ぐにぱぁと輝く。

「うん、あるよ。でもいいの、律?」

「なにが?」

「えっと、その……」

「デートなんだろ? どこでも付き合うよ」

「う、うん。……えへへ。やった」

 言うが早いか遊季は表情を綻ばせて席を立つ。飛び出して俺の手を取り引っ張るが、会計をせずに出るわけにはいかない。逸る遊季をどうにか制御して先に店の外へ出し、俺はレジへ向かう。千円札を二枚指で掴む頃には火照っていた頭も冷め、自分の行動に激しい後悔を覚えていた。

 遊季の行きたい場所、とはどこかの施設ではないらしい。

 店を出るや俺を先導する遊季が向かった先は駅の裏側。こちら側は都市開発がそれほど進んでおらず、あるのは山と、神社、それとここ十年ほどで山を削って作ったでかい病院があるくらいだ。遊季はアスファルト舗装された山道を登って行く。その背中を追いかける途中、人と擦れ違わなかったのは僥倖だろうか。時間が時間なので、先ほどのようなことになれば目的地への到着は深夜になっても可笑しくない。

 これから自分がどこへ連れて行かれるのか、遊季の歩が進むにつれて実は俺にも少しずつ察しがつき始めていた。それはある程度山を登って――道は山を巻くように螺旋を描いて延びている――小さな休憩所に着いた頃に確信へと変わった。

 位置的に言えば学校の屋上よりも高い。

 ここからなら、街を一望することができる。ここは、そういう場所。かつてまだここまで開発が進んでいなかった頃、ひっそりと木々の奥に隠れていたスポットで、俺たちが秘密基地と称していた場所だ。街灯や民家の明かりが犇めいている。幾つか動いているのは車の光だろう。その光芒は数え切れない。

「お姉ちゃん、あんまり夕日が映えないから好きじゃないって言ってた」

 遊季が呟く。それは俺も聞いたことのある紗季の台詞だった。

 この場所は確かに眺めがいい。けれどここからでは夕日が逆光気味になってしまう上、海の全貌までが望めない。夕日と海に執着を見せる紗季にとってはあまり気に入らない場所と言えた。

「でも僕は好きなんだよね。ほら、昔ここを秘密基地って言ってた頃、僕が迷子になったこと覚えてる?」

「ん? ……ああ、そんなこともあった気がする」

「その時ね、辺りが暗くなって泣きそうになってたときにこの景色を見たんだ」

 遊季が木の柵に手をかける。俺からは遊季の後ろ姿しか窺えない。今どんな顔をしているのか、想像することしか出来ない。果たして振り返った遊季の顔は、俺の想像に違わなかった。

 天然の星空を頭上に、人口の光の海を背景に、それでも尚、負けじと輝く笑顔。晴れやかに雲一つない何億の星を散りばめた夜空よりも綺麗な笑顔で遊季が言う。

「凄くね、綺麗だと思った。とても、とっても。涙も引いちゃうくらいに。いつかみんなで見たいと思ってたけど、これだけは僕の宝物にしようと思ってたんだ」

 それも今はこんな休憩所ができちゃって、きっと知れ渡ってるだろうけど、と不貞腐れたように頬を膨らます。一つ疑問が生まれる。自分だけの秘密にしようとしていた場所をどうして俺に、しかもこんなタイミングで打ち明けるのか。

「それは、ね……」

 言い淀む。腰を引き気味に背を倒し、ちらちらと上目遣いを送られる。

「律が、その……嬉しかったから」

「は?」

「律が、僕のこと認めてくれて。お姉ちゃんとは違くていいって言ってくれたが、嬉しかったから――」

 先を続けず、遊季が顔を上げる。

 強い意志の籠った眼光。月の光より星の光より強く眩い瞳に正面から見据えられる。

「あのね、律――僕は――――」

「――あれ、紗季ちゃんじゃねえの?」

 遊季の言葉は最後まで続かなかった。突然乱入してきた声にそれを遮られたからだ。

 背後からしたその声に俺は若干の覚えがある。それを確かめるために振り向いて、検索をかけていた答えに行き着く。そこにいたのは昨日の昼休み、そもそも今日の計画を興すきっかけとなったあの装飾男子だった。

 金色のピアスは昼間よりも目立つ。同じ色のネックレスを下げた黒髪が遊季と紗季を見比べた。そして直ぐに何かを悟ったような顔をし、ふうんと唸る。おそらくそこには間違いしか存在しない。そもそもこいつは遊季を見て紗季と言ったのだ。髪を解いた遊季は俺でさえ見間違う。こいつが勘違いするのも無理はない。

 金のピアスが奥歯を噛む。頬が引き攣るのが見て取れた。

 ポケットに両手を突っ込んだポーズでずかずかとこちらに寄る。怒りの対象は俺と遊季にだろう。けれど奴の視線は遊季にだけ向いていた。九ノ瀬の言葉が思い出される。――連中を構成しているのはほとんどが紗季に袖にされた連中だ。そんな奴らが、今の俺たちの姿を見たらどう思う? 逆上しても可笑しくない。金ピアスの剣幕はその想像を如実に肯定していた。

「へえー。そういうことなんだ紗季ちゃん。俺らのこと振って、別の男と遊んでんだあ」

「え、ちが――僕は」

「いい身分だよな。男なんて掃いて捨てるほど寄ってくるってか。ああ?」

 完全に理性が飛んでいる口調で遊季を威嚇する。それだけで遊季は何も言えなくなった。

「人のことを馬鹿にしやがって、てめえのやりたいことってのは、ようは――」

「その辺にしとけよ」

 胸倉を掴もうとする手を弾く。歪んだ形相がそれで俺に向いた。俺はさらに遊季を庇うように間に入る。片時も目を離さない。気を逸らせば喉元に噛み付かれそうな空気を相手が出していたからだ。びりびりと殺気染みた怒気が伝わる。

「ああ……? ……そうか、てめえこないだの」

 俺の顔に見覚えがあると気付き、ますますボルテージが上昇する。

 これはもう穏便にとはいかない。既に場は一触即発。

 九ノ瀬の思惑通りだ。ここで問題を起こせば連中を解散させるのは容易い。囮作戦は見事に成功した。

 俺が呑気にそんなことを考えている内にあっさりとピアスは俺の制服の襟を掴んだ。そのまま引き上げられて首が締まる。呼吸が詰まって片目を閉じる。ぅぐ、と生理的に苦悶が漏れた。それでも目だけは離さない。ぶれた視界。引き絞られる拳。二秒後には顔面に衝撃が見舞われる。

 痛みの想像は鮮明に、しかしそれは決して現実になることはない。

「放せ。それは私の友達だ」

「な――あぁ!?」

 竹刀袋を背負ったポニーテールの少女。幽鬼めいた静かな殺気が瞳に灯る。声は普段よりも二段階低い。明確に肌で感じられる蒼の殺気には流石の俺も戦いた。

「え、爽架……?」

 声で判断したのだろう。遊季が呟いてひょこりと俺の背後から顔を出す。

「もう少し早く登場しろよ……んの馬鹿」

「いや、律が男を見せる場面かと思って」

 蒼に捕らわれた腕が痙攣している。目一杯の力で拘束を払おうとしている。だが出来ない。同年代の女子に片手で動きを封じられることは、この手の人種には相当な屈辱だろう。殺気も憤怒も全て首を回して蒼に方向転換される。蒼はそれを涼しい顔で受け止めた。

 くるり、と腕を捻り上げ、

「しかし、まあ、律には律の考えがあったかもしれないが」

 苦痛の声が寒空に響く。

「友達が殴られそうになっていては、いてもたってもいられない」

 言い終えてようやく蒼の拘束を振り払うことに成功した。いや、というよりも蒼が解放したのか。これは蒼なりの警告だ。力の差を見せつけることでこれ以上の抵抗を抑止するという見せしめ。

「なんだ。まだやるのか? 別にいいけど。相手になってやるよ」

「こ、の野郎……」

「心配するな、竹刀は使わない。これは剣道に使うものだからな。おまえのような外道を成敗するものじゃない」

 静かに蒼は怒っている。

 肩が微妙に振動しているのは怒りを抑えているからなのだろうか。――そこで俺は、不意に昼休みのことを思い出した。はっ、として振り返る。当然そうすれば遊季の顔が視界に入る。思い出されるのは遊季の言葉だ。――爽架、震えてなかった? 

 最悪の予感が頭を過る。

 もしも

    蒼の症状が

         治っていなかったら? 

 ゆらり、と蒼の背後に幾つかの影が揺れる。

 ネックレスが揺れて音を立てる。それが引き金となった。拳を握る音が聞こえた気がする。

 そもそも蒼の男性恐怖症は男に暴力を振るうものだったか? 

 遠く幼い日を思い出す。

 いつも苛められ、無抵抗に震えて泣いていた少女の姿。

 剣道場での体験がフラッシュバックする。屋上でのことも。朝の教室でのことも。俺が蒼に触れたときに見た反応を。

「――ッ! 蒼、後ろだ!」

 正面から振り抜かれる拳と――背後から落とされる両手拳で作られた槌。思考に暮れて忠告が遅れた。まともな反射では到底躱しえないタイミングで蒼の体が翻る。

「――――」

 そして、息を飲んだのは俺だけではないだろう。

 その先はまるで魔法みたいだった。瞬きをしていたらきっと見逃していた。一瞬の攻防。勝敗はこの一度の交錯で決した。

 低く身を屈めた蒼は最初にピアスの右ストレートを右腕で往なす。さらに体を捻り、旋回し、低く相手の懐に入り込む。左手は腕を払われて体勢の崩れ始めた体の襟を掴み――ぐるり、と背負い投げられた。振り落とされた拳の槌は身内の背中を打ち抜き、地面に叩きつけた。

「ぁ、がはっ……!」

 敵の数は今昏倒したピアスを抜いて三人。おそらく全員が紗季のファンクラブの人間だろう。だがどうだ。数で勝る連中はしかし攻め込んでくるどころか後退する。今の一瞬で彼我の実力差を思い知った。だから迂闊には動けない。まだ背を向けてしゃがんだままの蒼を襲う、格好のチャンスだというのに。

 じりじりとタイミングを計るようににじり寄るが、それも、蒼の体が微弱に振動しただけで停止した。

 圧倒的な力の差。場を支配する蒼の存在感。それは本来なら勝利の確信となる。

 だが俺は蒼の異変に気付いていた。すっ、と蒼の手が自らの肩を抱く。屈んだまま。体に重度のダメージを負ってしまったように跪く。既に全身が大きく震えていた。極寒の中凍えるみたいに。かたかたと歯が鳴るのが聞こえる。

 そうだ。さっきの、一瞬の攻防で勝敗は決したのだ。

「あ――――」

 蒼の敗北という形で。

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