5/青色の思い
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それは、凛とした声だった。
白い夏の日差し。静かな公園。風に揺れるブランコ。木漏れ日が差す木陰。
少女は竹刀を抱いて蹲っていた。喉を鳴らしながら時折鼻を啜り、けれど泣き顔を見られないように顔を伏せて。ぐずぐずと泣きながら罵詈雑言を浴び、無抵抗に蹂躙される。少女を囲っているのは数人の少年たち。中には石を投げる者もいた。
もう何度目になるだろう。この光景を見るのは。
解っているのに、ここにいれば彼女がこうなることは。
だから常にいっしょにいればいいのに、どうして、いつも彼女を見失うのか。
簡単だ。
少女は勝手にいなくなるのだ。自らの意思で、この場所にやってくるのだ。
毎日毎日飽きもせず懲りもせず。同じことを馬鹿みたいに再生しているのだった。
だから、放っておけば終わるはずのいじめも終わらない。少年たちも意地になる。その手は一向に緩まることをしなかった。
“なんだよ武器があるんだから戦えよ!”
“おとこ女! さっさと消えろ!”
“泣いてるなよ気持ち悪い!”
一様に同じ罵りが毎日繰り返される。
“やめろよおまえら!”
少女を見失ったとき、俺はいつもこの場所を最初に訪れる。そうして必ずここで彼女を見つける。
時には彼女は一人きりで木陰にいることもあった。俺が少年たちよりも先に彼女を見つけた場合だ。
少年たちに遅れたら――今回のように、その輪に入って少年たちを追い払う。そんなことを続けていた。
大抵の場合、俺が現れれば罵倒は中断される。多数対一でも、殴り合いの取っ組み合いのような喧嘩をする気はないらしい。皆が気に入らない、という目で俺を見て、恨み言を残して去っていく。だけど今回は違った。来るのが早過ぎたのだろうか。あるいは彼らのストレスが、罵倒だけで解消されなくなっていたのか。どっちでもいい。
一人の少年が、少女の竹刀を奪い、振り下ろした。
その後のことはあまり覚えていない。前頭葉くらいに凄まじい衝撃を受けて意識が朦朧としていたのだ。ただ、肝心な時に少女を守れない自分に憤慨したのは覚えている。それが悔しくて、痛みさえ忘れて、ぼんやりとした意識の中で奥歯を噛んだのも鮮明に。
“あ――”
誰の声だったか。
遠い、溶けるような白い日差し。
“――”
その中で少女の叫びを聞いた。
…
「おまえさ、何で剣道始めたんだっけ?」
放課後、掃除用具入れから箒を取り出しながら蒼に訊いた。
自分でも実に今更な質問であるとは思ったし、答えも知っていたのだが実際のところ蒼はどんな風に考えているのかを確認したかったのだ。とはいっても既に蒼に関する問題は解決しているので、こんなことは事後のエピローグ程度にしか考えていない。掃除当番という憂鬱極まる現実を逃避しているようなものだ。
蒼は竹箒と棕櫚箒を両手に持って「にとうりゅうー! しゃきーん」とか遊んでいるのを中断して俺を振り返った。くるり。ポニーテールが弧を描く。猫目がぽかんと俺を捉えた。何を今更、と蒼はそんな表情。左右の箒をクロスさせて胸を張る。
「ふ、どうしたんだ律、急に」
「いや、別に。なんとなくだよ。つかサボるなよ」
話しかけといて言うのもなんだが。
よかろう、と蒼。右手の竹箒を突きつけてくる。
「私はな、律――強い女の子になりたいんだよ」
もう十分に強いと思うが。
「知っているだろ。私がいじめられっ子だったことを……ん?」
「どうした?」
「んー……いじめられっ娘の方が萌えるかな? どう思う、律」
「知るか」
とてもどうでもよかった。
「話を戻すが……まあ、戻すも何もそういうことだよ。私はいじめられっ子で、いつも泣いてばかりだった。そんな私を助けてくれる友達に憧れていたんだ。紗季や、律に。二人みたいに強くなるのが私の夢だ」
「だったらもうその夢は叶ってるだろ」
稽古とはいえ俺が何度蒼に敗けているかはもう数えていない。俺の手には負えない。剣道というスポーツの上でも、まともに相対すればひとたまりもない。それは俺以外のほとんどの人間がそうだ。蒼は武道家としても人間としてもかなり強い。こいつの憧れる「強い女の子」とやらを既に超越するほどに。
しかし蒼は「なにを言うか」と謙遜するようなことを言って笑う。
嫌味でも自嘲でもない。もしかしたら謙遜でもないのかもしれない。蒼の表情はそれくらいに自然だった。意図して作った表情を蒼は決して見せない。それはいつものことだが、今度のそれは一層自然体で、そんな表情で言われた言葉は疑う余地もないくらい彼女の本音だった。
「いいや、全くだよ」
くるり、と箒を回して。
「だって、紗季や律と違って、私は誰も守れていないもん」
鮮やかに笑った。
「剣の腕は確かに上達した。腕っ節はあるのかもしれない。でもね、律。それとは違うんだよ」
「……よく解らん。おまえは昔っから」
「そうかな。んー……まあ、私も私がよく解らないからお相子だよ」
そう。
自分からいじめられにいつもの場所へ足繁く通っていたあの頃から。
こいつの妙な意地は理解できない。
いじめられて、いつも泣きながら俺の袖を掴んで蒼は言うのだ。
“また、助けられちゃった”
ぐすりぐすりと鼻を鳴らして。
“わたしも……強くなりたいよぉ”
詰まる所。
いじめられて、暴言を吐かれ罵られることが嫌だった訳じゃない。
自分でいじめに打ち勝てないのが悔しくて、蒼は泣いていたのだ。
剣道を始めたのは武力で相手に勝とうと考えたからじゃない。自分の心を鍛えるために力が欲しかった。それが紗季の提案だったとはいえ、そうなることを望んだのは蒼なのだ。だから、こいつはいつも竹刀を抱いていじめられていた。決してその剣で反撃することはしなくとも。こいつは道場の中以外では剣を振るわない。誰かに勝つために剣を執るのは、試合の時だけなのだ。
「そうかい。よく解ったよ」
何が解ったのかは解らないが、とりあえずそういって会話を打ち切る。
蒼は二本の箒を器用に回転させて遊んでいた。孫悟空もびっくりするぐらいの手練れだ。あれで茂みにでも入って行けば綺麗さっぱりとした平原が出来るのではないだろうか。自動巨大草刈り機となった蒼に俺は、自分のことを省みることなく言った。
「なあ蒼」
「ん? なに?」
「さっさと掃除しろ」
早く終わらせて、俺はとっとと生徒会室に行かなくてはならんのだ。
遊季はクラス委員の仕事があるとかで、放課後直ぐに帰宅できないらしい。
昨日九ノ瀬が取り付けた遊びの約束も、そういう訳でやや遅れることとなった。俺はそのインターバルを利用して生徒会室へと脚を運んだのだが、九ノ瀬に取ってはそれは予想外の行動だったらしい。いつものようにノックせず生徒会室へ入ると、そこには生徒会長と見慣れない謎の女子がいた。
「ひぅ!」
俺はこの光景に妙なデジャヴを感じながら一歩引いた。なるほど経験とは順応を促すものだ。
次の女子生徒の行動が予測できてしまう自分に感心しつつ、俺は扉が勝手に閉まってこないよう手で押さえながら出口を開けた。涙目になった――いや、もともとそうだった気もする――少女が一目散に退室していった。前回はこのタイミングでタックルとビンタを喰らったのだが、今度はその経験が俺に賢い行動をさせたのだ。
「よお律、デートはどうしたんだ?」
何事もなかったように喜作な挨拶をしてきやがる。
「……おまえ、九ノ瀬。また生徒会室に女子を連れ込んでたのかよ」
しかも何だろう。
俺が訪れた途端にダッシュで逃げていく上に涙目になるのだ。相当なことをしようとしていた現場に直面してしまった気がしてならない。なんで俺がいたたまれなくならなければならん。悪いのは九ノ瀬だろう?
「仕方ないだろ。ここに俺がいる限り、訪れる女子は後を絶たないのだから」
「だったら別の場所に行け」
「悪いがそれは出来ん。俺は――生徒会長だからな」
「なら仕事をしろ生徒会長」
溜りまくっている業務の具現たる書類たちを指さし言ってやる。仕事を捌く速度が女を捌く速度の三分の一にも満たないというのはどうなんだろう。こんな奴を生徒会長に祀り上げた学園は、望んで破滅の道を進んでいるようにしか思えない。
ふむ、と肩を竦める。九ノ瀬はしばらく思案顔で中空に視線を泳がせてから、
「よし、では律に生徒会長の座を譲ろう」
「いいのかよ」
苦労して勝ち取った椅子をそうも簡単に放棄できるところや、さらに続く言葉には驚嘆させられた。
「ただしここは俺と女の子との愛の巣とさせてもらう」
「そんな宣言文は要らん」
というか生徒会長の座なんてさらに要らない。
俺は業務から逃れようとする怠慢女たらし会長を睨みつける。九ノ瀬は苦笑いして冗談はおしまいだとばかり、あるいは降参を示すように両手を挙げた。
「それで、遊季はどうしたんだ? まさかほっぽりだしたんじゃないだろうな?」
「クラス委員の仕事があるそうだ。だからここで時間を潰させてもらう」
「……」
「おまえに聞きたいこともあるしな」
言いながら俺は備え付けのコーヒーメーカーを動かす。碌に仕事もしていない九ノ瀬に淹れてやる必要はない。自分の分だけを用意しよう。出来上がるまで引き寄せた椅子に腰かけて待つ。俺はその時間を利用して九ノ瀬に問う。
「今日のこの件は、俺への当てつけか何かなのか?」
「なんのことだ?」
「九ノ瀬、おまえもしかして怒ってるのか?」
単刀直入に訊いた。
元より俺と九ノ瀬の間にちぐはぐな遠慮などない。不躾に思える会話だが、親しき仲に無駄な礼儀を挟まない率直な会話にこそ一番の礼儀がある。俺たち二人の間だけでは、それは当然のこととしてあった。だから俺は言葉を選ぶことなく余談なく本題に入ったのだ。
思い出すのは路地裏で遊季が言った言葉。それに、昨日友が見せた蔑みの表情。
――渚はね、ずっとお姉ちゃんが好きだったんだよ。
――最っ低。
二人は二人ともが同じことを意図している。
もしも二人の言葉が真実なら、九ノ瀬が俺の発言に腹を立てるのは当然だ。だから、これはそんな俺への当てつけなのかもしれない。遊季に紗季の面影を重ねた、誰も得をしない代替行為。……いや、なんだそれは。不意に思う。思ってしまう。それではまるで――
ずきり。
「怒ってねえよ」
小さな頭痛みたいに、九ノ瀬の声がした。
「律の言うことは一理ある。ファンクラブを壊滅させるには、既に紗季や遊季が誰かのものであるのが効果的だ。だから、その適任はおまえなんだ。おまえにしか出来ないんだよ」
「おまえでも構わないだろ」
と俺。
これは疑問ではなく肯定として言った。
「いいや。そりゃ無理だ」
それを九ノ瀬はあっさりと否定する。
「俺だと女気が多すぎて、連中の抑止にはならない。俺にとって……二人が一番でないとしたら、二人にとっても俺は一番じゃない。そうはなれない。だから意味がない。その役はおまえしか果たせないんだ」
さりげなく自慢を挟んだようなことを、なのに自嘲気味に言って、
「リアリティがない。真実味のなさは無意味に直結する」
簡単に切り捨てた。
「ん、まあ。まったく気にしていないと言ったら嘘になるな。確かに少しはいらついたよ」
それは、つまり。
「おまえが、そんな風に二人を軽く見ていると思ったら、な」
いや、さすがにそれはないようだ。
コーヒーが出来上がった。
本来ならば用意するつもりのなかったもう一つのカップを用意して、褐色の液体を注ぐ。一方を九ノ瀬に、もう一方を自分の前にことりと置いた。先に口をつけたのは九ノ瀬だ。俺の質問に答え、自分の役割を全うしたこいつにとって、俺がこれ以上を口にしなければ会話は終わる。そして俺にとってももう、この件は完全に終わっていた。
「……炙り出し……とは少し違うな。たとえばこの作戦が功を奏したとして」
カップを持ち上げたまま口をつけず、波紋のできる表面に視線を落としながら俺は言う。
「連中が逆上したらどうするんだ? さすがに過激派の連中数十人を相手じゃ、俺も逃げ切る自信がない」
正直言って何となくの気まずさから逃れたくて適当を言ったのだが、その意見はどうやら正論であったらしく、実は九ノ瀬はそれについての対策を立ててくれていた。ことん。小気味いい音が転がる。きょとんとした顔がすぐに自信に満ち、口元を不敵に歪める。
抜かりはない、と生徒会長。
次の一口を啜るべくカップを持ち上げ、その動作の途中で、
「大丈夫だよ。ちゃんと護衛をつけるからな」
「護衛?」
寒気が嫌な予感となって背筋を這い上がる。
俺の予感はその数分後に生徒会のドアをノックする音で現実へと変貌を遂げた。




