木の部屋
俺は、自分のものではない世界で目を覚ました。
天井は木だった。黒ずんだ古い梁が、頭の上を何本も走っている。障子窓から差し込む光は弱々しく、どこか埃っぽい空気をぼんやりと照らしていた。匂いも知らない匂いだった。乾いた木の匂いと、湿った苔のような冷たい匂い。すべてが異質で、すべてが俺の知っている世界とはかけ離れていた。
体が動かない。鉛でも流し込まれたように重く、まずは指一本を持ち上げようとし、それから手を、腕を――すべてが鈍く、弱々しかった。まるで一生分の大病を患った後のように、俺の体は俺の言うことを聞かなかった。
ここはどこなんだ。
俺の家か? 違う。田中宏のアパートに、こんな木の天井なんてなかった。東京のどこを探しても、こんな部屋は存在しない。病院でもない。病院ならもっと清潔で、消毒液の匂いがするはずだ。ここは違う。古い木と、湿った苔の匂いがする。
もしかして、俺はあの事故から本当に生き延びたのか? それとも、これは死ぬ前に見る夢の続きなのか。
そう思った瞬間、記憶が堰を切ったように溢れ出した。
デイビッドの顔。あの冷たい目。俺を陥れた後に見せた、あの無関心な表情。妻の明子――いや、元妻だ――の、感情のこもらない声。「今日中に荷物をまとめて出て行って」。そう言った時の彼女の顔が、ありありと浮かぶ。そして雄輝。俺の息子。「父さんにはもう会いたくない」。十五年間、毎朝弁当を作り続けたのに。たった一言で、すべてが終わった。
そして母の声。「役立たず」。電話越しのあの一言が、とどめだった。
胸が締め付けられる。息が苦しい。慣れ親しんだ感覚――絶望と虚無と、すべてに対する無力感が、心の奥底からせり上がってくる。
ああ、もういい。十分だ。これ以上、苦しむ意味なんてあるのか。どうせ誰も俺を必要としていない。どうせ誰も、俺の存在なんて覚えていない。
いっそ、このまま死んでしまえ。
目を閉じる。体を布団に沈み込ませる。このまま意識が消えてしまえば、どんなに楽か。
ガタンッ。
突然、部屋の空気が変わった。勢いよく障子が開く音がして、誰かが入ってきた気配がする。
俺は重い瞼を持ち上げ、音のした方に顔を向けた。
そこには若い女が立っていた。メイド服を着ている。手には小さな盆。彼女は俺を見て、硬直した。俺も彼女を見て、硬直した。一秒。二秒。時間が止まったみたいに、二人とも動けなかった。
次の瞬間、彼女の手から盆が滑り落ちた。陶器が床に当たって割れる鋭い音。中身が派手に散らばる。だが彼女はそれを気にする様子もなく、一歩後ずさりし、顔を真っ青にして、思い切り息を吸い込んだ。
「アルベール様がお目覚めになりました!!!」
耳をつんざくような叫び声が、家中に響き渡った。木の壁に反響し、廊下の奥まで突き抜けていく。警鐘のような、あるいは悲鳴のような、そんな声だった。
俺はハッとして、慌てて部屋の中を見回した。誰かいるのか。この「アルベール」という人物が、俺の他にいるのか。しかし、誰もいない。俺と、今にも卒倒しそうなメイドだけだ。
アルベール? 誰がアルベールだ。ここには俺しか――。
その時、俺は初めて自分の体を見た。
いや、「見た」というより「気づいた」という方が近い。さっきまですっかり忘れていた。体が重いのは当然だ。動かないのも当然だ。だって、この体は――。
俺は裸同然だった。薄手の短いズボン一枚だけ。そして、そこに露出した手足は、恐ろしいほどに痩せこけていた。腕は枯れ枝みたいだ。青白い肌の下から肋骨が浮き出ている。ふくらはぎは萎びて、ほとんど肉がついていない。俺は手を持ち上げて、まじまじと見つめた。長くて細い指。骨ばった関節。とてもじゃないが、四十二年生きた中年の手じゃない。
なんだこれは。
俺は太っていたはずだ。ビール腹で、丸顔で、手足もゴツかった。それが、どうしてこうなった。まるで別人じゃないか。いや、別人どころか、まるで別の生き物だ。歩く枯れ木。それ以外に、自分をどう表現していいのかわからなかった。
その時、稲妻のような考えが頭をよぎった。
まさか。まさか、そんなことが。
異世界転生。
若い頃に読み漁ったライトノベルの中だけの話だ。死んだら別の世界に生まれ変わる。魔法と剣の世界で、新しい人生をやり直す。そんなの、ただの作り話だ。フィクションだ。現実に起きるはずがない。
でも。
もう一度、部屋を見回す。木の天井。障子戸。西洋風のメイド服を着た女と、明らかに日本建築の古い家。すべてがチグハグだ。すべてが、俺の知っている世界の常識から外れている。そして何より、この痩せこけた体。この若い手。これは俺のものじゃない。
ありえない。信じられない。認めたくない。
だけど――。
俺はゆっくりと、痩せ細った拳を握りしめた。思うように力は入らなかったが、それでも俺は確かに拳を握ったのだ。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。さっきまでの絶望じゃない。さっきまでの虚無でもない。もっと熱くて、もっと強い何かだ。
これは、希望か。
そうか。そういうことか。俺は本当に――あの時、死んだんだ。そして、もう一度生き返った。新しい体で。新しい世界で。
神様は――いるのか、いないのか、そんなことはどうでもいい。でも、何かが俺の叫びを聞いた。あの雨の夜、東京の冷たいアスファルトの上で、俺が最後に吐き出した魂の叫びを。
「来世では自分のためだけに生きる」
その誓いが、叶えられたんだ。
今度こそ、俺は自分のためだけに生きる。誰かの期待に応えるためでも、誰かに嫌われないためでもない。ただ、俺自身のために。誰がなんと言おうと、俺はもう、誰にも従わない。誰にも遠慮しない。
だが、次の瞬間には、現実が押し寄せてきた。
どたどたと、複数の足音が廊下を駆けてくる。五、六人分だ。あっという間に部屋の前に集まり、一斉に雪崩れ込んでくる。狭い部屋はあっという間に人で埋まった。
彼らは奇妙な服装をしていた。長いジャケット、プリーツの入ったスカート、襟元や袖口の凝ったレース飾り。まるで中世ヨーロッパの貴族だ。映画やドラマでしか見たことがないような格好を、彼らは普通に着こなしている。
俺は反射的に立ち上がろうとした。だが足が言うことを聞かない。膝が震え、がくんと崩れる。体全体が前に倒れかけた瞬間、別のメイドが二人、慌てて駆け寄って俺の両脇を支えた。その顔には、恐怖と驚きと、それからかすかな喜びが入り混じっている。奇跡と災難が同時に起きたかのような、複雑な表情だった。
彼女たちはそっと俺をベッドに座らせてくれた。俺は肩で息をした。ただ立ち上がろうとしただけで、これだ。全身が悲鳴を上げている。
一人の男が、群衆の中から進み出た。
金髪をオールバックにした、長身の男だ。肩幅が広く、立ち姿だけで只者ではないことがわかる。角ばった意志の強そうな顔立ちだが、深い青の瞳は、紛れもない心配の色で俺を見つめている。濃紺のジャケットの襟元には、金糸の刺繍が施されていた。
「アルベール、体の調子はどうだ」
低く落ち着いた声だった。父親が息子にかける、安心させるための声。思いやりに満ちた、温かみのある声。
だが、俺にはその男が誰だかわからなかった。
俺は周りの顔を見回した。男も、女も、子供も、全員が俺を凝視している。まるで幽霊でも見るような目つきだ。俺はもう一度金髪の男に視線を戻し、正直な疑問を口にした。
「……あんた、誰だ」
部屋の空気が凍りついた。金髪の男は、平手打ちを食らったように固まっている。他の者たちも、一瞬息をするのを忘れたみたいに沈黙した。
「あんたのことは知らない。どうして俺のことを『息子』なんて呼ぶんだ」
ざわめきが広がる。誰かが息を呑む音。誰かが何か囁く声。
そのざわめきをかき分けて、一人の少年が飛び出してきた。十三、四歳くらいだ。栗色の髪に整った顔立ち。目を限界まで見開き、今にも泣き出しそうな顔で俺を見ている。
「兄さん、僕のこと、覚えてないの? セドリックだよ! 弟の!」
セドリック。弟。俺は頭の中の引き出しを全部開けて探したが、そんな名前も、そんな顔も、どこにも見つからなかった。俺はゆっくりと首を横に振った。
少年の顔がくしゃりと歪む。唇を噛みしめ、目がみるみる赤くなっていく。それでも彼は泣くまいと必死にこらえているようだった。一歩、二歩と後ずさりし、そのまま誰かの陰に隠れてしまった。
今度は女が進み出た。炎のように真っ赤な髪を、高い位置で結い上げている。気品のある顔立ちだが、その顔は今、青褪めて、震えている。彼女は両手で口元を押さえ、信じられないものを見る目で俺を見つめていた。
「アルベール……母さんのことがわからないの? ロザリンドよ。あなたの母ですよ……」
声が震えている。言葉の端々に、祈りにも似た響きがあった。どうか思い出してほしい。どうか嘘だと言ってほしい。そんな悲痛な願いが、ありありと伝わってくる。
俺はまた首を振った。知らない。この人も、知らない。すると彼女はまるで糸が切れた人形のように、その場にくずおれた。すんでのところで金髪の男が支え、近くの椅子まで連れて行く。彼女は椅子に座り込むと、両手で顔を覆い、声を押し殺して泣き始めた。
「ああ……私の息子が……五年も待って、やっと目を開けたのに……私のことが、誰だかわからなくなってしまった……」
さらに小さな影が、母親のスカートの後ろに隠れているのに気づいた。七、八歳くらいの少女だ。母親と同じ赤毛を、二つに結んでいる。彼女は母親の陰から、怯えた目で俺をチラチラと覗き見ていた。俺と目が合うと、びくっとして、さらに奥に引っ込んでしまう。
申し訳ないと思った。彼らは本物の悲しみを抱えている。本物の苦しみを味わっている。それを引き起こしたのは、俺だ。でも、俺にはどうすることもできない。俺はアルベールじゃない。彼らが愛していた息子じゃないんだ。
金髪の男は、ようやく平静を取り戻したようだった。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。それから彼は俺の目の高さまで膝をつき、真っ直ぐに俺を見た。その瞳はまだ動揺していたが、それでも強い意志の光を失ってはいなかった。
「アルベール。何か――何でもいい。覚えていることはないか。ほんの小さなことでも構わない」
俺はその目を見返した。嘘をつくつもりはなかった。少なくとも、この部分については。
「何も。何も覚えていない。ここがどこかも、あんたが誰かも。全部だ」
男はしばらく沈黙した。それから小さく頷き、ゆっくりと立ち上がった。彼は一度だけ妻の方を見て、何か目配せをした。それから俺に向き直り、努めて穏やかな声で言った。
「わかった。今は無理に思い出そうとしなくていい。まずは体を休めろ。話はそれからだ」
その言葉で、ようやく俺は、この奇妙な状況の全体像を掴み始めた。
彼らの話を総合すると、こうだ。俺が入り込んだこの体の持ち主は、アルベールという名の十五歳の少年だ。彼は五年前、つまり十歳の時に突然倒れ、それ以来ずっと昏睡状態――いわゆる植物状態――だった。そして今日、奇跡的に目を覚ました。
五年間。五年間も眠り続けて、突然目を覚ました。家族にとっては、これ以上ない奇跡だ。ところが、いざ目を覚ましたら、何も覚えていない。自分の名前すらわからない。そりゃあ、さっきのような反応にもなる。
俺は周りの顔を改めて見渡した。彼らは役者なんかじゃない。その目の痛みも、その声の震えも、すべて本物だ。この五年間、彼らはアルベールが目を覚ますことを信じて、看病を続けてきたのだろう。そして今、俺という見知らぬ魂が、その体に入り込んでいる。
胸の奥に、チクリとした痛みが走った。罪悪感だ。俺は彼らの息子じゃない。それなのに、彼らの愛情を受け取ろうとしている。
でも、同時にこうも思った。
この人たちは、本物だ。本物の家族だ。息子が五年間眠っていても、見捨てずに看病を続けるような。目を覚ました息子が自分のことを覚えていなくても、それでもなお心配し、世話を焼こうとするような。そんな本物の愛情が、この世界にはあるんだ。
俺は知らなかった。知らなかったんだ、こんな温かさを。
前世では、俺は誰かに認められたくて、愛されたくて、必死で働いた。誰かの役に立ちたくて、嫌われたくなくて、すべてを捧げた。でも最後に待っていたのは、裏切りと見捨てられることだけだった。なのに、この世界では、見ず知らずの――いや、本当は見知っているべきなのに、俺が知らないだけの――人たちが、何の見返りもなく、俺を心配してくれる。
俺は決めた。自分の状態について、できる限り正直に話そう。記憶がないこと。ここがどこかもわからないこと。そして、体がひどく衰弱していて、とてもではないが普通の生活はまだ無理だということ。
でも、一つだけ、絶対に言わないことがある。
俺はアルベールじゃない。俺は田中宏。四十二歳の中年男。家族にも会社にも見捨てられ、雨の夜に犬死にした、ただのリストラ男だ。そのことは、墓場まで持っていく。
そう心に誓ったちょうどその時、腹の底から、ぐぅ、という音が鳴った。いや、音というより、痛みだった。胃がねじれるような、強烈な空腹感。そういえば、この体は五年間もまともに食事をしていない。栄養はすべて点滴か何かで補給していたのだろう。今、こうして意識が戻ったことで、体が本能的に食料を求めている。
すぐに家族は気づいた。赤毛の母――ロザリンド、と名乗っていたか――が、慌てて使用人に指示を出す。ものの数分で、食べ物が運ばれてきた。白いパン。湯気を立てる肉のスープ。香ばしく焼かれた分厚い肉の塊。色とりどりの野菜。見たこともない果物。とろりとした黄色いチーズ。
匂いだけで、頭がくらくらした。どれもこれも、前世で食べたどんな料理よりも、鮮烈に、力強く、俺の本能に訴えかけてくる。
メイドが新しい服を持ってきた。麻の白いシャツ。濃紺のズボン。袖口に銀の刺繍が入った軽い上着。彼女たちは手際よく、しかし慎重に、俺に服を着せていく。子供に服を着せる時のような優しさだった。俺は抵抗しなかった。いや、できなかった。腕一本持ち上げるだけで精一杯だったからだ。
準備が整い、俺は食堂の長いテーブルの前に座らされた。俺一人のために、これだけの料理が並んでいる。家族は周りに立って、じっと俺を見つめている。心配そうな顔、期待に満ちた顔、まだ怯えている顔。それぞれの表情で、俺の次の行動を待っている。
俺は料理を見下ろした。温かい湯気が、顔に当たる。いい匂いだ。たまらなく、いい匂いだ。
ふと、昔の癖が顔を出した。皆に「一緒に食べませんか」と声をかけようとしたのだ。気を遣うのが、私のデフォルトだった。誰かに喜んでもらうのが、私の生き甲斐だった。
でも、駄目だ。
その瞬間、冷たい雨の夜を思い出した。アスファルトの冷たさを思い出した。デイビッドの顔を思い出した。明子の冷たい声を思い出した。母の罵倒を思い出した。
俺は、あの日、死んだんだ。あの雨の中で、全部終わったんだ。
今の俺は、田中宏じゃない。アルベールでもない。今の俺は、まだ誰でもない、新しい何かだ。
そして、新しい俺のルールは、こうだ。
腹が減ったら食う。うまいものは、誰にも遠慮せずに食う。それが俺の生き方だ。
俺は両手を伸ばした。右手でパンを掴み、左手で肉の塊に齧りつく。パンをスープに浸し、ぐちゃぐちゃになったそれを口に押し込む。スープが顎を伝うが、気にしない。肉汁が指を汚すが、どうでもいい。ただ、がむしゃらに、獣のように、目の前の食料を貪った。
うまい。
こんなにうまいものを、俺は知らない。前世のどんな高級レストランよりも、どんな評判のラーメン屋よりも、今ここにあるパンと肉とスープの方が、百万倍うまい。体が、細胞の一つ一つが、この栄養を待っていたんだ。五年間、ずっと。
周りがざわついている。誰かが息を呑む音。誰かが何かを囁く声。
「まるで、一度も食べたことがないみたい」
「奇跡ですわ……本当に、五年間も……」
「アルベール様、どうかゆっくり、喉に詰まらせないでくださいませ」
ゆっくり? 冗談じゃない。俺は今、この瞬間を、五年間待っていたんだ。いや、四十二年間待っていたと言ってもいい。誰にも遠慮せず、誰にも気を遣わず、ただ自分の欲望のままに生きる瞬間を。
そして俺は食った。食って、食って、食いまくった。前世での悔しさも、悲しさも、みんなまとめて飲み込んでやるみたいに。これは食事じゃない。これは決別だ。田中宏という名の、他人のために生きた哀れな男との、完全なる決別。
腹がはちきれそうになるまで食べ尽くし、俺は深く息を吐いた。テーブルの上は空っぽの皿だらけだ。家族は呆然としている。父親は口をあんぐりと開け、母親は手で口を覆い、弟は目をまん丸にしている。メイドたちは、神様でも見るような目で俺を見つめていた。
これでいい。これがいい。これが俺の新しい人生だ。
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それからの日々は、驚くほど穏やかだった。
体はゆっくりと、しかし確実に回復していった。最初はベッドから起き上がるだけで息が切れたが、数日もすれば部屋の中を歩けるようになり、一週間もすると廊下も階段も、自分の足で移動できるようになった。まだ走るのは無理だが、普通に生活する分には問題ない。
両親――心の中ではまだ「ジェラルド」と「ロザリンド」と呼ぶことに抵抗がある。だから、ひとまず「父上」「母上」と呼ぶことにしている。彼らは俺が外に出ることを許さなかった。体がまだ完全ではないし、下手に外に出て何かあっては大変だというのが、彼らの言い分だった。実際、俺が目を覚ましたという知らせは、まだこの家の中だけの秘密らしい。近所の人間も、親戚も、誰もこの奇跡を知らない。医者すら呼ばれなかった。
だから、俺の新しい世界は、この屋敷の中だけだった。
俺は、まるで子供のように、家の中を探検して回った。実際、この世界に来て初めて見るものばかりなのだから、それは正しい反応だと思う。
家は二階建てで、思ったより大きい。板張りの廊下は掃除が行き届いていて、歩くたびにぎしぎしと心地よい音がする。部屋の間仕切りは障子戸で、開け閉めのたびに軽やかな音を立てた。しかし、置いてある家具や装飾品は妙にちぐはぐだった。天井からは鉄製のシャンデリアが吊るされている。壁際の机や椅子は、ヨーロッパの骨董品のような重厚な彫刻が施されている。床には、見たこともない幾何学模様の敷物。
これはどっちの文化なんだろうな、と俺は思った。日本家屋にヨーロッパ家具。まるで異世界だ。いや、実際に異世界なんだから、当然か。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、一枚の絵が目に留まった。巨大な猪の絵だ。牙を剥き出し、今にも襲いかかってきそうな迫力がある。その前に、白いドレスを着た美しい女性が立っていて、なんとその獣の額に手を伸ばして、優しく撫でている。まるでペットだ。どういう絵だ、これは。
さらに行くと、今度は竜の絵があった。本物の竜だ。大きく翼を広げ、口から炎の息を漏らし、ルビーのように赤い目で虚空を睨んでいる。翼の一本一本の骨格まで細かく描き込まれていて、まるで図鑑の挿絵のようだった。
ヨーロッパでは昔、竜は実在すると信じられていた。伝説や神話にも事欠かない。でも、この絵はちょっと生々しすぎるな、と俺は思った。芸術的な誇張にしては、えらく解剖学的に正確すぎる。
まあいい。ただの絵だ。
さらに探検を続けると、俺は人生で最大級のカルチャーショックを受けた。便所だ。木でできた、ぼっとん便所。いわゆる汲み取り式である。強烈な悪臭に、俺は思わず鼻を覆った。そりゃあ、そうだ。水洗トイレに慣れた現代日本人にとって、これはなかなかの拷問である。前世がどれだけ貧乏でも、トイレだけは文明の利器だった。ここでの生活は、どうやら一筋縄ではいかないらしい。
気を取り直して、俺はさらに屋敷の奥へと進んだ。
そしてついに、俺はこの家で最も重要な部屋を見つけた。書斎だ。父親のものと思われる、小さな部屋。中には大きな木の机が置かれ、その上に、古びた本が数冊、積み上げられている。
この世界の本は、俺が知っている本とは全然違った。印刷された活字じゃない。羊皮紙を何枚も折り重ねて、糸で綴じてある。表紙は布張りの厚紙で、すべてが手作りだ。当然、文字も手書きである。黒いインクで、流麗な筆記体でびっしりと書かれている。
俺はその中で、一番分厚い本を手に取った。背表紙は擦り切れていて、よほど読み込まれたことがわかる。表紙には、大きな手書き文字で、こう書かれていた。
『世界史』
俺は本を開いた。
最初の数ページは、目次と凡例だった。どのように年号を数えるのか、どのように地図を読むのか、そういった説明が細かく書かれている。俺はそれらを適当に飛ばして、本編らしきページを開いた。
そこには地図があった。見開きいっぱいに、細かな筆致で描かれた、巨大な世界地図だ。
俺は目を凝らした。それは、俺が知っているどんな地図とも違っていた。アジア大陸のシルエットも、南北アメリカの縦長の形も、オーストラリアの島影も、どこにもない。代わりに、まったく見知らぬ形をした六つの大陸が、見知らぬ海によって隔てられて、そこに浮かんでいた。
そして、それぞれの大陸には、奇妙な名前が記されている。
エルフの領地。
竜人の王国。
獣人の平原。
俺はさらにページをめくった。次の章には、人間とエルフの古代戦争の歴史が、細かな年表つきで綴られていた。さらに次の章には、山をも動かし海をも割るという、伝説的な大魔法使いの列伝。そして、かつてこの世界の空を支配していたという、生ける竜たちの記録。
ページをめくるたびに、神話の世界が広がっていく。作り話だ。絵空事だ。空想の産物だ。そう思いながらも、俺は目が離せなかった。その一貫した設定。緻密な歴史。矛盾のない年表。これは、ただのファンタジー小説じゃない。誰かが本気で作り込んだ、一つの世界の「本物の歴史」だ。少なくとも、そう信じさせるだけの力が、この本にはあった。
俺は本を閉じた。
作り話だ。どうせ、アルベールのガキが昔読んでいたライトノベルか何かだろう。異世界転生ものの。ファンタジー世界の。俺が若い頃に読んでいたのと同じようなやつだ。十五歳の子供が、竜だの魔法だのに憧れて、読みふけっていた。そういうことだ。何も不思議なことじゃない。
そう自分に言い聞かせて、本を机の上に置いた。これ以上深入りするのはやめよう。第一、字が細かすぎて目が疲れる。
俺は手の埃を払って立ち上がり、書斎を後にした。
しかし、廊下に出た後も、さっきの地図のことが頭から離れなかった。
あの細密な描線。あの具体的な名称。あの一貫した世界設定。
十五歳の子供が、趣味で書くようなものなのか? あれは明らかに、誰か大人が――それもかなりの教養と忍耐力を持った人間が――長い時間をかけて書き上げたものだ。娯楽小説にしては、あまりにも本格的すぎる。
俺は立ち止まり、振り返って書斎の方を見た。
まさか、な。
俺は頭を振り、その考えを追い払った。
まだだ。まだ結論を出すな。簡単に信じるな。俺はこれまでずっと、人を信じて、裏切られてきたんだ。物事を信じて、騙されてきたんだ。
この世界が、何であろうと――。
エルフや竜が実在するファンタジー世界だろうと。電気も水道もない、ただの田舎の時代遅れの土地だろうと。
そんなことは、今はどうでもいい。
大事なことは一つだけだ。
今度こそ、俺は自分のために生きる。
それだけは、絶対に、忘れない。




