第1話 弟子とは?
数ある作品から選んでくださってありがとうございます。
※序盤は冒険・お仕事要素が中心になります。恋愛要素は第二章以降、徐々に増えていきます。
マウスカーソルを目で追っていた。時刻は23:00を回ったところだ。マサトはひとり、マウスを素早く動かしていた。
「いいぞ!そうだ、その動きだ!お前なら世界を獲れるぞ」
ブツブツと独り言を呟く。終業時間はとうに過ぎていた。しかしまだ会社にいる。理不尽な要求をする、取引先に対応するためだけに。
ぼんやりと光るPCモニター。きっと瞳は濁りきっている。
「やるな……俺をここまで追い詰めたのはお前が初めてだよ」
呟く先はPCモニター上で動くマウスカーソル。
ではなく、それを追う1匹のハエトリグモだった。アダンソンハエトリ、オス。普通種である。
小さな蜘蛛がカーソルを追い掛ける。それが可愛くて遊んでいたのである。ひょいひょいとマウスを動かす。動くカーソルを狙い構える。
蜘蛛は一瞬の隙を見逃さなかった。カーソルが動きを止めた瞬間。体長6mmの蜘蛛が10cmもの距離を一瞬で詰めた。
「や、やるじゃねぇか。まさかお前がこれ程とは」
やるも何もカーソルに蜘蛛が飛び付いたところで何もない。不毛な時間ではあるが、帰る訳にもいかない。
「あー帰りたいなぁ〜お前もそうだろ?」
獲物を探してキョロキョロ動く蜘蛛に言った。
その時、澄んだ泉の底から響くような声がした。
「見つけた、こっちに来て」
誰だ!はっきりと声がした。思わず席を立って辺りを見回す。
眩しくて目を細めたのは一瞬のこと。
見渡す限りの草原に立っていた。
「え?」
訳がわからない。薄暗いオフィスはどこに行った。
風が運ぶ草の香りが胸いっぱい広がる。踏みしめているのは、硬質なタイルカーペットではなく柔らかい植物だ。
何が起こったのかわからない。けれど目に入るのは緑が広がる丘陵地だけだ。なだらかな丘が延々と続いている。遠くには海まで見える。
「いや、アレなんだよ……」
蒼い空には巨大な天体が浮かんでいた。空の半分を占めるような大きさ。深い青、群青の天体は、まるで空に穴を開けたかのよう。
完全に地球ではない。それはもう確実に。
無理をして口にしてみた。
「ここどこだよ」
ちょっと待って欲しい。仕事はアレだったが、そこまで酷くない。恋人も居ない金もない友人も多くはなかった。
しかし、いきなり異世界に放り込まれる程、不満はなかった。
いや落ち着け。パニックを起こしかけている。俺が生活に不満を持っていたかは、この状況になんの関係もない。
声がしたんだ。グラスを弾いたような澄んだ声だった。こっちに来てと。
「帰してもらえますか」
声に出してみるが返事はない。
巨大な天体は少しだけ地平線に隠れている。
そこまで歩いたら、間に宇宙が見えるのだろうか。何故か頭が痒く髪に手をやった。
ただ丘の上に立ち尽くしている。周囲を見渡すが、緑が延々と続くだけだ。
「なんだよ一体。どうなってるんだ」
空の穴が異質すぎて怖い。目に入らぬよう背にして歩き始める。時折、振り返ってみるが、張り付いたかのように姿が変わらない。
「革靴って歩くのに向かないよな」
呟いていた。歩くことで少し落ち着いてきた。
木立ちが見えた。変わらぬ風景に疲れ、木立ちへ向かう。いつしか陽は沈み、空には大きすぎる月が光っていた。
薄青く光が射す夜、影が出来るほど明るい。
見たことない木々だ、ただ知っている木と大きく違う感じもしない。ここで夜を明かそう。頭が痒くて掻く。シャワー浴びたい。地球に帰りたい。
青い夜は、そんな考えごとなど許さぬと気温を下げた。結局、震えながら夜通し歩き続けた。
気がつくと朝日が影を濃くし、青い夜が色を取り戻す。夜が明けたんだ。
陽射しが体温を取り戻してくれる。
ただそれだけで、こんなに嬉しいとは。
しかしすぐに光のない闇が訪れる。
その時に見た光景は、美しいという言葉の意味を書き換える程だった。
空を覆いつくす群青色の天体。
サファイアブルーの光の輪を作り出す。何もかも忘れ、ただそれを見つめていた。
……いや、普通に死ぬわ。
日蝕という奴なのか、太陽が隠れ、外縁が蒼く光り輝く。それはもう本当に美しかった。一方的に呼び出されたことも、これが見られたなら悪くないとさえ思った。
しかし、すぐにそんな感傷的な気持ちを、へし折るに十分な経験を強いてきた。その後の自然の暴力が酷かった。急速冷凍された、次に復暖、あと嵐。
異世界に来て気象変動に殺されるとは思わなかった。
一方的に呼びやがって。せめて人間が暮らせる環境に呼べ。こんなに手の込んだ殺人方法聞いたことない。
とにかく歩いていたが、人の痕跡すらない。
しかし、ヤバいなこの世界。大感動の登場を見せてくれた太陽は今は頭の上。夜は極寒、朝は嵐、昼間は過ごしやすいけど、歩き続け汗ばんできた。
呼んだなら挨拶くらいするだろ。会社の事を思い出す。
「紗奈ちゃん俺が居なくなったら悲しむかな」
微妙な距離感が楽しかった後輩の顔が浮かぶ。仕事はどうでもよい。考える必要すらない。頭が痒い。喉が渇く。
丘に上がる度、周りを見回すが景色が何も変わらない。
その時、稜線に影が走る。ひとつふたつ、影が数を増やす。いったいなんだ。目を凝らした。鼓動が速まる。影の数が10を超えた所で、数えるのをやめた。
「やばい、やばいぞ、あれ間違いなく生き物だ」
進行方向をこちらへ変えて向かってくる。何がこちらへ来ている。わからないけれど、逃げなきゃ。
振り返るな走れ。目の前の草原を駆け上がる。転がるように駆け下りる。振り返ったらダメだ。しかし身体は心を裏切り、振り返ってしまう。狼の群れだ。でかい。
いつの間にか囲まれていた。ひときわ大きな狼と目が合う。剥き出された白い牙が、終わりを告げている風に見えた。
群れのボスは、低く唸りをあげた。
飛び掛かってきた狼から首と頭を守る。守ったところでどうしようもない。本能に動かされただけだ。
なす術なく突き倒される。蹴りとばそうとしたが、簡単に避けられる。差し出された足を、パクッと咬みにくる。甘噛みされるかのように見えた。次に聞こえたのはバキッという音。
悲鳴をあげながら、無事な足で蹴り飛ばそうとするが、既に居ない。獲物の状態を伺ってるのか。輪が小さくなっている。
後ろから急に突き飛ばされた。嬲り殺しにされるのか。近づいてきた奴の、鼻っ面めがけて殴りかかった。横から別の奴に咥えられ、その手を砕かれる。再び激痛が走るが今度は悲鳴も出ない。
なんでこんな目にあっているんだろう。巨大な天体は絵の様に空に張り付いている。まるでこちらを見つめているようだった。
理不尽すぎる話だなと他人事のように考え、終わりの時を待った。
狼達が低く唸りをあげている。何が起こっている。狼達は一点を見つめている。何を見ている。
人間がこちらへ歩いてくる。散歩するような足取り。緑の大地、蒼い空に群青の天体、それらを背景に女性がゆったりと足を運んでくる。
狼達は耳をたたみ低い姿勢になる。新しい獲物を狙っているのか。そう思った。
しかし次の瞬間、身を翻し一斉に走り去る。
襲ってきた時と同じ、統率の取れた獣の群れ。
群れの背中が稜線に消えるまで見ていた。
「こんにちは、良い天気ね」
いつしかすぐ側まで来ていた、女性に微笑みかけられる。枯れた喉と痛みで声が出ない。
女性が少し驚いた表情を浮かべた。
そして微笑む。
「どう?良い天気だと思わない?」
「は、はい。そうですね」
なんとか返事ができた。
「良い天気なんだから、寝てないで起きなさい」
楽しいものを見つけた。
そんな笑顔でそう言った。
起きろと言われても手足が。
痛みがなかった。恐る恐る身体を起こす。シャツはビリビリ。スラックスはボロボロ。
しかし身体は傷ひとつない。
「私の家はこの丘の向こうなの。お茶でもどう?」
手を差し出され、身体を引き起こされた。
「酷い格好ね……まぁ後で直してあげる」
眉を顰めてこちらを見る。
「あ、あの。た、助けて下さってありがとうございます」
自然と頭が下がった。どんな魔法か。助けてもらったのは理解できた。
「どういたしまして。お茶は?」
悪戯っぽい瞳でこちらを窺う。
「い、いただきます」
なんとも締まらない返答だった。
丘の向こうは森だった。その境に小さなログハウスが見えた。
天井の採光窓から柔らかい光が差し込む。
小さなテーブルには椅子が二脚。
「どうぞかけて」
テーブルの小さな鉢植え。黄色い花を咲かせている。
「失礼します」
「少し待ってね、いいお茶があるの」
台所なのだろうか、壁際の流しに向かう。
音のない世界にコポコポと沸く音。
知りたいこと、話したいことがいくらでもあった。何故かその空間を壊せなくて黙っていた。
「はいどうぞ、森で採れるお茶なの」
嗅いだことのない香り。ついさっきの恐怖が薄れる。
「いただきます」
カップを傾け彼女の顔を見る。
思わず口をついて言葉が出た。
「神様ですか?」
きょとん。擬音にこれほど合う表情もないだろう。そして吹き出した。
「ちがうわよ、なんでそんなこと言うの」
よほど面白かったのか大袈裟に手を振る。
「いやでもさっきの僕の怪我……」
「そうね」
形の良い顎に指を当て思案顔。
「死を司る神様、その眷属くらいかしら」
微笑みながらの言葉はきっと本当なのだろう。しかし、恐怖はなかった。
「私はヴェルナ、貴方の名前を聞かせてくれる?」
「マ、マサトと申ひます」
噛んだ。笑い声が鳴り響いていた。
「そ、それでもうひとりのお名前は?」
目尻に涙を浮かべ不思議なことを訊かれた。
「もうひとりとは?」
なにか憑いてるのだろうか。なんでもありそうな異世界。誰か連れてきてしまったのか?
想像して身が硬くなる。
「うん、もうひとり」
動かないでと、髪に手を伸ばしてきた。
「こら、大人しくなさい」
自分ではない何かに話しかけながら、髪を弄られる。そして何が可笑しいのかくすくすと笑い出す。
「食べたりしない、約束するから」
笑いながら何かを摘む。
「お友達なんでしょ?」
差し出された指先に小さな蜘蛛がいた。
「ししょう!」
歩脚を大きく広げ持ち上げている。
あのハエトリグモだ。PCモニターに映るカーソルを追いかけていたアイツ。何故お前がここに。いや、師匠ってなんだ?それより喋ったぞコイツ!
「ししょう!」
ふたたび声がした。脳内に響く声は喜びに溢れている。
「お、おう。げ、元気か?」
なにを言っているのだろう。そう思った。
「あらお弟子さんだったのね。それでお弟子さんのお名前は?」
蜘蛛の弟子を持った覚えはない。
いや待てよ。
クソ取引先のクソ要求をクソ課長がまるっと受け入れ。連日、ひとり残業。夜毎現れるこの蜘蛛。濁った眼で、お前なら世界を獲れる!とカーソルを動かしていたのは誰だ。
「し、師匠かもしれません……」
会話になっていなかった。
お腹を抱え笑うヴェルナ。
ハエトリグモとの馴れ初め話を聞いて爆笑している。もう許してと言うが、爆笑し始めたのは貴女で、俺たちは何もしてない。
「それでマサトくんは、この子に稽古をつけていたわけね」
「はぁ、どうやらそうらしいです」
目尻に溜まった涙。丸めた指で拭い取ったヴェルナが言う。
「じゃあお弟子さんね、ちゃんと名前をつけてあげなきゃ」
吹き出しそうなのか、必死に堪えていた。
蜘蛛を見つめる。蜘蛛もマサトを見つめる。大きな主眼が何かを期待して輝いてる。
「シ、シマかな」
そう答えるのでいっぱいいっぱい。縞模様入ってるし。
「ししょう……」
シマは感極まっているらしい。大きな主眼が涙で光っているようにすら見えた。蜘蛛に涙を流す機能はないけど。
異世界半端ないなと思った。




