7日目 日は傾きて
一月下旬の日は短い。
しかしながらローザニア王国の北の地オトリエール伯爵領と首都が置かれているプレブナンは400メレモーブも離れた位置関係にあり、北の地の雪原が夕日に赤く染まるころ、いまだ王都の太陽はこれから夕方に向かおうとする位置にあった。
王国の次の権力者となることが確実視されているローレリアン王子の婚約者ヴィダリア侯爵令嬢モナシェイラは、地平にむけて傾きつつある冬の太陽を王宮の南翼にある王妃のサロンの窓から眺めていた。王宮はプレブナンの街を見下ろす丘の上にあるため、彼女が座っている窓辺からは、金色の午後の陽光に照らされて輝く美しい王都の雪景色が余すことなく堪能できたのである。
昨夜、体調を崩された王妃陛下は自室でお休みになられており、代理としてサロンに出てきていたモナは美しく着飾っていた。王子の婚約者としての自分の役割を、次の流行を作り出して王国の服飾関連産業の活性化に貢献することであると認識しているモナは、つねに自分のファッションにも庶民が取り入れやすい要素を加えるように意識している。今日のドレスにもモナと彼女の相談役たちが工夫をこらした要素が満載だった。特に、針金入りのペチコートを廃してほっそりと作りあげたスカートのシルエットと長い引き裾が見事だった。その衣装をまとったモナが物憂げに片肘の椅子に身をかしげてもたれていると、足元に絹地の引き裾が視覚的効果を計算して付け加えた装飾品のように広がるのである。しかも、剣と乗馬が趣味の彼女の肢体は柳のようにしなやかなので、ななめにかしげた細腰は優美そのものに見えた。
その美しい王子の婚約者を、サロンに訪れた貴族たちは遠巻きにしていた。
恐ろしくて、声をかけられなかったのである。
そもそも一晩中雪が降った翌日の王妃のサロンに集まる貴族など、王妃と特別親交が深い友人か、王家に対する忠誠心を常に行動で示そうとする国王の側近の夫人くらいのものである。通常なら今日のサロンは、午後の簡単なお茶会くらいの催しで、早めのお開きとなるはずだった。
ところが今朝方、名門貴族の子弟が黒の宮に大挙しておしかけたあげく逮捕拘留される事件が起こってしまったのである。
噂は瞬時にして、宮廷貴族たちの間を駆け巡った。
そのせいで暇を持て余している彼らは雪による足元のぬかるみなどものともせず、事件の中心人物であるヴィダリア侯爵令嬢の顔を拝んでやろうと、勇んで王妃のサロンへ参集したのだ。
その手の噂好きな宮廷貴族連中のことを、王家につかえる侍従たちは『宮廷雀』と呼んでいた。酒や菓子を御所望されるお貴族様たちの要求に応じるため人ごみの中を縫って歩く侍従からしてみれば、集まってくだらない噂話に興じる彼らは、群れてぴーちくぱーちくさえずるだけの雀にしか見えないからである。
その宮廷雀たちは今現在、興味本位で本日の王妃のサロンに出向いてしまった己の行動の迂闊さを、おおいに悔いていた。
仲の良い貴族が誰かの居間に集って親交を深める会をもつことが、そもそもサロンと呼ばれる午後から夜にかけての集いの語源である。サロンの主催者は時の権力者や、貴族たちの大ボス、小ボスであり、誰それのサロンへの出入りを許されているということは、厳密な階級社会を泳ぎ渡って生きている貴族たちにとって一種のステイタスとなる。
当然、サロンに出入りする人々は、そのサロンの主催者に来訪の挨拶と辞去の挨拶をしなければなならい。
ところがどうだ。
本日の王妃のサロンの主催者代理であるヴィダリア侯爵令嬢は、不機嫌を絵にかいたような雰囲気をまとって座して動かず、宮廷雀どもは挨拶に近寄ることすらできないのだ。
辞去の挨拶どころか来訪の挨拶すらできないままサロンから出ていくなど、作法と形式だけをたよりに生きてきた宮廷雀たちにとっては、有り得ない行動だ。怯えた雀たちは、そこかしこで小さな集団をつくり、どうしたらこの息詰まる空間から逃げ出せるかという相談を小声でくりかえすばかりだった。
雀のさえずりは、いよいよ深刻な調子を帯びてくる。
「侯爵令嬢はいったい、どうされたのでしょう?」
「いつもの明るくて素敵な笑顔が、陰りの奥に沈んでしまわれて」
「そりゃあ、さぞかしお怒りなのでしょうよ。
そもそも王家の男子の閨の事情を面と向かって批判するなど、不敬行為そのものでございますよ。今までだって宮廷内では、王太子殿下のご乱行ぶりが見て見ぬふりで押し通されてきたのです。それに比べれば聖王子殿下が侯爵令嬢を御寵愛なさるさまなど、可愛らしいものでございます。
ラザレフ卿は一族の権勢を笠に着て、王家に仕える者が越えてはならない一線を越えてしまったのです」
「宮廷典礼院もそれを認めて、事件に加担した青年貴族たちには、謹慎を兼ねた一週間の収監生活が命じられたとか」
「逮捕された若者たちの父親連中は、カルミゲン公爵閣下に泣きつこうとしたそうですね」
「それそれ。老宰相殿は泣きついてきた連中を門前払いにしたそうですぞ」
「当然でしょうなあ。黒の宮に押しかけた青年貴族たちの目的は、大した功績があるわけでもないのに、近々聖王子殿下が開設される新宰相府の人事に席を賜りたいとお願いするためだったようですから。
引退なさる老宰相殿も、無能な人間には冷たいお方でしたからな。いまごろは親族の愚行にあきれ果て、ほぞを噛む思いでおいでになることでしょう」
「ましてやね。昨夜の侯爵令嬢は、黒の宮で体調を崩して臥せっておいでになられた王妃陛下の枕辺で、宿直役を務めておいでになったというのですから」
「そうそう。ラザレフ卿の誹謗は、理不尽な言いがかりそのものだったというわけで」
「心ある者は、みな知っております。
聖王子殿下は御自身のお力を享楽のために行使される方ではございませんし、自ら妃に望まれた侯爵令嬢の名誉を傷つけるような行動を、うかつに起こされる方でもございません」
「そのあたりの我々の聖王子殿下に対する心からの信頼を、侯爵令嬢にお伝えできればのう」
「王子の婚約者殿の御勘気も、少しはゆるまれように」
そんなことを話しては、宮廷雀たちはサロンの一番良い席である南の窓辺に座っているヴィダリア侯爵令嬢の様子をうかがうのである。
しかし、当の侯爵令嬢モナシェイラは綺麗な横顔を冷たく凍らせたまま、窓から見える遠い景色から目をそらそうともしない。ただ手にした扇を小さく開いたり閉じたりして、ぴしり、ぴしりと、厳しい音を立てるのみである。
その音が、また宮廷雀たちの心臓を縮みあがらせる。
怯えた雀たちの気配を察して、サロンの雰囲気を和やかに盛り上げる宮廷音楽家たちも、音楽を奏でる手を止めてしまっている。
静けさのせいで、異様な緊張感は高まるばかりである。
侯爵令嬢のとなりのソファーに座っていた教育係のパヌラ公爵夫人は、いかめしい顔を曇らせて、小声で言った。
「モナシェイラ様。いつまでもそのように怖いお顔をなさっていては、みな取りつく島もございません。人の上に立つ者には、下の者に対して上手に逃げ道をつくってやる度量も必要でございますよ」
ぴしりと、モナの手の中で扇が鳴る。
「ええ、わかっています、公爵夫人。でも、今日はどうしてもだめなの」
「いつものように高貴なる義務のための笑顔をお作りになって、貴族たちからの挨拶をお受けになればよろしいのです。彼らはこの場から逃れたいと思っておりますから、30分ほど我慢なされば、モナシェイラ様ご自身も解放されますよ」
「感情をコントロールしなくてはならないことくらい、わかっているのよ。
でも、わたしのこの腹立ちを、どうやってごまかせばいいの?
宮廷雀たちは、わたしがローレリアン王子殿下との色恋沙汰について批判されたから怒っているのだと思い込んでいるわ。
そんなくだらないことで、わたしは怒ったりしない。
わたしは、王国の体制に影響を与えるかもしれない大事件が今現在も未解決なままだというのに、くだらない噂の真偽を確かめてやろうとしてサロンに集まる宮廷雀たちの能天気ぶりに怒っているの!
雪の日の翌日だっていうのに、なんでこんなに人が集まるのよ?!
彼らにとって、王国の北の地で寒さと飢えに苦しんでいる庶民なんて、存在しないも同然なのよね。彼らには、国の行く末を心配し続けるローレリアンの気持ちなんて、永遠に理解できないんだわ!」
「モナシェイラ様……」
「だって、だってね、公爵夫人。
今日の午前中に予定されていた初等教育審議会の会合なんて、ヴィダリア侯爵令嬢の御心情をおもんばかってという理由で、延期になったのよ?
延期って、どういうこと?
わたしの怒った顔を見たくなかったから?
それって、あいつらから、わたしが個人的な感情を公の場に持ちこむ安い人間だと思われているって証拠よね?」
とうとう宮廷貴族達を『あいつら』よばわりしてしまったモナにむかって、公爵夫人は苦笑を深めるばかりだった。
公爵夫人は、将来立派な大公妃殿下になっていただくようにモナを教育する立場にある人間なので、『あなたと聖王子殿下は特殊例でございますよ』という自身の本音を、ここで語ってしまうわけにはいかないのである。
過去の長い歴史を振り返ってみても、公人としての立場を最優先にして生きた王族はきわめて少ない。宮廷貴族というものは、つねに王族の機嫌をうかがいながら政治の世界を泳ぎ渡ってきたのだ。
『王族とは、たまたま国家に奉仕する立場に生まれついた人間にすぎない』と公言し、これからの国の在り方を模索し、国民の生活を守るために尽力しようとするローレリアン王子とその伴侶は、今までの王族とは違う新しい時代を生きる指導者だ。
その変化に、貴族たちはまだ順応できていない。
だからこそ、モナには宮廷貴族達を御していくための手段として、これからまだまだ礼儀作法や教養を学んでもらいたいと思っている公爵夫人なのである。
――さて、次はどの切り口から、モナシェイラ様を説得しようかしら。
そう公爵夫人が考えた時だった。
急にサロンの入り口の方向がざわめいた。
エレーナ王妃のサロンは旧勢力の貴族の集まりなので、その場にいる男は刺繍や金銀のブレードが華やかな宮廷服を、女は午後から夜の集まりにふさわしい豪奢なドレスを身につけている。
その絢爛豪華な集団の中に、黒服の一群が入りこんできたのだ。違和感は、大きなどよめきを生んだ。
宮廷雀たちは、さえずりかしましい。
なにしろ、黒服集団の先頭を歩いていたのは、ローレリアン王子の首席秘書官カール・メルケンだったのだ。黒の宮の幹部連中から『親父殿』という愛称を奉られている首席秘書官は、堅実で地味な雰囲気の持ち主だ。その地味な男は、まっすぐサロンの奥に座っているヴィダリア侯爵令嬢のもとへむかっていく。
王都の美しい夕景が映る窓を背にして、聖王子の伴侶たるヴィダリア侯爵令嬢が立ちあがる。
あたりはしんと、静まりかえった。
やや緊張した面持ちのモナが実は心の中で、首席秘書官がもたらす知らせが吉凶どちらの報告なのだろうかと震えあがってしまっていることなど、宮廷雀たちは知る由もない。
ただ、凛として立つ侯爵令嬢の切迫した美しさに、言葉を失うのみである。
大理石の床の上に、複数の靴音が響く。
その音がやんだ瞬間、首席秘書官は深々と首を垂れた。
「やんごとなき方々の交流の場に突然踏みこみましたご無礼をお詫び申し上げます」
侯爵令嬢が答える。
「首席秘書官がここへ直接おいでになるとは、急ぎの知らせでございましょう? 気遣いは無用です」
首席秘書官は、伏せた面に笑みを浮かべた。
「ついさきほど、近衛師団の鳩舎に鳩が帰ってまいりました。さっそく、これからの対応についての会議が招集されます。つきましては、ヴィダリア侯爵令嬢にも会議へのご臨席を賜りたく、お願いにまいりましてございます」
モナは胸元に手をやり、ほんの一瞬、目を閉じた。
その一瞬に、万感がこもる。
『親父殿』は、伏せた顔で笑ったのだ。
ローレリアンは無事だ!
万物に宿る神々のすべてに感謝を!
胸元の手が震える。
モナがふれた胸元には、つねに隠し持つローレリアンの護符があった。
閉じた目を開いた瞬間、モナは公人へもどっていく。
「みなさま、火急の用事ができましたので、わたくしはこの場から失礼させていただきます」
サロンの客たる貴族たちは一斉に臣下の礼を取り、侯爵令嬢のために道をあけた。
その道を、優美な引き裾を衣擦れの音とともにひき、侯爵令嬢がパヌラ公爵夫人や侍女たちをともなって通り抜けていく。さらにその後へ、黒服の一群が従った。
最新流行のドレスで身を飾った侯爵令嬢と黒服の集団の組み合わせは、宮廷雀たちにとっては初めて目にする不思議な光景だった。
サロンの大窓からは、煌めく夕方の光がさしこんでいる。
低い角度から差し込む金色の光は、人々の目を刺した。
その眩い光景は、宮廷貴族達にむかって新しい時代の到来を印象付けたのだった。




