6日目 段平雪が降る朝
――しかし、昨夜の騒ぎは凄かったな。
巡回神殿査察官ユーリ・サントマリ様の召使クローネ君こと、ローザニア王国第二王子付き近衛護衛士官アレン・デュカレット卿は、夕べの出来事を回想する。
ローレリアン王子が檄を飛ばしたら、反乱民のリーダー格らしい男達は、宵闇の中に駆けだしていってしまったのだ。そのあと一時間もしないうちに、鉱山の神殿は寒さから逃れてきた女性と子供であふれかえった。
鉱山会社の石炭を王子が巡回神殿査察官の権限で接収したおかげで、集まった人々は夜を暖かくすごすことができた。いまも、ストーブでは火が煌々と燃えている。窓の外で降りつづけている雪はいっこうに衰えを見せないが、この分なら凍死者が出る心配は当分しなくてよさそうだった。
――ついでに俺も助かった。夕べは3時間ほどだが、熟睡できたしな。
神殿に押しよせてきた女の中に、王子の間諜がうまく紛れ込んでいたのだ。頭から被った粗末なショールで顔を半分かくした女は、アレンの手の中に例の古銭を押しこんできた。そして、最初に天井を、次に自分を指さし、「少しお休みになっては?」と言った。
やはり天井裏に一人潜んでいたのかと、自分で自分の勘を褒めてやった。さすがに4晩半覚醒の仮眠だけですごしたアレンの身体は疲労の極致にあったから、彼らの申し出もありがたく受けさせてもらった。
そして夜が明け、いまは10の鐘の刻。アレンは神殿の祭壇のそばの作業台で、パンを切り分けながらぼやいている。
――それにしても、へんな成り行きになってきたよ。俺たちはここへ、反乱鎮圧の手立てを画策するために、やってきたんじゃなかったけ? それがどうして、こういう状況になるのか、俺にはさっぱりわかんねえ。
彼が切っているパンは、神事の最後に配られる聖餐である。一口にも満たないこの小さなパンは、神々からの恵みによって生かされる命の象徴とされていて、ローザニア神教の神事には欠かすことのできない小道具だ。
アレンが聖餐の準備をしているわきでは、祭壇が置かれている低い舞台に直接腰かけたローレリアン王子が、よく響く声で『創世記』の物語を語っていた。
粗末な神殿の床には、王子の講話を聴く人々が、ひしめき合うようにして座り込んでいる。彼らは神殿に少しでも多くの人を入れようとして、礼拝用のベンチなどの家具をすべて野外へ出してしまったのだ。床に座る人々を高みから見おろすことを嫌って、王子は自分も低い場所へ座ってしまっているわけだ。
最初は、女性と子供だけの朝の礼拝が始まりだった。そして、すっかり夜が明けきったころ、礼拝があったと聞きつけた男たちも神殿にやってきて、偉い神官様の話を俺たちにも聞かせてくれと懇願された。
軍隊の攻撃にさらされて無残な最期を迎える覚悟をしていた彼らに、王子は問いかけた。
「あなた方は、生きたいですか、死にたいですか。
自分の家族を、生かしたいですか、死なせたいですか」
答えは分かりきっている。
まだ生き残る道はあると諭されて、それでも死にたい人間はそういない。
ここに集まった人々は、苦しいけれど、まだ生きようと思っている。
日常を取り戻したいと、思っているのだ。
だから王子は、ローザニアの民なら誰でも知っている物語を語る。
人々が母から語り聞かされた話を。
長じてからも、安息日の礼拝で繰り返し聞いた話を。
窓の外には深々と雪が降っている。
静まり返った神殿の中に、響き渡るのは懐かしい物語。
蒼天の神ラタルと、大地の女神ガイヤの結婚。
太陽、月、星、大気と水が生まれ、やがて世界には命がはぐくまれる。
命には限りがあるが、その存在が途切れることはない。植物は種を宿し、動物は子を生すから。
その命の営みがあまりに愛しくて、ラタルとガイヤは世界に秩序を生み出した。
知恵、勇気、正義、愛といった、人の世を形作るために最も大切な原理を。
神々からの恵みを受け取った人は、それに応えて新たなものをはぐくむ。
信頼、喜び、情熱、希望、ありとあらゆる豊かな感情は、人が生きていくために欠かせないものとなった。
哀しみや怒りでさえも、人の命の営みには欠かせない感情なのだ。
** **
講話が終わって人々の間に聖餐の籠が回され始めたら、赤子を抱いた若い母親が王子のもとへやってきた。彼女の顔は、喜びに輝いている。
「神官様。夕べはありがとうございました。おかげさまで、この子は元気を取りもどし、今朝はお乳も飲んでくれました」
立ちあがって母親から赤子を受け取った王子は、嬉しそうに笑みを浮かべて赤子の顔をのぞきこんだ。
「よかったですね。体力を失って風邪をひかせてしまったら命にかかわると心配していましたが、どうやら大丈夫のようです。いまのところ、発熱もないようだし」
床にうずくまりながら聖餐を口にし、命の営みについて考えていた人々は、赤子を抱いて立つ若い神官の姿を見あげて感動した。
彼は手の中の赤子を、まるで宝物のように大切に愛しんでいるのだ。
彼の柔らかな微笑には、真実だけが感じられる。
命を大切にしなさいと説く彼は、心から己の言葉を信じているのだろう。
彼の口から語られた聖典の物語も、とても美しかった。
薄汚れた印象の砂色の髪に、ずり落ちた眼鏡といった、頼りなさげな外見をしているくせに、彼の声には凛とした張りがあった。一度その声に耳を傾けたら、最後まで話を聞かずにはいられなくなる不思議な魅力を感じるのだ。
しかも、彼は行動する人だった。人々に暖かい居場所を与え、今朝は募った有志に作業を手伝わせて炊き出しの粥まで配ってくれた。行動をともなう言葉ほど、強い説得力を持つものはない。
王子のそばには、いつのまにか男達が集まっていた。これからどうしていこうかという相談に、この若い神官は、もう欠かせない存在となっていたのである。
赤ん坊を母親に返しながら、王子はたずねる。
「モリスさん、男の人達にも炊き出しの粥は行き渡りましたか」
「はい、なんとか」
「食料はざっと見積もって、あと何日くらいもちそうですか」
「1日2回粥を配ろうと思ったら、5日程度だと思います。ここには女子供を含めて、500人ほどの人間がおりますので」
王子は首をかしげた。
「女子供を含めて500人ですか。少なくないですか」
暗に「ここは反乱民の活動拠点でしょう?」という質問がほのめかされていることを感じて、モリスは仲間と苦笑をかわした。
「ユーリ様は鉱山労働者の数を基準にお考えなので、そう思われるのでしょう。
確かに我々が反乱を起こす前のこの鉱山には、3千人余りの人間がおりましたよ。ですが、鉱山会社の管理側の人間は、騒ぎを知ると真っ先に逃げ出してしまいましたし」
「モリスさん達は指導的な立場においでになったのでは?」
「わたしは現場監督。ロランとブレルは班長クラスの人間です」
「それにね」と、モリスは話しつづける。
「オトリエール伯爵は、犯罪者や地代を滞納してしまった農夫などを、この鉱山に集めて強制労働させていましたので。足を鎖につないでね。
そもそも犯罪者と呼ばれていた男達だって、たいした罪なんか犯しちゃいません。空腹のあまり食べ物を盗んだとか、家族を飢えさせたくなくて収穫量をごまかして徴税を逃れようとしたとか。
それが、死ぬまで鎖につながれて働き続けなければならない罪でしょうか。
我々は真っ先に、彼らの鎖を断ち切って逃がしてしまいましたので」
「なるほど」
「今、この鉱山に残っているのは、家族や仲間を捨てて自分だけ逃げる気にならなかった者や、官憲の追及から逃げ切る力はもう残っていない年寄りや病人ばかりです」
王子はうつむいて、しばらく考え込んでいた。
アレンは黙って、王子の次の発言を待った。こういう時のローレリアンは、めまぐるしい勢いで情報を分析し、ありとあらゆる可能性の検討をくりかえしているのだ。
きっと、ローレリアンの頭の中には、ここにたどり着くまでに見てきた村や町での領民の暮らしぶりなども、去来しているに違いない。一夜の宿として納屋を貸してくれた農家には、男手がなかった。ひょっとしたらあの家の主は、この鉱山に捕らえられていたのかもしれない。伯爵領に人の気配がないのは、領民が反乱に参加したことだけが理由ではなかったのだ。なんと、ひどい話だろうか。
やがて、王子が顔をあげる。
「まずやらなければならないのは、食料の確保ですね。最悪でも1週間以内には、なんとかする必要がある。クローネ君」
「はい、ユーリ様」
呼ばれたアレンは、紙と筆記用具の準備を命じられた。
準備が整うと、王子は猛烈な勢いで紙に文字を書き連ねはじめた。
書いている間も、動く口は止まらない。
「報告書を大神官猊下経由で中央へ送るのでは、いつまでたっても事態は動かないでしょう。幸い、わたしの義兄が司法省におりましてね。彼を頼りましょう。
食料については、街道を南に20メレモーブ上ったメイデンにつてがあります。
問題は、谷の入り口を閉鎖している第9師団に気づかれないように、メイデンまでわたしの手紙を運んでもらう手段ですが」
「俺が行きやしょう」
モリス達の後ろから、野太い声が答えた。
床に座り込んだ一団の中から立ちあがったのは、筋骨隆々という表現がよく似合う長身のたくましい男だった。
「おお、ガイ。あんた、行ってくれるか」
仲間たちは大喜びで、彼の足や腕をぱしぱし叩く。力自慢の男が格好をつけて力んでいるせいで、仲間の手が男の身体に触れるたび、耳に小気味いい音がする。
アレンは男と王子の顔を、交互に見比べた。
ふたりとも、大した役者だ。おたがいに初対面であると、とぼけきっている。
男はオトリエール伯爵領に昨年晩秋のころから派遣されていた密偵だった。男の方は王子の顔を知らないわけがないし、王子のほうも首席秘書官がよこした情報書から、この男の容貌や経歴を知っている。
「俺はガイ・ボージェといいやす、神官様。
谷を封鎖しやがる軍隊を出し抜くなんざぁ、ちょろいもんですぜ。
俺たちの鉱山は、この辺の地下に網目みたいな坑道を張り巡らしてやんすから。
俺は、いっちょう排気用斜路を這い登って、裏山のむこう側に出て、軍隊を出し抜いてやろうってなもんです。
まっ、この排気用斜路ってのは狭いし急傾斜でやたらと長くて、よほど体力のあるやつしか登りきれませんので。出口も軍隊にゃあ、気づかれちゃいねえと思いやす」
書きものの手をとめて、王子はガイを見あげた。
「ガイ。雪が降りしきる中、20メレモーブも先のメイデンまで行くのです。雪の具合によっては、命がけになるかもしれませんよ」
ガイは、分厚い胸を叩いて言い放った。
「男ってえのは、神官様。腹をくくらにゃーなんねえ時が、一生に一度や二度、必ずあるもんでやんす。
ここにいる仲間の中で、あの排気用斜路を登りきれる男といやぁ、体力自慢の俺だけですぜ。絶対にやりとげて、500人の命、まるっと守ってみせまさあ!」
** **
30分後、王子と鉱夫達は外套で身を包み、野外へ出た。そこから密書を運ぶガイを見送る者達と、男が集まっている入坑待機所へ様子を見に行く者達の、二手に分かれる手筈である。
雲は低く谷を覆っていた。
その低い空からは、絶え間なく雪が落ちてくる。
こちら側が谷の出口方向だと思う方をながめても、雪が視界を遮るもので、雪原のむこうにいるはずの軍隊の存在はまったく感じ取れない。
一行を先導しながら空を見あげたモリスが、厳しい口調で言った。
「段平雪ですな」
新雪をかき分けて道を作ってくれるアレンの後ろを苦労して歩いていたローレリアン王子も、空を見あげた。
「わたしはあまり雪が降らない土地の生まれなので、段平雪という呼び名は初めて聞きました」
「大きな寒波が来たときに降る雪のことです。重い雲が降らせる雪でしてね。地上へとどく前に雪同士がくっついて、大きな結晶になるんですよ。その雪の塊が落ちてくる様子が段平を振っているように見えるせいで、そんな呼び方をするようになったらしいです」
「なるほど。言い得て妙とは、このことですね」
まるで彼らを埋めつくしてしまおうかという勢いで天から落ちてくる雪は、一片が子供の手の平ほどもある。不思議と雪の結晶は横に広がって集まるようで、その形状は純白の牡丹の花びらを思わせた。薄くて大きな雪花が宙を舞うと、手練れの剣士が段平と呼ばれる幅広の剣で空をなぎ払う仕草を連想させるのだ。
ローレリアンは外套の襟を強くかき寄せ、冷たい空気から身を守ろうとした。神殿から出てきて、まだ5分もたっていないというのに、段平雪を降らせる強い寒気は身体の熱を奪い取ろうとする。
男達は黙々と、先を急いだ。
雪は視界を覆うどころか目を開いていることさえ難しくするし、降り積もった新雪をかき分けて歩くと体力を消耗する。
必要以上にしゃべる気力など起こらないのである。
それぞれの耳には、雪をふみしめる音と、自分の荒い呼吸の音しか聞こえなくなる。
しばらくそうして雪の中を歩いたら、大きなレンガ作りの建物にの前にたどり着いた。
男達の荒い息が、もうもうと霞になって、あたりの空気をより白くする。
「どうぞ、こちらです」
苦しい息を整えながら、モリスが通用口とおぼしき木戸を開けた。
とにかく寒気から逃れようと、急いで室内へ入った男達は雪まみれだった。
外套や帽子から雪を払い、ブーツについた雪を足踏みで落とす。
その作業に一段落ついたところで、扉がもう一度開かれた。雪国の建物の出入り口には、必ず雪を室内に入れないための作業空間が設けられているようだ。
扉が開くと同時に、暖かい空気と、むっとした匂いが押し寄せてきた。
ローレリアン王子は、しばらく呆然と、その場に立ちつくした。
入坑待機所は鉱員が坑道に入る順番を並んで待つ広い場所である。深い穴倉の坑道は暗黒が支配する世界で、そもそも昼と夜の区別がない。鉱夫は二交代で休むことなく鉱石を掘っている。いまは蒸気機関を利用した巻き上げ機で動くトロッコを使って坑道へ出入りできるようになったから、昔に比べたらずいぶん楽になったのだと、王子はモリスから説明されていたのだが。
その広い空間には、おびただしい数の人間が、うずくまったり、横たわったりしていたのである。そのうえ、なまじ暖房が行き届いたので、人々の身体からは何か月も風呂に入っていない人間から発生する耐えがたい臭気が漂い出ていたのだ。
モリスや同行した鉱夫達が、探るような目で王子を見ている。
彼らは『生きろ』と言い続けるこの若い神官が、本当にその言葉を、すべての人間にむけて心から言っているのかを疑っているのだろう。世界から見捨てられた、自分達のような人間にも。
王子は奥歯を噛みしめた。
ふつふつと胸に湧いてくるのは、まちがいなく怒りだった。
ここで、こんな光景に出くわすとは思っていなかった。王都からここへむかってくるときには、斧やピッチフォークで武装した、殺伐とした雰囲気を持つ男達と出会うはずだと予想していたのに。
第9師団の指揮官は「反乱民は銃で武装している」と信じているようだが、銃はいったいどこへ行ったのだ。さっさと逃げ散ってしまった連中が、持ち去ってしまったのか。
結局、社会の最底辺で苦しんでいるのは、貧しさから抜け出す手段を何も持たない人々なのだ。彼らはたまたま、この地に生まれただけだ。彼ら自身には、何も責任はない。彼らを守らなければならない人間が、まともな仕事をしなかったから、こうなっただけなのだ。その怠慢の結果を、どうして彼らが被らなければならないのだ。
おちつけと、自分をなだめなければならなかった。
いまは感情に翻弄されている場合ではない。
大きく息をついで、静かに言う。
「まず、病人の様子を見ましょう。ろくな道具も薬もないが、とにかくわたしたちは出来ることをやるしかない」
「はい、神官様!」
若くてまだ体力のあるロランとブレルが、まず重症者のところへ案内しようと先へ行く。王子は床に横たわっている人々の数を目で概算しながら、そのあとに続く。
異様な光景を見せられても、ひるむことなく行動を起こした王子を見て、鉱夫達は薄汚れた顔に喜色を浮かべた。彼らは心の底に淀んだ、最後の疑いを払拭できたのだ。
この男は信じていいのだ。自分達を虫けら扱いにはしないと。
しかし、当のローレリアン王子は最初の重症者の前にかがみこんだ瞬間、忍び寄る絶望の影に震撼した。
床に直接寝かされ、身体を温める毛布すらない状態で苦しんでいたのは、やせ細った老人だった。
「この爺さんは、精錬所で下働きしていた爺さんでして。もういい年だし身よりもないから、働く場所がなくなったら野垂れ死にするだけなんだって、逃げずにここへ残ったんですが」
ロランの説明を聞きながら老人の病状を調べたところ、身体は恐ろしく熱く、呼吸も速迫しており、明らかに肺炎の症状を呈していた。
焦りでこわばる手足を懸命に動かして隣りの患者を診れば、そこに横たわっている男も同じような症状で苦しんでいる。
王子は血の気が失せた顔で、そばに立つロランを見あげた。
「ロランさん」
「へい、なんでしょう神官様」
「神殿のほうへ人をやって、サイアム神官長に『そちらの御婦人方や子供の世話は、あなたにお任せする』と伝えてください。それから『こちらがいいというまでは、むこうの人を神殿から出さないように』。それと『絶対に入坑待機所へ来てはいけません』と」
「えっ? どういうことで?」
「悪性の流感が発生したのです」
「は?」
「どこにも逃げられない、この狭い空間で、みな疲れていて、不衛生で、ろくに食べ物もない環境で、流行性の風邪が蔓延しそうだと言ったのです!
女性が集まる神殿にまで、病気を蔓延させるわけにはいきません!」
声の震えがかくせるはずもなく、王子の動揺はそのまま鉱夫達へ伝わってしまった。
慌てふためいた鉱夫のうちの何人かが、神殿への連絡のために駆けだしていく。
立ちあがった王子は待機所の広さをもう一度確かめようと、あたりを見まわした。
激しい降雪に閉ざされたこの入坑待機所は、本来決して狭い場所ではなかったはずだ。しかし、400人以上の人間が凍えないように身を寄せ合っているせいで、今は圧迫感を感じる空間に変わってしまっている。
全員の様子を確かめて適切な指示を出し終えるまでには、いったいどれだけの時間と手間が必要なのだろう。
この際、元気な人間が逃げ散ってくれていたのは幸運だったのか? 悪性の流感は伝染力が非常に強い。何千人単位で病人が出たら、ここは地獄と化してしまう。
いや、ここはもうすでに地獄なのか。外の雪がやまない限り、すでに発症している患者を隔離することすらできない。ここにいる人達はみな栄養不良ぎみだし、住環境は劣悪の極みだ。そんな状態で閉鎖空間に何日も閉じ込められていたら、いったいどれだけの死者が出るのだろう。
最悪の未来予想図が、王子の勇気を削いでいく。
だが、彼はあきらめるわけにはいかなかった。
どんなに困難でも、立ち向かうことだけは止められない。自分がここから逃げ出してしまえば、最も大切な人の世の理を否定することになる。
――世界は愛に満ちている。
ローザニア神教の大切な奥義として語られるこの言葉は、今ではローレリアンが国の民に一番伝えたいと思っている言葉だ。
少年のころには『愛』を信じきれずにいた彼である。けれども今は、自分の周りを冷静に見られるようになった。いつのまにかローレリアンは、周囲の人の『愛』と『信頼』に支えられて生きていた。それは自分自身が周囲の人を愛し、信頼した結果だ。
口の中で、何度も自分に言い聞かせた。
愛は行動からしか生まれない。
愛は行動からしか生まれない。
愛は、自分自身の行動からしか、生まれないのだ。




