6日目 夕刻の王宮
ローレリアン王子が王都から離れて6日目の夕方。王子の婚約者であるヴィダリア侯爵令嬢モナシェイラは、王宮の最奥に位置する王子の宮にいた。
周囲に病気と偽って、王子は遠い北の地にいる。
王子の不在は何があっても守り通さねばならない秘密だ。
領民から地代を搾り取って贅沢な暮らしを続けてきた貴族は、身分秩序を打ち壊そうとする反乱民を許さない。身分特権を失いたくない貴族に反乱鎮圧を任せれば、反乱民は一人残さず惨殺されてしまう。
そんな事態におちいれば、今まで貴族に虐げられてきた人々は、各地で呼応して立ちあがる。時代は、とっくに変わったのだ。富は努力の結果で手にするものだと、国民の大半を占める市民階級の人々は信じている。大昔に得た特権の上にあぐらをかいて、他人から奪い取ったもので贅沢な暮らしをしている貴族を、市民たちは許さないだろう。
だから、反乱への対処を貴族に任せることはできない。事態の収拾はできるだけ早く、かつ穏便に進めなければならないのだ。王都にいる貴族達が騒ぎだす前に。
モナが今いるのは、ローレリアン王子の私的な居間である。彼女は王子の不在を貴族達に悟らせないため、毎日、朝と夕方、見舞いの品を持って黒の宮へ通ってきている。
モナがもたれている扉一枚のむこう側は、王子の寝室だ。彼女はつい先ほどまで王子の替え玉役を務めているコックのロペと、午後のお茶を楽しんでいたのだ。後片付けを小姓のラッティに任せて、「じゃ、また明日ね」と寝室から出てくると同時に、激しい疲労感に襲われて閉じた扉にすがりついたモナである。
王子のベッドにもぐりこんで6日も寝たままでいるロペにも、そろそろ疲れが見え始めている。そんな彼にとって、モナの明るいおしゃべりは、唯一の息抜きだった。髪の色が王子と似ているという理由だけで、とんでもない役目を引き受ける羽目になった男のために、モナは精一杯無邪気な笑顔を演じてみせるしかなかったのだ。
扉から離れて、モナは室内を見まわした。
黒の宮は王宮がまだ城塞として機能していた時代の古い建物なので、この部屋は王族の居室にしては、こじんまりとしている。室内の装飾も贅沢を好まないローレリアンの趣味を反映しているから、落ち着いた雰囲気だ。
居心地も申し分ない。暖炉には暖かい火が煌々と燃えさかっているし、コンソールの両端に置かれた一対のランプには早々と明りが灯されている。
モナは鼻を上にむけて、空気の匂いを確かめてしまった。
室内のそこかしこには、まだ色濃くローレリアンの気配が残っていたからだ。
残念ながら鼻に感じられたのは、飾り棚の花瓶に活けこまれた花の香りだけだった。でも、視覚には空想をかきたてられる景色が捕らえられた。暖炉のそばに置かれた安楽椅子と、しおりを挟んだ本が載った小テーブル。
目を閉じれば、ローレリアンの姿をすぐに思い浮かべられる。
一日の仕事を終えて、火の前に足をのばし、本を読みながらくつろいでいる彼の姿が。そのそばでは、忠実なラッティ少年が火除けのつい立ての位置を動かしたり、就寝前の暖かな飲み物の準備をしたりしている。
ローレリアンが本から視線をあげ、穏やかに言う。
ありがとう。もう、お前もお休み、と。
幻でも、恋人の笑顔を見ると切なくなる。
彼とは婚約までして、将来を誓いあった仲であるはずなのに。
暖かな彼の就寝前のひとときに、自分も一緒にいるという光景が想像できないのが悔しい。
この部屋には、あまりいい思い出がないからかもしれない。
なにしろ、この部屋に初めてモナが訪れた時、ローレリアンは死にかけていたのだから。
そういえば、あのソファーには沈痛な面持ちでうなだれた宮廷医の一群が座っていたのだっけ。
当時のことを思い出すと、今でもモナの胸は張り裂けそうになる。
ソファーを視界から遠ざけたくて、モナは火のそばから離れて窓際へ移動した。
スカートから、柔らかい衣擦れの音が出る。
今日は朝から雪がちらついていたので、移動には馬車を使わなければならず、モナは王子のもとへお見舞いに来るのにふさわしい絹地で仕立てた外出着を着ていたのだ。
窓際までたどり着いて足をとめると衣擦れの音もやんで、静けさが耳に染みた。
この窓からの眺めは高みから見下ろす素晴らしい遠景になるはずなのだが、景色はすでに夕闇の中に沈みつつあった。天から降りてくる雪片だけが、窓辺の明かりを反射して美しく舞っている。
降雪の様子は、この冬一番の積雪を予想させる勢いに変わっていたのだ。
ガラスを通して、冷気がひしひしと、モナのもとへ近寄ってくる。
王都でこれだけ冷え込んでいるのだ。
ローレリアンがいるオトリエール伯爵領は、王国の北方にある。
かの地は、どれだけ寒いのだろうか。
ローレリアンは辛い思いをしていないだろうか。
そういう思考にとらわれると、身動きができなくなってしまう。
いまは彼を信じて、ただ待つしかできないというのに。
唇を噛んで、窓に背を向けた。
すると目の前には、書き物机が。
モナは小さく笑った。
ローレリアンの執務室の机の上は、いつもうず高く積みあがった書類に埋もれていて、散らかった印象だ。作業スペースも書類の山に浸食されるらしく、ローレリアンが席を立つと、秘書官がすかさず整理にとりかかる。それでも書類の山が低くなっているところを見たことがないので、所用で彼の執務室へ訪れるたびに、仕事に追われて気の毒だなあと、モナは思っていた。
けれど、私室の書き物机の上は綺麗に整頓されていたのだ。あの執務机の上の惨状は、ローレリアン自身の生活習慣とはあまり関係なかったようだ。純粋に彼は毎日、自分の事務処理能力の限界と戦っていたのだろう。
私室に帰ってきたローレリアンは、この書き物机の前に座って、本来の彼が好む一人の時間を静かにすごすのだろうなと思う。その時に何を考えているのかは、よくわからないけれども。なにしろ彼の一番の心配事は、この国の行く末なのだから。願わくば、一人ですごす彼の時間が、平穏でありますように。そう祈らずにはいられない。
そっと手をのばして、机をなでてみる。
胡桃材の天板はモナの顔が映りこむほど磨きこまれており、手触りも滑らかだった。黒の宮に仕える者達は王子の生活がつねに快適であるように、心をこめて職務に励んでいるようだ。書き物の手元を照らす卓上ランプのシェードにも、ペン立てやインクの壺にも、埃はおろか一点の曇りすら見当たらない。
さらにゆっくりと、視線を巡らせていくと。
ペーパーナイフや鋏などが納めてあるトレーのわきに、小さな額が置いてあった。その額は銀で作られており、植物をモチーフにした素晴らしい彫金細工が施されていた。身のまわりの道具には実用性だけを求める、ローレリアンの持ち物とは思えない一品だ。
額の中をよく見ようとして身をかがめたモナは、しばし言葉を失った。
窓の外には深々と雪が降り、暖炉の熱が届かない窓辺は寒かったはずなのに。
いまは胸にあふれる温もりのせいで、寒さなど感じない。
額を手に取ってみれば、調金細工の花は群れて咲くすみれではないか。その花に囲まれて微笑んでいるのは、細いペンを使って細密なタッチで描かれたモナシェイラ自身だ。王子の婚約が新聞を通じて世間に発表されるとき、王子と婚約者の肖像の掲載が同時に許されたもので、自分のもとにも銅版の原画師がスケッチにやってきたことを思い出す。あの時の原画を手に入れて、ローレリアンは大切に飾ってくれていたようなのだ。
どうしても、頬や唇が笑みに緩む。
いったい彼は、どうやってこの絵を手に入れたのだろう。額縁の彫金の意匠にすみれの花を選んだのは、彼自身なのか、それとも気を利かせた側近の誰かなのか。
そのあたりの経緯は、推し量りようもないけれど。
でも、ローレリアンは、この絵を大切に飾ってくれている。この部屋で、ひとり物思いにふけるとき、彼が考えていたのは国の未来のことだけではなかったのだ。絵姿を見ながら、恋人のことも考えてくれていた。
いつだってローレリアンの周りには人がいて、恋人らしい甘い言葉など、めったに囁いてはもらえない。彼は王子なのだから仕方がないと納得はしていたけれど、そのことを寂しく思ったことがないと言えば嘘になる。
だけど、もういい。
言葉なんて、必要ない。
わたしと彼の間には、互いを大切に想う気持ちが、ちゃんとあるもの。
「天と地にあらせられる神々よ、万物に宿る聖霊よ。どうかローレリアンの仕事が彼の望むとおりに進みますよう、お守りください。王子の望みは、一人でも多くの人々を救うことなのですから」
胸に小さな額縁を抱いて深く首を垂れ、モナはもう一度祈った。
祈らずにはいられない状況でもあった。
オトリエール伯爵領で民衆が領主を誅殺してしまうほどの反乱が起こった事実は、新聞に報道こそされていないものの、もう王都の市民たちの噂にのぼりはじめている。今日は平民が貴族に逆らうなどあってはならぬことだと激高した一部の貴族が、臨時の閣議を早急に開くよう国王へ奏上せよと、関係各所へ押しかけてきたと聞く。なんでも、彼らの手には宰相の命令で新聞に掲載されなかった反乱民からの訴状が握られていたという。
貴族達だって、必死なのだ。特に、自分の行いにやましい心当たりがある者達は。一刻も早く反乱の火種を叩き潰さなければ、次の血祭りにあがるのは自分ではないかと。
きっと、彼らは心配のあまり情報を求めて奔走したあげく、どこかのルートから王都の複数の有名新聞社に郵送されたという訴状を手に入れたのだろう。
額縁を胸に強く抱いたもので、服の下に隠し持っているローレリアンの護符が肌に食い込んだ。
心のざわめきが止まらない。
国王陛下はあと何日、貴族たちの要求を抑え込んでいられるだろうか。
反乱の火の手を全国に飛び火させないためにも、王子の命を守るためにも、軍を動かす王命は出してはならないのだ。しかし、今の時代において、国王が枢密院の諮詢や群臣会議の決定をくつがえすのは難しい。国王の権力が絶対不可侵でないことは、ある意味、ローザニア王国が近代国家であることの証しでもあるのだが……。
モナの立場は、あくまでも王子の婚約者。今の立場で出来ることなど、ほとんどない。ローレリアンのためなら何でもしようと思うのに、行動できないのがもどかしい。
そう思った瞬間だった。
廊下に通じるドアの外が、急に騒がしくなった。
額を机の上にもどして、そちらへ行こうとすると。
「姫さま、よろしいでしょうか」
やけに切迫した調子で、モナの護衛としてドアの外に待機しているはずのスルヴェニール卿が、ノックの音と同時に話しかけてくる。
「ええ、だいじょうぶよ」
そう答えたらドアが細く開き、スルヴェニールが室内へ滑りこんできた。彼の腕には、全身の力を失って今にも倒れそうな女性が抱え込まれている。
ドアの外からは、王妃の侍女であるエテイエ子爵未亡人ジャンニーナがスルヴェニールに続いて王子の居間へ入ろうとする人々を押し留める声が聞こえた。
「ここはモナシェイラ様とわたくしに任せてちょうだい。大勢で騒いでは、王妃陛下の御加減がますます悪くなるわ。あなたは王子殿下の侍従を探して、医師の手配を頼んでおいでなさい。あなたは黒の宮の客室を開けてくれるように頼むのよ。忘れずに先に火を入れて、お部屋を暖めておいて。それから、あなたは王妃陛下のお部屋にもどって、寝間着の仕度をこちらへ整えて」
モナが駆け寄ってみると、赤毛の偉丈夫が支えている女性はエレーナ王妃だった。血の気が失せた顔は恐ろしいほど白く、うつろな目には何も映っていない様子だ。王子の宮へ毎日恒例の見舞いにやってきて、廊下で具合を悪くしたらしい。
「早く、そちらのソファーに寝かせてさしあげて!」
命じられると同時に、スルヴェニールは王妃を腕にすくいあげて苦も無く運ぶ。モナも後に続いて、ソファーに寝かせられた王妃のそばにひざまずいた。
「エレーナ様、エレーナ様、王妃陛下!」
手を強く握って呼びかけると、意識を朦朧とさせながら王妃はつぶやいた。
「ああ……、モナ。大丈夫……。ちょっと眩暈が……、したただけなの」
「いま御衣裳を緩めますから。レミ、あなたはしばらく、そっちを向いてなさい!」
忠実な近衛護衛士官は、ただちに女性達へ背を向けた。扉の前の人払いに成功したジャンニーナが室内へ駆け込んできて、モナを手伝ってくれる。さすがは看護人養成校の先生だ。彼女は王子の書き物机の上にあったハサミをつかみ取り、王妃のコルセットの紐を容赦なくパチパチと切ってしまった。
身体の締め付けを解かれたら、王妃の唇に血の気がもどった。
モナとジャンニーナは安堵の顔を見あわせた。
王子の寝室のドアが開いて、茶道具が載ったワゴンを押して出てきたラッティが、「うわっ!」と声をあげる。
モナは唇の前に指を立て、「しっ!」とラッティを黙らせた。
それからラッティ少年は大活躍だった。王妃陛下のために毛布や飲み物を運んだり、ドアの外に王子の護衛隊士を立たせて人の出入りを制限したり、王子の不在を知る側近たちのもとへ事態を知らせに走ったりと、自分の判断で忙しく駆け回る。こんなに優秀なお小姓は、そうそういないだろう。
30分後には、すべてがあるべき状態に落ち着いていた。
王妃は黒の宮の暖かい客室でベッドに納まっていたし、医師の診察も終わっている。国王と王妃の住まいである王宮の北翼には、王妃は軽い体調不良で一晩黒の宮でお休みになると連絡済みだ。国王からは「無理せず、よく休むように」という伝言が届いていた。
宮廷医による王妃の病状の診断は、いわゆる「お疲れからくる御身体の不調」だった。
病人がよく休めるように照明を暗く落とした客室で、「無理もないわ」と、ジャンニーナが言う。
「王妃陛下は、王国北部のノーザンティアで、ずいぶん長くお過ごしだったでしょう? だから、雪国の冬の本当の厳しさを肌身で御存じなのよ。ここ2、3日は、王宮もだいぶ騒がしくなっているし。王子殿下のことをご心配なさって、夜もあまり眠れていないご様子なの。うっかり寝言で王子殿下の御不在を心配をするようなことでも言ってしまったら、宿直役に聞きとがめられてしまうと思えば、深く寝入ることもおできにならないのよ。昼間はサロンやお茶会を、何食わぬ顔で仕切らなければならないし」
エレーナ王妃の枕元に座っていたモナは、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「わたしの配慮が足りなかったわ。少し考えれば、エレーナ様のご負担が大変なものだということくらい、わかりそうなものなのに。ローレリアンが留守の間、ご家族のお世話をするのも、わたしの大切な役目だわ」
浅い眠りに落ちていた王妃の眼が静かに開いた。か細い声が訴えてくる。
「ちがうわ、モナ。わたくしがもっと、しっかりしなければいけなかったの。でも……」
言葉につまった王妃は布団の下で身体を丸め、両手で顔を覆った。そのしぐさは、明らかにあふれる涙をかくすためのものだった。
モナはそっと、王妃の震える肩に手を置いた。
「今夜は、わたしとニーナが交代で宿直役をいたしますから。どうぞ安心して、お休みくださいね」
「ごめん…なさい…、モナ」
「なにを謝っておいでになるのですか? 外はかなりの雪です。馬車を出すのも大変だろうから、今夜は王宮へ泊まろうかと思っていましたもの。特別なことは、なにもしていませんのよ。女同士、肩を寄せ合って夜をすごすのも、悪くありませんわ」
ねえと、モナは傍らのニーナと笑みをかわす。
布団の影でうなずいたエレーナ王妃の肩は、まだ震えている。
王族の生活は、眠っている時まで人に監視される窮屈なものだ。王妃は今まで、遠い地にいる息子のことを思って泣くことすらできずに、ひたすら耐えていたのだろう。
モナは王妃の細い肩をなでながら思った。
これからローレリアンは王国の権勢の頂点を目指していくことになる。その人の妻として自分が果たさなければならない役割には、女の視点で王族の生活や宮廷の在り方を変えていくことも含まれている。
自分の家族が、泣きたいときに泣くことすらできない生活を強いられるなんて、許せやしない。王族だって、ただの人間で、感情がある生き物なのだから。
がんばって、家族みんなが普通に幸せだと思える暮らしを築き上げなければ。国家のために私生活を犠牲にして働いているローレリアンにだって、家族のもとへ帰ってきたら安堵したと感じてもらいたい。いつか生まれるだろう子供達にも、暖かい家庭で育ってもらいたい。
その望みは、自分で叶えようとしない限り、実現しない夢なのだ。
昨日よりは、今日が。今日よりは、明日が。より良い日に、なるように。
そうなるよう願いながら、自分は努力をくりかえして、生きていくしかないのだ。




