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真冬の闘争  作者: 小夜
第五章 聖王子が宮を離れて
33/50

4日目 宮廷音楽会(後編)

 その夜、王宮の音楽会で披露された演奏は、どれも芸術の庇護者たる第18代ローザニア国王バリオス3世へささげられるにふさわしい、出色の出来であった。


 古来から親しまれている名曲の演奏もあれば、新進気鋭の作曲家の手から生まれたばかりの曲の演奏もあった。


 喜びに湧く歌もあれば、哀しみに泣き濡れる歌も。


 まさに、悦楽の時を、人々は楽しんだはずなのである。


 それなのに音楽会が終わったあとの交歓の宴には、おちつかない空気が漂っていた。いつもなら酒杯を手にして宴の会場を歩きまわり積極的に音楽家たちへ話しかけていく国王が坐して動かないせいで、貴族たちもお追従をうまく言えなかったのである。


 玉座にありながら陰気な君主を遠巻きに見て、音楽会が始まる前の出来事を目撃した貴族たちは、お気の毒なことよと噂する。


 ローザニアの慣習法によれば、家督の相続は男系長子相続が原則となってる。その絶対的な約束事を、国家権力の象徴である国王みずからが破るためには、よほどの理由と覚悟が必要なのだ。


 愚昧な王太子から王位継承権をはく奪するためには、王太子が回復の見込みがないほどの重篤な病に倒れるか、王位継承に耐えられないほどの精神衰弱状態におちいる必要がある。


 つまり、ヴィクトリオ王太子は自由に外出することも、人と会うことも禁じられ、人間らしく生きる権利すら奪われて、社会的に抹殺されるのだ。


 自分の子供に、そんな生活をさせたい親が、どこにいるだろうか。


 しかし、国王が英邁な弟王子へ直接王位を譲るためには、兄王子に完全消滅してもらわなければならない。


 血で血を洗うような争い事が日常であった野蛮な時代ならともかく、いまは法の秩序で物事が動く開明の時代である。


 法の前では国王ですらも敬虔であらねばならないのだ。


 その原理が守られてこそ、建国後300年の長い年月を生き抜き、科学の力で社会をつくりかえようとしている大国ローザニアの品格は、正しく証明される。


 陰気な様子の国王のせいで、その夜の音楽会は失敗に終わるかと思われた。坐して動かない国王を放置しておくわけにもいかず、王妃もまた玉座のそばから動けなかったからだ。


 だが、その場には救世主のような存在があった。


 ローレリアン王子の婚約者ヴィダリア侯爵令嬢モナシェイラの周辺だけは、明るく楽しい空気に満ちていたのだ。


 モナは親しみがこもった自分らしい話術を駆使して、今夜の音楽会で演奏した音楽家たちに話しかけ、演奏された曲にまつわるエピソードや練習の苦労話などをひきだしていった。


 どんな仕事にも、その仕事特有の興味深い話題は必ずあるものだ。みずからも職業人として働く経験を重ねてきたモナだからこそ音楽家たちからひきだせた楽しい会話の成り行きは、周囲をおおいに楽しませていたのである。


 モナと音楽家たちが何かしゃべるたびに、人々は楽しげな笑い声をあげた。


「おもしろいですわねえ。

 歌劇の舞台裏の珍事を、もっと教えてくださいな」


「そうでございますね。

 今宵わたくしがアリアを歌いました『アンデラールの英雄』のプランゾ役なぞ、愉快な話には事欠きません。

 英雄プランゾは妻に裏切られて死ぬのですが、死後は国の英雄に祭り上げられまして、広場に銅像が建てられるのです。

 運命の夜、復活した魂が宿った銅像のプランゾは積年の恨みをはらすべく、妻のもとにあらわれて細い肩をつかみ、手にした短剣を振りあげるのですが」


「あの場面は、おどろおどろしくて身も凍りますわね!

 義姉に劇場へ連れていってもらって、初めて『アンデラールの英雄』の舞台を見たとき、わたくしは13歳でしたのよ。

 妻を殺しにくる銅像の姿は、その夜の夢に出てきましたわ。

 眼だけが生々しく動く、恐ろしい銅像でした」


「その恐ろしい銅像に扮するのが、じつはとても大変なのですよ。

 顔や手足だけでなく髪にまで油でといた青銅色の練り粉を塗りこみ、ノリで固めたカチカチの衣裳を着こむのです。

 その準備のために、『アンデラールの英雄』が上演されるときは、二幕と三幕の間に長い休憩が入るわけでございまして」


「あら、怖い場面を見せられる、お客様の心の準備のためではなかったのね」


「はい。あるとき、凝り性の舞台監督のもとでプランゾ役を演じた時には、心底まいってしまいました。

 彼は三幕が始まるとき、いつも白と黄色の絵の具をパレットで練りながら、わたしのところへやってくるのです」


「絵の具ですか?」


「はい。彼はわたしの髪や顔に、遠慮なく、その絵具を跳ね飛ばしまして」


 男性歌手はとなりの同僚の頭に、指先で絵の具を飛ばす様子を実演してみせた。


「これは何だと、わたしがたずねましたところ、彼は言うのです。

 だって、きみは銅像だろう?

 だから銅像らしくしなくては。

 これは鳩のフンだよ、鳩のフン!」


 モナは遠慮なく笑い、彼女を取り巻く人々もにぎやかに同調した。確かに銅像が立つ広場に鳩はつきものだ。しかし、頭に鳩をとまらせながら復讐を誓う英雄の姿など、滑稽すぎるではないか。


 今夜の宴でモナのそばにつき従い、話し相手の名前や身分をそっと耳打ちして補佐役を務めていたのは、ローレリアン王子の首席秘書官のカール・メルケンであった。


 彼は楽しそうなモナの様子を、頼もしく思いながら見ていた。


 やはり、この方はローレリアン王子にふさわしい伴侶だと、あらためて確信してしまう。


 彼女はまだ若いのに、しっかり目を開いて、自分を取り巻く周囲の状況の変化を観察しているのだ。


 その観察眼の鋭さは、その場の状況だけに限らず発揮される。


 そもそも、今夜の音楽会に出席したいと言いだしたのは、モナ自身だったのだ。


 ローレリアン王子が宮に不在である事実は、ごく限られた人物にしか知らされていないが、エレーナ王妃にはすべての事情の報告がなされていた。愛情深い女性として国民から尊敬を集めている王妃が、病気の王子のもとへ見舞いに行かなかったりしては、不自然すぎるからである。


 モナは朝夕訪れるローレリアン王子の病室で、エレーナ王妃と何度か会った。そして、北の地にある王子の心配をするあまり、日に日に表情が暗くなっていくエレーナ王妃のことを危惧するようになったのだ。


 ローレリアン王子が庶民を虐殺する形で反乱鎮圧を望むであろう宮廷貴族たちを出し抜いて、もっとおだやかな方法で問題解決を図ろうと画策している事実は、まだ隠しておかなければならない。


 隙あらばローレリアン王子の足元をすくってやろうと狙っている旧勢力に属する人間は、まだ多いのである。


 つまらないきっかけから王子の不在が露見すれば、権力を失いかけてあわてている旧勢力の連中は、大喜びするはずなのだ。そんな連中の陰謀のせいで、警告もなしに第九師団からの砲撃を浴びたり、刺客を放たれたりしたら、少数の護衛しか連れていないローレリアン王子は、たちまち命の危険にさらされてしまう。


 ―― いまにあなたは、わたしの妻になる女性が、どんなに優秀な人かを知ることになるだろうよ。


 ローレリアン王子は、今回の旅立ちに際して、そうメルケン首席秘書官へ言い残していった。


 その言葉の意味を、早くも秘書官は噛みしめている。


「エレーナ王妃陛下が人前で心中の不安を露出してしまわれないように、誰かがそばでお支えする必要があるように思うのだけれど」


 そういった相談をモナから受けた秘書官は、ともに対策を考えた。


 考えていく過程で、モナは現国王バリオス3世の欠点まで言い当てたのだ。


 バリオス3世は芸術に造詣が深い大変な教養人であるが、王に必要とされる交渉力や時流を読み解く予見力には乏しい。


 ただ単に、賢いだけでは王は務まらないのだ。


 ときに王には、人心の裏を読み狡猾に立ちまわる、柔軟さまでも求められる。


 そのうえ武力なり鮮やかな弁舌なり、なにがしか他人より優れているものがあれば、なおよいといえる。それがいずれは、偉大なるカリスマ性に育つのである。


 バリオス3世は教養人特有の潔癖さで、宮廷貴族たちの醜い争いを忌避する。だから彼は、舅である宰相カルミゲン公爵の存在をうっとおしいものだと思いながらも、権力を与え続けたのだ。彼の治世における汚れ仕事は、すべて宰相が引き受けてきてくれたのだから。


 そういう父国王の脆弱な部分を、最近のローレリアン王子は醒めた目で見ている。


 宰相のあとをついで父親の欠点の補完をする役目を担うのも自分の重要な仕事のひとつだと悟れば、嫌にもなってくるだろう。


 普通、男子は父親を超えようとして、もがくものである。


 それなのに、ローレリアン王子は父親から頼られてばかりいる。


 現在の国民の間におけるバリオス3世の人気も、聖王子ローレリアンの存在ぬきには育ちえなかったものだ。


 こうして、さまざまな面から現国王夫妻が抱えている問題点を話し合ったモナと首席秘書官は、最終的に今夜の音楽会へヴィクトリオ王太子も出席させるように働きかけようと決めた。


 病欠のローレリアン王子に代わって王族の席にヴィダリア侯爵令嬢が座ると知ったら、たちまち王太子のへそが曲がって、出席の予定が取り消されるであろうことまでを予測してだ。


 バリオス3世は、腹芸が不得意である。


 王都に不在の聖王子の命を守るための芝居も、たいしてうまくはこなせないだろう。


 下手な芝居で宮廷貴族たちに不審感を抱かせるくらいなら、本当に不機嫌になっていてもらったほうが何倍もましだ。


 もっとも、このやり方には、かなりまずい短所もある。


 国王の不機嫌から過剰な情報を読み取り、王太子が失脚した場合を憂える、愚か者が出てくる可能性を否定できないのだ。


 ローレリアン王子には私心などなく、ましてや自分の子孫に王位をつがせたいといった、権力に対する欲望もない。ただ彼は国の行く末を心配し、聖職者らしい慈悲の心で、いま苦しんでいる人々を救いたいと望んでいるだけだというのに。


 おのれの欲望にのみ囚われた愚か者には、そうした聖王子の志など、理解できないのだ。


 王位に着くのは御しやすい兄で十分だし、継承問題をこじらせて自身の『聖王子』というふたつ名に傷がつくほうが国の将来のためにならないだろうと考える、無欲さも理解できない。


 彼らは現在の地位から追われることだけを恐れている。


 宰相一族に追従して甘い汁を吸ってきた輩に、それほど怖い性質(たち)の者はいないはずだが、『窮鼠猫を噛む』ということわざどおり、追い詰められた人間は何をしでかすかわからないから始末にこまる。


 そうしたリスクも十分に検討したうえで、モナと首席秘書官はヴィクトリオ王太子にも音楽会へ出席するよう、国王の名において要請をかけることにしたのであった。


 多少のリスクを背負うことになっても、いま一番に優先されるのは、ローレリアン王子の身の安全の確保だ。


 モナと首席秘書官の見解は、その点においてだけは、鋼の強さの絆で結ばれていた。


 そして、楽しい宴も、まもなく終盤というころ。


 モナが時々、自分の首筋をなでていることに、メルケン首席秘書官は気がついた。


 背後からそっと「お疲れになりましたか?」とたずねてみると、モナは半分開いた扇の陰で苦笑した。


「なんかね、音楽会の最中から、首のあたりがチクチクするような気がするのよ。

 わたしのことを、にらんでいる人がいたりする?

 いちいち振り返ることもできなくて、わたしには、よくわからないのだけれども」


「髪を結っておいでになるせいで、首筋がこわばるのではございませんか」


「それとはちがうと、思うのよね。

 今日は重たい髪飾りも、つけていないし。

 どう説明したらいいのか、こまってしまうのだけれど。

 この感覚って、剣を持って相手と対峙しているときの感覚と、よく似ているの。

 負けるものかという、むき出しの感情をつきつけられている感じとでも言えば、わかってもらえるかしら」


 首席秘書官は、暗い気持ちでうなずいた。


「モナ様が感じられたことは、そのまま事実なのだと思います。

 自分たちを追い落とそうとするローレリアン王子殿下を、怨み申し上げる者たちは、まだ大勢おります」


「うーん。この首に感じる感触は、憎っくき王子の女の首を縊ってやりたいという、誰かの怨念なのかしらねえ」


「念じただけでは、人の命はどうこうできません」


「あいかわらず、あなたは冷静な毒舌家ね。

 ちっとも励ましてもらったような気持ちになれなくて、すてきだわ」


「お褒めにあずかり、光栄でございます」


 秘書官とモナは、眼でにやりと、笑いあう。


 二人の間には、これからおたがいを、よき相談相手とみなすであろう予感があった。


 とくに首席秘書官の側には、得難い味方を得た満足感がある。


 よくよく知り合えば、すみれの瞳の姫君は、ただの貴族の令嬢ではなかった。無邪気な少女の面影もまだ残してはいるが、内面は立派な大人の女性である。


 感情豊かで賢い侯爵令嬢は、これからローレリアン王子のそばでさまざまなことを学び、さらに成長していくはずだ。将来は黒の宮の女主人として、大活躍してくれるだろう。


 そのうえ彼女の天性の明るさは輝く光となって、政治の世界で荒海を渡りゆく男たちを母港に導びく、灯台のような存在になってくれるに違いない。


 宴の会場の隅にいた王室典礼官が儀礼杖を構える。


 杖で床がたたかれれば、宴は終わりである。


 夜は更けきり、まもなく訪れるのは、闇と死を司る冥界の神プルトが支配する時。


 もっとも、ガス灯とランプの明かりに夜通し照らされる王都プレブナンの街には、真の闇が世界を支配する時など、もう存在しないのだが。


 誰もが宴の終わりを予感して、家路のことを考え始めていた。


 その刹那である。


 いきなり広間の扉が開き、前室から慌てふためいた侍従が入ってきた。彼の後ろには、王都を守る第一師団の制服に身を固めた将校がいる。


 将校は国王の前へ進み、膝を折って騎士の礼をとる。


「催しごとの最中、ご無礼とは存じますが、国王陛下へ申し上げます!

 民間通信社から持ちこまれた軍への問い合わせが火急の用件と判断され、王国軍第一師団長の命令にて、ご報告に参上いたしました!」


 この時代の民間通信社の多くは、郵便馬車を利用した書簡のやり取りで情報の交換をしていた。郵便馬車の速度は、旅客を運ぶ駅馬車より、やや早い程度である。


 モナとメルケン首席秘書官は、表情を凍らせた。


 いよいよ、オトリエール伯爵領で起こった反乱の事実が、宮廷貴族たちの知るところとなる。


 国王ははたして、宮廷貴族たちの怒りを、どこまで抑え込んでおけるのだろうか。


 ローレリアン王子は無事に、目的を果たせるのだろうか。


 ざわざわと波打つばかりの胸の内を無理やりなだめながら、モナは遠い北の地にいる恋人の行方に、想いを馳せるのだった。

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