王都に降る雪 … 9
一時間後、モナは黒の宮で開かれる昼食会へ出席する身支度をするために、王宮の北翼にある浴室で暖かい湯につかりながら、細くて長い溜息をついていた。
この浴室は、エレーナ王妃が好意でモナに与えてくれた部屋と内扉でつながっている。
王宮の北翼は国王と成人前の国王の子供たちが生活する場所だ。歴代の王のなかには、複数の寵妃を同時に後宮へ住まわせ、産ませた王子王女の数も20人以上などという強者が何人もいたので、空いている居室は、いくらでもあったのである。
そのうちのひとつをエレーナ王妃は、着替えをしたり御妃教育を受けたりする部屋として使ったらよいといって、モナに提供してくれたのだ。浴室付きの部屋をあてがってくれたのも、身支度になるべく時間や手間がかからないようにという、配慮の結果である。
正直言って、王妃陛下の好意は、とてもありがたかった。
モナは最近、とにかく、忙しいのだ。分刻みで考えた行動計画の中に、着替えのためにいったん侯爵家の屋敷へもどるなどという、非効率的な予定は入れたくなかった。
王家のプライベート空間である王宮の北翼は、王権の強大さを誇示し、国賓をもてなす場である南翼に比べれば、落ち着いた雰囲気をもつ場所であった。
それでも、居室の天井は高く、壁には絹のつややかな布が貼りこまれており、家具も気品に満ちたみごとな品ばかりだ。
モナが使っている浴室の内装も、じつに素晴らしいものだった。浴槽から立ちのぼる湯気のせいで痛むのが早いから、さすがに壁に絹などは貼られていないが、それ以外は立派な調度品で整えられている。
おまけに湯は使い放題だ。
王宮の各所には、生活用水を湯に変えるボイラーが配置されているのだ。ローザニア王国の経済を発展に導いた石炭火力の恩恵は、300年の歴史を誇る王都プレブナンの王宮生活の快適度にも、影響を与えていたのである。
赤銅製のよく磨かれた浴槽になみなみと満たした心地よい温度の湯の中で手足をのばし、こんな贅沢は他にはちょっとないわよねえと、モナは思う。
庶民にとっての風呂とは、下半身がやっとおさまる程度の盥での行水のことであったし、貴族のなかでもかなり裕福なヴィダリア侯爵家でさえ、ボイラーで無尽蔵に湯を供給する風呂は無駄なぜいたくであるとみなされていた。
そもそもプレブナンの王宮は、街を見下ろす丘の上にある。王国建国以前に、この丘の上にあった古い城塞では、水は深井戸から得る貴重品で、大切に使わなければならないものだと思われていたのだ。
その丘の上にレヴァ川の水力で回る水車で水をくみ上げる水道を配し、王宮をつくり、王宮を取り巻くように公共の建物や貴族の館街を作り上げた初代聖王パルシバルは、やはり絶対的な権力をもつ王朝の開祖様なのだ。
300年前の歴史にまで思いをはせつつ、モナはもう一度、満足の吐息を吐く。
王子の婚約者になったせいで毎日忙しいのは特別苦にならないが、一人になる時間があまり取れなくなったことには閉口している。
父候爵や兄たちから可愛がられ、気ままな少女時代を送ってきた彼女にしてみれば、いつもそばに誰かがいる生活とは、かなり息がつまるものだった。
だから、この風呂ですごす時間は、貴重な休憩時間なのだ。
モナの豊かな黒髪を洗う手伝いをすませた侍女たちは、モナの希望を尊重して、湯につかってくつろぐわずかな時間のあいだだけだったけれども、モナを一人にしてくれる。
王族の生活空間である北翼に、不審人物が紛れ込むことはまずない。昼間の入浴なら遠目で室内がまる見えになることもないから、建物の3階にある浴室の窓のカーテンは開け放たれていた。
目を細めて、モナは窓の外を見た。
そこには雪景色が広がっている。
広大な王都の北側の景色が。
ローレリアンは、あの雪景色のはるかむこうにいる。
王国の北の地、もっと雪深くて生活苦にあえぐ民が地に這うようにして暮らしている場所を目指して、いまも馬を駆っているはずだ。
オトリエール伯爵領まで400メレモーブもある距離を、ローレリアンは四日で駆けぬけるつもりらしい。
疲労で事故を起こさないだろうかと、心配になる。
早駆けの馬の動きに身をあわせて、しなやかにバランスをとるには、乗り手もそうとうの体力を使うから。
きっと北へ進むほど、雪は深くなるだろう。
彼の頬にふれる風は、氷のようだろう。
天候によっては、最後の一日は雪中行軍になるかもしれない。
新雪の中には思わぬ危険がひそんでいると聞く。
水路の上に積もった雪を踏みぬいて、極寒の地で身体を濡らしたりしたら、命にかかわることだってある。
無事に現地へ着いたとして、少数の護衛しか連れていない王子の正体がばれたら、危険な目にあいやしないだろうか。
先走った軍隊が王都からの命令を待たずに反乱民たちの籠城の拠点を攻撃したら、砲撃に巻き込まれて逃げ遅れる可能性だってでてくるだろう。
モナは手をのばして、浴槽のそばの小さなテーブルの上に置いた銀の護符をとりあげた。
湯であたたまった彼女の手におさまる銀の護符は、ひやりと冷たい。
護符に頬ずりし、何度も口づける。
王子の側近たちの前では適当なことを言って、納得したような態度で話を終わりにしたけれど、やっぱり、この護符はモナの手元へ、形見がわりに残されたものなのだと思う。
ローレリアンはこの国の王子として、いつでも命を捧げる覚悟を持つ人だ。たとえわが身を危険にさらしてでも、やらなければならないと決めたことは、必ずやりとげようとする。
もし、いまローレリアンが死ぬようなことになれば、婚約者の立場でしかないモナには、思い出以外、何も残されない。それではあまりに不憫だから、彼は自分の分身のようなこの護符を、モナに預けていったのだろう。
―― 万が一と彼が考えた通り、わたしの手のなかに残るのが、この護符だけなんてことになったらどうしよう。
あなたがいなくなったら、わたしは生きていけない。
世界のすべてが、終わってしまう。
「リアン! わたしを置いて、死んだりしないって誓ってよ……!」
恋人の名を口にしたら、こらえていた涙が噴き出した。
涙を侍女たちに見られるわけにはいかない。
湯をすくいあげて、顔にあびせた。
不思議だ。
乱れた感情に翻弄される涙は、風呂の湯よりもっと熱い。
何度も何度も湯を浴びるのに、頬に幾筋も伝う涙の感触は、くっきりと感じられてつきることがない。
こみあげてくる喉の奥の塊も、どうしてこんなに熱いのだろう。
「そちらへ、はいってもよろしいかしら」
ふいに話しかけられて、モナは縮みあがった。
こんな風に泣いているところを、誰かに見られたらこまるのに。
今の段階で王子の不在が宮廷貴族たちにばれたら、その先に起こる問題は、さらに複雑で手のつけようがない問題へと発展していくだろう。ローレリアン王子を疎ましく思っている者たちは、これ幸いと地方にいる王子へむけて刺客を放ちさえするかもしれない。
派手な水音をさせながら、モナはもう一度、顔に湯をあびせた。
激しい動悸で胸が痛い。
お願い、愛と豊穣の女神ユピ!
なんとか、この場をごまかせるように手を貸して!
人の気配が近づいてくる。
「モナったら、だいじょうぶ?
なかなかお呼びがかからないから、衣装室に控えている侍女たちが心配しているわよ?
わたくしに、モナ様がのぼせて倒れていやしないか見てきてくださいませんか、なんていうんだから」
浴槽のすぐそばまで来た女性の声には聴き覚えがあった。
全身の緊張がほどけていく。
顔をかくしていた両手を恐る恐るゆるめたら、すぐそばに王妃陛下の侍女であるエテイエ子爵未亡人ジャンニーナの姿があった。
「ニーナ、どうしてここへ?」
「ラッティ坊やが、わたくしのところへ来て、モナ様が王子殿下の名代として昼食会へご出席されることになったので、御仕度を手伝ってさしあげてくださいませんかと言うから。
そういうの、わくわくしちゃうじゃない?
いつぞや、みんなで話していた新しいタイプのドレスを着るの?
この国のファッションリーダーとして、モナにどんな服を着てもらうか考えるのは、最高に楽しいわ!」
そういって身をかがめ、モナの顔をのぞきこんだジャンニーナの表情はこわばった。
「モナ、あなた、泣いているの?」
ジャンニーナの知的な顔が、みるまに曇る。
眉尻が下がって……。
じっとモナを見つめてくるせいで、瞳の色が深くなって……。
心配してくれている顔だ。
―― いつもてきぱきと事に当たる冷静な彼女に、こんな顔させちゃったのは、やっぱり、わたしなのかしら?
でも、しょうがないじゃない。
どうしても、涙が止まらないんだもの。
ジャンニーナは、怒ったように言う。
「なによ、王子殿下のお風邪って、そんなにお悪いの?
ひょっとして、ただのお風邪じゃなかったりするんじゃないでしょうね?」
「ちがっ……、違う……」
しゃくりあげてしまって、まともにしゃべれない。
「ニーナの顔を見たら、ほっと……、ほっとしちゃった……、の」
ひいと、硬く目をつぶって大きくしゃくりあげたら、そのあいだに頭を抱き寄せられていた。そんなことをすれば、ジャンニーナまで濡れてしまうのに。
耳元で、ジャンニーナが呟きかけてくる。
「おバカさんねえ、モナ。ひとりで頑張らなくていいのに。
愚痴くらいなら、わたくしだって、いくらでも聞いてあげられるのよ?
それが、お友達ってものだと思うわ」
彼女の言葉がモナの胸に、すとんと落ちてきた。
そう。
頑張った。
わたしは、ひとりで頑張ったんだ。
ジャンニーナの懐にしがみついて、モナはひしゃげた声で叫んだ。
「だって、黒の宮の男の人たちの前では泣けないの!
リアンを助けてくれるあの人たちの足を、奥さんになるわたしが、ひっぱるわけにはいかないじゃない!
わたしは、いつでも元気なお姫さまでいなくちゃ、あの人たちに余計な仕事を増やすでしょ!
だから、がんばらなくちゃと思っていたのに、ニーナが『がんばらなくていい』なんて、言うから……!」
「うんうん、意地っ張りね。
あなたは一度こうと決めたら、一直線ですものね。
でも、わたくし、モナのそういうところが大好きなのよ」
大好きと言われた瞬間、胸にきゅっと、しぼられるような痛みが走った。
頑張ったことは、まちがっていなかったのだと、認められたのが嬉しくて。
甘えた口調で、言ってしまう。
「どうしよう、ニーナ。涙が止まらないの……!」
よしよしと何度もモナの頭をなでたあと、ジャンニーナは優しく額に口づけてくれた。
「ほら、湯船から出て、ガウンを着て、暖かくしましょ。
それから、胸を貸してあげるから、好きなだけ泣くの。
でも、大声をあげちゃだめよ?
扉一枚のむこうには、王宮の侍女たちがいるんですからね。
それから、気がすんだら、御仕度をしましょう。
あなたのことを大好きなのは、わたくしだけじゃないの。
あなたに会うことを楽しみにしている人は、大勢いるのよ」
** **
その日、黒の宮で開かれた昼食会に出席したローレリアン王子の婚約者ヴィダリア侯爵令嬢の美しい姿と機知に富んだ受け答えの素晴らしさは、後々までの語り草となった。
モナは、急に宴へ出席できなくなったローレリアン王子の代役として立派に勤めをはたしつつも、決してでしゃばることはなく、優美な微笑で紳士たちを魅了し、愛くるしいしぐさで淑女たちを虜にしたのである。
身支度をすませたモナの移動を護衛するべく、みずからも近衛士官の正装に身なりを改めて王宮の北翼へやってきたスルヴェニール卿などは、お出ましになられたヴィダリア侯爵令嬢の美しい立ち姿を目にした瞬間、まわりにいた者すべてにわかる勢いで顔を赤くしたほどである。
モナは来シーズンに流行らせたいと思っている、シンプルな形で裾を長くひくタイプのドレスを身にまとっていたのだ。
ローザニア王国の富裕層の平民の購買力には、王国を世界の流行発信基地に育てるだけの底力が、すでにそなわっているはずだ。だから、次の流行には、そういう人たちにも、ちょっと頑張れば手が届くと感じさせるような、シンプルなドレスがいいと思うのだが。
そういった相談を王国の産業省長官であるラカン公爵に持ちかけてみたところ、「それはよいお考えだと思いますよ。ぜひ、思うところを実行に移してみてごらんなさい」という返事を得たので、モナと友人たちは総力を結集して、いままでとはまったく違うデザインの礼服や夜会服の試作品を作り上げたのである。
王宮の廊下のそこかしこには、綺麗な形に作りあげられたひき裾をゆったりとひいて歩いていくモナの姿を拝見しようとする貴族や侍従たちが、人垣を築くほどに集まった。
その視線にさらされつつ、モナは友人たちや王妃陛下や、王妃陛下が集めてくださったファッションアドバイザーたる貴族の女性たちまでも巻き込んで研究した、優雅な歩みを披露する。
人垣のなかに見知った顔を見つければ、にっこりとほほ笑んで「ごきげんよう」と、あいさつも。
その際には、もちろん、軽くかがめた背中のラインと引き裾の様子が最高に美しく見えるように、意識して身体を動かした。
モナにあいさつをされた貴族は、みな誇らしさではちきれんばかりの笑顔となり、周囲にいる者たちはうらやましそうにざわめく。
モナのうしろにつき従っているスルヴェニール卿は、貴族たちがざわめくたびに、嬉しくてならないようだった。となりを歩いているエテイエ子爵の未亡人ジャンニーナにむかって、さきほどから「素晴らしい! まことに素晴らしい! さすがは聖王子殿下に望まれて妃殿下になろうかというお方ですな!」という台詞を、馬鹿の一つ覚えのように連発している。
そんな赤毛の近衛士官のことを、「この人は本当に単純なお馬鹿さんだわ。まるっきり、モナになついた大型犬ね。護衛役には、適任だけれども」などと、ジャンニーナは思っていた。
ジャンニーナには、モナの晴れやかな笑顔が、とてもつらそうに見えていた。
モナは、ジャンニーナに抱きしめてもらいながら、泣いて脹れた目もとを浴室の窓辺に残っていた雪で冷やして、こもる熱をとってから化粧をしはじめたのだ。
布で包んだ雪を目に当てながら、冗談めかしてモナは言った。
「雪に、こういう活用法があるなんて、思ってもみなかったわ」
週に一回、国立病院の看護人養成校の先生役もしている才能豊かな女性であるジャンニーナは、わざといかめしい先生らしく、その冗談に答えた。
「炎症には冷罨法です。冬はいいですわ。患部を冷やす材料が、そこらじゅうにありますもの」
「あら、冬はたちの悪い風邪がはやる季節でもあるのよ」
「王子殿下が罹患なさったような、何日も寝込む、ひどいお風邪ですわね」
すでにモナの涙の理由を理解していたジャンニーナの言い草には、たっぷりと皮肉が織り交ぜられている。女を泣かせる男なんて、たとえ相手が王子であろうと許しがたいとでも言いたげである。
モナは苦笑した。
「そうよ。殿下のお風邪は、とってもひどいお風邪なの。
だからニーナも、一日も早く殿下の御病気が快癒されるように、協力してちょうだいね」
暗に、秘密を守るように求められたのだと悟り、ジャンニーナは無言でうなずいた。
それを確認してからモナは、窓辺から取ってきた雪が入っている金盥を、「証拠隠滅!」と言いながら、浴槽の湯の中へ沈めた。
白い雪は暖かい湯の中で、またたくまに姿を消していく。
「わたしは当分、雪が嫌いになりそうだわ。
リアンはこれからきっと、雪国で大変な思いをするにちがいないんですもの」
そのあとふりむいたモナの口元には、おだやかな笑みが浮かんでいた。けれども、ジャンニーナにはわかった。モナの笑顔の奥には、つねに考えて物事に取り組む、賢い女の気配があると。
ローレリアン王子と婚約した頃から、モナの愛くるしい外見には大人の女性の気配が色濃く出てきていると、ジャンニーナは感じていた。
結婚の経験があるジャンニーナは、その理由を、王子殿下と一夜を共にして名実ともにモナが『女』になったからなのだろうと思っていのだが、どうやらその考えは間違っていたらしい。
モナは笑顔の陰に、こんなに大きな苦しみをかくしていたのだ。
「大丈夫よ、モナ」
ジャンニーナは、わざと陽気に答えた。
「これは断言してもいいけれど。
王子殿下が無事にご帰還なさったら、きっとまた、あなたは王都に降る雪を愛するようになるわ。
子供達といっしょに『明日はつもるかな』って、わくわくしながら空を見あげて、またレミ様まで巻き込んで雪合戦を楽しむのよ。
その子供たちは、きっとあなたと殿下のあいだに誕生した、可愛らしいお子様たちだわ」
モナは悪戯っぽく、肩をすくめて笑った。
「そうなったら、どんなに嬉しいかしら!」と。
あの笑顔も、かなり痛々しかったわねと、ジャンニーナは思い返した。
その瞬間、王宮の廊下に人垣を築いていた貴族や侍従たちが、一斉にどよめいた。
モナが廊下の曲がり角で、長いドレスのひき裾を靴のかかとで軽く蹴り上げて、これ以上ないくらい優雅でみごとな方向転換をして見せたのだ。
ジャンニーナのとなりでも、赤毛の近衛士官が、「おお!」と声をあげる。
―― ほんと、無邪気な人ね。
ジャンニーナは苦笑しながら、スルヴェニール卿へ話しかけた。
「レミ様、聞きましてよ。今朝早く、モナ様や子供達といっしょに、雪合戦を楽しまれたそうですわね」
スルヴェニール卿は、顔を赤らめた。
「すでに噂は、王妃陛下の侍女殿にまで知られておりますか」
「こういう楽しい噂が広まる速さは、特別ですからね」
「お恥ずかしいことです」
「恥じることなど、ございませんわよ。
お願いですから、レミ様。
これからも、モナ様の楽しい遊びには、嫌がらずにつきあってさしあげてくださいませね?
来年も、再来年も、王都に雪が降ったときには、雪合戦をなさってくださいね」
「それは、その。任務ですから、嫌がったりは、そのぅ、……いたしません」
「約束いたしましたわよ?」
「はあ」
赤毛の近衛士官スルヴェニール卿は、自分を「レミ様」と呼ぶ知的な容貌の王妃陛下の侍女が、ことのほか苦手だった。
彼女は特別美人ではなかったが、茶色い綺麗な瞳でじっと見つめられると、スルヴェニール卿はいてもたってもいられない気分になってしまうのだ。おのれの馬鹿さ加減を、見透かされてしまっているようで。
―― ほら、俺のまぬけ面を見て、またため息だ。たまらんなあ……。
落ち込んでもしかたがないと、スルヴェニール卿は周囲を警戒する任務へもどってしまう。
スルヴェニール卿の心中など何も知らないジャンニーナは、もう一度、盛大なため息をついた。
―― やっぱり、女の気持ちは女にしか、わからないものなのかしら。
モナが笑顔の陰で泣いていることなんて、王子の側近たちは気づいていないだろう。
なにしろモナは、彼らの前では全力で、移り気で無邪気な女を演じている。
ジャンニーナの目の前を歩いているモナの背中には、高貴な女性に特有の気品が満ちあふれていた。
もともと名門侯爵家に生まれて、子供のころから姫君に課せられる義務について厳しく教えられてきたモナには、身の内からにじみ出るような品格があったけれども。
いまのこの気品は、モナが努力して作りあげようとしている王子妃殿下のイメージから、発せられるものなのだろうと思う。
この時、心ひそかに、ジャンニーナは決意した。
彼女はこのところ、王宮勤めを辞して国立病院の看護人養成校の教師の仕事に専念するべきか、あるいは教師の仕事は他の人間に任せて、王宮で女官としての地位を極める方向へ進むべきかで迷っていたのだ。
その迷いは、モナの涙を見たおかげで霧散した。
自分が、結婚後すぐに夫と死に別れて悲しい思いをしたことも、立ち直るきっかけになればと思って王宮への出仕を決めたことも、エレーナ王妃に仕えたおかげでモナと出会えたことも、すべてが運命であるかのように思えた。
なによりも、いまの時代に生まれたことこそが、運命であったと思える。
伝統的な貴族の力が弱くなり、経済力を身につけた富裕層の平民が国を動かす勢力として新たに台頭し、庶民はひたすら貧しいのが、王国の現状だ。その不安定な国をどのように導くのだろうかと、人々は不安に満ちた目で王家の動向を見守っている。
今後、その王家の中心人物になっていくのは、まちがいなく国王の次男、ローザニアの聖王子ローレリアンだろう。
その王子の妃たる女性には、絶対に、悲しい心を打ち明けられる女の側近が必要だ。
―― わたくしに、そんな大それた役目が務まるかどうか、迷っていたけれど……。
もはや、迷ってなどいる場合ではないと思った。
変に意気込んでしまった気持ちをなだめたくて、窓の外へ目をむけると、そこには冬の陽光に煌めく、みごとな王宮の庭の姿があった。
まぶしい雪の反射光が、ジャンニーナの目を射る。
自分はきっと生涯、この光景を忘れないだろうと思った。
のちに、その思いは現実となる。
エテイエ子爵未亡人ジャンニーナは55歳で宮廷女官職から退く時まで、王都に降る雪を見るたびに、若き日の主の後ろ姿を思いだしては懐かしむことになるのである。




