第一話 婚約者の浮気現場に遭遇しましたが、一向に終わらないので証人を集めてきました
婚約者の浮気現場に遭遇したとき、令嬢が取るべき行動はいくつかある。
悲鳴を上げる。
その場へ踏み込み、裏切った男の頬を打つ。
涙をこらえながら屋敷へ戻り、父に婚約解消を願い出る。
私……伯爵令嬢であるセシリア・アースキンは、そのどれも選べなかった。
理由は単純だ。
長かったのである。
「……まだ終わらないのかしら」
庭園に面した離れの窓辺から、規則正しい軋みが聞こえてくる。
薔薇の茂みに身を隠した私は、隣でしゃがんでいる侍女のリタに小声で尋ねた。
「始まったところを見ていないので、なんとも申し上げられませんが……少なくとも、私どもがこちらへ来てから四半刻ほど経っております」
「そうよね」
離れの中にいるのは、私の婚約者であるレオナルド・ハースト侯爵令息。
そして、私の親しい友人を自称していた子爵令嬢、ミランダ・ベイル。
親しい友人を自称していた、と過去形にしたのには理由がある。
二人は現在、衣服を身につけていない。
正確には、窓から見えた範囲ではレオナルド様のシャツが床に落ち、ミランダのドレスが椅子に引っかかっていた。
見間違えようがない。
それなのに私は、怒鳴り込む機会を完全に失っていた。
最初は、扉を開ける瞬間を慎重に見極めていたのだ。
あまり早く踏み込んで、「まだ何もしていない」と言い逃れられては困る。
二人が決定的な行為に及んだところで扉を開き、婚約解消を突きつける。そう決めていた。
ところが、決定的な行為に及んでからも、終わらない。
いつまで経っても、終わらない。
怒りより先に、疑問が湧いてきた。
「もしかして、幻術ではないかしら」
「幻術、でございますか」
「人間があんなに同じ動きを続けられるとは思えないもの」
「お嬢様、残念ながら間違いなく情事かと」
「同じ光景を延々と見せられている可能性は?」
リタが離れの窓を見上げる。
ちょうどその瞬間、ミランダの甲高い声が響いた。
リタは無言で私を見た。
「音も含めた幻術かもしれないわ」
「先ほどとは、台詞が違いました」
「そうだった?」
「はい。先ほどはレオナルド様のお名前を呼んでおられました。今は『もう駄目』と」
「では、幻ではないのね」
「おそらく」
私たちは再び黙った。
風が薔薇の香りを運んでくる。よく晴れた午後だった。遠くでは楽団が穏やかな曲を奏で、屋敷の広間ではレオナルド様の両親が主催する茶会が開かれている。
本来なら私も、そちらにいるはずだった。
彼が席を外したため、少し話したいことがあって後を追っただけである。
それがなぜ、薔薇の茂みで婚約者の情事を見守る羽目になったのか。
「お嬢様」
「何?」
「そろそろ踏み込まれてはいかがでしょう」
「そうね」
私もそう思う。
けれど、今さら入るのも妙だった。
十分前なら、怒りに任せて踏み込めた。
しかし、これほど長く外で待っていた以上、扉を開けた瞬間に何を言えばよいのか分からない。
『いつまでヤッているのですか』
違う。
『いい加減になさい』
母親の叱責のようだ。
『まだ終わらないのですか』
これでは催促しているように聞こえる。
「踏み込むにしても、私とリタだけでは証言として弱いわ」
「窓からドレスとシャツが見えておりますが」
「二人で激しい運動をしていただけだと言われる可能性もあるわ」
リタの口元がわずかに引きつった。
「衣服を脱いで、寝台の上で、ですか」
「世の中には変わった鍛錬法もあるかもしれないでしょう」
「存じませんでした」
「私もよ」
婚約解消を申し出る以上、確実な証拠が必要だ。
レオナルド様はハースト侯爵家の嫡男であり、私の家よりも爵位が一つ上。私が感情的になって騒いだだけだと主張されれば、面倒なことになる。
それならば、中立の証人を増やすべきだ。
「リタ。茶会へ戻りましょう」
「お止めにならないのですか」
「ええ。まずは人を呼ぶわ」
「その間に終わってしまうのでは?」
私は離れの窓を見上げた。
相変わらず、軋む音は続いている。
「……終わると思う?」
リタも窓を見た。
「終わらない気がしてまいりました」
「私もよ」
私たちは茂みから抜け出し、できる限り足音を立てずに庭園を後にした。
茶会の会場へ戻ると、誰も私の不在には気づいていないようだった。令嬢たちは卓上の菓子について語り、紳士たちは狩猟の話で盛り上がっている。
私はまず、父と親交のある老公爵を探した。
ガルシア公爵は、王宮で長年法務官を務めた人物だ。爵位も高く、レオナルド様の家とも特別な利害関係がない。
「公爵様。少々、お時間をいただけますか」
「構わんが、どうした。顔色が悪いぞ」
「婚約者が浮気をしている可能性がございます」
公爵の眉が上がった。
「可能性?」
「窓から見た限りでは、ほぼ間違いございません。ただ、私一人の判断では心許ないため、確認をお願いしたく存じます」
「……分かった」
「できれば公爵夫人にもお願いいたします」
「なぜ妻まで?」
「女性の衣服が脱がされていた場合、どなたのものか確認していただけるかと」
公爵はしばらく私を見つめたあと、静かに妻を呼んだ。
次に、ハースト侯爵家と縁の薄い子爵夫妻。
さらに、王宮騎士団に所属する青年を一人、非常に優秀だと噂される文官を一人。
あとから証言を覆されないよう、身分も年齢も異なる人物を選んだ。
「何人ほど集めるおつもりですか」
リタに尋ねられ、私は周囲を見渡した。
「五人いれば十分かしら」
「現在、私たち含めて十人おります」
「では、行きましょう」
私を先頭に、公爵夫妻、子爵夫妻、騎士、文官、リタ、事情を聞いて勝手についてきた令嬢二人が庭園へ向かう。
途中、公爵が低い声で尋ねた。
「相手は誰だ」
「ミランダ・ベイル子爵令嬢です」
「君の友人ではなかったか」
「先ほどまでは、そう認識しておりました」
「気丈だな」
気丈なのではない。
いまだに状況が現実として飲み込めていないだけだ。
怒りも悲しみもある。
ただ、それ以上に頭を占めている疑問がある。
あの二人は、まだ続けているのだろうか。
薔薇の茂みが見えてきた。
私が人差し指を唇に当てると、一同は足音を忍ばせる。
そして離れへ近づいた瞬間、公爵夫人が立ち止まった。
窓の向こうから、まだ軋みが聞こえていた。
「……あなた」
夫人が私の袖を引く。
「これは、いつからですの?」
「私どもが発見してからですと、半刻近くになります」
リタが答えると、一同の顔に同じ困惑が浮かんだ。
騎士が離れを見上げる。
「途中で休んだのでは?」
「確認しておりません」
「ずっと見ていたのではないのか」
「皆様を呼びに戻りましたので」
「では、休憩を挟んだ可能性はあるな」
なんの検証をしているのだろう。
私は婚約者の浮気を告発するために人を呼んだはずだ。
それなのに、誰もが情事の継続時間を気にし始めている。
「とにかく、中を確認いたしましょう」
私が離れへ歩み寄ると、騎士が先に扉へ手をかけた。
「鍵がかかっています」
「合鍵は?」
「ハースト家の管理でしょうな」
ガルシア公爵が眉を寄せる。
そのとき、窓の向こうからレオナルドの声が聞こえた。
「愛している。君こそ、僕の運命の人だ」
胸の奥がひやりと冷えた。
ようやく、怒りが実感を伴って込み上げてくる。
私には一度も言わなかった言葉だった。
結婚は家同士の約束であり、愛情などあとから育めばよい。そう言っていた男が、別の女性には惜しみなく愛を囁いている。
私は拳を握り、扉を叩こうとした。
けれど、その前に令嬢の一人が首を傾げた。
「その……まだ続いておりますの?」
全員の視線が離れへ向く。
確かに、軋みは止まっていない。
私は一度、目を閉じた。
怒りが、また疑問に押し流されていく。
「扉を壊しましょう」
「よろしいのですか」
「ええ。このままでは、日が暮れます」
公爵が騎士に頷く。
騎士は一歩下がると、扉の錠前へ肩をぶつけた。
一度。
二度。
室内から、ミランダの悲鳴が響いている。
三度目で、木製の扉が激しい音を立てて開く。
寝台の上で絡み合っていた二人が、こちらを振り返る。
レオナルド様の顔から血の気が引いた。
「セ、セシリア……なぜ、ここに」
私は扉の前に並ぶ九人を振り返り、それから婚約者へ向き直った。
「私一人では見間違いかもしれないと思い、皆様にも確認していただこうかと」
「見間違いなわけがないだろう!」
「ええ。お二人のご様子を見る限り、私もそう思います」
レオナルド様は寝具を引き寄せ、慌てて腰を隠した。
その隣で、ミランダが涙を浮かべている。
「違うの、セシリア。これは……」
「どの部分が違うのか、あとで詳しく伺います」
私は室内を見渡した。
床には二人分の衣服。
卓上には空になった葡萄酒の瓶。
そして、寝台脇の椅子には、私が昨年レオナルドへ贈った上着が丁寧に畳まれている。
「では、とりあえず婚約は解消いたしましょう。婚姻前に発覚して、お互い傷が浅く済んで何よりですわ」
「セシリア!」
「それから、ミランダ様の婚約者にも、こちらで確認した事実をお伝えしておきますわね」
「ちょっ……待って、セシリア!」
「ご安心くださいませ。証人はこれだけおりますので、私の思い込みだとは扱われませんわ」
証拠としては十分だろう。
ようやく婚約解消の話へ移れる。
そう思った瞬間、廊下の向こうから別の悲鳴が聞こえた。
「誰か来て!お嬢様が階段から突き落とされました!」
一同が振り返る。
私は眉間を押さえた。
どうして今日に限って、修羅場が重なるのだろう。
私はスカートを持ち上げ、廊下へ走り出した。
この時の私はまだ知らなかった。
今日という日が、私の長い修羅場見届け人生の始まりにすぎなかったことを。
次々に修羅場に遭遇する令嬢…次はどんな修羅場に遭遇するのか…
気になったら、ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ
もし、こんな修羅場を見てみたい!などありましたら、感想でもらえると嬉しいです!




