第一話 毛の壁
最初に見えたのは、壁だった。
いや、壁ではない。
毛だ。
視界いっぱいに、灰色の毛が揺れていた。
近い。近すぎる。鼻先に触れそうなくらい近い。
すぐそばに、灰色の毛をした大きな何かがいる。
その体が、壁のようにラトの視界をふさいでいた。
息を吸おうとして、ラトはそこでようやく、自分の鼻がどこにあるのか分からないことに気づいた。
喉もない。胸もないし、腕も、足も、どこにもない。
「あ……」
声を出したつもりだった。
だが出たのは、古い管に空気を通したような、かすれた音だった。
目の前で微かにゆらめいていた灰色の毛が、ぴたりと止まる。
「……動いたぞ」
低い声がした。
毛の壁の向こう側からだった。けれど、その声は口から出たというより、硬い部品の奥で鳴ったように聞こえた。
ラトは目を動かそうとした。
動いたのかどうかも分からない。視界は相変わらず灰色の毛でいっぱいだった。
そのうち、耳が慣れてきた気がした。
どこか近くで、聞き慣れない音がしている。
金属が薄く鳴る音。何かを噛ませる音。硬いものが、別の硬いものに押し込まれて、かちりと止まる音。
それが自分に関係ある音なのか、そうでないのか、ラトには分からなかった。
遠くで、重いものが床に置かれる音がした。
「お?」
別の声がした。低いが少し明るい。何かを期待しているかのような声色だった。
「もう起きたのか、こいつ」
重い足音が近づいてくる。床板がきしむ音。金属がこすれる音。
誰かが、ラトのすぐ横でしゃがんだ気配がした。
次の瞬間、視界が浮いた。
持ち上げられたのだろう。巨大な手のようなもののなかで、ラトはころりと転がされた。
灰色の毛。天井。にじんだ灯り。垂れ下がった線。知らない男の顔。また灰色の毛。天井。
景色がぐるんと入れ替わる。
「う」
吐きそうになった。
吐きそうになったのに、そのための腹がない気がした。
それが一番気持ち悪かった。
「サモ」
毛の向こうから、低い声がした。
「転がすな」
「落としてねえだろ」
「そういう問題ではない」
知らない男――サモという名前の男が、眉をひそめてラトを見下ろしていた。
赤い髪に口ひげ。深く彫れた顔。眉は重く、肩はやたらと太い。ぱっと見ただけなら、悪いやつに見えた。どこぞのゲームのボスに出てきそうな風体だ。
ただ、その手はラトを落とさないように、ちゃんと下から支えていた。
「おい。聞こえるか?」
聞こえている。
けれど、返事の仕方が分からない。
首を振ろうとして、首から下がないことを思い出した。いや、思い出したのではない。
初めて、理解した。
ラトは、机の上に置かれていた。
身体はなかった。
自分がどこまでなのか分からない。
視界があって、音が聞こえて、気持ち悪くなる何かはある。けれど、それだけだ。
自分の下に、何もない。何もないはずなのに、生きている。……生きている、というのか?
そのことに気づいた瞬間、さっきまでの気持ち悪さとは別のものが、頭の奥を冷たくした。
サモの手が、ラトの向きを変えた。
灰色の毛の壁だったものが視界に入る。それの正体に気づくより先に、別のものに意識を奪われた。
人間の身体のようなものだった。
大きな台の奥で、スクリーンのようなものが光を放っていた。その手前に、人の形をした身体が置かれている。
胸と肩を細い固定具で押さえられており、腰から下には使い古した布のようなものがかけられていた。
首元は開いていて、そこには銀色の輪のようなものがあった。傷口にも、部品にも見えた。
知らない身体のはずだった。
なのに、なんとなく胸の奥にあるはずのない場所がざわついた。
「それ……オレの?」
自分で聞いて、自分で変な質問だと思った。けれど他に、聞き方が分からなかった。
サモは台の上の身体をちらりと見た。
「まあ、おまえのボディだ。繋がればな」
灰色の毛の向こうから、低い声がした。
「あまり刺激するな。拒絶反応が出たらどうする」
「細けえな」
「それと、ヘッドを転がすなと言ったばかりだ」
「落としてねえだろ」
灰色の毛をしたものは、ぎろっとこちらを見上げたように見えた。
狼……?
ラトはそう思った。しかし、狼にしてはどこかおかしい。
まず大きすぎる。作業台のこちら側に座っているだけなのに、それでも自分の身長より高く見えた。
……体があったころの身長より。
それに、先ほどこちらを睨みつけたように見えた目は、どう見ても生き物のそれではなかった。目のある位置は、角のついた金属のような枠に覆われていた。レンズのようなものもあったような気がする。
すでに作業台へ顔を戻しているので、それ以上は分からなかった。
じきに、灰色の毛の獣が何かを終えたのか、かちゃりと金属を置いた音がすると、台の側面に長く鋭い爪で触れた。
低い駆動音とともに布の下で何かが締まり、白い身体がずれないまま、作業台ごとゆっくり回転する。
そして布切れが落ちるころには、足が下を向き、立った状態の身体が現れた。
サモは舌打ちして、ラトを両手で持ち直した。
「じゃあ、繋ぐぞ」
「え」
声はまた、古い管を鳴らしたようにかすれた。
「ちょっと、まっ――」
待って、とは言えなかった。
サモの手が、ラトの視界を持ち上げる。
灰色の毛が遠ざかり、天井の灯りがにじむ。作業台に固定された身体が、どんどん近づいてくる気配が後ろからした。
知らない身体。
自分のものだと言われた身体。
まだ、そうではない身体。
「動くなよ」
サモが言った。
動くなと言われても、動かせるものがない。
ラトがそう思った瞬間、視界の下で、金属が噛み合うような音がした。
かちり。
首の下だ。下で、何かが開いた。何かが差し込まれ、続いて何かが回される。
音はする。振動もある。
しかし、触られているはずなのに、触られている場所が分からない。なんの感覚もない。
「ロニ、反応は」
「問題ない」
「それじゃ、もう少し入れるか」
ラトの下で、また音がした。
ぎ、と何かが軋む。
少ししたあと、首の奥から冷たいものが流れ込んできた。
血でも空気でもない。
細い糸を、何百本もまとめて引き込まれるような感覚だった。
「っ」
声を出そうとして、失敗した。
視界が白くなる。
そうしていると急に、何もなかったはずの下に、重さが生まれた。
肩。
胸。
腕。
腹。
足。
言葉より先に、場所だけが戻ってくる。
だが、すぐ動かそうとは思えないほど、感覚が薄い。
「入った」
サモが言う。
「拒絶は?」
「まだ出てねえ」
「まだ、だ」
ロニが訂正した。
「縁起でもねえこと言うな」
サモの声が遠くなる。
気づいたら手足の拘束が解かれていた。
ラトは指を動かそうとしたが、どれが自分を動かすものか分からなかった。
それでも、作業台の上で何かが小さく跳ねた。
自分の手だった。
その事実に気づくまでに、少し時間がかかった。
「……う、ごいた」
とっさに出た声は、さっきより少しだけマシだった。それでも、自分の声というには頼りない。
サモが息を吐く。
「まずはこんなもんか。ほかよりはマシだ」
「ほかより……?」
「おう、今までも何回か同じもん見てきたからな」
サモは当たり前のようにそう言っていたが、ラトにはその言い方にどこか引っかかりがあった。
自分のような存在はよくいるものなのか。それが当たり前のように言われる場所。
――ここは、地球ではないのかもしれない。
ラトは遅れて浮かんだその考えに、顔が青ざめる気がした。
早く逃げ出したい。ただ逃げたところで、どこに行けばいいのだろう。
「まだ終わってねぇぞ」
サモが、ラトの顔を覗き込んだ。
なんとなくどこか楽しそうにしている顔。人の頭と身体をこねくり回して楽しそうなんて。
ラトはその顔を見て、やっぱり悪役ボスの顔だ、と思った。




