その器、あわいに映る
侍従の手から、書状が宰相へ渡る。
宰相は封を確認すると、そのまま書状を開いた。
紙面へ視線を走らせる。
眼鏡の奥で。
僅かに眉が寄った。
「陛下。」
「こちらは――」
王が片手を上げる。
宰相の言葉が止まった。
「書状を。」
「……はい。」
差し出された書状を受け取る。
王は紙面へ視線を落とした。
書状には。
これまで幾度となく送付した。
星導魔術適性個体。
Origin-0-Mirabilis-1の返還要請に対し。
王国から何ら回答がないこと。
当該個体は研究施設の所有物であり。
王国がこれを保護する権限は有していないこと。
これ以上、返還要請を黙殺するのであれば。
直接、王城へ赴き。
当該個体の引き渡しを求めること。
そして。
場合によっては。
相応の手段をもって対処する用意があること。
そう記されている。
王の視線が。
書状の最後で止まった。
そこには。
出立の日付。
そして。
五日後には。
王城へ到着する旨が記されている。
王の指が紙の端をなぞった。
「なるほど。」
低い声が落ちる。
書状を畳む。
「ちょうどいい。」
宰相が王を見る。
王の口元が僅かに歪んだ。
「私も。」
「直接。」
「言いたいことが。」
「できたところだ。」
……
研究施設。
……
少女の頭の中で。
その言葉が響く。
研究施設。
来る。
ここに。
……
少女は自分の手を見る。
白い。
指を曲げようとする。
動かない。
足の裏には床がある。
それなのに。
何も。
触れていないみたいだった。
「……。」
小さな手が動く。
すぐそばにある妹の袖を掴んだ。
きゅっ。
「おもち様……?」
妹が振り向く。
息を呑んだ。
淡紫色の瞳は。
どこにも向いていない。
白い唇が僅かに開き。
袖を掴んだ指が震えている。
「おもち様。」
妹はすぐにその場へしゃがみ込んだ。
少女の身体へ両腕を回す。
ぎゅっ。
「大丈夫です。」
返事はない。
「大丈夫ですよ。」
もう一度。
抱く腕へ力を込める。
……
湯の中で初めて見た身体が。
妹の脳裏を過った。
細い腕。
小さな背中。
白い肌に残る無数の傷。
そして。
先程聞いた声。
『役に立たない私は。』
『廃棄されるから。』
……
妹は少女の頭を胸元へ抱き寄せた。
「……。」
それ以上。
何も言わなかった。
王はその様子を見ていた。
妹の袖を握ったまま。
震えている小さな手。
色を失った唇。
妹が王を見る。
少女の身体を抱く腕が、僅かに強くなる。
「エステラ。」
「はい。」
「その子を。」
「自室まで連れていきなさい。」
「承知いたしました。」
妹は腕の中へ目を落とした。
「おもち様。」
「参りましょう。」
「……。」
少女は答えない。
ただ。
袖を掴んでいる。
やがて。
白い唇が動いた。
「……あの人達が。」
「来る……。」
妹の眉が寄る。
「私を……。」
「迎えに……。」
「おもち様。」
「……帰る。」
少女の指が。
妹の袖を強く握った。
「あそこに……。」
妹はその手を見る。
一度。
唇を結んだ。
「陛下。」
王へ顔を向ける。
「無礼をお許し下さい。」
少女の背へ腕を回し。
もう片方を膝の裏へ入れる。
そのまま。
小さな身体を抱き上げた。
「……。」
少女は抵抗しなかった。
妹の胸元へ身体を預ける。
「……帰る。」
また。
声が零れた。
「……施設に。」
抱く腕に力が入る。
「帰りません。」
少女の声が止まった。
妹は腕の中を見る。
「おもち様は。」
「帰りませんよ。」
「……。」
淡紫色の瞳が。
僅かに揺れた。
少女は何も言わない。
ただ。
妹の服を。
きゅっと掴んだ。
妹は少女を抱いたまま王へ一礼する。
「失礼いたします。」
そのまま扉へ向かう。
扉が閉じた。
王はしばらく。
閉じた扉を見ていた。
やがて。
手にした書状へ視線を戻す。
「宰相。」
「はい。」
「姫を呼べ。」
宰相が眼鏡を僅かに押し上げた。
「……よろしいのですか?」
「ああ。」
王は書状を机の上へ置く。
「一番近くにいる。」
「あいつにも。」
「守る権利を与える。」
宰相は黙って聞いている。
「何も知らずに。」
「守ることはできん。」
王の指が。
書状の上へ置かれた。
「守ろうとすれば。」
「望まぬものとも。」
「ぶつからねばならん。」
……
「それが。」
「どういうことなのか。」
王は宰相を見る。
「知っておくべきだ。」
宰相はしばらく王を見ていた。
やがて。
頭を下げる。
「承知いたしました。」
傍らに控える侍従へ顔を向けた。
「心伝魔法の使用を許可します。」
侍従の表情が僅かに変わる。
「城内にいる。」
「すべての侍女。」
「ならびに侍従へ。」
「姫様を。」
「至急。」
「こちらへお連れするよう。」
「伝達を。」
「承知いたしました。」
侍従は深く一礼すると、足早に部屋をあとにした。
扉が閉じる。
王は机上の書状を見る。
当該個体は。
研究施設の所有物。
その一文に。
指先が触れた。
「所有物……か。」
低い声が。
部屋へ落ちた。
◇
王城の廊下を。
二人の少女が歩いていた。
「おもち、どこにいるかな。」
沈んでいた表情は、もうどこにもない。
赤い髪を揺らしながら。
少女は廊下の先を見る。
「もしかして。」
「お部屋に戻ってたりするかな。」
「そうかもしれませんね。」
「じゃあ。」
「私も部屋に戻ってみようかな。」
「いらっしゃるといいですね。」
少女は嬉しそうに頷くと。
歩く速度を少し上げた。
その直後。
ぐぅ。
「……っ。」
足がぴたりと止まる。
隣を歩いていた姉も足を止めた。
少女は自分のお腹を見る。
両手で押さえると。
頬がじわりと赤くなった。
「……聞こえた?」
「ふふっ。」
「聞こえてしまいました。」
少女は肩を窄める。
「先程。」
「お茶菓子をいただいたばかりですよ。」
「だって……。」
赤くなった頬のまま。
小さく口を尖らせる。
「なんか元気になったら。」
「お腹減ったんだもん。」
姉は小さく微笑んだ。
手元の懐中時計に視線を落とす。
「そろそろ昼食のお時間ですね。」
少女は顔を上げる。
にこりと笑った。
「朝は一緒じゃなかったけど。」
「お昼は絶対一緒に食べるんだから。」
二人は再び歩き出す。
「メニューはなんだろうね。」
姉は少女を見て微笑んだ。
「なんでしょう――」
……
その足が止まる。
少女も少し遅れて立ち止まった。
「セレス?」
……
姉は答えない。
笑みが消え。
僅かに目を細めた。
『陛下がお呼びです。』
声が直接、頭の中へ響く。
『姫様。』
『または。』
『姫付きの侍女、セレスを見つけた者は。』
『至急。』
『陛下のもとへ向かうよう。』
『お伝えください。』
声が途切れた。
姉は少女を見る。
「姫様。」
「心伝魔法……。」
「はい。」
姉は小さく頷いた。
「陛下がお呼びです。」
少女の笑みが消えた。
……
心伝魔法。
……
少女は廊下の先を見る。
この先に。
自分達の部屋がある。
おもちが。
いるかもしれない。
……
スカートの裾を握る。
しばらく。
そのまま先を見ていた。
……
やがて。
指が解ける。
「行こう。」
「はい。」
少女は踵を返した。
姉もその隣へ並ぶ。
二人は王のもとへ向かって歩き出した。
◇
少女は姉とともに廊下を歩いていた。
先程よりも足取りは速い。
廊下の角を曲がる。
向こうから。
二人の人影が見えた。
少女の足が止まる。
……
白銀色の髪。
「おもち!」
声が弾んだ。
そのまま駆け寄ろうとして。
一歩。
足が止まった。
妹に抱えられた白銀の髪の少女は。
こちらを見ていない。
身体を小さく丸め。
妹の服を強く握っている。
顔色も。
ひどく白い。
「……おもち?」
妹がこちらに気づく。
「姫様……。」
少女の眉が寄った。
すぐに二人のもとへ歩み寄る。
「どうしたの……?」
妹は視線を落とした。
何かを言おうとして。
唇を結ぶ。
少女はその腕の中を覗き込んだ。
「おもち。」
返事がない。
「私だよ。」
淡紫色の瞳は開いている。
けれど。
少女を見ない。
「おもち。」
もう一度呼ぶ。
それでも。
瞳は動かなかった。
少女は眉を下げる。
震えている左手へ。
両手を伸ばした。
包み込む。
「……。」
冷たい。
少女の指が。
小さな手を包むように閉じる。
すると。
白い指先が僅かに動いた。
「……がぜる。」
少女の目が大きくなる。
「そうだよ。」
身を屈める。
「ガゼルだよ。」
「……がぜる。」
「うん。」
両手に力が入った。
白い唇が。
僅かに動く。
「私。」
「……帰る。」
「……え?」
少女の顔から表情が消えた。
「帰る……?」
……
どこに。
……
「姫様。」
妹の声に。
少女は顔を上げた。
妹は白銀の髪の少女を抱く腕へ力を込める。
「詳しいことは。」
「陛下からお聞きください。」
「でも……。」
少女は腕の中を見る。
青白い顔。
震える手。
握ったままの指。
……
少女の両手が。
その手を包んだまま止まる。
……
「お父様の所にはいかない。」
「おもちのそばにいたい。」
妹は小さく首を横へ振った。
「姫様。」
「おもち様のことは。」
「私にお任せください。」
「でも。」
「大丈夫です。」
妹は真っ直ぐに少女を見る。
「必ず。」
「お部屋までお連れします。」
少女は唇を結んだ。
視線が。
両手の中へ落ちる。
いつもより。
ずっと冷たい。
「……おもち。」
返事はない。
少女はその手を包んだまま。
俯いた。
指先に。
力が入る。
……
元気に。
なってほしい。
……
淡い光が。
二人の手の間から溢れた。
少女が目を見開く。
光は白銀の髪の少女の腕を伝い。
小さな身体を包んでいく。
柔らかな輝きが。
廊下へ広がった。
姉が息を呑む。
妹も。
腕の中と少女を交互に見る。
「姫様……。」
少女は答えない。
ただ。
その手を握っている。
やがて。
身体を包んでいた光が。
白銀の髪の少女の中へ溶けていった。
少女は左手を包み直す。
「……。」
指先が。
さっきより温かい。
少女の肩から力が抜けた。
「すぐに終わらせて。」
「会いにいくからね……。」
両手が離れる。
けれど。
指先だけが。
しばらく宙に残った。
「エステラ。」
「はい。」
少女は妹の腕の中を見る。
「おもちのこと。」
「よろしくね……。」
妹は真っ直ぐに少女を見つめる。
「はい。」
小さな身体を抱え直した。
「お任せください。」
少女は頷く。
「おもち。」
もう一度。
名前を呼ぶ。
返事はない。
少女の眉が僅かに下がる。
それでも。
口元に小さな笑みを作った。
妹は一礼すると。
白銀の髪の少女を抱えたまま歩き出した。
少女は動かなかった。
遠ざかる二人を見る。
妹の腕の向こうで。
白銀色の髪が小さく揺れる。
やがて。
廊下の角へ消えた。
「姫様。」
姉の声がする。
少女はまだ。
同じ場所を見ていた。
……
『私。』
『帰る。』
……
少女の眉が寄る。
胸元へ手を添えた。
「……行こう。」
「はい。」
二人は再び歩き出した。
今度は。
少女の方が少し前を歩いている。
廊下を進む。
階段を上がる。
いくつもの扉を通り過ぎていく。
姉は何も言わず。
その隣を歩いた。
……
青白い顔。
震えていた左手。
『帰る。』
……
少女の歩幅が。
僅かに大きくなる。
やがて。
見覚えのある大きな扉が見えてきた。
その前には二人の騎士が立っている。
王の執務室。
少女は足を止めた。
一度。
大きく息を吸う。
吐く。
……
扉の前に立つ騎士が。
少女へ向き直った。
「姫様。」
胸元へ手を添え。
一礼する。
「ただいま。」
「お取り次ぎいたします。」
騎士は扉へ向き直る。
「陛下。」
「姫様がお越しです。」
少しして。
扉の向こうから。
宰相の声が返った。
「お通しください。」
「はっ。」
騎士は取っ手へ手を掛ける。
◇
大きな扉が開く。
少女は姉とともに、執務室へ足を踏み入れた。
部屋の奥。
机の向こうには父がいる。
その傍らに立っていた宰相が、二人へ向き直った。
「姫様。」
胸元へ手を添え、深く一礼する。
少女も足を止めた。
背筋を伸ばし、スカートの裾を摘まむ。
「お呼びと伺い、参りました。」
いつもと変わらない。
王女としての挨拶。
顔を上げる。
すぐに父を見た。
……
いつもなら。
その碧色の瞳を見ると。
何を言われるのか。
何か間違えてはいないか。
そんなことばかり考えてしまう。
今は。
……
「お父様。」
父が少女を見る。
「おもちのことですか。」
「ああ。」
父は短く答え。
傍らへ目を向けた。
「宰相。」
「書状を。」
「はい。」
宰相は机の上から一通の書状を手に取った。
少女の前まで歩み寄り。
両手で差し出す。
「こちらを。」
少女は受け取った。
紙面へ視線を落とす。
難しい言葉が並んでいる。
目で追う。
Origin-0-Mirabilis-1。
星導魔術適性個体。
研究の継続。
返還。
少女の目が。
一つの言葉で止まった。
所有物。
「……。」
もう一度。
その文字を見る。
「これ……。」
顔を上げる。
「おもちのこと……?」
「ああ。」
少女は書状へ視線を戻した。
最初から読む。
番号。
個体。
研究。
所有物。
……
少女の頭に、白銀の髪の少女の姿が浮かぶ。
ここへ来たばかりの頃。
人形みたいな子だと思った。
目の前にいるのに。
そこには誰もいないように見えた。
……
でも。
違った。
本を渡せば、時間を忘れてずっと読んでいる。
知らないものを見つけたら。
不思議そうに首を傾げる。
歩きたくないと、その場に座り込んで動かなくなる。
怖いときには、小さな身体を震わせる。
……
初めて星を見た夜は。
淡紫色の瞳を大きく見開いて。
いつまでも空を見上げていた。
……
ぐしゃ。
少女の手の中で。
書状の端が潰れた。
「姫様。」
宰相の声がする。
少女は顔を上げない。
……
いくつもの姿が浮かんでくる。
自分の右手を握り返す、小さな左手。
いつも冷たい手。
『胸の奥が落ち着く。』
『ずっとそのままでいたいって思う。』
……
おもちが。
自分で見つけたもの。
……
少女は書状へ視線を戻した。
星導魔術適性個体。
研究。
所有物。
「……なんで。」
指に、さらに力が入る。
「なんで……。」
……
怖いって思う。
綺麗だって思う。
一緒にいると落ち着くって。
好きだって。
おもちは今。
そういうものを。
一つずつ見つけているのに。
どこが。
物なの。
……
少女は唇を噛んだ。
「おもちは……。」
声がうまく出なかった。
目の奥が熱くなる。
一粒。
涙が頬を伝った。
少女は手の甲で乱暴に拭う。
けれど、すぐに次の涙が溢れた。
「おもちは。」
「物じゃない……!」
握り締めた書状が、くしゃりと音を立てる。
「ちゃんと。」
「名前があるのに……。」
涙の滲んだ目で父を見る。
「おりじんなんとかなんかじゃない……!」
父は何も言わなかった。
泣きながら書状を握り締める娘を、ただ真っ直ぐに見ている。
少女はもう一度、手の中の文字を見た。
Origin-0-Mirabilis-1。
その文字に。
別の姿が重なった。
白い肌に残る無数の傷。
掻きむしった腕。
ひび割れていく肌。
そして。
俯いたまま聞いた、小さな声。
『気持ち悪くて。』
『ごめんなさい。』
……
あのときは。
わからなかった。
どうして、おもちが謝るのか。
どうして、自分の身体をそんなふうに言うのか。
でも。
ずっと。
こんな言葉で呼ばれて。
こんなふうに扱われていたのなら。
……
少女の眉が歪んだ。
「……ひどい。」
また涙が落ちる。
「こんなの……。」
書状を握ったまま、父を見る。
「ひどいよ……。」
父はその言葉には答えなかった。
しばらく娘を見つめたあと、口を開く。
「先程まで。」
少女は涙の残る顔を上げる。
「あの子は。」
「ここにいた。」
「……おもちが?」
「ああ。」
父は頷く。
「私に。」
「何と言ったと思う。」
少女は瞬きをした。
……
おもちが。
お父様に。
何を。
……
少女は少し考える。
……
昨日から。
何度も考えていた。
おもちが。
何を考えているのか。
何をしたいのか。
まだ。
全部はわからない。
でも。
ずっと繰り返していたことがある。
……
「……役に。」
父の眉が僅かに動いた。
「役に立ちたい……?」
傍らにいた宰相が、思わず少女を見る。
父は娘を見たまま。
「ああ。」
短く答えた。
「そうだ。」
少女の手の中で、紙が小さく鳴る。
「そして。」
父は続ける。
「役に立てなければ。」
「廃棄される。」
「そう言った。」
少女の表情が止まった。
「……え?」
父を見る。
「廃棄……?」
……
聞き間違えたのかと思った。
でも。
お父様の顔は変わらない。
廃棄。
物を。
いらなくなったものを。
捨てるときの言葉。
どうして。
そんな言葉を。
おもちが。
自分に使うの。
……
少女の唇が僅かに開く。
その瞬間。
これまでのことが、一つずつ繋がり始めた。
……
何かできることはないか。
何度も。
何度も。
おもちは聞いてきた。
そのたびに。
そんなことしなくていい。
おもちはおもちのままでいいよって。
そう答えていた。
それでいいと思っていた。
ここでは何もしなくてもいいのだと。
そう教えてあげれば。
いつか安心してくれると思っていた。
でも。
違った。
何かできなければ。
ここにいられない。
役に立てなければ。
捨てられる。
……
おもちは。
ずっと。
そんなことを。
考えてたの……?
……
少女の目から、また涙が溢れた。
「私って……。」
声が震える。
……
ずっと。
そばにいたのに。
何度も聞いていたのに。
どうしてそこまで何かをしようとするのか。
考えもしなかった。
また言ってる。
そんな必要ないのに。
それだけだった。
……
「なんで……。」
少女は俯き、歯を食いしばる。
手の中で。
くしゃり。
また紙が鳴った。
「姫様。」
後ろから伸びた姉の手が、少女の肩へ触れる。
少女は顔を上げなかった。
ただ。
肩に置かれた手の温もりを感じる。
父はそんな娘をしばらく見ていた。
けれど。
慰めることはしなかった。
「宰相。」
「はい。」
「先程の書状も。」
「姫に渡せ。」
宰相の目が僅かに動く。
「……よろしいのですか。」
「ああ。」
父の答えに迷いはなかった。
宰相は一礼すると、机の上に置かれていたもう一通の書状を手に取る。
「姫様。」
少女は顔を上げた。
頬を手の甲で拭い、差し出された書状を受け取る。
「こちらは。」
「先程届いたものでございます。」
「……先程?」
「はい。」
少女は書状を開いた。
先程のものと、よく似た文面。
Origin-0-Mirabilis-1。
返還。
所有物。
また。
同じ言葉が並んでいる。
……
読みたくない。
……
眉を寄せながら、それでも少女は文字を追った。
これまでの返還要請に対し。
王国から正式な回答がないこと。
これ以上、要求が受け入れられない場合。
直接、王城へ赴き。
当該個体の引き渡しを求めること。
そして。
必要であれば。
相応の手段をもって対処する用意があること。
少女の目が止まった。
もう一度。
その一文を読む。
「……来るの?」
顔を上げる。
「この人たち。」
「ああ。」
父が答える。
「すでに。」
「こちらへ向かっている。」
「数日後には到着するだろう。」
少女の指から、僅かに力が抜けた。
……
向かっている。
ここへ。
……
その言葉を聞いた瞬間。
廊下で見た白銀の髪の少女の姿が浮かんだ。
青白い顔。
自分を見ていなかった瞳。
冷たかった左手。
『私。』
『帰る。』
少女の目が大きくなる。
「……だから。」
……
ようやく。
あの言葉の意味がわかった。
「だから。」
「おもち……。」
「帰るって言ったの……?」
……
少女は再び手の中の二通の書状を見る。
これまでの返還要請――
少女は書状から目を離し、父を見る。
「お父様。」
「おもちのこと。」
「知ってたの……?」
「ああ。」
少女の眉が寄る。
「いつから?」
「お前が。」
「城へ連れてきた時からだ。」
「……。」
少女は父を見た。
……
あの傷。
『気持ち悪くて。』
『ごめんなさい。』
『何かできることはない?』
……
少女の手が下がった。
「なんで……。」
「なんで。」
「教えてくれなかったの?」
「知る必要が。」
「なかったからだ。」
「あるよ!」
声が部屋へ響いた。
姉の手が。
肩の上で僅かに動く。
少女は父から目を逸らさない。
「だって。」
「おもちのことだもん。」
「私。」
「ずっと一緒にいたのに。」
書状を胸元へ引き寄せる。
「おもちが何回も。」
「できることはないかって聞いてたのに。」
「私。」
「そんなことしなくていいって。」
「そればっかり言ってた。」
少女の唇が歪む。
「どうしてなのか。」
「何にも知らなかった……。」
……
何もしなくていい。
……
少女は目を伏せた。
……
何もしなくても。
ここにいていい。
……
目元を拭う。
「私も。」
「知りたかった。」
父は何も言わない。
少女は手元へ視線を落とす。
返還。
引き渡し。
所有物。
指先が。
紙の上を僅かに滑る。
顔を上げた。
「お父様。」
「おもちを。」
一度。
声が止まる。
「返すの……?」
父はすぐには答えなかった。
娘を見つめる。
「姫よ。」
「……なに。」
「お前は。」
父の視線が。
少女の持つ書状へ落ちる。
「どうしたい。」
「……私?」
「ああ。」
少女の眉が寄る。
「でも。」
「それは。」
「お父様が決めることでしょ?」
「そうだ。」
父は否定しない。
「決めるのは私だ。」
……
少女は父を見る。
……
「だが。」
父が続ける。
「お前は。」
「あの子の一番近くにいる。」
少女の指が動いた。
「何も知らずに。」
「守ることはできん。」
「……。」
「だから。」
「聞いている。」
父は真っ直ぐに娘を見る。
「お前は。」
「どうしたい。」
少女は父を見返した。
それから。
手の中へ視線を落とす。
……
『帰る。』
……
両手が。
書状を握り直した。
「……渡したくない。」
顔を上げる。
「おもちを。」
「渡したくない。」
父は黙っている。
「ちゃんと。」
「話したい。」
「この者たちと?」
「うん。」
少女は頷いた。
「おもちには。」
「名前があるって。」
「物じゃないって。」
「ここで。」
「みんなと一緒にいるって。」
……
本を読む姿。
庭を歩く姿。
自分の手を握る小さな左手。
……
「ちゃんと話したら。」
「わかってくれるかもしれない。」
少女は書状を見る。
「この人たちは。」
「まだ。」
「今のおもちを知らないから。」
「だから。」
顔を上げる。
「私が話す。」
「おもちが。」
「どんな子なのか。」
「ちゃんと伝える。」
「それでも。」
父の声が重なった。
少女の口が止まる。
「相手が。」
「聞かなければ。」
「……。」
「話しても。」
「渡せと言われたら。」
「お前はどうする。」
少女の目が。
書状へ落ちた。
所有物。
指先が止まる。
……
さっきまで。
冷たい左手を包んでいた。
自分の手。
……
少女は片方の手を開いた。
小さな手のひらを見る。
指が。
ゆっくりと閉じる。
「……わからない。」
父を見る。
「どうしたら。」
「守れるのかは。」
「まだ。」
「わからない。」
宰相も。
姉も。
何も言わない。
「でも。」
少女は続けた。
「一人にはしない。」
父の目が僅かに細くなる。
「もし。」
「おもちが。」
「連れていかれるなら。」
少女は一度。
唇を結んだ。
「私もついていく。」
宰相が目を見開く。
姉の手が。
少女の肩の上で止まった。
「姫様……。」
少女は父から目を逸らさない。
「ついていって。」
「おもちを傷つけないでって。」
「ずっと言う。」
「そんなことしか。」
「できないかもしれないけど。」
胸元で。
書状を握る。
「おもちを。」
「一人にはしない。」
父は娘を見つめる。
「それで。」
「守れると思うか。」
少女の眉が下がった。
「……わからない。」
今度は。
すぐに答えた。
自分の手を見る。
小さな手。
指を握る。
「私。」
「まだ子供だし。」
「お父様みたいに。」
「たくさんのことも知らない。」
「おもちを守れるくらい。」
「強くもない。」
それでも。
少女は顔を上げた。
「でも。」
「何もしないのは嫌。」
父を見る。
「だから。」
「まず。」
「ちゃんと話す。」
「それでもだめだったら。」
一度。
口を閉じる。
視線が僅かに泳ぐ。
やがて。
「そのとき。」
「また考える。」
父の眉が僅かに上がった。
「考えて。」
「できることを探す。」
少女は書状を胸元へ抱えた。
「だって。」
「まだ。」
「何もしてないもん。」
「話してもないのに。」
「わかってくれないって。」
「決めたくない。」
手の中の書状を見る。
それから。
父を見た。
「私は。」
「ちゃんと話したら。」
「わかってくれるって。」
「信じたい。」
部屋の中に。
少女の声だけが残った。
父は何も言わない。
碧色の瞳が。
じっと娘を見ている。
「……お父様?」
父の口元が。
僅かに緩んだ。
「……ふっ。」
少女の眉が寄る。
「なに?」
父は片手で口元を覆った。
肩が揺れる。
「……くっ。」
「お父様?」
次の瞬間。
「ははっ。」
「はっはっはっ!」
少女の目が大きくなる。
姉も目を丸くした。
宰相まで。
珍しく言葉を失っている。
少女は呆気に取られたまま。
声を上げて笑う父を見る。
「……なんで。」
眉間に。
だんだん皺が寄る。
「なんで笑うの……?」
……
『帰る。』
青白い顔。
震えていた手。
……
少女の頬が膨らんだ。
「もういいです!」
くるりと父へ背を向ける。
「私。」
「ちゃんと。」
「自分で考えるもん!」
「ひ、姫様。」
姉が慌ててあとを追う。
少女はそのまま扉へ向かった。
「姫様。」
宰相まで声を上げる。
「お待ちください。」
「待ちません!」
扉へ手を伸ばす。
「姫よ。」
少女の手が止まった。
けれど。
振り返らない。
「悪くなかった。」
「……。」
握った扉の取っ手が。
僅かに軋んだ。
少女の頬が。
さらに膨らむ。
「研究施設との会合には。」
父は続ける。
「お前も参加しろ。」
少女は勢いよく振り返った。
「当たり前です!」
父を真っ直ぐに見る。
「あと。」
「その呼び方もやめてください!」
「研究施設って。」
「おもちは。」
「研究するものじゃない!」
そのまま扉を開く。
一歩。
廊下へ出る。
そこで振り返った。
「おもちのところに行くので!」
「これで失礼します!」
ばたん。
大きな音を立てて扉が閉じた。
……
部屋に残された宰相は。
閉じた扉を見る。
しばらくして。
王へ顔を向けた。
「……陛下。」
宰相は眼鏡を押し上げる。
「姫様をお試しになられるのも。」
「ほどほどになさってください。」
王は宰相へ視線だけを向けた。
「青いが。」
「それでいい。」
「……。」
それだけ言うと。
机の上へ視線を戻す。
話は終わりだとでもいうように。
王の指が。
皺だらけになった書状へ触れた。
「それより。」
「こちらだ。」
宰相は小さく息を吐く。
「……まったく。」
王の傍らへ歩み寄った。
「では。」
「先方の来訪についてですが。」
机の上へ。
いくつかの書類を広げる。
「まず。」
「予測される展開を整理いたしましょう。」
「可能な限り。」
「武力行使には至らせないよう。」
「折衷案を――」
◇
少女は廊下を歩いていた。
その足が。
次第に速くなっていく。
「姫様。」
隣から姉の声がする。
少女は止まらなかった。
……
自分が嫌になる。
いつだって大事な時にその場にいない。
……
少女の足がさらに速くなる。
赤い髪が。
背中で大きく揺れた。
……
帰らなくていい。
ここにいていい。
誰が何と言っても。
絶対に渡さない。
もし。
それでも連れていかれそうになったら。
……
少女は唇を結ぶ。
そんなの。
嫌だ。
だったら。
おもちを連れて。
どこかへ遠くにいけばいい……。
……
廊下の角を曲がる。
少女は走っていた。
「姫様……!」
後ろから姉の声が追いかけてくる。
それでも。
足は止まらない。
……
今も。
きっと。
辛い思いをしてる。
……
あんなに冷たかった。
震えていた。
『帰る。』
あの声が。
耳から離れない。
……
早く。
会いたい。
顔を見たい。
それで。
ちゃんと。
伝えたい。
……
少女は走る。
階段を駆け下り。
廊下を曲がる。
見慣れた扉が見えた。
「おもち!」
取っ手を掴む。
勢いよく扉を開いた。
少女は部屋へ飛び込む。
「……。」
誰もいない。
荒い呼吸だけが。
部屋の中に響いている。
少女は辺りを見回した。
「……おもち?」
……
少女は寝台へ近づく。
掛け布は乱れていた。
枕にも。
誰かが横になっていた跡が残っている。
「……。」
胸の奥で。
自分の鼓動が聞こえた。
少女は顔を上げる。
窓が。
開いている。
風が入り込み。
カーテンを揺らしていた。
布の擦れる音が。
誰もいない部屋に響く。
少女は。
開いた窓を見つめる。
……
「……おもち?」




