74. 姉妹の会話:side.汐
「栞、楓様は?」
汐は人の姿で楓に用意された部屋に入る。人界の者たちは楓と真尋を守るように、その一室に集まっていた。他にも部屋は用意したけれど、結局使われないまま。
「よく眠られているわ。奏太様がご用意くださった日石が、ずっと側にあったのも良かったみたい」
主が楓の側を離れたあとも、主の力が目一杯詰められた日石がじわじわと、闇に侵された楓の体を癒していっていたようだ。
「晦と朔は?」
汐はそう言いつつ、楓のベッドの側で姉の手を握りながら眠ってしまったらしい真尋と、その二人を守るように立つ護衛に目を向けた。
「妖界の薬をいただいたから、傷は問題ないよ、汐」
晦から、気遣うような声が返ってきた。
「ごめんなさい。危険に晒してしまって」
「謝罪はもう聞いたよ。奏太様のおかげで、皆回復しつつあるんだ。あまり、気に病まないでよ」
朔もそう言いつつ眉尻を下げる。
「けれど、こちらの問題事に……」
「汐、私達は、日向の守り手様にお仕えする身。楓様はもちろんだけど、奏太様も、我らが御守りすべき方よ。内も外もないわ。あの頃と同じ。だから、私たちのことも頼って良いの」
栞はそう言いつつ、そっと、汐の頬に手を当てた。
「貴方の方が、酷い顔よ。汐」
双子の姉の温かい手。子どもの姿のまま時が止まった自分とは違い、母に触れられていた時の記憶を呼び起こすような、立派な大人の手のひら。
「……栞……」
じわりと、勝手に涙が浮かび上がってくる。
あの頃。里で皆と過ごしていた時のような温かい空気に、自然と弱音が口から溢れた。
「私……、あの方の案内役、なのに……あの方の未来が明るくあるように……導くって、決めた、のに……ずっと、一人きりで、暗闇を歩かせてしまった……」
喉が、焼かれるように痛む。
奏太が普通の人の少年であった頃から、汐はずっと奏太の側にいた。武力はないけれど、あの方の守り手としての役目が滞りなく進むよう手配するのが汐の仕事だった。
けれど、力がない。それだけで、汐はいつも、主と考えなしの護衛役に置いてけぼりにされがちだった。主が目の届かぬところで危険な目に遭い、その度にヤキモキさせられ、心配のあまり主に手を上げた事もあった。
いつも御人好しで危なっかしく、気づけば問題事に自ら巻き込まれに行くような主だ。直情で動く護衛役達では賄いきれないところを補い支えていくことに、汐はそれなりの自負があった。
『いついかなる時も、たとえ悠久の時がすぎたとしても、この身も心も、貴方様の為に』
あの方の眷属になった時、汐はそう誓った。
誰もが魅入ってしまう優しい光のような方。側にお仕えし、あの陽だまりのような心と共に歩みたいと、そう思っていた。
それなのに、陽だまりだと思っていた笑顔の裏にあった凍りつくような孤独を、二百年も放置していたのだと、今更気づかされてしまった。
今はもう、いつも側にあった、面倒事に困る顔も、叱られてたじろぐ仕草も、楽しそうに笑う声も、優しく細められる瞳も、何もない。両手を白絹で縛られたまま、ただ無感情に、どこか遠くを見つめるだけ。
汐が愛した、主の豊かだった感情が、冷たい空気に溶けて消えてしまった。
「……あの方は、まだ、ちゃんと居てくださるのに……どうしたら、戻ってきていただけるか……わからないの……私達の過ちを、どうしたら……」
止まらない涙に、声が掠れる。
せめて、もっと早く気づけていれば……あの方の小さな悲鳴を見つけてあげられていたら……
冷たい鬼界。閉ざされた眷属達だけの世界。その内側から、大切な主を壊されてしまうなんて。
今や、心から信用できる者は、人界時代から共に過ごしてきた亘、巽、椿の三名だけ。こうなった以上、先代眷属も、妖界の者達も、本当の意味では信用できない。それが、とにかく心細い。何もできずにこのまま主を失ってしまうのではと怖くて、どうしたらいいかもわからない。
汐は行き場のない不安と悲痛に強く手を握り締めた。
すると、不意にふわりと温かな感触が自分を包んだ。栞が汐の背に手を回し、優しく胸に抱き寄せる。頭がそっと撫でられた。
「大丈夫よ、汐。必ず、何か方法があるわ。一緒に、考えましょう」
静かに語りかける声。
「……栞……けど……」
「大丈夫。汐」
栞は、もう一度、そう繰り返す。
それは、汐にとって、何より心強く、温かい言葉。一人ではないと自分に寄り添い、理解し、共に歩もうとしてくれる、大事な家族の存在……
けれど、そのどうしようもないほどの温かさとともに、無性に胸に痛んだ。
主には今、こうして寄り添ってくれる家族はいない。それが、酷く苦しくて、自分達が代わりになれて居ないことが、何より悔しくて。
汐は、姉の胸に顔を埋め、声を殺して泣き叫んだ。
それから、どれほどの時間が経っただろう。汐が泣き腫らした目のまま栞から離れたころ。
不意に、バンと勢いよく扉が開いた。
「汐ちゃん! 亘さんを止めて! 塔に行くって聞かないんだ!」
飛び込んで来た巽は必死の形相でそう叫んだ。
「……塔に?」
「復讐するつもりなんだよ、玄さんに!」
巽の言葉に、汐は息を呑む。先代眷属との力量差は歴然。行ったところで返り討ちにあって終わりだ。
汐は強く奥歯を噛んだあと、急いで廊下に駆け出した。
走る巽についてエントランスに出ると、外へ出ようとする亘を椿が必死に押さえつけていた。だが、力に勝る亘にじりじりと扉まで押し戻されている。
「放せ、椿!!」
「ダメです! お願いですから落ち着いてください、亘さん!」
怒声を上げる亘と、声を荒げて止めようとする椿の声がエントランス内に反響する。
「ああ、もう!」
巽はタッと駆け出すと、椿に加勢して亘を押さえにかかった。
「邪魔をするな!」
亘の激昂する声。それを巽が遮るように喚く。
「やめてくださいって! 燐鳳殿が行くのとは話が違います! 同じ主を持つ眷属同士に制約なんてないんですから! 最悪、殺されちゃいます!」
「だから、なんだ!? 差し違えてでも――」
「ダメですよ! 亘さんに何かあったら、奏太様、本当に、人であることをやめちゃいますから!!」
随分昔。主を守り、亘が生死の境を彷徨った事があった。泣き崩れ、何も手につかず、眠ることも厭い、自暴自棄になった挙句、自分を痛めつけて苦しみから逃れようとしていた主の姿が蘇る。まるで人が変わったようになった姿。
思い出したくもない悲痛に満ちた主の顔が脳裏に過ぎり、汐は咄嗟に飛び出した。
巽と椿に引き留められる亘の前まで行くと、手を思い切り振り上げ、亘の頬めがけて力いっぱに振り抜く。
パンッ!!
商会のエントランスに、乾いた音が響き渡った。
巽や椿だけでなく、騒ぎに駆けつけた妖界の武官達が揃って驚いた表情で汐を見つめる。
「差し違えてでも復讐する? あの方の役にも立たずに死ぬつもり?」
汐は、ふつふつと沸き上がる怒りを抑えるように、冷たい声音で言う。
「役に立たないどころじゃない。あの方の心を酷く傷つけるかもしれない。それだけ、私達を大切にしてくださっていたのがわからないの?」
主が感情を大きく揺らす先にあるのは、いつも、自分たちや日向の故郷との繋がりだった。柊士や白月、深く関わった日向の子孫達を失った時、淕が亡くなっていたと知った時、主は一体、どうなった?
日向奏太という、一人の『人間』を成り立たせる繋がりが切れることを、どれほど厭っていた?
主が秩序の神となってしまったあの日、『ここから永遠に続く時を過ごす貴方のお側に、人としての貴方を知る者が、必要なのではありませんか?』そう言った護衛役が、今、何をしている?
涙を目にいっぱいに溜め、汐は亘を精一杯に睨みつけて凄んだ。
「あの方の護衛役が、あの方への誓いを踏みにじるような真似、絶対に許さないから!」
汐が叫ぶと、巽が唖然としたまま、汐と亘を見比べる。
「……う、汐ちゃん……ちょっと、暴力は……」
亘が主に手を上げたことで、主は壊れてしまったのだと聞いた。汐がやっていることは、亘がしたのと同じかもしれない。けれど、それでも、止められなかった。
あの方の護衛役が、あの方を救わずに破滅に向かおうとする、その心根が許せなかった。
汐の力程度の軽さでは、亘にとっては蚊に刺された程度の、大した衝撃ではないはずだ。しかし、気づけば、亘はピタリと動きを止めていた。
「何が護衛役よ! 馬鹿なことやってないで、もっと、あの方の為になることを考えなさい!」
復讐したところで、主が以前のように笑ってくれるわけではない。玄が消えても、主の心は戻らない。きっと、ずっと神と人の狭間で苦しみ続けるだけ。
「……なら、どうすればいい?」
ボソリと亘の低い声が落ちた。
「……この手で、主を地獄に落としたのだ……永遠に護り支えると誓ったはずの、この手で…………せめて、あの方の痛みを、あいつに与えるくらいしか、私には……」
その言葉に、汐は堪えきれず、亘の胸ぐらを掴んで体重をかけるようにして力いっぱいに引き寄せた。
「貴方、奏太様を諦めるつもりなの?」
汐は、真っ直ぐに亘の目を覗き込む。いつもより数段低くなった汐の声が、微かに震える。
しかし、亘からの返答はない。汐の言葉の意味を理解しているかどうかもわからない、暗く沈んだままの瞳。
「まだ、この屋敷の、私達の手の届くところにいる、あの方を、諦めるつもりかって聞いてるの!!」
汐はありったけの声を張り上げる。
「あの方に拒絶されたからって、貴方から手を放してどうするの! あの方を、貴方が信じなくてどうするの! 護衛役の貴方が真っ先に諦めて、どうするのよ!!」
亘は黙ったまま。けれど、その口元が、悔しそうに歪んだのがわかった。
汐は尚も亘の目を見据える。
「どうしたら良いかなんて分からないわ。ここにいる誰もわかってない。でも、だから考えるの。ただでさえ信用できる者が少ないのに、貴方が使い物にならなくなったら困るのよ」
揺れて頼りない大きいばかりの手でも、武力しか頭にない脳みそでも、今はなりふり構っていられないくらい、必要なのだ。それがたとえ、どんなに小さな力でも。
(あの方に、戻ってきていただくの。絶対に)
「来なさい!」
汐は、亘の胸ぐらをパッと放すと、細く小さな指を亘の腕に食い込ませるように強く握る。それから、その大きな図体をグイッと引いた。
「え、ちょ、汐ちゃん、どこに……」
「奏太様のところに決まってるでしょう!」
巽を睨んで怒鳴りつけると、汐は亘を引きずるようにして階段を登った。情けない筆頭護衛役は、それに抵抗することもなく、小さな汐のあとをついて歩いた。
静まり返った主の部屋。妖界の武官達が守る殺伐とした室内。
そっと天蓋から下がったカーテンを開けると、主は眠ることなく、どこか一点を見つめたまま。虚ろな表情とは裏腹に、白絹で縛られたその手には柊士の御守りがキツく握りしめられていた。
ズキリと、切り裂かれるように胸が痛む。
「奏太様」
汐はそっと呼びかける。けれど、主の瞳が動く様子はない。
「眠れないのですか? 奏太様」
やはり、返答はない。
汐が主の手にそっと自分の手を重ねると、その手はまるで身体ごと凍えきってしまったかのように冷たかった。
汐はそれを温めるように、両手でギュッと包み込む。
「では、眠られるまで、少し昔話をいたしましょう。あの頃の……貴方と共に過ごした、温かくて懐かしい、けれど、今日まで変わらず続く、貴方と私達の……」
汐は、零れそうになる涙を、ぐっと堪えた。喉の熱い痛みが引くのを待つと、ポツリ、ポツリと語り出す。
「最初に出会った日を、覚えていらっしゃいますか? あの日、奏太様は何も分からないままにご本家に呼び出されて、我ら妖を見て目を丸くなさっていましたね」
遠い昔。日向の本家で初めて出会った日。何も知らない普通の人の少年だった主の姿。
「初めての御役目では、亘が奏太様を試そうと乱暴に空を飛んだせいで振り落とされそうになって、奏太様が暗い夜空で叫び声をあげられたり、鬼火のランタンが可哀想だから解放してやれと仰ったり。私は、昨日のことのように思い出せるのですよ?」
主は、相変わらず、ピクリとも動かない。その視線すら。けれど、汐は語り続ける。あの頃あった、何気ない日常。御役目の度に奏太の生家へ呼びに行き、共に人界の夜空を駆けたあの日々。
「二回目の御役目の時には、人を驚かせる子どもの貂が二匹いて、化け物の姿に変わった子ども達に、奏太様は入り口で腰を抜かして動けなくなっていましたね」
汐はふふっと笑う。
「けれど、貂と知らぬまま、亘の背後に危険が迫ったと見るや、突然亘を守るために飛び出していってしまわれて。なんて危なっかしい方なのだろうと思ったものです。ただ、奏太様を試そうとしていた亘の目が変わったのも、それがきっかけだったように思います」
無理やり引きずってきた当の亘は、部屋の壁際で口を噤み、ただ奥歯を噛み締めて聞いていた。
汐は奏太の手を握ったまま、一つ一つ、思い返せる限りの思い出を語って聞かせた。温かく、大事な思い出。少しでも、あの頃の主と自分達を思い出して欲しくて。
どれほど、そうやって話をしていただろう。
夜明け前。主はようやく、御伽噺を聞きながら眠る子どものように寝息を立て始めた。
汐はその髪をそっと撫でて布団をかけ直す。
「お休みなさいませ。奏太様」
今はただ、何も考えず。どうか、安らかな眠りを。




