第2話 雨の引力
小さい頃、周囲には悪魔のことを従兄弟だと説明していた。彼は私の家族に会うことを避けてくれたし、生真面目で優しそうな顔をしているから、疑われることはなかったと思う。
徒競走で、ビリにだけはなりたくなかった時。
クラスのやんちゃな男子が、私の工作作品を壊してしまった時。
お父さんとお母さんが喧嘩をした時。
頼ると悪魔は頷いて、決まって同じことを言うのだった。
「かしこまりました。それでは、契約内容の確認をお願い致します」
従順で仕事に対して真面目な悪魔は、今回やけに上機嫌だ。こんなに楽しそうにしているところを初めて見たせいか、そわそわして落ち着かない。おまけに嫌な予感までする。
「どうしたんです? そんなに周囲を警戒したら疲れてしまいますよ。それとも、悪魔と外出するのは苦痛ですか?」
「い、今までだって一緒にでかけることはあったけど……今回は、ちょっと」
「ちょっと?」
「場所が悪いんだよ、場所が」
高橋さんと鉢合わせすることや、私と悪魔の話を盗み聞きされることが気になって仕方がない。そう告げると笑われた。目の前にはあなたの悪魔がいるのに、何を恐れることがあるのでしょう、と馬鹿なことを言い出すのだから全く頼りにならない。
目的のカフェの入口はあまり目立たなかったけれど、中は予想より広かった。丸い焦げ茶色のテーブルが幾つも置いてあって、その半分が埋まっている。アンティーク調の置物が幾つも飾られている店内には、名前もわからないピアノ曲が流れていた。
慣れたように店に入った悪魔は店員に軽く会釈をして、店の奥にあるテーブルを選んだ。
「なかなか良い雰囲気でしょう? あなたが座っている席は高橋さんのお気に入りです」
「突然座り心地が悪化した気がする」
「それはあなたの心の問題で、椅子のせいではありませんよ」
まずは落ち着きましょうと言いながら、彼はメニューを差し出した。選択肢はそう多くなくて、私は迷わず紅茶を選ぶ。
「よい選択です」
「別に、高橋さんの真似をしようとか考えてないからね。これしか頼めるものがなかっただけで」
「紅茶がお好きで?」
「いやまったく。飲めるけど美味しいとは思わない」
「扱いにくい人ですね、デートらしさの欠片もない」
反論する前に片手をあげて店員を呼んだ悪魔は、私の分まで注文を済ませると口の端を持ち上げて笑った。嫌味な顔だった。
私が心の中で「嫌なやつだな、いかにも悪魔らしい」と文句を言うのを楽しみにしているのか、彼は率先してそれらしい言動を選ぶ。
悪魔の素は悪魔らしいのか考察しているうちに、彼はまたいつの間にか、紙の束を手にしていた。
「記憶を見るには下準備が必要です。事前知識がないと上手くいかないものですから、まずは話をさせて頂きます」
やはり座り心地が悪いのは罪悪感に悩まされているからか、それとも場違いなところに来ているせいだろうか。
「高橋さんは2年前にグリーンハイツに引っ越してきてからというものの、近くにあるこのカフェには足しげく通っていたようです。一人で来ることが最も多かったようですが、親しい人を連れて来ることもありました」
「私よりずっと友達が多そう」
「勘がいいですね」
「少しは否定しようとか思わないの……」
資料のある一点に指を添えると、悪魔は生真面目そうに頷いた。私のフォローをするつもりはないらしい。
「特に仲が良かった人は3人。うち一人は女性です」
私が特に動揺していないからか、悪魔は少し眉を上げた。
「もしや、ご存知で?」
「……1年前、会ったことがあるんだ」
手元の資料に目を落として私の顔と見比べると、ふむ、とため息に似たものを吐き出した。そこには多分、私にとって不都合なことが書いてあるのだろうし、それが何なのかは分かっている。
そう。
「高橋辰紀さんには交際している女性がいました」
「その言い方だと、昔の話みたいだよ」
「おや、何を今更。悪魔にとって全ての人間は過去のものですよ、あなたはよくお分かりでしょう」
珍しいことに、悪魔は身を乗り出すようにして両肘をついた。彼の行儀の悪い行動に慣れていない私は、思わず仰け反って距離を取る。
「なに、なに気持ち悪い。顔が近い」
「暴言については目を瞑りますので、よく思い出してください。一年前のこと、彼女と会った時のこと」
「なんで」
「悪魔の資料は、全ての人間の人生、考え方や嗜好、交友関係を網羅するものです。ほとんど唯一と言ってもいい欠点は、先程述べたとおり感情についての記載が少ないことですが、それは映像資料によって補う」
何を今更と顔を歪めてみせる。人と距離が近いのは苦手なのだ。それが悪魔であっても、やっぱり苦手だ。
私が動揺しているうちに、彼はさらに驚くべきことをした。
悪魔の資料を手に取って、その一部を指さしながら私に突きつけてきたのである。
「ほら、ここ。高橋辰紀さんの交友関係の欄をよく見てください。もうお気づきでしょう」
「……に、」
「はい?」
「日本語で書かれてる……!」
「ハァ〜〜……」
私に気づかせようとするのは諦めたのか、大切な資料をテーブルに放り投げてしまった。悪魔はその代わりに、いいですかよく聞いてくださいと語気を強める。
「この資料には高橋辰紀さんに交際相手がいたことも明記されています。しかし略歴はおろか、名前すら書かれていません。全くの空欄です。これはおかしい」
「とても珍しい?」
「異常です。悪魔資料の欠点が感情に関するものばかりだなんて、図らずも嘘をついてしまったことをお詫びしなければなりません」
思い出してください、と悪魔は繰り返した。
「あなたに映像資料の提出を求めます。目を閉じて、出来るだけ鮮明に記憶を呼び起こすだけでいい」
あの日は、傘を差していても濡れるくらいの酷い雨が降っていた。予定が長引いて、私が帰宅したのは夜の12時過ぎだった気がする。水滴を滝のように流す傘を引きずって階段を上ると、高橋さんの部屋の前に女性が立っていた。
「こんばんは」
普段なら絶対に声をなんてかけないはずなのに、気がついたら挨拶をしていた。何故か怖くはなかった。
何をするでもなく扉を見つめていたその人は、ゆるゆると私に目を向け、頭を下げた。
「どうも」
「いや、あー」
黙って後ろを通り、部屋に入ればよかった。分かっていたはずなのに、何故か私は言葉を続けようとした。
「こんな遅くに、危ないですよ」
捻り出したしょうもない注意に、女性は顔を顰めた。知りもしない人から言われたところで腹が立つだけだってことを、私は一瞬だけ忘れてしまったのだ。
彼女は高橋さんの部屋の扉と私を見比べ、少し考えたあと「そうですね」と呟いた。
「遅いですし、帰ります」
「えっ」
「ありがとうございました。それじゃ、おやすみなさい」
人付き合いが極度に苦手な私が声をかけられたのには、何か理由があるはずだった。雰囲気からそれを探る前に、彼女はそそくさと立ち去ろうとする。
オロオロしているうちに彼女は階段に足を向け、ハッとして動きを止めた。
よく見れば、女性はビニール袋を持っていた。中には箱のようなものが入っていて、ブルーのリボンがかけてある。
迷うような素振りを見せたのは一瞬で、高橋さんの部屋の前へ戻るとドアノブにそれを掛け、さっきよりも早足で歩き去った。
そう。どこからどう見てもプレゼントである。
「ははあ。それで、あなたは恐る恐る箱に顔を近づけたわけですね。ハッピバースデーと書かれたタグのついたブレゼントだった、と」
「覗かれるとやっぱり腹立つ」
悪魔はこめかみを抑えて頷いた。受け取った記憶を反芻しているようにも見えるけど、役所に対する怒りをどうにか収めようとしている可能性もある。
「それで誕生日を知ったのですね。納得しました。そして丁度一年後、悪魔を呼んだと」
「まあ、そういうこと。参考になった?」
「いいえ全く。想定していたよりずっと平凡な記憶でしたし、その女性にも妙なところは見受けられなかったように思います」
そう言うだろうと思った。そもそも私と他人が関わった記憶は薄くて平凡で、どれも取るに足らないものばかりだからだ。
「しかしながら高橋辰紀さんの資料には彼女の存在が明記されていますし、残存している映像資料からして、あなたが会ったその女性が交際相手だったことは間違いありません」
「そう……」
彼女がいることくらい分かっていた。そんなことは関係なかった。
悪魔を呼んだのは、高橋さんに関する情報のすべてが必要だと思ったからだ。私がきちんと恋をするには、自分にとって都合のいい情報ばかりじゃいけない。
そう思ってしまったから、私は。
「私からあなたに提供する映像資料は、約二年前の記憶です。高橋辰紀さんとその交際相手に関するものが、ここには最も強く残っている」
店員が運んできた紅茶を受け取って、悪魔はいつものように微笑んだ。
「砂糖とミルクを入れてはいけません。ただし、檸檬は入れて」
「嫌なんだけど……砂糖欲しいんだけど……」
「いいえ、いけません。二年前の高橋辰紀さんと同じものを口にしなくては」
渋々言われた通りに入れて、カップを手に取った。何故か視界がぼやけている。
「口に含んだら思い出して。それはあなたの記憶、あなたの思い出。この場所でしか再生されない、在りし日の姿」
言葉に導かれて、私は思い出す。嫌いなはずの檸檬の味が馴染み深いものへ変わる。
最後に聞こえたのは、悪魔の呟きだった。
「……もしかしたら、そこにエラーの理由があるかも知れない」