第3話 褪せない幸福
突然肩を叩かれて振り返ると、懐かしい顔がぱっと花を咲かせた。
「早いね、待たせちゃったかな」
「いつもの事だろ」
■■は、久しぶりに会ったというのに全く変わっていなかった。小柄な身体に、くりくりと大きな瞳。成長しないなと口にすれば怒られるので、何も言わずに彼女が座るのを見ていた。
「どうせ今、私に失礼なことを言おうと思ったでしょ」
「バレたか……お前は成長しなさすぎるんだって、言わない方が良かった?」
「間違いなくよかったね」
傷ついたように顔を曇らせてみせたが、彼女はすぐに機嫌を回復させると片手を上げて店員を呼んだ。
「すいませーん!」
ハキハキと注文を済ませる彼女を見ながら、俺は口にしたことと裏腹に大きな変化を感じていた。見た目はもちろん殆ど変わっていないけれど、その性格は随分明るく、自然になったようだ。
「さて、と……まず、これは引越し祝い」
彼女が差し出した箱には、時計が入っていた。
「なんで、こんないいものを」
「近くに引っ越してきてくれて嬉しかったんだよ、これからは頻繁に会えるじゃない? わざわざありがとう」
「……ありがとう」
異動があって、職場に合わせて引っ越したのは事実だった。でも、それを希望したのは俺自身であったことも事実だ。
お金はないし引越しも一苦労だったけど、それでも■■の近くで生活したかったのだ。
彼女が好きだから、という理由と。
今後のことをよく考えたいという理由と。
2つが俺の中にある。なんにせよ彼女の近くで生活して、人生を決めようと思っているのだ。
そしてこんな気持ちのことを、彼女は当然お見通しなのだろう。
「ねえ辰紀、私にして欲しいことはない?」
「して欲しいこと?」
「そう、少しは何かお願いしてみてよ。私、結構なんでも頑張っちゃうかもよ。お礼がしたいの」
ふふ、と■■は楽しそうに笑う。
「ほら、いいじゃないひとつくらい。何か言ってみてよ」
陽だまりのように笑う彼女を見て、思わず肩の力が抜けた。今後のことを考えなくちゃならない。でも、今はここで、■■の隣にいたいと思った。
欲しいもの。やってみたいこと。こうなったらいいなという希望。細かい日常の願いから大きな夢まで色々あるけれど、やっぱり今は何もいらない。
新居の近くに見つけた喫茶店には紅茶の香りが満ちている。ここが俺の思い出の場所になるだろうという確かな確信があった。
「■■、何もいらないんだ。何もしなくていい。俺は何もいらない」
彼女は困ったように笑っている。これから始まる、少し距離が縮まった2人の生活に期待しながら、不安を抱きながら。
「そこにいてくれるだけでいい。何もいらない」
自分がカップを置く音で目を覚ました。いや、寝ていたのかは微妙なところで、目を開きながら頭の中にかかった靄の中をさ迷っていた気がする。
徐々に正気へ戻っていく私は、言葉に詰まって辺りをきょろきょろ見回した。
店内の様子は記憶の中と変わらない。客の数が違うのと、目の前に美少女の代わりに悪魔がいることくらいだ。
「……い、い」
「はい? 大丈夫ですか?」
「イケメンかよ……」
「貧相な感想、どうも」
笑顔を崩さない悪魔は、ぴしりと背筋を伸ばしたまま胸や腹を抑える仕草をした。
「いやあ、一緒に資料を見たのを後悔するところでした。胸焼けが止まらないのですが、よく効く薬をお持ちでしたら是非分けて頂きたい」
「そんなの持ち歩いてないんだけど」
「まあ、悪魔に体調不良とかないのですが」
冗談は置いておいて、と言いながら悪魔は紙資料を手に取った。素早く目を走らせてため息をつく。
「やはりダメですね、どうして資料に記載漏れがあるのか、少しは理由がわかると思ったのですが」
「なんだかぼやけてて、彼女さんの名前も分からなかったよ」
「映像資料は劣化しやすいものなのですが、それにしても損傷が局所的です。普通の劣化ではないでしょうね」
いま私が座っている椅子に座り、高橋さんは幸せそうだった。
交際相手とのやり取りってのはああいうもんなのか。
「いや、あれはゲロ甘かと」
「だから人の心を読むんじゃない」
失礼、と全く失礼だと思っていないような口調で謝罪する。悪魔はどうしてこうなんだろうか。
記憶で見た高橋さんと比べていると、悪魔は少しだけ表情を曇らせた。長い指がカップの縁を何度もなぞる。
「悔しいとか羨ましいとは思わないのですか?」
「私が、あの彼女さんを?」
そりゃあ全く何も感じない訳ではないけれど、悔しいと思う気持ちは湧き上がってこない。そもそも交際相手と同等みたいな立場で一丁前に嫉妬なんて、私なんかがしていいはずもないのだ。
「なんていうか……いや思うところはあるけど上手く表現出来なくて……」
「今後の参考にしますので、せめてもう一言くらい感想を頂きたいのですが」
「うーん……ただ尊い」
「はあ、そうですか。大変参考になります」
もう少し感情を込めて口にすべきセリフだと思ったが、どうやら心の声に対して聞こえないふりをすることにしたらしい。
ほんの少し冷めた紅茶を飲むと、やはり檸檬の味が気になった。記憶の影響で少しはマシになると思ったのに、今の私は私だから、ということなのだろうか。
「資料から特定の人間の情報が削除されたり、劣化が早まるというケースは稀にあります。もちろん我々悪魔側に原因がある時もありますが……」
「そうじゃない場合は? どういう理由なの」
「資料に記載されている人間の強い意志というのも考えられます。今回は高橋辰紀さんの資料ですので、彼の意志が資料を損傷させることもあるかと」
そうだとすれば、相当強い意志でなければならないという。彼女を自分の記録から消してしまうような意志なんて、想像がつかないけれど。
だって、あんなに幸せそうだったのだから。
「とりあえず資料の件はこちらで調査しますのでお気になさらず。次は何を知りたいか、考えて頂かないといけませんからね。まだまだ始まったばかりです」
「それもそうかあ……次、どうしようかな」
ゆっくりで結構ですよ、と悪魔は微笑む。お言葉に甘えてぼんやりと高橋さんのことを考えながら、自分の紅茶と悪魔の紅茶を見比べた。
「何か?」
「そっちには檸檬入れた?」
「いいえ、何も」
考える前に、折角なので美味しくお茶が飲みたい。そもそも大して好きではないけれど。
「私のと交換しよう。悪魔は檸檬も平気でしょ」
「え。いや、どうぞ」
悪魔が驚いてきょとんとしている隙にカップを交換し、まだ温かいストレートティーに砂糖を投入した。口をつけると甘みが香りを引き出ててふわりと広がる。もちろん苦手な酸味はない。
「こっちの方がだいぶマシ……」
「は、はあ。そうですか」
悪魔は、釈然としないと言いたげな微妙な表情でカップを見つめた。何故か恐る恐る手にとり、口をつけようとする。
その時だった。落ち着いたピアノ曲を遮るように、カラカラとドアベルが鳴り響いた。客が途切れないなあと感心している私とは裏腹に、悪魔は大きな音を立ててカップを置いた。
「……どうしたの?」
「いえ」
明らかに顔が強ばっている。
「ねえ、なにか」
言いかけて、やめた。靴音が聞こえたかと思うと、悪魔の後ろに女性の姿が見えた。
言葉が出ない。私はその人を知っている。
さっきまで話をしていたのだから。
「……あんたの、せいで」
彼女が浮ついたように呟くのを聞くなり、悪魔は素早く立ち上がると女性の肩を掴んだ。そんな乱暴をするなんて、と注意しようとして気付く。名前も分からなかった彼女は、迷いなく私に殴りかかろうとしていた。
「あんたのせいで!!」
「落ち着いてください。暴力は」
「許せない……離して!! 私はそいつを」
店内の注目が集まっている。私は呆然として、何も言えないでいた。目の前で何が起きているのか理解できない。
この人は高橋さんの彼女。あなたは2年前、幸せそうに笑っていた。そして1年前のあの日、203号室の前で私たちは会っている。意味はなくても、確かに言葉を交わしていた。
「落ち着いて。お店の迷惑になります、落ち着いて」
肩で大きく息をしていた女性は、未だに目をギラつかせながら悪魔の手を振り払った。彼のことなど視界に入らないのか、私を見つめ続けている。
「のうのうと生きているなんて。私、あんたのせいで」
血走った目をしていることを除けば、記憶で見たままの人だった。何も変わってないんだなと笑う彼の姿を思い出した。
高橋さんの交際相手である女性は、少し息を整えたかと思うと、ポロポロと涙を零し始めた。
「失礼、少し外で話をしましょう。私が代わりにお話を聞きますので、あなたはここでお待ち下さい」
「でも、」
「そうするべきでしょう。どうかそのままお待ち下さい」
悪魔に肩を抱かれて外に連れ出されながら、涙で濡れた目を再び私へ向けた。
「あなたのせいで、私たち終わってしまった」
○資料請求届
資料番号 No.291b
資料タイトル 『高橋辰紀』
請求理由 No.301b作成の為、及び事実確認の為
備考及び連絡事項 No.000b及びNo.277bVに欠損を確認。原因は担当が調査中。




