第四話 水を掛けられる
男は川のほとりの林で寝起きし、昼間は村長の農場で働いた。
そして朝と夕べと、日に2回、川の水で身体を洗った。
水はまだ凍りそうに冷たかったが、山で暮らした頃のように汚れてしまうのを神経質に恐れた。
目立つなと言う行動指針に、いきなり反してしまったが、熊に遭ったのは想定外だった。まだ挽回出来ると生真面目に考えていた。
一斉蜂起の日まで、任地にとけ込んで潜伏しなければならない。
何に対して蜂起するんだっけ。
更にいずれはシンパも作らねばならない、と気を引き締める。
その朝は、川を何か白いものが流れてくるのが見えた。
死体だと男は思った。
男の故郷が匪賊に襲われて壊滅した時、川は死体で溢れ水は赤くなった。
男は死体を次々ひっくり返して家族を探した時の事を思い出した。
近づいてくると案の定、白い毛皮の上着を着た、まだ少年が、大きく手足を左右に広げ、うつ伏せになって水に顔を浸けながら流れて来るのだと分かった。
半ば沈んだ長い尻尾が、少年はこの地方に比較的多い獣人族である事を示していた。
これはダメだ、と思いながらも、男は膝まで水に浸かりながら近づき、ひとまず声をかけてみた。
「おい?」
少年は焼ごてにでも触れたように水から顔を上げ、背の届かない深みに嵌ったように大暴れして、盛大に水しぶきを上げながら岸に這い上がった。
そして岸辺に尻をつくと肩で息をしながら胴震いし、また盛大に水しぶきを撒き散らした。
「上流で落ちたのか?無事で良かったな」
男が声をかけたが少年は顔を伏せ、深いため息をついた。
「鳥でも追いかけて落ちたのか?」
「……を追いかけて」
男には少年の言葉がよく聞き取れなかった。
少年は男を虚ろに見上げていたが、急に目を大きく見開き、髪の毛をムクムクと逆立てた。
髪の毛に隠れていた半分に千切れた耳が丸見えになる。
ガァッ!
と、男には聞こえた。
少年は一声吠えて白い長い牙を剥き、尻をついた状態からいきなり、立っている男の頭より高く跳躍して飛びかかった。
(噛まれる)
男は両腕で目を防御し身体を低くして少年をやり過ごし、同時に向きを変え地面に両手をつき、頭を下げていつもの戦闘態勢をとる。
肩と首筋が緊張し背骨が音を立てて倍近くも伸びる。
全身が軋んで膨張する苦しさに、男は大きく口を開け舌を出し涎と涙を流しながら立ち上がる。
少年は鼻にシワを寄せ、人差し指と中指から指の倍も長いナイフのような爪の出た左手を顔の前にかざし、耳まで裂けた口から牙を見せて笑う。
男は右手を大きく後ろに引き少年めがけ渾身の突きを繰り出した。
少年は最小の動きでかわし、男の右腕を駆け上り、両腕両脚と毛深い尾まで絡めて男の頭を捉えた。
視界が塞がれ男は狼狽える。
次はあの爪か牙で肉を裂かれる激痛が来るだろうと予感し、咆哮して頭を振り回す。
少年はとても人のものとは思えない唸り声を上げている。
男が少年を掴もうとして顔に手をやると、右に左にかわされて自分の髪の毛を掴むばかりだが、男の頭は解放されない。
思い余って首に巻きついた少年の脚を狙い、自分の顎をめがけて拳を叩き込んだところで意識が遠くなった。
◇◇◇
気がつくと男は川原で全身ずぶ濡れで大の字に伸びていた。
傍らを見るとやはりずぶ濡れの少年が肩で息をしながらうつ伏せで伸びている。
男は声をかけた。
「おい、怪我はないか」
少年は手をついて起き上がり胴震いして水を飛ばした。
男に盛大に水がかかった。
「すまん、何があったんだ。俺は溺れかけたのか?お前が助けてくれたのか?」
少年は男の声に応える事なく座り込んでボンヤリと空を見上げている。
少年の身の丈ほどもある尻尾は棄てられた縄のように力なく地面につくねたように伸びていた。
「大丈夫か。どっか具合悪いのか」
男は少年の様子に不安を感じて身体を起こそうとした。
どこかが痛いだのではないが、ネジでも抜けたように身体が軽過ぎて妙に頼りない感じで、最初は上手く起き上がれなかった。
少年はフラフラと立ち上がり、男の方を見る事もなく林の中に消えて行った。
地面に引きずるかに見える少年の尻尾の先に不思議なものがあった。
早くも乾きかけた白い長い毛に覆われた尻尾の先に、淡い紫色の毛のかたまりが、転がるような浮くような奇妙な動きでまとわりついていた。
生き物なようにも見えるが目も手足も羽も見当たらない。
少年の尻尾について行くようで、何度も男の方に風に吹かれるように近づき、やはり尻尾の先に戻る。
男と少年とどちらにしようか迷いながら結局少年について行く事にしたように見えた。
男は胸に切り付けられるような悲しみを感じて、頬に一筋の涙が伝ったが、何故だか理由が分からない。
「あいつは何だったんだ?」
男は立ちすくんで、少年と紫色の毛のかたまりが消えた方をいつまでも見ていた。




