第二話 熊に食われかける
雪が太陽の光を照り返して、目が眩みそうだったから、木の皮に細い切れ込みを入れて日除けを作り、顔に被った。
隊長は解散の時、皆が持っている武器の大半を捨てさせた。
武器を持っていると、この軍に参加していた事を隠しきれなくなる、というのが隊長の説明だった。
所持を許されたのは、このナイフだけだったな。
男は、木の皮を削りながら思い出した。
普通の旅人が持つには、少々大き過ぎるナイフだが、他にもっと小ぶりなナイフがある訳でもなかった。
軍刀は当然捨てた。
隊長は男に念を押した。
――我が軍に所属していた事を隠し僻地に潜入するには、お前の戦闘能力を隠す方が有利である。
――このナイフも木や草を切って工作したり、獣を狩って食糧とするために、あるいは最低限の身の安全の為以外に使ってはならない。
まだ春とは呼べない時期だった。
冬眠から覚めていない獣も多く、山を歩いている獣は何もかも食い尽くし、みな腹を減らしている最も危険な時期だった。
男は峠の辺りを何度も行き来しつつ、しかし人里には下りずに山の中を歩きまわり、ナイフ一つ握って山の獣に挑んだ。
罠を作るのでなく木の上で獲物が通りかかるのを待ち伏せた。
小さなうさぎやキジではなく鹿や猪を狙い、捕まえやすい幼獣ではなく、角や牙が鋭い壮年の雄を狙った。
木の下を通りかかった獲物に飛び降りざまに一撃加えて身を隠し後を尾け、力尽きて倒れるのを待った。
一頭仕留めると、故郷のやり方に従って心臓を山の神への供物にし感謝の祈りを捧げてから、ナイフ一丁で捌いた。
皮を剥ぎ火を起こし、その日の食料とする分を切り、残りはもう蔦を回して木に吊るし血抜きなどする。
雪洞を掘りナイフを抱くように丸まって焚き火の側で眠っていると、やや離れたところを狼の群れが行き来するのを感じた。
この山の狼は毛が灰色と白のはっきりしない縞模様で、前足と尾の先から青白い光を出す者もいた。
近寄ってきたら斬りつけるつもりだったが、気負う訳でもなく狼の群れに囲まれながら平気で眠った。
◇◇◇
ところが日が経つと男の山での生活はだんだん荒んできた。
歳をとった大きな熊を仕留めてしまった頃から様子がおかしくなった。
その熊については、前から爪痕、足跡、糞さえ見かけていて、用心深く避けていた。
しかし熊の方が男を追いかけた形跡があった。
殺らねば殺られるという追い詰められた状況で幸いにも仕留めた。
仕留めてから気付いたのは熊が手負いだった事だ。
後ろ脚と片目に重症を負っていて、特に片目は見えてないだけでなく傷は脳に達していてひどく化膿していた。
自分がいなくても倒れるのは時間の問題だったな、と男は思った。
しかし、その頃から徐々に、妙に解放されたような勝ち誇ったような気分になった。
それまで頭から離れた事がなかった隊長の命令や別れた仲間たちの安否さえ、どうでもいいと感じるようになった。
熊の皮を剥いで毛皮の上に寝転び、何日も熊の肉を食っては寝て暮らした。
やがて火を起こす事もなくなり、その後も仕留めた獲物の肉は生のままで食うようになった。
当然、皮を剥げば役に立つ筈なのにそれもしなくなった。
放置した獲物はすぐ凍りつき、本来なら他の獣が残りを平らげる筈なのに、不思議な事に男の食い残しはいつまでも誰も手をつけず、そこにあった。
だから男は仕留めた獲物の所に何度も戻り、せいぜい蹄くらいしか残らなくなるまで食った。
まるで山中の生き物全部が男を恐れて近寄らないようにしているようだった。
そのくせ本人は土地の猟師の気配を察知すると足跡を消して歩き、身を隠す。
目の前を大きな雪崩が通り過ぎるのを、怖いとも思わず不思議な気持ちで眺めていた。
ある晩、その年の冬の最後の置き土産のような吹雪が来た。
何日か前に見つけていた洞窟に篭り、眠るような眠らないような状態でじっとしていたが、やがて何故かわざわざ這い出し吹雪の山中を歩きまわった。
雪の中で主君が討ち取られる姿や隊長や別れた仲間の姿を何度も見た。
このまま雪の中に埋もれてしまう予感があった。
運命だと思った。
もう帰れない故郷。帰ったところで昔とは似ても似つかないほど荒れ果てた故郷。既に待つ者のいない故郷。帰れば残党狩りで捕まって処刑されてしまうだろう。
雪の中に身を投げ出した男は、隊長が自分にここに行けと命じたのは、せめて故郷にどこか似ているこの異郷の山中で死なせるためだったのではないかと感じた。
◇◇◇
ところが目を覚ましてみると元通り洞窟の中で寝ていた。
どうやらちゃっかり薪を集めて洞窟に戻り、久方ぶりに火まで起こしてぬくぬくと暖を取っていた様子だった。
暫く呆然と焚き火を眺めていた。
吹雪の収まった外へ洞窟からまたしても這い出した。
それまでとは何かが違う春の訪れを予感させる穏やかな日差しがあった。
雪が丸く溶けて、現れた地面から草の芽が出ていた。
少し離れたところに土饅頭のように雪が盛り上がっている。
最初はただの吹き溜まりだと思ったが、目の前でムクムクと雪が割れて中から生き物が現れた。
その生き物は男の視線に気づいているのかいないのか、朝日を浴びながら胴震いして雪を振り落としたが、雪が落ちても白い姿だった。
男は毛並みの白い大きなヤマネコだと思った。
ヤマネコは雪の上に前脚を揃えて雪の上に座った。
太陽の光を背負ったヤマネコは身の丈ほどもある長い尻尾を肩越しにゆらゆらと揺らしながら長い間、男を見ていたが、やがてプイと立ち去った。
男は初めて目が覚めたような気分になった。
雪解け水がチョロチョロと流れる音が聞こえ、改めて両手を見ると、爪にそれまで獲った獣の血がこびりつき真っ黒になっている事に気がついた。
同時に顔は髭が伸び放題、身体も垢に塗れ、すこぶる汚れている事に思い当たった。
(どこかで洗わなければ)
ここはどこだと言うように周りを見回す。
男が人里に下りたのはその日の夕方だった。
ようやく春が訪れて、人々は種蒔きに備えて畑に手を入れ始めていた。
秋の収穫の時期と並ぶ、最も人手を必要とする季節になっていた。




