1 - 失敗
悪魔召喚に失敗したのは三年前のことだ。
当時の私は十四歳になったばかりで、それでこんな西洋魔術の理論だとかを理解していることにちょっと得意になっていたというのは間違いない。……要は自分のトクベツ感に酔ってたのね。分かりやすく“チューニビョー”ってヤツで。
ただちょっと事情が違ってくるのは、むしろ「半分は成功してた」ってところ。普通『召喚に失敗』なんて言うと単に“喚ぼうとしても何も起きなかった”と想像する人がほとんどだろう。でも結果はそれと大きく違うというのが私の答え。
つまり喚べなかったワケじゃない、悪魔とされる存在を召喚すること自体は成功していた。火の気なんてあるはずのない木の床に書かれた五芒星から立ち昇る炎、煙、硫黄の香り。そしてすっくと立ち上がる影、渦を巻いているように捻じくれた角、それを振り上げる山羊の頭。まさに古典的なまでにいかにもな造形の悪魔がそこにいた。西洋絵画で描かれたりする、ああいうの。
……ただその後の“使役”までが上手くいかなかったのね。
「…………グフッ」
悪魔は足元の魔法円を一瞥してから、山羊頭の口角をぐにゃりと吊り上げる。つまりニンマリと“笑った”のだ、明らかに。
それから白いチョークで書いていた魔法円に亀裂のような綻びが走った。薄いビニールの膜のように浮かび上がっていた魔力の壁に、子供が障子に指を入れて引き裂くように悪魔は穴を広げていく。
悪魔の召喚において魔法円というのは、悪魔が通り抜ける『門』であり、また術者を守るための『盾』のようなもの。あるいは『檻』というべきだろうか。つまりこの世に呼んだ悪魔を閉じ込めておくための障壁でもある。悪魔から、自らを奴隷のように操ろうとする“人間風情”に攻撃させないための。
これを見てから笑った、ということは……。
「ひっ——
魔法円の縁から黒煙が勢いよく噴き出す。黒い蛇を思わせるその噴出は噴き出た勢いでチョークの白線を吹き払って壁にシミを作った。もちろん足元の魔法円なんて、とっくに壊れている。つまり私は必要な呪文だか図形だかを書き忘れていて、その魔力の穴を突かれたという凡ミスだった。
悪魔がこの世に実体化するのにも術者の魔力が必要だから、この手の失敗だと悪魔はどうせすぐに地獄へ強制送還されることになる。
……けど、裏を返せば“それまでの一瞬さえ”時間があれば彼らには充分だ。既に白線の『檻』は完全に壊されていて、中にいた囚人が私に襲いかかる。
「…………ッ‼︎」
右腕に焼け付くような痛みが走って、私がその場で意識を手放すまで時間はかからなかった。
◆◇◆◇◆
高校、二年D組の教室、昼休み。
私は酷い気分で右腕に巻かれた包帯を眺める。古傷が痛い、ってことはつまり今の天気は良いけどこれから崩れるということだ。それに夏場とくれば夕立くらい降るだろう。
「あれ夜ちゃん? お昼、食べないの?」
そんな私に声を掛けてくる同じクラスの女子が一人。今の学年になって話すようになった、一つ前の席の青梅 かなみからの何気ない疑問だった。
「え、あ、ううん。購買のパンならもう買ってあるから。それよりも、右腕の古傷が痛くってさ。ほら、気圧の変化とかで古傷が痛くなるって話あるじゃない? この感じだと午後に一雨くるかもね」
「えー嘘⁉︎ 今日折り畳み持って来てないのに!」
……こんな風に、別段当たり障りなく日常は過ぎていく。焼き爛れるような私の『渇き』なんてどこ吹く風とでも言いたげに。
「でも、お昼けっきょく食べないんだ? もう昼休み残り十五分も無いし……」
うっ。痛いところを突かれた。さっき私は『購買でパンを購入している』なんて嘘をついて仕舞っている。本当は食べるつもりどころか水分補給すらしたくないのに……さて、なんと答えるべきか。
「じ、実はさ。さっきのは嘘で購買のパンは買ってなくって、何も食べずに過ごすつもりだったんだよね。ダイエット中で」
「え⁉︎ 夜ちゃんみたいな体型でダイエットなんて気にしすぎだと思うけど……そのうち足が木の枝みたいなカリンチョリンになるよ〜? ま、けっきょく決めんのは本人だけどさぁ」
かなみはそんなことを言って私の心配をしたような言葉を残してそっぽを向いた。一方の私は誰にも気づかれないように小さく嘆息する。
こういう時に女という性別は便利だ。イザという時にもこう言って誤魔化せる。
「昼休み終わりだ、午後は教室授業だったよね?」
「うん、そう。ちなみに古文だから緑川先生だし私語は厳禁ね」
そんな会話で打ち切って私たちは午後の授業に備えた。
……ここまで読んでお気づきのこととは思うが、私こと紫藤 夜は食料を摂取する必要がない。さっき言ったように水分もそうだし、何なら私をよくよく観察していればもっと重要なものが欠けてることに気づけるだろう。つまり呼吸すら必要ないのだ。
端的に言ってしまうと理由は至極単純で、私は動く死体・生きた屍とでもいうべき存在だったから。
こんな状態なので、物を食べる必要がないどころか、まかり間違って何かを食べようものなら逆に地獄の苦しみを味わうことになる。消化されず体内に残り続ける食物はやがて腐敗して、この肉体を腐らせてゆく。液体を飲めば全身から飲んだものが血と共に吹き出す。
けれど“呼吸をしているフリ”だけは何とか覚えた。さっき言ったみたいに、見る人が見れば見抜かれるくらいにはまだ下手だけど。理由は簡単、息を切らさずに運動し続けたら一発で異常だと見抜かれるから。
……こんな状態で生き続けている目的? 決まっている。
それはたった一つ、ただただ簡潔に、明瞭に————復讐。




