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【蛇足①】渡会絢哉が自分の脚で不自由なく動けるようになったのは……。

 渡会絢哉が自分の脚で不自由なく動けるようになったのは、宇霊羅式年祭が終わってからおよそ一週間が経ってからであった。その頃には盛岡にいる父親とも連絡が付き、長らく抜けていたバイト先の飲食店にも復帰の目処が立っていた。検査入院や専門医の診察などが今後に控えているものの、奇跡的にも右脚の挙動以外に後遺症はなかった。


 長らく世話になった藤ヶ谷旅館を去ると決めた当日。


 己の面倒を見てくれた女将や従業員への挨拶は前日のうちに済ませていた。

 女将の次女――紗絵の妹であり、沙羅という名の女子高生――や町医者の三浦院長にも礼を述べるつもりでいたが、昨日今日と都合が付かなかった。

 改めて女将に挨拶を済ませた後、絢哉は閑散とした駐車場に出てきて単車の傍らに座り込んだ。懐から煙草を取り出して一本を咥える。一週間前、もう一人の自分に提供した濡れて潰れた煙草ではない。町の煙草屋で買った真新しい『Peace』である。


 オイルライターで着火して吸えば当然ながら美味い。あの時拝殿で吸った、賞味期限を疾うの昔に切らしていたものとは雲泥の差であった。


 けれども、あいつは美味そうに吸っていたな――と絢哉はもう一人の己を想起する。

 事の顛末は三浦院長から聞いていた。己が事故により丸一年眠っていたことを。己を起こさんがため親父と沙羅がもう一人の己を常世から召喚したことを。そいつは諸々の理由で自分が本物と思い込んでしまったことを。そいつに自身が霊体であることを自覚させ、常世に送り還さなければならなくなったことを――。


 ――率直に言えば。


 ()()()ていると思った。


 何がという話ではない。

 己を取り巻く全ての事象に猛烈なる(ふん)(もん)を抱いた。

 己が一年も眠っており、周囲に多大な迷惑を掛けてしまったであろうことに。この里においては期間限定ではあるが死者が本当に蘇るという事実に。こちらの都合で呼び寄せたあいつを、今度はこちらの都合で送り還さねばならなくなったことに。


 あの夜、己は()()の外ではあったが、それでも話の大筋は聞こえていた。もう一人の自分が戸惑い葛藤する様子も、如何に消える運命を受け容れるに至ったのかについても、自分のことゆえ手に取るように分かったのだ。


 絢哉は、自分の吐き出した煙を見詰めたのち、目を瞑る。

 今の己にできる精一杯の黙祷であった。事故の直後、死を悟りながらも煙草に手を伸ばした俺達に相応しい作法であろうと自己弁護をしながら。逝った先で、紗絵に会ってくれていたらいいと思った。


「君、こんなところにいたのか」


 絢哉の黙祷を破ったのは穏やかな男の声であった。


 目を開ければ、白衣の青年が立っていた。

 絢哉は下手糞なお辞儀を返す。

 右手の煙草を見れば半分以上が灰になっていた。

 自分でも思った以上に長々と祈っていたらしい。


 ――らしくない。己はこんなにも感傷的な人間だったか。


 もっと理性的で、理屈を重んじて、それゆえに現実を許容できずに心を毀した――畜生にも劣る醜い生き物であると思っていたのだが。死ねば地獄道よくても畜生道に堕ちるような悪人なのだ、渡会絢哉という人間は。


 これでは、まともな人間のようではないか。

 今更人間ぶるのは止せよ――。


 絢哉は煙草の火を靴の裏で揉み消すと、携帯灰皿に吸い殻を収める。


「挨拶が遅れて申し訳ない。今日盛岡に帰ります」


 大変お世話になりました、と絢哉は立ち上がり、青年に頭を下げる。


 絢哉は、この医者のことをどうにも好きになれなかった。

 外見だけを言うなら自分と年頃もそう変わらず、また青年自身も気さくな性分であり、打ち解けるにはそう時間もかからぬであろうという予感も抱いたが――青年が見ているのは己ではない。あいつの方なのだ。そう思うと虚しさが先立ち、必要以上に距離を縮める気にはなれなかった。あいつの居場所を掠め()るようで悪い気もしたのだ。


 同じ理由で、沙羅とも仲良くする気にはなれなかった。受けた恩に背くのではないかと思わぬでもないが――挨拶の機会を逸したなら、それはそれで良かった。己は二度とこの里には訪れやしないのだからという思いすらあった。


「院長、本日はどうされました。旅館に何か用事ですか」

「君の見送りに来たのだ。昨日、碧さんから君が今日発つという連絡が来てね。間に合って良かったよ。ちょうど出ようとしたところだったんだろう」

「お気遣いどうも。しかし病院は良かったんです?」

「なあに、今は昼休みさ。しかし君、黙って去るとはあまりにも水くさいじゃないか」


 青年は絢哉に笑いかけるが、当然ながら絢哉にそう言われる覚えはなかった。己と青年は、やはりどこまで行っても他人でしかない。尤も、素直に答えても角が立つため、そりゃ悪かったよ、とあえて軽口を叩き、苦笑いするだけに留める。


「分かってはいたが他人行儀だな。まあいい。それより君、沙羅君とはもう話したかね」

「いいえ。挨拶しようと思いましたが結局会えず終いでしたよ」

「ならば今からでも遅くない。会いに行ってやってくれないかな。彼女、火の見櫓にひとりでいるのを見かけたんだ」

「火の見櫓?」

「――そうか、君は知らないのか。村の北側、山の麓に櫓があるのだ。何でも、君と紗絵君にとっては思い出の場所らしいのだが――どうだい、思い出せそうかね」


 聞き覚えはある――ような気がする。

 脳裏に、赤い夕日を背景に、見張り台と思しき高所に立ってこちらに笑いかける少女が浮かび上がるが――それが正しく過去の出来事なのか、あるいは己の妄想かの判別はできなかった。


「しかしなぜ彼女はそんなところに。今日は平日でしょう?」

「それは僕にも分かりかねるよ。だが、あの櫓からは里を見渡せるのだ。彼女はそこから君を見送ろうとしているのではないかな」

「それならわざわざ会いに行かなくても。彼女は俺の面倒を甲斐甲斐しく見てくれたんだ。今日くらいは解放されたっていいでしょう。それに俺は恋人を自殺に追いやった極悪人だ。今までは我慢していたが――会いに行く面がない」


 絢哉が拒絶すれば、雪彦は閉口してしまった。

 これ幸いと絢哉は安物の半帽を被り、ゴーグルを装着する。

 バイクに挿したキーを回した後、エンジンを始動させれば、静かな排気音が響く。


「おい。前にも言ったが自虐は――いや、何でもない」

「そうですか。では、俺はこれで」


 絢哉は車体に跨がり、スタンドを左足で蹴り上げたのち急発進させる。懸念であった右足の後遺症も、操縦には支障ないようであった。また車両自体も、もう一人が時折運転していたらしく問題なさそうである。


 ――(わり)ぃな、先生(センセイ)


 あんたの御友人はもう逝っちまったんだ。

 俺は、そいつの『そっくりさん』にしか過ぎないんだよ――。


 式年祭も終わり、人が少なくなった里の中心を走り抜ける。

 緩やかな坂道を上り、バス停留所を横切ったところでアクセルを手放した。

 エンジンブレーキによる減速に合わせて左足のギアを落としていき――一速に入れると同時に車体はエンストして止まってしまう。


 思うところがあったのだ。

 後続車がいないからこそできる戯れである。

 ゴーグルを持ち上げ、宇霊羅の隠れ里を返り見る。


 旅館の四階に軟禁されていたため外出の経験はほとんどなかった。せいぜい式年祭の最終日に女将と共に塞ノ神神社に行ったことと、煙草を買いに出掛けたくらいである。

 己は一体何のためにここを訪ったのだろうかという自問に、明確な返答を持ち合わせていない自分に気付いてしまったのだ。


 紗絵に会いたい一心で盛岡を飛び出たは良いものの、事故を起こした結果一年間あまり昏睡して、傷だらけの身体と精神で、もう一人の己を見送っただけである。本懐を果たすどころか、鞄に収めた紗絵の日記すら読めずにいるのだ。目立った後遺症こそないのは不幸中の幸いだろうが――それでも一年を無駄にしたという思いの方が強かった。


 もう少しだけこの里にいたい。

 否、この里に来た意味を見出さなければ。

 そうでなくては、己はこの一年を無為に過ごしただけではなく、何のために、あいつを犠牲にしてしまったのか分からない――という罪悪感に駆られたのだ。


 バイクのエンジンを再びかけると、車体を切り返す。

 少し離れた山の麓には火の見櫓が組まれ、見張り台には娘が立っている。豆粒のような大きさでしかなかったが――沙羅である。こちらを向いているように見えぬこともない。


 絢哉は櫓まで向かうことにした。

 里を走るなど幼少期以来であり、どこをどう行けば良いのかは定かではなかったが――道すがら、櫓のあると思しき方角を指差す子供達に従えば、迷うことはなかった。


 特別、沙羅に会って何かをするつもりはなかった。あいつが、この里でどんなふうに生きていたかを聞いて――供養の足しになればいい、程度の認識であった。


 あの夜の話を聞く限り、彼女とあいつには色々とあったらしいが――所詮、今の己にとっては他人である。よくて旅館の娘とその利用客である。姉を自殺に追い込んだ怨敵であるという可能性も捨てきれないが――その時はその時である。


 細い路地と畦道を抜け、火の見櫓の側にバイクを止めた。絢哉が見上げれば、沙羅は手摺りに手を乗せ、こちらをじっと見下ろしている。その眼差しは、青年と同じく、己を見ながらも、他の誰かの面影を探っているようで――絢哉に多大な疎外感を与えた。


 ――尤も、俺だって他人のことをとやかく言える身分じゃないけどな。


 絢哉自身、沙羅の中に紗絵を見ていたことは否定しない。


 ――そりゃ、姉のフリだってしたくなるものだ。


 最初は、魔が差したとでも言おうか、単なる思い付きの悪戯だった違いない。だが、あの大間抜けは信じてしまったのだ。沙羅を、引くに引けぬところまで追い込んだ大馬鹿者だったのだ渡会絢哉という男は。騙す方も悪いが、騙される方がより悪い。


 罪滅ぼしになるとも思えぬが、今ばかりは色眼鏡を外して藤ヶ谷沙羅という人間と話をしてみるのも悪くない――と思いながら、見張り台まで垂直に伸びた梯子を登る。


「どうして、来てしまったの?」


 絢哉が梯子を登りきり、一息ついたのを確認してから沙羅は言った。やはり歓迎されていない様子であり若干の萎縮を覚えるが、覚悟していたことである。


「君と話がしたくて。世話になった礼を言わないまま去るのもどうかと思ってね」

「お礼なんて。私が好きでやっていたことですから。それより――話ですか?」

「ああ。怒らないで聞いてくれよ。今まで君のことを紗絵の妹としか見ていなかった。君の面影に紗絵がいないか頑張って探していたことに今更ながら気付いたのだ。だから、まあ、他でもない君と話をしたくなってこうして戻ってきたんだ。特にこれといった話題が提供できる訳でもないけど、何も言わないまま帰ったら後悔すると思ったんだよ」


 そう言い、絢哉は少し離れた位置に座り込む。右膝が痛み出し、立っていられなくなったこともあるが。まだ学生である沙羅からしてみれば、今の己は髭こそ剃っているが髪は伸びきり、襤褸のジャケットを羽織った、おおよそ社会規範から逸脱した風体の男である。喜んで側にいたい種類の人間ではないことは自覚していたのだ。


 低いところから見上げた彼女の双眸は、陽光を反射する湖面のように()()めいて見えた。


「後悔、ですか?」


 沙羅は不思議そうに――あるいは迷惑そうに――形の整った眉根を寄せる。


「ああ。逆に聞くけれど、君の方は、俺に何か言っておきたいことはないのかい」

「絢哉さんは、私のことを怒っているのではありませんか」


 絢哉から一度も目を逸らさぬまま、沙羅は言った。


「いいや、全く。どうしてそんなことを?」

「あなたは、私がもう一人の絢哉さんに何をしたのか知っているのでしょう? 私は、絢哉さんに自分が姉であると偽って恋人のふりをしておりました。それ以前に、私は絢哉さんを降ろす時に、どうか絢哉さんが私のものになりますように、と願ってしまいました。私は永遠に絢哉さんをこの世に縛り付けようとしてしまいました。普通は、怒ったり憎んだりするものだと思います」

「普通、ねえ。俺にそう言われても、少し困ってしまうな」

「私、何かおかしなことを言いましたか?」


 沙羅は少しだけ語気を強めて問うた。


「質問に質問で返して悪いけど、あいつは、君に何か言い残しはしなかったのかい?」

「いいえ。宇霊羅式年祭が終わってからはそれきり――会って話もできませんでした」


 そういえばそうだったな、と絢哉は式年祭の最終日を思い出す。

 旅館の四階、女将と共に、露台から正門前で対峙する二つの屋台を見下ろしていた。


 女将は、男神が()()()(ぎの)(みこと)であることを――演者も曳き手も皆屍者であることを。女神の方が()()()(みの)(みこと)であることを――演者も曳き手も皆生者であることを説明してくれた。加えて、今この時をもって永遠に別れなくてはならないことを。


 物悲しい雰囲気は、離れた場所に立つ絢哉にも伝わっていた。

 一瞬だけ見えた沙羅は号泣しており、相対していたあいつも唇を噛み締めていた。


「俺は、祭りが終わってから女将さんと神社に行ったんだ。それは聞いているかい?」

「はい。母から全てが終わった後に聞きました。もう一人の絢哉さんを説得するために、ですよね」

「ああ、そうだ。あいつが霊体であることの生き証人がこの俺だった訳だからな。なんともまあ、性質(タチ)が悪いというか残酷というか――とにかく、その会合であいつは確かに言っていたよ。君には救われたって。そして――最後には納得して逝ったんだ。だからまあ、俺が怒ったり憎んだりするってのは筋違いさ。そもそも、あいつと俺は確かに同じ顔で、同じ名前で、似通った性格なのかもしれないが――それでもやっぱり別人でしかないんだ。その証拠に、俺はあいつがこの里で何をして過ごしていたのかサッパリ覚えちゃいない。あいつも俺のことなんか知らなかったはずだ。だから自分が本物だなんて思ったんだろう。つまり、他人のことだから俺には怒る権利すらないんだ。何なら感謝すらしてるくらいだよ。あいつを救ってくれたことに」

「そうですか――」

「俺からも聞いていいかい?」


 絢哉は尋ねる。

 聞くべきではないと分かっていながらも、確認せずにはいられないことがあった。


「君の方こそ、俺を恨んでいないのか」

「恨む? どうしてですか」


 沙羅は首を傾げる。

 女性らしい柔らかな所作であった。


「俺は紗絵を――君のお姉さんを死なせてしまったんだ。こう言うと却って自惚れのように聞こえてしまうかもしれないが、俺がもう少しだけ紗絵に寄り添ってやれたら彼女は死なずに済んだかもしれない。俺は、それをどうしても謝りたくてこの里にやって来たんだ。結局会えず終いになってしまったけどな」


 紗絵を降ろすことはできないものかと女将にそれとなく聞いてはみたものの――次回の式年祭にしかできぬことであり、その次回が七年後になると聞いて、追慕の念は完全に萎えてしまった。しかも、降りてきた霊体は本当の意味でその死者ではなく、生者の願望を反映させた偶像でしかないというのだから全くもって救われない話である。


「違います。あなたのせいではありませんよ」


 沙羅は断じた。


「姉が死んだのは確かに悲しいことです。止めれるなら止めてほしかった。でも、姉が死んだのは姉の責任なんです。だから、私はあなたを恨むことは致しません。あなただって苦しんでいるのに、そんなあなたを恨むなんてこと、できるわけないじゃないですか」


 言葉を選びながら、一言一言丁寧に沙羅は言った。


 その慰めは、どこまでも甘い響きもって絢哉の心に浸潤していったが――それが却って苦しかった。姉が死んだのはお前のせいだ今すぐ死んで詫びろ、とでも糾弾された方がまだ気が楽であった。


 というよりも。


 絢哉は本気で己が恨まれていると信じて疑わなかった。女将も沙羅も、他の従業員も、その怨恨をあえて飲み込んだ上で己の世話を嫌々見ているものとばかり思っていた。


「どうしてそんなに嫌そうな顔をするんですか。誰もあなたを恨んでいないのに」


 だからだよ。俺は恨まれて然るべき悪党なのだ――と言いたかったが、止めた。


 詰まらぬ自虐に付き合わせるために戻ってきた訳ではない。


「ありがとう。君は優しいな」

「――いえ。そんなことありませんよ」


 思うことがあったのだろう。沙羅は俯いてしまった。

 互いに沈黙してしまうが――そこに気まずさはなかった。

 加害者も被害者も存在しない、故人を偲ぶ人間らしい暖かな空気であった。


「姉に、頼まれたんです」


 不意に、沙羅が言った。


「頼まれたって、何を?」

「あなたのことを」


 沙羅が答えた。


「姉が遺した手紙に、絢哉さんのことが書いてありました。自分が死んで、絢哉さんは酷く悲しんでしまうだろうと。きっとこの里に来てしまうだろうと。もしそうなった時は、私の代わりに元気づけてあげてくれ――と」

「紗絵の代わりに」

「もちろん姉には他意なんてなかったのでしょうが――私にとっては天啓が降りたように感じました。姉の遺言を見た時から、頭の片隅には姉に成り代わることがありました」

「どうして、そんなことを」

「どうしてって――それ、聞きます? 言わぬが花だと思いますけど」


 紗絵が拗ねたように絢哉を睨む。

 その目許は(しよう)(るい)に濡れていた。


「悪い、野暮だった」

「いえ、むしろ言わせてください。私は、昔から絢哉さんのことが好きでした。昔からですよ。それなのに姉が絢哉さんを横取りしちゃったものですから、私はずっと姉のことを恨んでおりました。いえ、それと同じくらい申し訳なさも感じておりました」

「申し訳なさ?」


 横取り、という単語も気になったが、絢哉は沙羅を促す。


「はい。健康優良児の私とは違い、姉は身体が弱くて、大抵旅館の自室に篭もってばかりでした。そんな姉のためにと、外で遊んでばかりいた私は、この日はどこでどう遊んだのかを言って聞かせておりました。意地悪なんかではありません。楽しかった時間を共有したいという親切心からです。けれど――きっと姉を惨めな気分にさせていたのでしょう。さぞかし私を恨んでいたのかもしれません。本音を言えば私は姉に怯えてすらおりました。姉が自殺したと聞いてから、ずっとずっと」


 罪悪感に苛まれておりました――と吐き出すように沙羅は言った。


「知っていましたか。子供の頃、絢哉さんを一緒に遊んでいた女の子――あれは姉じゃなくて、私だったんですよ?」

「そうだったのか。俺は、ずっと紗絵だと」

「あなたが姉と会ったのは、この火の見櫓で結婚式の儘事をした時だけですよ。それでも、あなたが姉のことを覚えていたのは――私が恥ずかしがって一度も自己紹介できなかったせいもあるのでしょうが――きっとこの落書きのせいでしょう」


 沙羅は、自分の横、手摺りの表面を指先で撫でた。

 目を凝らせば、現在では薄くなりほとんど読めなくなってしまったが――確かに、絢哉と紗絵、という名前が肩を並べている。二つの名を風化させまいと両手を広げて頑張っている不格好な傘も。


 絢哉は何と言ったものか迷ったが――沙羅にかけるべき都合の良い言葉を見付けられず黙り込む外なかった。姉妹の違いに察せずにいた己の愚鈍さを詫びようにも今更であり、また上辺だけの謝罪にもなってしまう気がして何も言えなかったのだ。


「何も言ってくれないんですね。やっぱり私では姉に勝てませんか」

「え?」

「いえ、何でもありません」


 紗絵は絢哉から目を逸らしたのち。


「あなたは姉さんの日記、まだ読んでませんよね」


 と聞いた。


「ああ。まだ一度も開いてないよ」

「是非、読んであげてください。今日、帰る途中にでも」

「それは、そうしたいんだけどな」


 絢哉が煮え切らぬ態度を見せれば、どうしたんですか、と沙羅が尋ねる。


「いや、怖いんだよ。他人がどう言おうとも、俺は紗絵に寄り添ってやれなかった。負い目があるんだ。だから、俺への恨み言が書かれてあるような気がしてならないんだ」

「そんなこと、書いてありませんでしたよ」


 詰まらぬことのように沙羅は言った。

 否、実際沙羅にとっては不愉快な話なのだろう。


「どうしてそんなことが分かるんだ」

「私も見たからですよ」

「見たって、いつ――」

「あなたが眠っている間にです。私だって家族なんですから、見る権利はありますよね」

「それは――そうだな。悪い、取り乱した」

「構いませんよ。あの人もあなたと同じような反応をしていましたから慣れっこです」


 沙羅は昔を懐かしむように笑った。


「怯える必要なんてどこにもありませんよ。むしろ、今のあなたに寄り添うなメッセージが書かれておりました」

「メッセージ」

「はい。もっと言えば――姉が生前書き残したものではないでしょう。誰かが呼んだ姉が密かに書き綴った手紙でしょう」

「それは――どういうことだ? 紗絵は、本当は存在していなかったんだろ」

「いたんですよ。私は会っておりませんよ? 私だって最初は悪戯か何かだと思いました。姉がいると知っていれば姉の振りだってしませんでしたから。ですが、姉の文字で証拠が残っているのですから信じる外ないでしょう」

「今、紗絵は――」

「流石に式年祭も終わってしまったことですし、あるべきところに還ったと思いますよ。もしかしたら、あの人と一緒に逝ってしまったのかもしれません」

「そうか。そうだったら、良いな」


 誰が紗絵を呼んだのか、ニーロン様とやらの証言はあるのか、その紗絵は本物の紗絵と呼んで良い存在なのか――言いたいことが多々あったが、絢哉はあえて言葉を飲み込み、己の幸せを祈った。


 ――あの野郎。紗絵と共に逝けるなんて。


 今だけは、もう一人の自分のことが羨ましくなってしまった。

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