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7-7.「全て、諒解したよ。悪かったな時間を取らせて」

「全て、諒解したよ。悪かったな時間を取らせて。しかし最後に一つだけ頼みがある。もう一人の俺に会わせてくれないか。奴は境内の隅でひとり寂しく待っているのだろう」

「それは構わないが、会ってどうするのだ?」

「どんな(ツラ)をしているのか見てみたい。伝えたいこともあるのだ。奴は、こちらの事情を知っているんだろう」

「対面しないにこしたことはないと思うが。もう一人の自分が存在して、しかもそいつの方が本物だなんて、僕なんかには想像できないくらいショックなことだろうに」

「構わないよ。それこそ今更じゃないか。というより、そう言うならどうして連れてきた。お前の差し金だろうに」

「保険だよ」

「保険?」

「君の説得に難航して、万一君がここから逃走した場合に備えて、出口で待機させていたのさ。尤も、病み上がりだからそこまで動けるとも期待していなかったが、いないよりはましだろう。それに、彼の存在そのものが、君が霊体であることの動かぬ証拠であるからね。とても残酷な方法ゆえに極力避けるつもりでいたが」

「なるほど。用意周到なことで。つくづく頭が上がらないよ」

「なに、友のためなら安いものさ、今のうちに言っておくが――僕は君の友だ。身体の方ではなく、今ここにいる君に言っているのだよ。それだけは忘れないでくれ。君と過ごしたのは僅か数日と短いものであったが、それでも楽しかったよ」

「面と向かって言われるとどうにも面映ゆいな」

「言葉というのは伝えてこそじゃないか。碧さん。彼をこの場に連れてきてくれ」


 雪彦の指示を受け、女将は立ち上がる。

 拝殿を出たところで絢哉に振り向く。


「絢哉君。今まで本当にありがとう。紗絵が大変お世話になりました。沙羅が迷惑を掛けて申し訳ありませんでした。沙羅のことを、どうか恨まないでやってください」


 深々とお辞儀をしてみせる。


「恨むなんてとんでもない。お世話になったのは俺の方です。俺は紗絵さんにも沙羅さんにも救われておりました。沙羅さんには俺が感謝していたとお伝えください」

「はい、確かに――」


 一度去った女将はすぐ戻ってきた。背後に、襤褸(らんる)の黒装束を纏った幽鬼の如し男を従えて。男が右脚を引き擦っているのは事故の後遺症だろうか――。


 女将は雪彦の対面に座るが、幽鬼は行灯の火を厭うように拝殿前で立ち尽くしている。

 その顔は、大破したヘルメットに覆われ下半分しか見えない。露出した肌には未だ痣や擦過傷が残ることから、事故の凄惨さが窺えるものであった。

 黒革のライダージャケットはあちこちが擦り切れ、脚部のプロテクターは意味をなさぬほど歪んでいる。その姿は、交通事故で死んだバイク乗りの亡霊そのものであった。


 ――嗚呼、こいつは。


 許可なく敷居を跨いで良いものかと遠慮しているのだ。

 絢哉は一目で、そいつが己であると察した。眼前に自分が在ることは確かに奇妙であり、同時に根源的な悍ましさと危機感を覚えもしたが、それでも動揺はなかった。


「雪彦。こんな格好をしているが、まさかバイクで来るように言ったのか」

「まさか。君が分かり易いように、格好はこちらで指定させてもらった」

「なるほど。これは確かに強烈だな。正論で頭をカチ割られた気分だよ」


 ここに座れよ、と絢哉が隣の座布団を示せば、亡霊はヘルメットを脱いで一礼したのち、言うことを聞かぬ右脚に四苦八苦しながら座布団に胡座(あぐら)を組んだ。


 伸びきった白髪は後ろで束ね、その頬は()せて()けていた。瞳だけが、己は生者であると主張するかの如く爛々(らんらん)と光っている。己よりも幽霊染みているじゃねえか、と絢哉が皮肉そうに口許を歪めれば、亡霊も怪訝そうに絢哉を見遣る。しばし絢哉と亡霊は見詰め合っていた。


 敵意や反感はなかった。

 最後を惜しむ、どこか遣りきれぬ感情だけがあった。

 絢哉には、もう一人の自分が何を考えているのかが手に取るように分かった。

 相手はこちらに罪悪感を抱いているのだ。自分だけが現世に残ってしまうことに負い目を抱いているのだ。それゆえに喋らずにいるのだ。


 亡霊は、懐に手を突っ込んだかと思うと、煙草の紙箱を取り出した。

 絢哉が愛飲していた『Peace』である。その箱は潰れてもいたし、一度濡れたのを乾かしたのか、オリーブを咥えた鳩の意匠(デザイン)も、青地に白抜きの印字も滲んでもいた。


 絢哉は、その箱が事故の直後に吸い損ねたものであるとすぐに判った。

 亡霊は、震える手でその箱から一本を取り出して咥えると、絢哉にも一本を差し出す。

 箱と同じく一度は濡れ、また長らく時間を経たものであり、巻紙は歪で、両端からは刻まれた葉がモサモサと飛び出してはいたが、それでも叩いて吸い口を(なら)せば、吸い慣れた煙草となる。


 絢哉が咥えたのを見て、亡霊は火を点けたオイルライターを向けてくれる。絢哉の煙草に火を点いたのを確認してから、今度は己の煙草に火を点ける。その後、携帯灰皿を投げるように置いた。


 何も言わず、絢哉は上方に紫煙を吐き出した。

 隣の亡霊も、同じことをしている。

 果たして拝殿は禁煙だろうか――それ以前に、礼節に欠けやしないかと思いもしたが、有り難いことに娘は何も言わず最後の喫煙を見届けてくれた。


 一年前の、しかも一度雨水に濡らした煙草である。銘柄特有の芳醇かつ濃厚な甘みはどこにもなかった。それどころか咽頭(のど)を刺すような雑味ばかりでお世辞にも美味いとは言えなかったが――それでも、他のどの煙草よりも美味く感じられた。


 心残りは霧消して、清々しい心持ちでいる自分を発見した。

 普段よりも長い時間を掛けて一本を灰にした絢哉は、自分がここにいるべき存在でないことを理解する。還る場所があることを思い出し、立ち上がる。


「最後に一服できて良かったよ。ありがとう」

「行くのか」

「ああ、行く」

「言いたいことがあったのはずでは」

「同じ自分だろ。言わずとも伝わるものだろ」

「言えよ、気になるだろ。俺もお前に言わなければならないことがある」


 何だよ、と絢哉が問えば、お前からだ、と亡霊は譲らない。

 口調こそ(つつ)(けん)(どん)であったが、十分な信用と信頼が込められているのを絢哉は感じた。渡会絢哉という人間は、中々面白い性格をしているらしい。


「悪いけど、俺は先に逝くよ。紗絵がいない人生に何の意味もないとは今でも確かに思っているし、まして前科者だ。高過ぎる難易度(ハード・モード)の人生だろうが――聞いて驚け。こんな俺でも唯一無二の友達ができた。好きになってくれた女もいた。だからまあ、失望するにはまだ早い。俺の分まで、どうか強く生きてくれ」


 絢哉が言えば、亡霊は頷いた。


「俺の方こそ、生き残ることになって悪いな。お前が逝くところがどんなところなのかはまるで想像もできないが、きっと俺よりは紗絵に近いと思うぜ。もし会えたら、今度こそ二人で仲良くしてくれよ。俺の分までな」

「俺なんかが紗絵と同じ場所に逝けるかよ」

「逝けるさ、お前なら」


 そこで会話は途切れた。否、互いに言うことが尽きたのだ。


「ニーロン様。俺は逝きます。今まで、お世話になりました」


 絢哉が言えば、涯までは見送ってやろう、と娘も立ち上がる。


「結構ですよ。還るべき場所は思い出しましたから」

「遠慮するな。私が一緒に行きたいだけだ」

「そうですか。では、参りましょう」


 拝殿を出て、絢哉が靴を履いた時。


「渡会君!」


 雪彦の声がした。

 聞こえぬふりをしようかとも思ったが結局絢哉は振り返る。


「達者でな。君のことは忘れない。君は僕の中で生き続けるのだ!」


 雪彦は言い放った。

 日頃、飄々と振る舞いたがる雪彦にしては珍しい切羽詰まった態度であった。

 絢哉は、心が軽くなるのを感じた。



     *     *     *



 娘と共に拝殿裏の鍾乳洞を進む。

 娘の腕には、いつか見た白猫が抱えられている。


 高低差のある洞窟には木造の階段や桟橋が架けられ、黄泉への行軍に支障はなかった。天井には等間隔に裸電球が吊られており、四方から忍び寄る闇を祓ってくれる。


 不意に、数歩先を行く娘が足を止めた。


「ここに、そなたが寝ていたのだ」


 手にした懐中電灯で、娘は桟橋の下に広がる地底湖を照らす。


 その水は、如何なる鉱物が溶け出しているのか――あるいは石灰石の岩肌が作用しているのか――涼やかで淡い(あい)(いろ)をしていた。


「ニーロン様。あなたが迎える死者は、皆地底湖から這い上がってくるのですか」


 だとしたら地獄から這い上がってくるようで嫌ですね、と絢哉が言えば、そんなことはないよ、と娘は否定した。


「人によって異なるのだ。そなたのように地底湖に浸っているのはむしろ稀で、大抵は本堂に続く道すがらに立ち尽くしている。己がどうしてここにいて、どこに行けば良いのか戸惑っている者がほとんどだよ。そなたが生前のことを――事故の記憶を持っていることにはとても驚かされたよ」

「そう長いこと眠っている感覚などありませんでしたので。ほんの数時間――下手をすれば二三分程度でしたから。ずっと、紗絵に会いたいとばかりを考えておりました」

「なるほど、道理で――」


 何かを納得したように、娘は頷いた。


「雪彦は生者の想像によってのみ、そなたのような死者が創造されると講釈を垂れていたが、私はそうは思わない。絢哉。そなたは正しく、渡会絢哉という人間の分霊だよ」

「分霊、ですか」

「然様。どちらが偽物でどちらが本物というものではない。どちらも本物の渡会絢哉だよ。そして、ここは現世と彼岸の境界線上だ。ゆえに、そなたを憐れんだ神様が、そなたの願いを汲み取ってくれたのだろうよ」

「それは――どういう意味でしょうか」


 娘は、絢哉の質問に答えなかった。


「私が案内できるのはここまでだ。行けば分かる。あとは――こいつを頼む。こいつがいなければ、そなたと会えなかったと思うと感慨深いな。愛猫だ、虐めてくれるなよ」


 娘は、片手で器用に白猫を絢哉に差し出す。

 絢哉が受け取れば猫は僅かに暴れたが、懐に入れれば観念したのか――それとも居心地が良かったのか――不満気に一鳴きするだけであった。


 絢哉は白猫と共に、黄泉路をひた進む。

 すぐ頭上の電球には、どこから迷い込んだのか羽虫が纏わり付くように飛んでいるし、前方には鍾乳石と石筍ばかりの道なき道が広がっている――。


 奥から、夜の湿った空気が流れ込んでくるのを絢哉は感じた。

 蟋蟀(こおろぎ)(すず)(むし)の音までも聞こえてくる。

 先は外に続いているらしい。


 洞窟から抜け出せば、傍らには小さな街灯が立てられ、水銀灯の真っ白な光がスポットライトのように絢哉だけを照らしていた。


 四方を切り立った崖に囲われた空間である。

 中央には、小さな社がポツンと建てられている。瓦葺きの(しろこ)()()は濡れたような光沢を纏い、威圧と拒絶を放っていた。社殿の前には、苔生した鳥居が構えている。


 絢哉は足を止め、空を仰ぎ見た。

 空は(くら)く、月は見えない。


 ――まるで井戸の底だ。


 絢哉は思う。

 ここには月の光も届かない。神に見放された場所であり、地面に這いつくばって生きる己には、どうしたって抜け出せない。干からびて死期を待つだけである。俺より先に逝った者達は、天にも昇れず地にも還れず、木乃伊になるまで立ち往生していたのだろう。


 まさに、ここが現世と彼岸の狭間――黄泉比良坂なのだと。


「待ってたよ、絢哉くん」


 絢哉の思考を現実に引き戻したのは、懐かしさを駆り立てる柔らかな女の声であった。

 絢哉が視軸を正面に戻せば――。


 藤ヶ谷紗絵が立っていた。


 呆けた表情をしている絢哉に微笑んでいる。

 絢哉には分からなかった。どうして紗絵がここにいるのか。

 なぜ、怨敵である己を見て笑っているのか。

 紗絵の足許からは、白い光に照らされて影が真っ直ぐ伸びている――。


 嬉しいと思うより早く疑問が先立つが、その問いも氷解した。


 ――そなたを憐れんだ神様が、そなたの願いを汲み取ってくれたのだろうよ――。


 先程別れた娘が言ったことである。

 己は、己でも気付かぬうちに本懐を果たしていたのだ。


「どうしたの?」

「いや、何でもない」


 安堵のあまりその場に座り込んでしまいそうになった。

 だが、堪えた。

 沙羅が演じていた偽の姿とは違い、今度こそ正真正銘の紗絵であるとすぐに分かった。

 理屈などではない。膚で直感したのだ。


 絢哉は紗絵に駆け寄り抱き締めようとして、胸に収まる白猫を思い出す。

 白猫は絢哉を見て、にゃあ、と鳴いたのち、懐から脱すると本殿へ駆けていった。

 半開きとなった扉から、するりと入ってしまう。


「びっくりした。今の、ニーロン様の猫だよね」

「ああ、あいつのお蔭で、俺は幸せな時間を過ごすことができた」


 紗絵は不思議そうに首を傾げるが、絢哉は何も言わずに紗絵を抱き締める。最早、屍人が想像から構築されるものであり、真の意味で当人であるかなど、どうでも良かった。腕の中に紗絵がいる――それだけで絢哉は幸せであった。今までの苦労が今度こそ報われたと思った。


 いつかの悪夢ではできなかった強い抱擁をすれば、背に紗枝の腕が回された。

 絢哉は更に腕に力を込めて――しばらく、そのままでいた。

 どちらからともなく名残惜しそうに離れて、照れ臭そうに笑い合う。


「紗絵。君も来ていたんだな」

「うん。気付いたらここにいたんだ。最初はどうして自分がここにいるのか分からなかったけれど――私だってこの里の生まれだからね。きみが呼んでくれたんでしょ?」

「それならどうしてすぐ会いに来てくれなかったんだよ」

「会わせる顔がなかったんだもの」


 紗絵はほんの少しだけ俯く。


「だからずっとニーロン様の許に匿ってもらっていたの。君が私に会いたいと思ってくれたのは嬉しいけれど――私は、もう死んだ人間だから。これでも死んだことには納得している。これで、もっと生きたかったなんて言ってしまえば、死んでしまいたいくらい悩んでいたことまで嘘になってしまうでしょ。事実は事実として受け止めなくてはならない。たとえ君がどれだけ私を望んだくれたとしても」


 言い聞かせるように紗絵は言った。

 その言葉は、絢哉の中に何の抵抗もなく染み入っていった。その通りだと思った。

 己が消える直前になったからこそ姿を見せてくれたのだろうと思った。


「俺のこと知っていたんだね。ニーロン様から聞いたのかい」

「それもあるんだけど、絢哉くんが洞窟で起きてニーロン様が迎えに来てくれたとき、私もすぐ後ろにいたんだよ? 最初は誰なのか分からなかったけど、声ですぐに分かった」

「そんなに近くにいたのか」

「うん。逆に聞くけど、気が付かなかった?」

「いや、全く気が付かなかったよ」

「本当? 気付いた上で黙っているものかと思っていた。だって私、絢哉くんと会話したことあるんだよ?」

「え、いつ?」

「夜、きみの部屋で」


 紗絵は無邪気に笑ってみせる。


「私、日記帳に色々書いていたでしょう。あ、もしかして妹だと思った?」

「あの時か。夢だと思っていたよ。何を書いていたんだ」

「言わなかったっけ? 絢哉くんへのメッセージだよ。強いて言うなら応援(エール)かな」

「応援――」

「うん。盛岡に帰る途中にでも読んでよ。忘れないうちに」

「それは是非ともそうしたいんだけど。多分、本物の俺は知らないと思う」

「どういうこと?」


 絢哉はどう答えたものか迷ってしまう。己の存在が、父親と沙羅の願望からなる虚像でしかないと伝えることは、今目の前にいる紗絵だって、己が創り出した想像の産物でしかないと伝えることと同義で、どうにも憚られたのだ。


 だが、絢哉は正直に伝えることにした。

 紗絵は、黒水晶の如し瞳で絢哉の話を聞いていたが。


「それ、嘘だと思うなあ」


 話の最後に小さな反発をみせる。


「じゃあ、なに? 私は、絢哉くんが想像した偽物だってこと?」

「ああ。俺はそう思っている。証明のしようがないが。だって本物の死者が蘇るなんて有り得ないだろ。藤ヶ谷紗絵という人間は二〇一九年の五月十日に死んだんだよ」

「私達がここにいる時点で十分有り得ないことだよ。というより、そんなのどうだっていいでしょ? 私ときみが今ここにいる。それだけで十分――救われることだよ」

「それは――そうだな。全くもってその通りだ」


 紗絵らしい物言いだと思った。己ほど頭でっかちでもなくて、かといって夢見がちでもない――どこまでも地に足のついた感性である。そんな彼女に惹かれていたことを絢哉は思い出す。


「それに多分、私は絢哉くんが想像するほど綺麗な人間じゃないよ。今だから白状しちゃうけど――私、きみと妹が部屋で仲良くしていた時に、押し入れの中で歯ぎしりをしながらずっと監視していたんだよ?」

「え? どうしてそんなところに――」

「きみと一緒にいたかったからに決まっているでしょ」


 それくらい分かってよ、と紗絵は目を怒らせる。


「だからまあ、妹が私のふりをしていることは知っていたの。君がその嘘を信じて、大事にしてくれたのは正直複雑だったけどね。あ、でも。妹のことは恨まないであげて。絢哉くんのことをお願いねって手紙に書いてお願いしたのは私の方だし。最初にきみを好きになったのはあの子の方だから。私が無理矢理、横から入っただけなの」

「分からない。どういうことだい」

「ちょっと長くなるけど、いい?」

「ああ。君のことなら何でも知りたい」

「それはちょっと大袈裟だよ」


 紗絵は小さく笑った。

 近場にあった手頃な岩に腰掛けると、手巻きして絢哉を隣に座らせる。


「絢哉くんって、子供の頃、お父さんと一緒によくこの里に来ていたでしょ。そこで私の家――旅館に泊まっていたの、覚えている?」

「勿論覚えているよ。君と会ったのもその時だったな」

「それ、実は違うんだよ」

「え? だって君のお母さん――碧さんが紹介してくれたのは覚えているぜ。娘と仲良くして頂戴ねって。君がはにかんでいたのは今でもハッキリ覚えているよ。俺だって白状すれば――その笑顔にやられたんだぜ。一目惚れだった」

「それ、私じゃないの。妹の方なんだよ」

「――は? いや、でも」

「その時、その子は名乗っていなかったでしょう? それに本当の私は病気がちで、いつも旅館の四階に隔離されていたんだから」

「病気?」

「それはもう色々。喘息だったり(みず)(ぼう)(そう)だったり、おたふく風邪だったり――酷いのだと血液の病気まで。子供が罹りそうな病気は大抵罹っていたもの。だから、いつも四階のベランダから玄関を見下ろして、走り回るきみ達を見てばかりいたんだよ?」

「そんなの――」

「知らなかったでしょ。妹は、遊び終わったら私の部屋まで来て、今日は誰とどんなことをして、それがどう楽しかったのかをいつも話に来てくれたの。もちろん、それは嫌味とかじゃなくて純粋に私を心遣ってくれたからでしょうけど――正直、嫌だったな。話を聞いているうちに、一緒に遊んでくれた絢哉くんってどんな男の子なのかなって思うようになって――気になったの。ううん、欲しくなったの。きみのことが」


 紗絵は昏い瞳で絢哉を見詰める。

 今まで見たことのない貌であった。


「妹から一緒に遊んだだけでまだ名前を教えていないって聞いて――閃いちゃったんだ。今しかないって」

「閃いたって、何を」

「火の見櫓で結婚式。その時、私はきみと初めて会ったんだよ。自分の名前を知ってもらおうと、櫓に登って、お母さんに教えてもらったばかりの漢字を書いたの。もちろん、その嘘はすぐにばれるものと思っていたんだけど――でも、絢哉くんはそれきり里には来なかった。まあ、それは叔母さんが盛岡に引っ越しちゃったから、絢哉くんのお父さんが来なくなったからだけど――私にとっては好都合だった。このまま私が妹よりも先に絢哉くんに会えば。嘘を貫いてしまえば。私が絢哉くんの恋人になれるって。妹の存在を上書きしてしまえるって本気で思ってた」

「そうか。だから、君は――」


 日記にあんなことを書いたのか。

 妹の存在を一言も言わずにいたのか――。


 絢哉の言わんとしたことを察した紗絵は頷く。


「幻滅したでしょ?」

「まさか。気付けなかった俺に何かを言える資格はないよ」

「あの子にも悪いことをしちゃったと思ったからこそ遺書を書いたんだよね。絢哉くんのことをお願いねって。もしかしたらこの里に来るかもしれないけど、その時は励ましてあげてねって。まさか、私の真似までしちゃうとは思ってなかったけれど。しかも絢哉くん、信じ込んじゃったし」


 拗ねたように紗絵は絢哉を睨む。


「そこは勘弁してくれよ。あの時は精神的に参っていたんだよ」

「分かっているよ。全部、分かっている。私が原因なんだもの」


 紗絵は、一瞬の沈黙ののち。


「あの子のこと、お願いしていいかな」


 と言った。

 絢哉は、その時にはもう、紗絵が己の創り出した幻影とは思わなかった。

 今まで己と共に生きて、そして今ここで共に消えゆく――本物の紗絵だと思った。

 ゆえに、ここでの遣り取りを本物の俺は知る由もない、などと無粋な言い訳をするつもりはなかった。ただ一言、分かったよ――と頷くだけであった。


「別にね。あの子と交際してあげて、なんて強制するつもりはないの。君とあの子がお互いに好きになればそうすればいい。そうしなくてもいい。ただ――ほんの少しだけでも気遣ってあげてほしいの」

「分かった、約束するよ。でも、付き合うことはしないんじゃないかな」

「そう? あの子、姉の(ひい)()()もあるけど可愛くない?」

「それはそうかもしれないけど、そういうことじゃないんだよ」


 絢哉は何となく分かっていた。もう一人の自分は、生涯誰とも付き合わず、独りで生き、独りで死んでいくのだろうと。故人を胸の内に棲まわせながら他の誰かを愛せるほど厚顔無恥でもなければ器用でもないのだ、渡会絢哉という人間は。


 言葉を濁した絢哉を、紗絵は訝しそうに見遣ったが、言及はしなかった。


「あのさ」


 絢哉には気になっていたことがあった。


「君は、どうして日記なんて書いていたんだ」

「そんなに珍しいことかな」

「ああ。俺なんて、日記は小学校低学年以来書いたことがない」


 少し考えたのち、紗絵は。


「きっと、私が生きた証を、誰かに覚えてほしかったのかも」


 と答えた。


「誰かに? でも、日記は私的(プライベート)なものじゃないか」

「うん。確かに他の誰かに見てもらうために書いたつもりじゃないけれど、人生って何があるか分からないでしょう? 不治の病に罹って余命あと一月って言われるかもしれないし、もしかしたら交通事故で死んじゃうかもしれない」


 実際はもっと酷い死に様だったけど――と紗絵は自虐するように笑った。


「それでも。私は人生が楽しいものだと。青春は貴重なものであると知っていたの。宇霊羅の隠れ里で育って、子供の頃から死者を求める多くの人を見てきたから余計にそう思うのかもね。もしも私が死んでしまった場合、日記は誰かに見られるわけでしょう? お母さんだったり叔母さんだったり、絢哉くんだったり妹だったり――大切な人達に伝えたかったの。私は充実した毎日を過ごしておりましたって。辛いことも悲しいことも沢山あったけれど、それでも私なりに懸命に生きて、懸命さゆえに死んでいきましたって。だから、どうか辛い時は日記を読んで私を思い出してくださいって。――いや、ちょっと違うかも。正直に言えば、家族からも絢哉くんからも忘れてほしくなかった。たとえ私が死んだとしても、皆の中で生き続けたかったのかもしれない。だから私は」


 日記を書くことに固執していたのかもしれない――と紗絵は紡ぐように言った。


「凄いな、君は。そんなことを考えていたのか」

「もちろん最初からそんな大それたことを考えていたわけじゃないよ。小論文の練習になるかな、思考の整理になるかな、なんてもっともらしいことを考えていたもの。初めのうちなんか書き忘れてばかりで、纏めて一週間ぶん書いたこともよくあったよ」


 懐かしいなあ、と紗絵は泣きそうな顔で笑った。

 当然、その目から涙は零れない。


「だから、さ。私は決して死ぬわけじゃないんだよ。絢哉くんの記憶の中で、いつまでもいつまでも生き続ける。だから人生に絶望なんてしてほしくなかった。私が死んだ後、君がどんなふうに生きてきたのかは押し入れの中で聞いていたよ。――ねえ、どうして?」


 紗絵は静かに問うた。


「君に宛てた手紙に復讐なんかしないでって書いたよね。復讐なんてして、私が喜ぶなんて思ったの?」

「正直、最初はそう思ったよ。遺書には何も書いてなかったけど、あれだけ丁寧に証拠が述べられていたんだ。復讐をしてくれと言われているように思えたんだ。そうすれば――君に許してもらえるような気がしたんだ」

「馬鹿。そんなつもりなんてなかったのに」

「分かっているよ。結局、自分のためだったんだよ。自分がどうしようもなくなったから、君を理由にしてしまったんだ」


 絢哉は、今更になって己のしたことを恥じた。

 罪深いことだと思った。

 だが、己が人間であるうちに反省できて良かったとも思った。

 これで本当に心残りはない。人間として立派に死ぬことができる――と思った。


 瞬間、絢哉は己の崩壊を悟った。


「銀髪、似合ってないよ」


 紗絵の立つ場所から、揶揄うような声が聞こえた。


 何かを言い返そうとしたが、()(れつ)が回らず、また己がどこを向いているかも分からず、結局何も言わぬことにした。


 今度は、己が看取ってもらえると思い、絢哉は嬉しくなった。

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