5-5.バイクのエンジンを掛けてグローブを装着すれば……。
バイクのエンジンを掛けてグローブを装着すれば、すぐに雪彦はやってきた。鞄を提げ、首から聴診器を下げている姿はまさしく往診に赴く医者そのものである。
「なるほど。それが件の事故車だね」
雪彦は興味深そうにしながらバイクの側面に屈み込む。
「開口一番に事故車とは縁起の悪いことを。もう修理済みだぜ」
「失敬。多少の錆は見受けられるが、確かに見た目だけなら綺麗だな。傷跡は後輪のフェンダーとマフラー、エンジンガードくらいかね。部品はどこを交換したのだ?」
「やけに詳しく聞くじゃないか。興味あるのか」
「まあ、そんなところさ」
「交換した箇所なんて多過ぎて覚えてないが、電装部品やバッテリーは勿論、前輪そのものとフェンダー、ハンドル回り、ブレーキやクラッチのレバーとワイヤー、あとはタンクやシートもだな」
「なるほど。事故の損傷ぶりも窺い知れるというものだな。この車両は無論だが、君自身についてもな」
「確かに、ヘルメットもプロテクターも大破してしまったが――あ、やべえ」
「どうしたのだね、そんな間抜けな声を出して」
「いや、そのヘルメットとプロテクターなんだが置いてきてしまった」
「置いてきた? どこに」
「どこにって地底湖にだよ。壊れてもいたし、濡れて重かったし、それどころでもなかったから放り捨ててしまった。完全に忘れていたよ。自然保護とか不法投棄とかに抵触しないものかな」
「それなら大丈夫だろう。きっと誰かが回収しているだろうさ」
雪彦は絢哉を――否、絢哉の右膝を見た。
「渡会君。気を悪くしないでもらいたいのだが、ひとついいかね。あれだけ派手な事故を起こして、どうして君は生きているんだい?」
「それを俺に言われても困るぜ。何なら俺の方が聞きたい。まあ、何だ。死ななかったから生きている。それだけのことだと思うぜ」
「随分斜に構えた言い振りじゃないか。自虐は止せと言ったばかりだろうに」
「別に自虐のつもりはないさ。事実を言っただけだ。何ならむしろ肯定すらしているさ。何度も死に損なえば開き直る外ない。なんだよ、そんな顔をして。己の人生を肯定しろとかドイツの哲学者らしいことを説いたのはお前の方じゃないか」
「それはそうだが――というか君はそんな外見のくせにニーチェまで知っているのか」
「見た目については放っておいてくれ。あと、そんな詳しくは知らないぜ。虚無を克服して超人となるべし、怨恨感情を捨てよ、畜群となるなかれ――入門書を斜め読みした程度だよ」
「十分だ。やはり君はどうにもちぐはぐな存在だな。君は自分が不貞腐れた白髪の無頼漢であることを忘れてはいないかね」
「白髪って。せめて銀髪と言ってくれよ。これでも結構気を遣っているんだぜ。そんなに似合っていないのか」
「いいや、似合っているとも。似合い過ぎているんだよ君の場合」
雪彦は意味ありげな笑みを浮かべた。
絢哉と雪彦が揃って旅館の正門をくぐれば、受付には女将が立っていた。
「おや、碧さん。こちらからお伺いすることは伝えていなかったと思いますが」
「私から診療所に電話したんですよ。そしたら先生がついさっき出たところだと高瀬さんが教えてくれたんですよ」
「ははぁ、なるほど。しかしわざわざ待っていなくても。この時期など忙しいでしょうに」
「いえいえ。これでも落ち着きましたから。それに私も彼のことが心配で、いてもたってもいられなくて。今日だって、大きな声を出して、他のお客様も心配していたものですから」
女将はちらりと絢哉を見遣った。どうして絢哉がこの場にいるのかとでも言いたげな、女将の立場からすれば当然の視線であった。
「ところで、どうして絢哉くんがここに? 診察のお手伝いですか」
女将は、絢哉にではなく雪彦に問うた。
「まさか。とても対面はさせられませんよ。ついさっきまで僕の診療所で、同じ立場の者として色々話すことがあったものですから。彼のバイクに乗せてもらって一緒に来ただけですよ。しかし碧さんがお手すきならば好都合だ。診察の後、少々お時間を戴いても?」
「それは構いませんが、何かございましたか」
「彼と、沙羅君のことで少々ばかり」
「分かりました。では、案内致します」
「そういうことだ。渡会君、僕は行くからここでお別れだ」
雪彦はそう言うと、女将の先導の許、階段を足音もなく上っていく。雪彦が定期的に往診して、かつ沙羅が想いを寄せている羨ましい男が旅館の上階にいるのだ――と思った時、絢哉は、己と同じ四階にいる包帯男を思い出す。今までその存在を失念していたのは、昨日カーテンから垣間見た男の様相があまりにも悲惨であり、それがどうにも沙羅の想い人という単語と結び付かなかったためである。
沙羅が好きになるのだから如何にもな美男子で、それでいて洗練されてもいる――有り体に言えば、都会育ちのイケメンであろうという劣等感混じりの先入観もあった。
何となしに絢哉は階段を見上げたまま突っ立っていた。
包帯男の素性が気にならないと言えば嘘になるが、所詮興味ないし好奇心の範疇を超えておらず、また傷だらけの醜い身体を見られたくないだろうという男への同情も手伝い、結局同行を言い出せなかった。その資格もなかった。
「そんなところに突っ立ってどうしたの?」
背後からの声に振り向けば、昨日小料理屋で同席した未亡人がいた。その少し後ろには、背の高い色白の男性が立っている。白のタートルネックセーターに紺色のジャケット、黒のズボンという落ち着いた格好をしている。
未亡人を――否、絢哉を観察するように注視している。
「いえ、特に何をしていた訳でもないのですが。あの、後ろの男性はどちら様でしょうか」
絢哉は、未亡人の背後に控える男性からの、およそ好意的でもない視線に負けて尋ねた。
「良かった。あなたにも見えているのね」
私の幻覚じゃなくて本当に良かった、と未亡人は沁々(しみじみ)と言った。
「帰ってきてくれたのよ。昨日言ったでしょう? 私のせいで彼が死んでしまったって。その彼が私に会いに来てくれたの」
「神社に行って、神主様にお願いしたのですか」
「ええ。いつ、どこで、どんなふうに彼が死んでしまったのか――本当に細かいところを、重箱の隅をつつくように聞かれて、その後は『死者が降ってくるまで旅館で待っていろ』って言われてそれっきり。あとは包んだお金を渡してそれでお終い。あっさりというか肩透かしというか。もっと難しくて面倒な儀式をするものとばかり思っていた」
「俺は青森のイタコのように故人の声を降ろすだけと思っていました」
「もちろんそれも最初に聞かれた。『声だけなら今からでも降ろすことができる。けれど、身体も含めて降ろすなら時間がかかる』って。正直半信半疑だったけれど、私は彼に会うためにここまで来たから後悔はなかった。そして、本当に彼が会いに来てくれた」
未亡人は、ちらりと男性に振り返り、そうやって睨まないの、もう少しだけ待ってて――と親しげに言った。
「あの。折角のお二人の時間ですから俺なんかに構わなくても」
絢哉の遠慮を無視して。
「でも、私達には時間がないの」
と未亡人は呟くように言った。
後ろの男性には聞こえないような声量である。
時間がない?
「それはどういう意味でしょうか」
「あなたは聞かなかった? 彼のような『降り人』がこの世に留まっていられるのは、お祭りの間だけ。つまり十月十日まで。あと一週間。神主さんが教えてくれた」
「だったら尚更俺なんかに構うことありませんよ。どうかお二人で、満足いくようにお過ごしください」
彼女が男性と死別したのは交通事故だというから、きっと満足に別れもできなかったことであろう。それを思えば、一週間という時間は、死別を経験した二人にとっては十分過ぎるのかもしれないが――永訣という結論が覆りはしないのだから残酷であろう。仮令、それが両者にとって必要なものであり、前向きなものであったとしても。
――嗚呼、なるほど。
こう考えたからこそ紗絵も永遠を望んだのかもしれない。
永遠とは甘い夢である。
愛する者と分かち合えるなら尚更であろう。
けれど。
――君達に永遠を望む資格なんてないよ――。
雪彦は警告をくれたのだ。それは彼自身の経験に基づくひとつの愚痴だったのかもしれないが、いずれにせよ正論である。俺達に永遠は望めない。望んではいけない。死者が蘇ってくれるようなこの郷であったとしても。
「ねえ。君はどう思う?」
またも絢哉を無視して未亡人は尋ねる。
「どう思うって、何がですか」
「降り人が、お祭りを過ぎても帰らずにこの里に残ったら二度と帰れなくなるの。君はそれをちゃんと説明してお別れすべきだと思う? それとも――」
未亡人は口を閉ざす。
あえて明言しなかったのだ。
「どうしてそんな重要なことを俺のような部外者に聞くんですか。そういうのはお二人で決めてください」
「君だから聞いたんだよ」
「え?」
「相談できるのが君くらいだったから」
何かを誤魔化すように未亡人は笑った。
嘘である、と絢哉は思った。未亡人は何か意図があって話を持ちかけたのだろうが、その何かが絢哉には分からなかった。ゆえに絢哉は無言を選ぶ。質問も黙殺した。余人が立ち入って良い領域ではないと思ったこともある。
これは当事者二人が決めることである。
逆に言えば、二人が納得しさえすれば何だって良いとすら思えた。
「俺はもう戻ります。これ以上時間を取らせるのも旦那さんに悪いので」
「そう。昨日は話を聞いてくれてありがとう。それが言いたかったのよ。あれから、彼女さんには何か言われなかった?」
未亡人が言う彼女とは沙羅のことである。絢哉はその誤解を訂正しなかった。絢哉自身、彼女を紗絵と見做して良いものか決めかねていたこともあるが、それ以上に男性を待たせている手前、話を手短に済ませたかったのだ。
「まあ、あれこれ言われましたが大丈夫ですよ」
「あ、そうだ。話は変わるけど。明け頃、煩くなかった?」
「明け頃ですか。何かあったんですか」
「うん。男の叫び声がして、それからどたばたと階段を駆け下りる音もしたの。声質と見た感じから君かと思ったけど、違ったみたいね」
「心当たりはありませんよ。しかし見た感じって、そいつのこと見ていたんですか」
絢哉が聞けば、未亡人は力なく笑った。
「あの事故から夜眠るのが怖くって。それでいつも中庭にいるのよ。君ならそういうの分かってくれるでしょう?」
絢哉は頷き、心中お察し致します、と言った。
それしか言えなかった。
「明け頃、上の方から声がしたのよ。多分、三階か四階かな。それで、どうしたのかなって館内に戻って受付の方に行けば、その人が階段を下りてきたところだったのよ。後ろ姿だけだったからよく分からなかったけれど、何かから逃げるみたいに必死だった。玄関の段差につまずいて転んだと思ったら、動かなくなったけど」
「その後は、どうなったんですか」
「上から降りてきた君の彼女さんが宥めて、二人でまた上に戻っていったよ。二人とも遠目で見ていた私には気付かなかったみたい」
「それは、ちょっと怖いですね」
「そう? 怖くないと思うけど」
「そうですか」
「だって、ここには色々な人が来るからね。私や君みたいに。だから何となく分かるもの。夜に叫んで、何かから逃げ出してしまいたくなるような気持ちは。理解できるものは怖くないでしょう?」
「確かにそうですね。返す言葉もありません」
「どうしたの? 難しい顔をして」
「いえ、なんでもありません」
絢哉は奇妙な符合を感じた。
未亡人が目撃した男が、何を思って逃走していたのかは分からない。だが背後から沙羅が追ってくるなど今朝の夢を彷彿とさせる内容である。
――まさか。
自分が夢と思い込んでいるだけで、実際に俺は旅館を駆け回っていたとでもいうのか。それが事実なら笑うしかない。俺は、とうとう自分の正気すら証明できなくなってしまったのだから。
それなら雪彦が夢の内容を聞きたがっていたことにも納得がいく。彼は、沙羅か女将から俺の奇行を相談されていたのではないか。ゆえに本人曰く不得手な心理相談なんてしてくれたのではないか――。
だとしたら、とても悲しいことである。
俺はもう狂人になってしまったのだから。
――しかし、そうなるってくると。
俺は一体いつから壊れてしまったのだろうか。
紗絵が死んだ直後か。
あるいは――。
「ちょっと、ねえ。本当に大丈夫?」
「すみません。急に、疲れが出てしまったみたいですね」
絢哉が詫びれば、私達にはあるあるの症状だね、と未亡人はまたも寂しそうに笑った。
「今度、いつ会えるか分からないから今言うけれど、君と会えて良かったよ。君も、彼女さんを大事にしてあげてね。それじゃあ、さようなら」
未亡人は男性の許へと戻って行った。
男性は終始絢哉を見詰めていた。
似ているな、と絢哉は思った。
髪色を黒に戻し、一回り年を経れば、ああなるのだろう。
自室に戻った絢哉は、お決まりとなった窓際の席で煙草をふかしていた。五十本は入っていた『Peace』の缶は半分以上減っていた。雪彦といる時に吸い過ぎたのかもしれない。
――己はいつ、どうやって紗絵を呼び寄せてしまったのか。
本日、何本目になるかも覚えていない煙草を咥えながら思索に耽る。いくら考えても、自身を納得させるような理屈は湧いてこなかった。
窓の外、中庭を隔てた対面の部屋を見れば、カーテンが閉ざされている。僅かに開かれた隙間からは、人影が行き来しているように見えぬこともない。雪彦か女将か。それとも名も知らぬ傷病人がいるのだろう。
そう思った時、絢哉は酷い疎外感を覚えた。
己が、ここに存在してはいけない人間であると思ってしまった。
* * *
「うがああああぁぁぁぁッ!」
夜のことである。
突如上がった男の悲鳴で目が覚めた。
否、悲鳴なんて生易しいものではない。
生命の危機に瀕した時に誰しもが上げる、空間を律動させる絶叫であった。
今の声は何だ。
窓の向こうから響いたようだが――。
喉が酷く渇いていた。
何か善くない夢を見ていたような気もしたが、思い出せなかった。
起き上がった絢哉は窓辺に寄り、分厚いカーテンを脇に避けて――後悔した。
視線の先――対面の部屋、窓硝子に件の包帯男が張りついていた。
依然人相は分からぬが、その形相は凄まじいもので――剥き出しにした歯を食い縛り、目玉が零れ落ちるのではないかと思うくらい瞠目して――只々こちらを睨んでいる。限界まで開かれた血塗れの五指で、爪が剥がすかのように硝子を何度も何度も掻いて――窓には血とも脂ともともつかぬ燦ついた光沢が刻みつけられる。
絢哉には、男が何を思ってこちらを睨んでいるのかが分からない。だが、その炯々(けいけい)と輝く双眸に込められた感情は、恨みと憐れみ、悲しさと情けなさを綯い交ぜにしたものであることが察せられて――呼ばれている、と絢哉は思った。
あいつは俺を呼んでいるのだ。
俺に何か伝えたいのだと――同調した。
絢哉には身に覚えがあった。己も激しい希死念慮に呑まれて自殺を企図した身である。何もない夜に怯え、叫びたくなる激情には覚えがあった。世界への憎悪と、己への慚愧が極限まで達した者はあんな面になるのだ。そして何かを狂ったように叫ばずにはいられないのだ。だが忘れる勿れ。連中は決して狂ってなどいない。むしろその脳髄はどこまでも明瞭かつ整然として――その理性を保たんがゆえ、狂ったように叫ぶのだ。叫ぶことで、己が中に渦巻く如何ともし難い怨嗟を逸らすしか路がないのだ。
「許してくれえぇぇ――ッ!」
男が叫んだ。
あらん限りの大絶叫であり、中庭を隔てていながらも部屋の窓硝子が震える。喉から血が流れるくらい叫べば、己の罪が軽くなると思い込んでいるような――無垢で愚かな慟哭である。
絢哉は寝間着のまま部屋を出て、男がいると思われる部屋に向かう。何をしようとも思わなかった。何ができるとも思わなかった。だが、あいつと接触すれば何かが進展するのだと思った。
時刻は不明だが、廊下は明るかった。
角を曲がり、行く手を塞ぐように置かれた屏風の前に立った時である。
「絢哉君。何をしているの?」
振り返れば、女将が階段を上がってきたところであった。寝間着に羽織という格好から察するに、一階の控え室から慌てて来たのかもしれない。
「今の声、もしかして絢哉君じゃないよね」
「違います。この奥の部屋から聞こえました。だから様子を見に行こうと」
「駄目」
それだけは絶対に駄目、と遮るように女将は言った。
「気になるのは分かるけれど、あなたはもう部屋に戻りなさい。彼の面倒は私が見るから。ね?」
念押しする女将の姿に絢哉は違和を抱く。部外者を入れてはならぬというより、己だけを遠ざけたいとする思惑が透けて見えたのだ。
ゆえに絢哉は。
「あの人は、どうしてあそこにいるのですか」
多少ばかり踏み込むことに決めた。
「怪我を、したのよ。ちょうど今から一年くらい前に。それから長い間ずっと目を覚まさずにいたのだけど――お祭りが始まった時くらいから意識が戻って、少しずつ話せるようになったの。でも、夜はやっぱり、今のように情緒不安定になってしまうことがあるから――そっとしてあげてほしいの」
「酷い怪我をしていたように見えましたけど、何があったのですか」
「――え? そんなこと、どうしてあなたが知ってるの」
女将は血相を変えて尋ねる。
「窓から見えたんですよ。彼が窓に張りついて、俺を見ながら、許してくれと言ったんです。だから行かなければならないと思いました」
「――そう、だったの」
「駄目ですか。俺がこの先に行っては」
絢哉は、両手を広げて進行を阻む屏風を見る。
屏風に描かれた若者と娘が、黄泉と現世の境界を守る番人に見えた。女将の断りなしに、屏風を除けて、勝手にずかずかと踏み込むのは禁忌のように思え、どうしてもできなかった。
「絢哉君、分かって頂戴。もう十月だし、ここにいては風邪をひいてしまうわ。折角、ゆっくり休みに来たのに体調を崩すのも嫌でしょう?」
「分かりました。我儘を言ってすみません」
紗絵の母親に乞われれば、引き下がらざるを得なかった。女将の理屈は通っている。否、最初から出る幕はなかったのだ。
「彼、早く良くなるといいですね」
「ええ。絢哉君も」
「ありがとうございます」
絢哉は一礼してから自室に戻る。
手脚は確かに冷え切っていたが、寒いとは感じなかった。
・君の存在はどうにも「ちぐはぐ」なのだ
・似合いすぎているんだよ君の場合




