5-3.なぜ、こうも己は動揺しているのかと絢哉は内省して……。
なぜ、こうも己は動揺しているのかと絢哉は内省して、自分が思う以上に、沙羅に惹かれていたことを自覚する。その瞬間、潔癖な精神は耐え難い慚愧を覚えた。
「どうしたのだね。悪鬼羅刹のような顔をして」
「――あ、いや。煙が目に染みたのだ」
絢哉は咄嗟に嘘を吐いたが、見透かされていたらしい。
雪彦は絢哉を憐れむように見遣ったのち。
「まあ、無理もないことだな」
と頷いた。
「何の話だ」
「沙羅君に惹かれていたのだろう。しかもそんな己を酷く恥じている。違うかね?」
絢哉は答えられなかった。肯定してしまえば、後生大事に守ってきた己の核――あえて言語化するなら忠義や自尊心とでも言おうか――が穢されてしまう気がしたのだ。
口を一文字に結ぶ絢哉を見て、何を思ったのか雪彦は小さく笑った。
「そう無理に自分を律することはない。これは僕の持論だがね。人間という生き物は誰かを喪ったその瞬間から、心の空白を埋めようと無意識のうちに、その誰かに似た者を求めてしまうものだ。そういうふうに僕達人間はできているのだ。その代替品が似ていれば似ているほど強く想ってしまうんだ。だから、君の感情は仕方がないんだよ」
雪彦の言葉に深い諦念が込められているように聞こえたのは気のせいではないだろう。
「春になれば樹から新芽が芽吹くように。夏になれば新緑が燦々(さんさん)と輝くように。秋になれば紅葉が紅赤や黄金に染まるように――そう、これは自然なことなのだ。それを無理矢理抑制したくなるのは分かる。大いに人間らしいとは思うが――辛いだけだろう?」
雪彦は尋ねる。その言い様は確かに柔らかくもあり、また諭すような響きすらしていたが――絢哉には懐柔役の刑事による尋問もしくは児童相談所から派遣されたカウンセラーによる、ありきたりの傾聴にしか見えなかった。即ち、この男は人の良さそうな医師の仮面を被ってまで、己から何か決定的な証言を引き出そうとしていると直感した。
「雪彦。それはお前の経験なのか」
ゆえに明言を避けた。
自嘲するに留める。
「自分の気持ちに折り合いをつけることができずに悩んでいるのは僕とて同じさ。今更他の誰かを好きになるのは、大昔に愛した女性と、今まで独りで頑張ってきた自身に対する裏切りではないかと思ってしまうのだ。白状すればだね。僕はそう遠くない未来に高瀬君を好きになってしまうのだろうが、それを何よりも恐れている。さあ、僕はここまで語ってみせたのだ。今度は君の番だぜ。君は沙羅君に惹かれている。そうだな?」
「お前も存外執拗いな。それを聞いてどうするのだ。嘲るつもりか」
「そんなことするものか。ただ、何と言うべきかな。確かめたかったのだよ」
何をだよ、と絢哉が聞けば、君の性格を、と雪彦が答える。
「本当に済まないが、今一度、明確に答えてほしい。君は藤ヶ谷紗絵君――かつての恋人がいたというのに、その妹である藤ヶ谷沙羅君に惹かれている。相違ないな。しかも、そんな移り気な己に戸惑っている。自己嫌悪すら抱いている」
雪彦は真っ直ぐ絢哉を見て問うた。
今度は誤魔化そうとは思わなかった。
「ああ、その通りだ。ふん、言葉にすれば我ながら酷い奴だ。節操なしの愚か者だ」
「では、誰かに操られている――あるいは、差し向けられていると感じたことは?」
「――は?」
予想もしていなかった問いであった。
「いや、流石にそこまで拗らせてはない。自意識過剰というか被害妄想にもほどがある。俺の感情は俺だけのものだよ。そこに他の誰かの思惑なんか介在してたまるかよ。そんなこと有り得ない。有り得てたまるかよ」
「それがそうでもないのだ。これは私見だが、君は曲がったことが嫌いで義理堅い人間だろう。その性分ゆえに恋人を忘れられず、俗世から隔絶された陸の孤島までやって来たんだ。そんな君が会ったばかりの娘に惹かれてしまうなんて、いくら姉妹であることを考慮しても、俄には信じられないと思っただけさ」
「買い被り過ぎだ。他人を好きなるのは自然だって説いたのはお前の方じゃないか」
「それはあくまで一般論、そして僕自身の話さ。死んだ恋人のために復讐までするような君にまで適用されるとは思っていない。だから僕は君が何者かに操られている、しかも性質の悪いことに自分ではそうと気付かずに。そのような印象を抱いてしまったのだよ」
「それは、なんともまあ光栄なものだな。君にそこまで思ってくれるのは。だが俺は、どこまでいっても恋人を自殺させた大馬鹿野郎だよ」
「自虐は止し給え。それで、どうかね。心当たりのほどはあるかい?」
「いいや。俺を買ってくれるのは嬉しいが、やはり俺は俺だけの意思で動いているのだ。こう言っては情けないが――俺は、俺の意思で沙羅を好いてしまったんだ。言葉を借りるなら自然とそうなってしまったんだ。あるいは俺の心の弱さがゆえになのだろう」
「僕にとっては不自然極まりないのだがね」
「止してくれ。俺はお前のように誰か一人を想い続けることができやしなかった弱い人間だった。それだけのことだ。愚痴ついでにひとつ聞かせてもらうが――その、なんだい。沙羅には好きな奴がいるんだって。そいつはどんな奴なんだ」
「それを聞いてどうするのだ。会うつもりか。多分、危険だぜ」
「まさか。ただの興味本位さ。しかし、危険というのはどういう意味だ」
「君の精神状況を鑑みて、という意味だ、どこに自分から傷付きに行く奴がいるのだ」
「今更だよそんなこと。それで。どこのどんな奴だ。俺や、君よりも佳い男なのか」
絢哉は自虐を交えて問う。精神が乱れ、上手く笑えているかの自信はなかった。
「言っただろう。僕もよく知らないのだ。だが良い機会かもしれないな。ショック療法という言葉もあるし――試してみる価値はあるか」
雪彦がそう言って腕を組んだ時、院長室のひとつしかない扉が叩かれた。
「先生、高瀬です。入ってもいいですか?」
雪彦が返事をすれば、雪彦の助手を自称する女子生徒が入ってくる。今風の高校生らしい私服姿であった。
「高瀬君、早かったな。ご友人と中心街まで出て行ったのではなかったかね」
「それなんですけど、その子、急に都合が悪くなってしまって仕方なく戻ってきたんです。あ、本を借りに来たんですけど出直した方がいいですか。お茶もお出ししますね」
「いや、気を遣わずとも結構だ。喫煙者ゆえに茶も不要だよ。のんびり好きな本を選ぶといい」
「先生、煙草ばかり吸っていると長生きできませんよ。医者の不養生なんて言うじゃありませんか」
部屋の側面、天井まで伸びる本棚を物色しながら女子生徒は苦言を呈する。院長室とはいえどもその手の医学書や論文資料はごく僅かである。人文学や民俗学、宗教学や哲学などが書架の多くを占めていた。部屋の主がかつて民俗学に傾倒していた名残だろう。
「高瀬君、君も冗談が上手いなあ」
何が面白かったのか、愉快そうに雪彦は笑ってみせる。
「実を言えば、僕はこう見えてかなりの長生きなんだぜ。それにデーターこそないが医療従事者ほど喫煙率が高いのだよ」
「本当ですか。そうだとしても身体は大事にしてください。長生きしてほしいですから」
「まあ、考えておくよ」
そう答えながら美味そうに煙を吐き出す雪彦は、きっと考えるだけであろう。
三四冊を見繕った女子生徒が部屋を出ようとしたところ、ああちょっと待ち給え、と雪彦が呼び止める。
「君に聞きたいことがあるのだ。実は、僕達は男二人でついさっきまで恋話というものに興じていたのだよ」
「こい、ばな? 先生達がですか」
女子生徒は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。恋愛という浮ついた単語が、雪彦の存在にどうにもそぐわぬように思えたのだろう。
「おい、雪彦。どういうつもりだ」
「まあまあ。この場は僕に任せてくれ。高瀬君、何をそんなに驚いているのかは分からないが、君は藤ヶ谷沙羅君と同輩だったな」
「ええ、そうですけど」
「単刀直入に聞こう。君は沙羅君の想い人について何か知ってはいないかね。ああ、詮索は無用で頼むよ。相談者の私事秘密とやらに配慮しなくてはならない時代だからね」
何かを察した女子生徒はちらりと絢哉を見る。対する絢哉は、己から言い出した話題ということもあり、表立って否定もできずに、置物のように座っていることしかできなかった。
「ええと。私も詳しくは知らないんですけど、少し前にこの里に来た方らしいんです。沙羅ちゃん、その人とずっと一緒にいられる方法を考えているんだ、なんて嬉しそうに言っていましたが――あれ? 渡会さんのことじゃないんですか。私、てっきり」
「こら、詮索はするなと言っただろうに。他に情報はないのかね?」
「ええと。渡会さんじゃなかったとしたら――先生が定期的に診ているあの人でしょうか」
あの人?
定期的に診ている?
「それは君の推測だろう。それとも、そのように沙羅君が言っていたのかね?」
「いえ、直接的に誰という名前までは聞いておりません。でも、その人だと思います。だって、渡会さんじゃなかったら他に該当する方がおりませんもの」
「そうか。よく分かったよ。ありがとう」
「えっと、それとなく沙羅ちゃんに確認した方がいいですか」
「いや、それには及ばない。むしろこの件に関しては動かないでくれ」
分かりました、と頷いた女子生徒は、遠慮がちに絢哉を見遣った。
「あの、渡会さん。会って間もない私が言うと軽く聞こえてしまいますが、もっといい出会いがありますよ。私、応援しておりますからね」
拳を握ってみせたのち、女子生徒は退出していった。
「雪彦。この遣る瀬なさをどうしてくれる」
「その感情は君自身で始末をつけ給えよ。それにしても良い娘だろう?」
「それはそうだが――まあ、いい、さっきの話だ。君が定期的に診ている患者殿が、沙羅の恋人なのか」
「恋人とまで関係は進んでいないとは思うがね。所詮彼女の予想でしかない。おっと、いくら君でも患者については喋ることはできないぜ。何せ守秘義務が伴うからな」
「それは、分かっている。だが、俺はどうしたらいいんだろうな」
絢哉は、沙羅と、彼女の想い人に申し訳なさを感じていた。紗絵が妹の身体に宿ってしまったとしても。それでも、紗絵と一緒にいたいと願ってしまった。仮令その選択によって不幸になる人間が出てしまうとしても。
今まで、己と紗絵は憂き目にばかりに遭ってきた。ならば、その分を取り返そうとするくらい――自分達のささやかな幸福を望むくらい――許されるだろう。その選択により犠牲が生じたとしても、最早立ち止まる訳にはいかない。今度ばかりは絶対に諦めたくはなかった。
「そうか。話は立ち戻ってしまうのか」
「いや、もういい。決心が付いた。俺は紗絵を信じたい」
「何? どうしたって君はそう思うのだ。結論を急いたところで仕方ないだろう」
「相談を持ちかけた身でなんだが、俺は最初から紗絵を信じようとしていたのかもしれない。悪かったな、院長殿。時間をとらせてしまって申し訳なかった」
「待て待て。そう逸るな。信じたいと信じているでは天と地ほどの違いがあるぜ。紗絵君が偽りの存在――沙羅君の狂言だという可能性だって捨てきれないんだ」
「そんな理由なんてないだろう。というより――そんなことはどうでもいいのだ。俺は幸せになりたいんだ。紗絵と一緒に。喪った未来を少しでも取り戻したいんだ。だから――情けない話だが、縋るしかないんだ」
「そうか。君の夢は、中々に覚めないようだな」
雪彦は呟くように言った。
「夢?」
「――こちらの話だ。気にするな」
絢哉は雪彦の態度が気になったが掛ける言葉はなかった。
雪彦は気にするなと言って対話を拒絶しており、己も沙羅の狂言でも構わないと言った以上、何も言うことはできなかった。
ただ一点、己はたった今致命的な過ちを犯したのではないか――という危惧を抱いたが、疲弊した心身ではそれが何かを見出すことはできなかった。
「昨日のことについて聞きたいのだが」
雪彦が尋ねる。
絢哉は視線で続きを促す。
「沙羅君――君に言わせれば沙羅君の身体を借りた紗絵君は、何と言っていたのだ?」
「何をと言われてもな。先刻伝えたことが全てだよ」
「失敬、僕の聞き方が悪かった。沙羅君は、君に何かを求めやしなかったかね。どんな細かなことでもいい。教えてくれないか」
「いや、やはり先刻言ったことが全てだ。ずっと一緒にいよう、と。それだけだった」
「なるほど。ともすれば――それが沙羅君の望みか」
「沙羅じゃない、紗絵だ」
絢哉が訂正すれば、ああ悪かった、と雪彦は謝意の篭もらぬ謝罪を述べる。
「他にはどうだ、何かあるだろうか」
「そうだな。強いて言うなら、永遠とか、ずっと、という言葉にやたら拘泥していたようにも思えたな。俺の思い過ごしなのかもしれないが」
「ふむ。彼女がどうしてそう言ったか心当たりはあるかい」
「どうしてって、そんなの決まっている。俺と紗絵は死別したのだ。如何なる理屈で舞い戻ってくれたのかはこの際置いておくとしても――そんな者だからこそ、生というものがどれほど儚くどれほど貴重であるか――身をもって知っているからこそ、永遠とかいう本当は存在しない甘い幻に縋ってしまうのだ」
熱く語ったのち、ひとつの心当たりが浮上する。
「――あ、いや。ここまで言っておいて何だが、もしかしたら俺のせいかもしれない」
「どういうことだい?」
「紗絵の自我が一体いつから沙羅の中にいたのかは分からないが、俺は昨日自殺をしたのだ。だが死にきれなかった。しかもそれを紗絵に見られてしまった。だから紗絵は俺を繋ぎ止めようと永遠というものに拘ったのかもしれない」
「自殺って、君はまたどうしてそんなことを」
「この世に生きる希望を見出せなくなった、ただそれだけのことさ。いや、俺は生きていてはいけない人間だと本気で思ったんだよその時は」
「その時は、ということは、今はそう思っていないということでいいんだな」
「それは――どうだろうな」
絢哉が濁せば、そこしっかりと断言するところだぜ、と雪彦は苦笑する。
「その話、もう少し詳しく聞かせてはくれないか。話したくないことであろうが」
「別にそう気を遣う必要はないぜ。慣れ親しんだ希死念慮だ。だが詳しく語ったところで面白くないだろうから端的に言うが、罪悪感に押し潰されてしまったのだ」
「それは、君が恋人を死なせてしまったと、そう思い込んでいるからか」
「それは当然そうなのだが――日記を見たのだ」
「ほう、日記かね」
「ああ。紗絵は生前、毎日欠かすことなく日記をつけていたのだ。俺がここに来る前に、それを紗絵の叔母である眞緒さんから託されたんだが、やはり見るには勇気が必要で――初めて開くことができたのは一昨日になってからだったよ。俺がこの里に来たのだって、死者の声を降ろしてくれるという祭りがあると聞いたのもあったが――ここには温泉もあるというし、ゆっくり休めと眞緒さんから勧められたのもあるんだ」
「眞緒さんか。懐かしいな」
「面識があるのかい」
「そりゃ女将さんの姉妹だからね。昔からよくしてもらったものさ」
「姉妹ねえ。詳しくは知らないが眞緒さんのほうが結構年上なんだろ?」
「いいや、碧さんの方が二つ三つ先に生まれたと思ったぜ」
「本当か?」
「本当だよ。何をそう驚いているのだ」
「見た目で、そのように感じたのだよ」
あまり大きな声で言うことではないが、と絢哉が声を潜めて言えば、まあそう思うのも無理はないだろう、と雪彦は同調する。
「まあ、あの二人にも色々あったのだ。人生というのは、全くもってままならないものだからな。失敬、そんな話などいいのだ。君が日記を長らく見ずにいたのはどうしてだ」
「分かりきったことを聞かないでくれ。怖かったんだよ」
「怖い? 怖いというのは」
「そりゃそうさ。俺は紗絵を死なせた極悪人だぜ。そして世間一般的には、日記というのは誰に宛てるでもなく自分の思いを好き勝手に綴るものだろう。目的こそ、文章の練習であったり思考の整理であったりと様々だろうが――ともすれば俺に対する恨み言が書かれているものとばかり思ったのだ」
絢哉は目を瞑り、乱れた思考を整える。どうにも紗絵が絡むと冷静でいられない。
「君からすればそう思うのは自然だろうな。それで実際のところはどうだったんだい?」
「え?」
「え、じゃないよ。読んだのは君だろう。そこには、君が自殺せざるを得ないほどに激烈かつ壮絶な罵詈雑言が並び立ててあったのかね?」
はて、どうだったのか、と絢哉は自問する。最終年の記述が自殺の引き鉄となったのは紛れもない事実である。しかしその内容は、雪彦が言うような辛辣な文言であったかといえば、それは否である。決してそんなことはない。
本心までは断言しかねるが、仮令誰の目にも触れぬ日記の中だとしても、紗絵は他人を悪しきように罵るような人物ではないことを絢哉は思い出す。もっと言えば、己があの時旅館を飛び出したのは自身が生み出した自己嫌悪のせいでしかない。
「いや、違う。紗絵はそんなことを書くような人間じゃない。勿論、俺の理想や願望が混じっていることは否定しないが、俺が死のうとしたのはあくまで俺のせいだ」
「つまり、君への悪しき言葉はなかったわけか」
「そうだな。そう受け取ってもらって構わない」
絢哉が肯定すれば、雪彦は問診中の医師らしい顔で頷く。
ここにきて絢哉は、己が雪彦の術中――認知行動療法ないし心理相談の只中であることに気付く。だが、それでも悪い気はしなかった。
――何だよこの野郎。心療内科は専門じゃないとか抜かしたくせに。
絢哉は内心毒吐くが、医師ではなく友として、聞きにくいことにもあえて踏み込まんとするその姿勢に好感を抱いた。そこには彼自身の矜持がありありと察せられ、尊敬に値すると思った。
――それにしても。
己の認知と客観的事実には、未だに大きな格差が横たわっているらしい。絢哉は唇を歪めたのち、煙草の灰を落とした。ついでに唇に付着した葉片を拭い取る。
自己の認識が当てにならず、このように他人の矯正に頼らなければならないなら、それはもう立派な精神病患者ではないか。俺は、本当に今この場所に生きていると言えるのだろうか。ここいる己という存在は、生きていると思い込んでいるだけの生き霊か何かではないのか。本当の渡会絢哉という人間は、火の見櫓から飛んだ時に――否、崖から落ちた時にはもう死んでいたのではないか――。
なあ、雪彦。
俺は本当に生きているのだろうか。
絢哉はそう尋ねようとしたが。
――止せよ、くだらねえ。
雪彦を友と思っているからこそ、言いはしなかった。
これ以上情けない姿を晒したくはなかった。
それ以前の問題として。
俺の人生は、紗絵が死んだあの日にもう終わっていたのだ。今の俺は、渡会絢哉という記憶を持っただけの人形でしかない。最初から分かり切っていたことである。
――嗚呼、こんな無駄なことばかり考えているから認知も歪んでしまうのだ。
精神を蝕む自己嫌悪を宥めるために、絢哉は噎せる寸前まで煙草の煙を肺の奥深くまで吸い込んでから吐き出すが――やはり期待していた酩酊は訪れもせず、意識はどこまでも明瞭を保っていた。
・差し向けられていると思ったことはあるかね?
・その人とずっと一緒にいられる方法を考えている
・女将さんの方が幾つか年上




