明日お家で何しよう
色々な謎解きが終わったあとも、続くのはいつもと変わらない日常だった。
「メイ、おはよう」
「おはよう、マヨヒガさん。すっかり冬だね」
仕事の繁忙期を乗り越え、気がつくとカレンダーは12月に食い込んでいた。
今日は久しぶりに取った長め有給の一日目。
(休みの一日目にふさわしい、なんていい天気)
二階から階段を駆け下り一階へ。つん、と鼻の先が冷たくなるような、そんな空気を吸い込んで私は伸びをする。
いつも通り歯を磨き、冷たい水で顔を洗い、服を着替えて、廊下の棚を見る。
そこには、相変わらずちょこんと白い像が座っていた。
「前から思ってたんだけど、この像って、マヨヒガさんのもう一つの目と耳なんでしょう?」
私は背を伸ばし、その像を手に取る。
元のところに戻すのはかわいそうで、かといって自室に置くのも恥ずかしく、結局廊下の真ん中に守り神のように置いてあった。
かつての全盛期、彼はこの像を媒介に風景を見ることができると言っていた。
「でもどこまでマヨヒガさんの声が聞こえるんだろう。例えば庭から先、町に出ても聞こえるのかな、見えるのかな」
「試したことはないが……」
「じゃあ、試そう」
戸惑うようなマヨヒガさんの声が、家と鍾馗の像、両方から聞こえた。
「私と、いろんなことを試せばいいよ」
像をカバンにしまい込み、私は玄関へと駆け出す。
幸い、今日は美しく晴れた散歩日和の日だ。
「おはよう、泉谷ちゃん」
神社の横を通り過ぎ、バス停の見える道に出た瞬間。不意に横から声がかかる。そんな生活にもすっかり慣れてしまった。
「パンですか?」
振り返れば八百屋のおばあさん。彼女は茶色の袋から、大きなフランスパンを見せつけて、歯のない口で笑う。
「スーパーの横に、パン屋ができてんのよ。焼き立てだよ。今のうち。ほら、さっさといきな。バター付けて食べると最高だから」
彼女が指先で割ったパンからは、ほかほかと湯気が上がる。まるで待ちきれないように、彼女はそれだけ言い捨てるとさっさと八百屋の建物に吸い込まれた。
残ったのは、パンの湯気と甘い残り香だけ。
「なんであの年代の人って、パンが好きなんだろうね」
そういえば佐々木さんもパンが好きだったようで、マヨヒガさんが覚えていたのは数々のパンメニューだった。
目玉焼きを載せた食パン。ジャムとピーナッツバターを挟み込んだサンドイッチに、スクランブルエッグをきゅうきゅう載せたホットドッグ。
そんなことを考えていたせいかどうか、私の足は気付くとスーパーの前にいた。
古びたスーパーの隣には、この古い町には似合わない、可愛い赤のオーニングテントが見える。童話の世界から出てきたようなチェックのそのテントの下には、焼き立てパンのこぱん。という看板がかかる。
「……マヨヒガさん、見える? 新しいお店」
冷たい像に耳を押し付けると、遠くにかすかな声が聞こえる気がする。
「ゆっくり買い物をしてみるから、見えたら教えてね」
小麦の香りに包まれた店内で迷い、結局私は音が立つほど焼きたてのフランスパンを手にして店の外に出る。少しの間を置いて、ようやく鍾馗の像が揺れた。
「ああ、少し見えた……気が……する」
「ほんと?」
「にお……いも」
確かに像からはマヨヒガさんの声がする。思わず小道に滑り込み、像を耳に押し付ける。
「ほんとに聞こえる?」
「……メイ」
まるで電波の悪い通話のようだ。カスカスと、音が途切れて聞こえづらい。
それでもかすか遠くから、マヨヒガさんの声が確かに聞こえたので、私は途端に嬉しくなってしまう。
「じゃあ、そうだ。このまま公園とか……もう少し先まで……」
つい先へ、まだ先へ。私の足は段々と速くなる。葉っぱを蹴飛ばし散歩中の人を追い越して、やがてバス停ひとつ、向こうの道までたどり着く。
ここをもう少し進めば、駅だ。
土曜日らしく人のいない道を見つめ、私は大きく伸びをした。
「頑張って先に行ってみよう。天気がいいから、きっと見えるよ。そしたらさ、今度は電車にのって私の会社まで。そこまでいけば、あとはどこでもいけるよ」
「メ……イ」
進みかけると、像が震えた。しかし気にせず、私は冷たい道を行く。
気がつけば、ハロウインが終わり、本格的な冬が来て、木々が枯れ、あれほど熱を持っていたアスファルトは冷たくなった。
マヨヒガさんと出会って、もう半年も経ってしまった。
「どうしたの。へいきだよ。人も少ないし、誰も気にしてない。せっかくだから試そう。どこまでいけるのか」
手にしたパンが冷えていく。心臓がドキドキと音をたてた。それでも私は笑顔を浮かべ、明るい声を出す。
昔から、作り笑顔と明るい声は得意だ。私は心と顔の感情を真逆にできる。最後には祖母さえも、私の嘘を見抜けなかった。
昔から、感情を押し込むのは得意だ。
「メイ」
ふ、とマヨヒガさんがはっきりと声をだす。
「私に、その声は通用しない」
まるですぐ側に彼がいるような、そんな音量で。
「帰ろう……メイ」
「でも」
「戻っておいで、私のところに」
体を持たないはずの彼に、腕を引かれた。そんな気がした。
パンを抱え直して、私は来た道を戻っていく。
祖母の家は小学校から角をニ回だけ曲がれば良かったが、この町は狭いので角を何度も曲がらないと戻ることができない。
しかし角を曲がるたび、段々とマヨヒガさんに近づいていく。その空気がたまらなく楽しいことを、私はこの半年で知った。
そして、マヨヒガさんは私だけのものではないと、この数日で知ってしまった。
「メイは……何を考えている?」
空気が膝を冷たくする。これほど日差しは温かいのに、体が芯から冷えていた。
「いつか、南の島……へ行こうと思ったの。マヨヒガさんを、連れて」
急かされて、私はようやく口を開く。
「島……に?」
「そう、あの人のもとに戻してあげようと、思ったの。このまま遠くまで行けるようになれば、いつか、マヨヒガさんを連れて、島に行けるって」
あの、きれいな青の……佐々木さんが最後を過ごした、その美しい島に。
彼女の愛した最後の風景を彼に見せるのだ。きっと彼女も喜ぶだろう。
そこに行って、その風景をマヨヒガさんに見せたい。それが私の思いつきだった。
「きっとマヨヒガさんはその場所を気に入るから、そうなれば」
かさかさに乾いた像を抱きしめて、私は道を曲がる。
まもなく、神社が見える。そこまでくれば、もうマヨヒガさんまですぐだ。
「残りたいと言うなら、そこに像を置いていこうと、思って」
あたたかいその場所に、私は笑顔で彼を置いて帰るのだ。帰ってくればもうここで彼の声が聞こえなくなるかもしれない。
(それでもマヨヒガさんが喜ぶなら)
それで良かった。
そう決まれば、実行は一日でも早い方がいい。私の執着が寂しさに負けてしまう前に。
「家は運べないけれど、像は運べるじゃない? だから訓練をして、頑張ってみようって」
スピード違反の車が、目の前を通り過ぎ、私は足を停める。
こんな強い風に晒されても、マヨヒガさんを抱きしめていると不思議と心強かった。心が温かい。
マヨヒガさんを彼女に返して、私は暖かさを失ったあの家に戻る。ぞっとするほど恐ろしい未来だ。
……しかし彼が望めばそうするしかない。寂しさを振り払い、像を握りしめる。
「多分、それがいいんだとおもう。私は……」
「ほんとうの……ことを」
角を曲がるたび、マヨヒガさんの声が鮮明になった。
「メイに……つたえ……たい……」
一歩進むごとに、マヨヒガさんの声がはっきりと聞こえる。
「マヨヒガさん?」
「はじめて……メイを見た時」
バス停を曲がり、神社の前に差し掛かると、青い屋根のマヨヒガさんが鎮守の森の向こうに見える。屋根が見えると、声がまた明瞭になった。
「私は、メイを見た時、ずっと昔、雷に打たれたときのことを思い出した」
「雷?」
「大昔、庭に落ちたんだよ。今度探してみるといい、地面にきっと黒いあとが残っている」
柔らかく落ち着く声だ。私は最初からこの声が好きだった。
「……驚いた。ひどく地面が震えてね。崩れるかと思った。まあ、それくらい、私は、メイを見て驚いた」
枯れた雑草を踏み抜いて、私は庭の真ん中に立つ。そうするとマヨヒガさんの全貌が見える。
青い屋根。剥げかけた壁。縁側のガラスの向こうに見えるのは、磨かれた雪見障子の白い影。
ほれぼれするほど美しい、立ち姿。
この家の台所で、私は初めて彼に声をかけられた。恐る恐る、怯えるように。思い返してみれば、あの時からマヨヒガさんの声は優しかった。
「なんで、驚いたの?」
マヨヒガさんの姿を見るうちに私の心が凪いでいく。
マヨヒガさんの低く柔らかい声が、私の腕の中から響いた。玄関の前に立つと、声はますます大きく響く。
「……初めてメイを見た時、香りがした」
「香り?」
「古い家の、私と同類の香りだ。メイはその同類に、守られて来た子だとそう分かった。だから、たまらなくなって、声をかけたんだ」
ふと、鼻の奥に古い家の香りがした。それは祖母が大事に守り、そしてあっけなく壊れたあの土地の上には、もう誰かが新しい家を建てて住んでいる。
梅の香りもカレーの香りも綺麗に消えて、何でもない町の風景になっている。
それが悔しくて、それが悲しくて、頑なに私はその土地から離れた。
「私が……あの家に、守られてた……?」
「本当は、声をかけるつもりはなかった、メイ。私はもう二度と、人の子に触れてはいけない。私と人は異なるものだ。きっと不幸にしてしまう。あの人が去って、私はそう思っていたんだ。最後まで一緒に過ごして欲しいなんて、度の過ぎた願いを持つことなど、考えてもいなかった」
隣の神社からゆるやかな鈴の音が鳴る。冬の鋭い風が吹いて鎮守の森が揺れる。
庭の枯れた雑草も音を立てる。これから寂しい冬がやってくる、そんな音。
「なぜだろうか。メイには私と同種の寂しさが見えた」
玄関を、地面を、壁を通じてマヨヒガさんの声が響く。私は何度も玄関の鍵を地面に落とし、その場に座り込む。
笑顔がうまく作れない。声がうまく出てこない。こんな経験は初めてだ。
「マヨヒガさん、わた……私」
「……わがままを許されるなら、私はいつか、南の島ではなく、メイの育った家があった場所を見てみたい」
「でも、あの……家は、もう」
「家はなくなっても土地には痕跡は残る。香りや、音や、思い出が。きっと、メイを守ってきたその家の痕跡を感じて、私は悔しくおもうだろうし、今、メイを守っていることを誇りに思うだろう」
「マヨヒガさ……」
「メイ。私はね、知らない場所に置いてほしいなどと思わないよ」
私はマヨヒガさんの声を聞きながら、目を閉じた。そうすると、まるで繭に包まれているようだ。
そうだ。私ははじめてここに足を踏み入れたその瞬間から、なにかに守られている。そんな気がしたのだ。
「メイ。いっしょに冬を過ごそう」
まるで熱に浮かされるように、私は頷いた。頷くのだけで精一杯だった。
しっかりと鍵を回して、玄関に手をかける。
「……ただいま、マヨヒガさん」
「おかえり、メイ」
心地いいマヨヒガさんの声を聞きながら、私は玄関の扉を開けた。
息を吸い込み、まっすぐに部屋の中を見つめる。
姿はないが、確かにそこに彼はいる。
ここから見る風景が好きだ。
温かい床も、古い壁も、たまらなく、愛おしい。
台所の床に腰を下ろし、大の字に寝転がり、煤けた天井を。乾いた柱を。
「今日はお家で美味しいものを作ろう。私が元気になる儀式……パンがあるから、美味しいシチューがいいな。じっくり煮込んで……時間のかかるやつ。で、その間は何をしよう」
「ではメイが作っている間、私の話をしようか、覚えている限り、すべてのことを」
テーブルにおいたパンから、小麦の香りが広がって床に降り落ちてきた。
それは学校を休んだ日に香った、朝ごはんのパンの香りだ。東京のアパート、一人で食べたパンの香りだ。
思い出の香りが、新しい思い出に上塗りされていく。
「じゃあ、マヨヒガさん、明日はお家で何しよう。春は、夏は……秋は、来年は、その次の、ずっと先は」
窓から差し込む日差しが、私の足元に光溜まりを作る。
マヨヒガさんの窓を光が通って床に光溜まりが生まれる。その風景が私は何より好きだった。
「メイの好きなように……心配しなくても、私はずっと、ここにいる」
そして、彼のこの声が好きだった。
暖かなその日差しを受けながら、私は床に柔らかく口づけた。
「うん……私も、ここにいる」
近い将来に起きるはずの悲しい未来は消え去って、私に残されたのは楽しい今日と明るい明日だけである。




