後編
あの日、森で男と別れた女は、一度はそこを離れたが、魔物の残党に襲われているという村人に助けを求められ、そこへ向かってしまったのだ。
そして、人々を逃がしている間に魔物に殺されたのだ。
村の人々は彼女を村の墓地に埋葬した。
僧侶の祈りの言葉のせいでここに縛り付けられ、さらにこの世の未練で動けなくなったのだ。
女もまたここで男を待ち続けていたのだった。
真実を告げ終えると、女の体は、さらにぼんやりと透けて薄くなった。
「もう私を待たなくていいの。誰か他の人を探して、そして幸せになって…」
背景にいまにも溶け込み消えてしまいそうな女の姿に男は焦った。
「エイラ!」
「やっと心残りなく眠ることが出来る。良かった……」
数百年も前に失われた命はもう蘇らせることは出来ない。
死霊を操る魔法も男は持っていなかった。
この世に、自分の傍に留めることが出来ないかと考えたが、もう何もかも手遅れであったのだ。
「エイラ、俺は待っている。ずっと待っている。これからもずっとあそこで待っている。もし、もしもまた生まれ変わったら、どうかその時は俺に会いに来てくれ」
男は叫んだ。表情さえ見えなくなった女に男の言葉が届いたのかどうかさえわからなかった。
男の手は宙を掴み、彼女がそこにいたわずかな痕跡にすら触れることはできなかった。
数百年待った女の姿はほんの数秒の再会で消えてしまったのだった。
まるで夢でも見ていたかのように、そこには黒々とした森の景色ばかりが広がっていた。
「待っている……」
力無くつぶやいた男は、残りの9度目の人生をどうやって生きたらいいのかわからなかった。
毎年約束の日、約束の場所で彼女に会えることを願い待ち続ける。
それこそが男の生きる意味であったからだ。
この人生でもう会える可能性がないのであれば、次があるかどうかもわからない。
9度転生した男であったが、10度目の転生がある保証はどこにもなかったのである。
魂の抜け殻のように過ごしていた男であったが、やはり数百年待ったのだ。
諦めきれるわけがなかった。
もし次があるとしたら、そのための準備を今のうちにしようと決意した。
男は約束の場所と決めた古の廃城を購入した。
国の所有地であったため、その購入資金も莫大であったが、手続きも煩雑であった。
だが、自分が死んだ後も勇者がそこを継承できるように魔法の契約書も作成したのだった。
廃城を改築し、男はそこに一人で住んだ。
残りの人生は勇者として生きるしかなかった。
助けを求められれば飛んでいき、狂暴な魔物が出れば倒しに行った。
次の人生で女がどんな形で現れるかわからない。
相変わらずまだ若い男に王からも貴族たちからも縁談が舞い込んだが、男は孤独を好んだ。
約束された女は既にいるのだ。
ただこの世にいないだけだ。
そうして数年が過ぎた。
時折、女が葬られていた森の墓地へ足を向けた。
そこは男の手によって整備され、開けた墓地になっていた。
墓石も磨かれ、柵も直された。
木々は抜かれ、あるいは移植され、草木の手入れもされていた。
女が数百年過ごしたその片隅に花を植えた。
危険な森とされてきたが、幽霊の姿も消え、勇者と呼ばれる男の出入りがあれば安心な森であった。
人々の出入りも増え、新人冒険者の狩場がまた増えた。
男はそこで女の好きだったものをあとからあとから思い出した。
もうそこに女の魂は残っていなかったとしても、女が孤独に待ち続けた年月を想った。
男以上に待ち続けたに違いなかった。
転生することも無く、一か所に縛られ、たった一言男に告げるためだけに待ち続けた女の苦痛を救えなかったことを心から悔いた。
一方で男は歳を重ねても、いまだに世界で唯一の勇者であり、人々に頼りにされる存在としてあり続けた。
__
それからまた数年が経った。
それはある寒い夜であった。
男は屋敷の扉を叩く音で目を覚ました。
暖炉の火はまだ燻り、就寝してからまだ間もないことを告げていた。
男はまた魔物が出たのかと枕元の剣をつかみ取り階下におりた。
扉を開けて、一瞬辺りを見回した。
目の前には誰もいなかったからだ。
だが、すぐに足元の小さな子供に気が付いた。
そこには付き添いもなくたった一人で立つ女の子の姿があった。
不安そうに大きな目を潤ませて男を見上げていた。
最悪の事態を想定した。
親もなくこんな夜中に子供が一人で男の家を訪ねてくる状況とは、村が全滅に近いほどの被害を受け、一人で逃げてくるしかなかったということだ。
女の子の服も汚れ、泥だらけであった。
その大きな目からついに涙があふれ、頬を伝って落ちた。
「どうした?どこが襲われた?」
だが、女の子は首を振った。そして突然飛びつくように男の膝に抱きついた。
「レイン、私よ。エイラよ。体はこんなに小さいけど中身は大人なの。ねえ、お願い信じて」
目を丸くした男は一瞬かたまり、それからゆっくりその小さな体を見下ろした。
腕の下に手をさしこみ、持ち上げてみれば羽のように軽く、まるで小リスのように柔らかく温かい。子供の体であった。
腕に抱き上げ顔を覗き込む。
「エイラ?」
名前を呼べばはにかんだような柔らかな彼女の笑顔がそこにあった。
それは確かに数百年の時をさかのぼって蘇る、彼女の微笑みであったのだ。
そしてそれよりも、もっと確かな魂の結びつきを感じていた。
「結婚できる年齢まで待てなかったの」
少女は言った。
確かに、これで恋人同士に戻るのは無理がある。
だが、もう手放す気はなかった。
3度別れたのだ。
数百年待ち続けたのだ。
この場所で待ち続け、やっと彼女の方からやってきてくれたのだ。
「ここで待てばいい。俺はもう数百年待った。あと10年やそこらなんということもない」
抱き上げた少女の目も同じことを告げていた。
一緒にいられるのなら、他には何もいらないと。
男は熱く口づけようとして、その動きを止め、少女の頬とおでこに唇を押し当てた。
その時までは男女の口づけはお預けであった。
__
その丘に花が植えられたのは数百年の間で初めてであった。
その日のために、男は土を耕し、女は花壇を作った。
豊かな土地でもなかったが、勇者が耕して手入れをしたのだ。
その土壌管理は完璧であった。
朽ち落ちた城の残骸は再利用されて納屋になっていた。
今丘の上には新しい勇者夫婦に相応しい豪華な屋敷が建っている。
そして今日は付近の村人から国王や国の軍隊まで集まってお祝いであった。
結婚式の鐘がならされ、男は数百年ぶりの約束を果たすことになったのだ。
男は純白のドレスに身を包んだ愛らしい少女と腕を組み、降り注ぐ花びらの中で昔誓った言葉を思い出していた。
廃城の朽ちた石壁の前で、少女であったエイラの頬にキスをしたのだ。
『大人になったらいっしょになろう』
『うん。絶対よ?』
小さな手を繋ぎ合い、誓い合った幼い愛。
数百年の時を経て、9度の転生を経て、二人は今再びその地で向かい合っていた。
人々に祝福されながら、幸せの花が舞い落ちるその約束の丘で、男はその誓いをもう一度口にした。
「ずっと一緒にいよう」
「ええ。絶対よ?」
重なった唇は甘くそして少し塩辛かったのだった。
幸福の涙が女の頬を伝っていた。
男の年齢にしては少し幼い妻であったが、それは勇者の妻であるから、それぐらいの特権はあたりまえだろうと思われた。
宴は三日間続いたが、男がかつて勇者として救った人々からのお祝いやその品々がそれからも続々と届いた。
そうして落ち着いた新婚生活が送れるようになったのは一年後のことであった。
彼らが幸せに暮らしたことは間違いないが、その後、10度目の転生があったかどうかは誰も知らない。
ただ、次の勇者が誕生したのはそれから数百年も後であったと歴史は語る。
その丘には、今も婚礼の日に咲いた色とりどりの花々が咲き乱れるのだという。
完。
拙い作品を読んでくださりありがとうございました。