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少女海賊シャーロットが死んだ日  作者: NOTAROU
Chapter 1
13/13

13 : シスター・テリーザ

 大戦槌を薙ぎ払い、猛獣のごとく暴れ尽くした男はあっけなく地面に伏す。


 猫はその姿を目で追いかけようとして叶わなかった。タラボウ軍の戦士たちは崩れた丸木柵を乗り越え、そのたくさんの脚で男の体を踏みしめたのだろう。人だかりに隠れて彼の姿が見えなくなった。


「あ、あの人……」


 怒号が響き渡り空気をぶるりと揺らす。すぐに村の戦士たちと侵入者たちがぶつかり、激しい殺し合いの火蓋が切って落とされた。


 若者のかん高い悲鳴。雄叫びに包まれる場。


 そこに整然とした戦列などありはしない。誰もかれも目の前の敵を槌で打ちのめすことに躊躇なくおのれの人生を投じていた。その場の男たちはみな興奮に眼球を前へ浮き上がらせ、それが真っ赤に血走っている。かち割った対敵の頭蓋からこぼれた脳漿と鮮血を浴びて裸の上半身を濡らしている。そのさまはかがり火に照らし出され、さながら戦化粧のよう。


 黒髪の少女は目を見開いたまま。柵のそばのファレ小屋の陰、夜闇に隠れて歯根をかちかち鳴らし、猫は動けなくなっていた。なぜか腰の力が入らず立ち上がれないのだ。


「はぁっ、はっ、はぁっ」息が上がって胸が苦しくなってくる。


 両軍の鉄砲も盛大に火を噴き始める。やぐらの上から村の射手が侵入者を撃ち下ろし、柵を越えて侵入してきた戦士たちの動きを止めていく。撃たれた者は力なく呻き声をあげて絶望に瞳を染め息絶える。気丈に起き上がる者も憤怒の形相を留めたまま、眉間にボール状の弾痕を晒してもう二度と立つことがなくなる。


 その結末は村の戦士たちにも同じくして襲い掛かった。


「どうして、立てないのよ!」


 ほんのすぐそばで流れ弾が砕け散り、少女の頰を薄く切る。「くそっ」


 顔を上げた猫は、その光景に目が吸い寄せられた。


 タラボウ軍の戦士たちがいったん下がらせていた鉄砲兵を前に出している。それらに眼前の敵へ向け、一斉に打ち掛けさせたのだ。もはや外しようのない間合い。


 柵の攻防は早々に決着しようとしていた。折り重なって倒れた守衛の戦士たちは侵入者に蹴り殺され、一気にその戦力を失う。王への忠誠を示す朱色の首飾り――パンダナスの干し果実を繋いだ優雅なもの――は踏みつけられていき、代わりに止めどなく増えていくのはサメの歯を並べたエリマキ状の首輪を付けた男たち、タラボウ軍だ。


 その時、猫の隣に誰かが立った。


「テリーザ!」猫は大声をあげそうになった。


「よかった気がついたのね」


「マリー、すぐに外へ逃げなさい」テリーザは白衣を整え、猫を見つめていた。その中佐と同じ灰がかった蒼色の目は、意外に激情を宿してはいない。


「早くして。殺されるわよ」


「立てない。力が入らないの」猫はふるふると首を横に振った。


「こんな時に腰を抜かすだなんて。立てないなら這って逃げるのよ」


 テリーザは呆れ顔を猫に向けている。朝支度の遅い猫を急かそうとしている――と言ってもおかしくない、彼女がよく猫へ向けるカオだった。猫は少しだけ落ち着いてきた。手足を不恰好に動かしてなんとか木柵の隙間に頭を突っ込んだ猫は、そのときはっとした。


「ひとりで逃げなさい。まっすぐ尾根を越えてアピアへ」


「テリーザは?なんで逃げないの」猫は小屋の陰から出て行こうとするテリーザの腕をすんでのところで捕まえた。


「行っちゃだめ!見つかっちゃうよ」


「離してよ。うっとおしい」振り返ったテリーザは口を尖らせる。その透き通ったような声は清楚で凛とした大人の女性のもの、というよりずいぶん幼げな口調に乗せられていた。「せっかく使い道ができたところなのにさ。邪魔しないで」


「使い道って、なんの?」


 テリーザはくしゃくしゃの赤毛を払い、胸ポケットからロザリオ(数珠)を取り出してキスをした。


「使い捨ててやるんだ」


 瞬間、猫の手は振りほどかれた。「私のくそったれの――、汚れきったこの命を」


 テリーザは駆け出して、死体転がる広場へ出ていった。猫は呆然とそれを見つめる。


「な、なによ。何しようってのよ?」


『捕まれば、酷いことに』死んだツラファレ(村長助役)の男の言葉を思い出し、猫は恐ろしい数分後の未来を想像した。


「やめて!戻ってきてよ!」


 住居を槌で打ち壊していたタラボウ軍の戦士たちは突如現れた修道女を取り囲み、胡乱な目を向けていた。小柄なテリーザは数人の屈強な男たちに囲まれてまるで子供のようだった。何か彼女が戦士たちに島の言葉で話しかけ、それに対してひときわ巨躯の戦士ひとりが唾を飛ばして捲し立てている。


 激論が交わされているらしかった。


 テリーザの相手の戦士はその場の司令官らしく裸身にたくさんの装飾を身に纏い、(いかり)のような形をした巨大な槌を片手に持つ。激しながらも手で他の戦士たちを制し、略奪に走ろうとする若い部下たちを威圧する。


 しばらくしてテリーザは、ぴくぴくと顎を痙攣させている倒れたサメ歯首環の戦士に近寄り、ポケットから取り出した注射を打った。取り囲む戦士たちの真ん中で彼女はなお喋り続けている。


「攻めてきた戦士を助けようとするつもり……?」猫は食い入るようにその姿をこっそりと見続けた。


 テリーザは倒れた男と、そして混沌とした村のなかで固まる女子供の集団をゆっくりと交互に指差した。白衣のポケットからまた一本注射器を取り出して巨躯の戦士の前に掲げる。「そうか。村人と怪我人の手当てを天秤にかけて……、取引をするのね」


 猫がほっとしたその時、テリーザの手から注射器がもぎ取られる。戦士は返す手で彼女の赤毛髪を引っ張り、地面に叩き伏せた。その小さな体を無表情のまましたたかに蹴りつける。よろよろ起き上がろうとした彼女の白衣の襟を掴み上げ、短銃をその顎に押し当てる。


 テリーザは戦士長の逆鱗に触れたらしく、彼は部下たちに何か叫んだ。すると雄叫びがして大勢の戦士がほうぼうの家々にぱっと散る。


 そのやり取りを遠巻きにしていた戦士たちもテリーザから興味を失ったと見え、かがり火を倒して家々燃やし始めた。戦場はいまや村の中心部の円形広場へと移り、いたるところで殺戮が繰り広げられている。テリーザの助命交渉も無意味と化し、銃口を突き付けられたまま彼女は村の外へ連れ出されようとしていた。


 それでも。


「マリー!まだそこで聞いているんでしょう?」



 テリーザは体を掴まれたままデタラメな方向へ叫んだ。口の血を手で拭って星の降りそうな夜空を見上げて無茶苦茶に声を張った。「今夜のことは忘れなさいッ!」


 短い悲鳴。テリーザは再び引き倒され、踏みつけられながらも言葉を続けた。


「余計なことを考えては、いけない。み、見なかったことにして帰るのよ」


 苦しげなテリーザを見ていられずに猫は思わず目を逸らした。すると猫のすぐ近くで火が爆ぜる音がして、陰にしていた小屋が勢いよく燃え始める。立ち上がる火柱を前に、猫は今度こそ固まった。


「これ以上ここにいてはだめ」諦めず戦場の片隅でテリーザはなお絞り出すように声を上げ続けた。「私のように、あなたも業を背負うことになってしまう」


 ――なによ、いっつも意味の分からないことばかり言って。


 猫はもう、炎をとろんとした目で見つめていた。腕のうぶ毛が焼けていく感覚をどこか人ごとに思っていた。追い回され、抵抗のすえ棍棒で打ち倒された女の悲鳴も耳に入らない。それが本物だと受け入れることを頭が拒んでいるのだ。


(ごう)、かぁ」


 炎だけが確かにそこにあった。燃え盛り、真っ黒になって家々が崩れていく。柱が倒れ、猫は逃げ場を失っていく。文字通り身を焦がす熱気と白煙に猫は酔っていた。けれどその目は炎をとらえて離さなかった。地面を舐める炎がふたつに割れたとき、そこにいたのはもうひとりの緑目の少女だ。


 ――そうか。あのときも火に焼かれたんだ。


 現れた少女の足元に猫はふたつの黒塊を認めた。倒壊した石柱に挟まれ、炎に巻かれて既に事切れたそれに見覚えがあった。


『この赤ガラスと呼ばれた海賊団が後に金塊強奪事件を引き起こすわけだが、それ以前にメルボルンの銀行を襲撃している。今から12年前のことだ』


 感情を排除したロイド中佐の平たい声がはっきりと頭の中で再生される。


『これも赤ガラスらしい残虐で計画的な犯行として記録されている。銀行のロビーに爆薬を仕掛けて行員や客を吹き飛ばし、そこに消火隊と偽った水兵服の集団が押しかけて――』


 ――思い、出した。


「怖い……!いやだッ!」


 猫は頭を抱えて蹲った。「いやだよ。そんなお父さんが、お母さんが……」


 真っ黒に炭化しかかったふたつの焼死体。それはかつて現実として猫が直面し、記憶から消し去った幼き日の惨劇だった。


「もう、たくさん!」猫は叫んだ。黒髪のなかに爪を立てて自傷する。彼女はもうすっかり何も見えなくなっていた。見たくもなかった。



「助けてください。中佐ぁ」



 ぱしん、と頬を叩かれた。不意のことだった。


 驚いて顔を上げても猫のそばに誰もいない。不思議に視界がひらけ、目に入ったものは燃え盛るファレ小屋の倒れ込んでくる(はり)だった。すんでのところで猫は四つ足で飛び退いた。火の粉がぶわりと舞い上がる。


「……あれ?なんで」


 腰が軽くなっていた。もうまぼろしは見なかった。猫は弾けるように立ち上がった。


 遠くでテリーザが巨躯の戦士に羽交い締めにされ、銃口を突きつけられている。いっぽう村内での戦闘はもはや残敵掃討へと移っていた。ある者は女を捕まえ、ある者は子供に槌を振っていた。残った村方の戦士たちはラウペパ王に率いられて集団で戦っている。彼らは残弾尽きたライフルをとっくに捨てて、数で勝る侵攻部隊の主力と戦槌を打ち合わせ、悲壮な抵抗を見せている。


 大火に包まれる村のなかを逃げ惑う人々。あっけなくすべてが終わりに向かっていた。


 がさりと物音がして猫が振り返ると、唯一の逃げ道だった柵の隙間穴から人が入ってくるところだった。竦む少女を前に、ぬるりと立ち上がった戦士はまだ若い男だった。族長タラボウに従う首環を着け、敵の姿に表情を硬くする。


パパラギ(白人ども)だ』彼は島の言葉で呟いた。


「あの、ごめんなさい。言葉はわからないわ」


 後ずさりする猫はもはや退路を失くしたことを知って、鼓動が早くなっていた。テリーザの言うことを聞いて這ってでも逃げていれば、と一瞬頭をよぎった。けれどもう遅い。


『母を殺された10年の恨みを知れ。村を焼いた黒船を沈めることは叶わないが、今ここでその同族を屠りせめてもの手向けとしてやるッ!』


 若い戦士は顔を歪めて雄叫びをあげ、猫のひたいを貫かんと銛を突き出した。


「何すんのよ!」必死にその攻撃を避けるも相手は追撃を止めない。猫は転びながら円形広場の方へ逃げた。そしてだしぬけに立ち止まって振り返り、追いかけてきた若い戦士を睨みつける。そのしなやかな脚は銛の切れ先を蹴り飛ばして武器を使い物にならなくした。激怒する戦士は少女を押し倒し、細い首に手をかける――。


「このッ!」銃声が轟く。


 猫は荒く息をした。動かなくなった男の体を払いのけふたたび立ち上がった。「そうだ、弾を1発ずつ頭に当てればいいや」


 黒の修道服のおなかの辺りは男の血で真っ赤に染まり、その大きな緑の目が据わった。


「そうすれば1発につきひとり倒せる。簡単じゃん。ただの的当てなんだから」


 躊躇いなく中佐のリボルバーを構え、炊事場で若い娘にのしかかる壮年戦士の後頭部を撃ち抜いた。驚いた目を向ける彼の部下たちの顔にひとつずつ、正確無比の風穴を開けていく。「ひとつ、ふたつ、みっつ……」


 その続けざまの発砲に侵入者の一団は狼狽え始める。


「的に当てるだけ。そう、ただ的に当てていくだけよ……」


 猫は村を踏み荒す戦士たちの頭部になんの躊躇いもなく、そして迅速に鉛玉を届けていく。猫は6発をあっという間に撃ち切ると片膝を上げ、脚に巻いた弾帯から拳銃弾を抜き取って手元も見ずに新たな6発を円筒弾倉(シリンダー)に込めた。


「はぁすてきだわ」喜びに頰を赤らめる。


「こんなにすごくいい銃を中佐はわたしにくださったんだもん」


 猫は身をかがめて炎のそばを駆け、狙いもめちゃくちゃに飛んでくる敵弾を避けながら、その射手を倒すことに集中した。


「ん。ちょっと、これは難しいかな」


 猫は目を細めて引き金を引いた。その弾丸は子供を盾にする老戦士の眉間に吸い込まれていく。彼女の射撃の腕は尋常のものでなかった。


 腕に自信のある男は突如現れた白人の少女を見て、持っていた旧式のエンフィールド小銃を構えた。それは育った山とその土を引き換えにゴーデフフロイ商会から手に入れたライフルだ。銃と大量の弾薬は彼のとっておきだった。けれどその発砲すら許されず、持ち主の血液で銃把を赤く濡らして草むらに転がる。猫はあどけない笑みを浮かべて、次の「目標物」へと視線を移した。


「どうして、もっと早くこうしなかったんだろう」


 どよめきが広がって少しずつ戦場の空気が変わり始めた。村人を追いかけ回していた連中も何が起きているのかを理解し、慌てて頭を手で隠そうとしたり、物陰に隠れようと必死になる。猫は鴨撃ちのごとく楽しげに次の6発をすぐに撃ち尽くし、円形広場の真ん中へやってきた。


「任務を邪魔するものは速やかに排除しなくちゃあね。この村が潰されたら金塊の手がかりが無くなっちゃうもん」


 弾切れとなったピストルは大事そうに脚のホルスターにしまい込み、そこに転がった死体が腹に巻いていた弾薬ポーチをごそごそ漁ってひとつかみ取り上げ、その武器も拝借した。「この島はまるで武器の見本市ね」


 猫は指揮官級の戦士の私物、よく手入れされたレバー式の多連発ライフルをしげしげと見て、口笛を吹いた。手早くチューブに16発の小さな弾を詰め込み装填を済ませ、それを構えた。


「わたしは訓練を受けた帝国の諜報員候補生よ。弾の数だけ的に穴を開けてみせるわ」


 首筋を弾丸が掠めても猫はもう怖くなかった。戦槌を手に迫ってくる戦士たちの頭だけを撃ち抜いて、猫は自分の周りに死体の山を築き上げた。そうしてまた銃弾を拾って弾を込め、狩りを続けた。


 もはや恐慌状態に陥ったタラボウ軍の戦士たちは勢いを取り戻したラウペパ王の戦士たちを前に崩れ始めた。テリーザに銃を向けるタラボウ軍の侵攻部隊指揮官は、呆然とその様子を見つめていた。けれど状況はさらに悪化する。あの冷酷な乱射魔の銃口がぴたりと彼の頭を狙っていた――。


「マリー!」


 テリーザは苦しそうに咳き込んでいた。顎に短銃の太い銃口を押し当てられている。


「もう少し我慢してて。”それ”に当てればおしまいだから」


「なぜ、ここに留まったのよ?」テリーザは首を振って呻いた。「どうして、あれだけ言ったのに……」


「助けにきたのよ。もっと感謝してくれても良いんじゃない?」


「馬鹿ッ!」


 猫はテリーザの切れたくちびるが痛そうだと思った。


「あなたのしたことはね。ただの大量殺人、殺戮よ」


「え……」


「私の指示に従う約束を破ってくれたわね。逃げろと言ったのは別にあなたが心配だったからじゃないわ。あなたが氏族の争いに首を突っ込まないよう、この場から引き離すためだったのよ」


 テリーザはその清楚で凛とした面影をかなぐり捨て、ピンクを頰をさらに上気させて烈火のごとく怒った。


「あなたはジェームズ・ロイドの任務のためにここへやって来たのでしょう。それで、あなたの任務は氏族の争いに手を出すことなの?そんなはずないわよね」


「そうだけど、さっきは銃を使うしか……」言い終わる前にテリーザはぴしゃりと返す。


「あなたは戦わず逃げることができたはずよ。なのに戦いに参加し殺して回った。あなたにはそんな事をする義理はなかった。手を出す意味も分からないのに遊び感覚で人を撃つのは、それはもう快楽殺人と同じよ」


「ち、違う!わたしはただ、この村の人たちを助けたいと思ったのよ」猫はテリーザの思わぬ咎立てに怯んで声が震えた。「こうしなければみんな殺されてた。私がこの村を救ったのよ」


 テリーザと銃を突き付ける戦士の背後でファレ小屋が静かに崩れる。それを飲み込んでいく炎を瞳に映し、黒髪の少女は目を鋭くした。「無駄死にしようとしたテリーザと違ってね」


「何ですって?」


 今度は笑みさえ浮かべた。


「わたしがこの村の射手に訓練させればこれからはもっと楽に勝てるわ。だってせっかく銃があるのに誰もうまく扱えてないのよ」


「なんて思い上がった事を。あなたの行いは軽はずみが過ぎるわ」テリーザは目を閉じてゆっくりと首を横に振った。


「マリー、あなたは自分がしたことを何も分かっていない。これは戦争なのよ。タラボウもラウペパも、どっちも同じような酷いことをやっている。あなたはたまたま片方の陣営を覗いて同情をして、首を突っ込んで人助けをした気になっているだけ」


「じゃあ!レイプされる女人や叩き殺される子供を見殺しにしろって言うの?」


「これで戦争がまた長引くのよ。全く無関係のあなたが好き勝手に掻き回してくれたおかげでね。そういう惨いことがまた続いていくの。犠牲を減らすために、戦争を終わらせるために、この村はもうラウペパ王ごと全滅すべきだった。だから何も知らないあなたは何も考えずに逃げるべきだった。あなたはいつもみたく自分のことだけを考えていれば良かった」


「そう言うテリーザはどうなのよ?あなたも村に居残ろうとしてた。それもあれ?個人的事情ってやつ?あなたも逃げるべきだったんじゃないの?」


 猫はキッと睨んで続けた。「自分ことを棚に上げて、あなたこそ同情と自己満足で戦争に関わっているじゃないッ!」


 そこで初めてテリーザは下を向いた。「そうよ。だから私は汚れているの」


「ねえ、はっきり言ってよ!こんなときくらい濁さず説明しなさいよ!」


「私はね、あなたより先に島へやってきたの。ジェームズから、組織から手を切るために、足を洗ってきた。それまでは今日のあなたの比ではないくらい、たくさん殺してきた。だから生きるために贖罪が必要だったの。それを形にできる居場所が必要だった。人の役に立ち、人の命を救うことに関わればいつかは許されると思ってた。でもそうよ、私は許されない。私は部外者であるのに医者として戦争に関わり、少なからずその長期化に加担した業を負っているから」


 テリーザの怒りに満ちた灰色の双眸に、蒼い炎が浮かんだ。「今夜のあなたのようにね」


 地面にへたり込み絶句する猫を眺め、テリーザも足がおぼつかなくなる。乱暴に戦士に腕を掴まれ、華奢な身体が大きく揺れる。タラボウ軍の戦士たちはもう柵の外へ逃げ出していて、ひとり取り残された戦士長はテリーザを人質に村の外へ連れて行こうとする。テリーザはそうされまいと身をよじるけれど圧倒的な体格差に無力だ。いっぽう戦士長のほうも息を荒くして広場をうろうろするしかない。もう彼らはじりじり詰め寄る村の戦士たちに囲まれているのだ。戦士長は小柄なテリーザを抱き寄せて楯として、銃口をさらに食い込ませる。


「マリー・ロイド。コードネーム、”猫”。ねえ、聞きなよ」


 猫のほうを振り返りながらテリーザはまた、妙な幼い口調で言った。目の蒼い煌めきは再び小さくなり、ロイド中佐を思わせる寒々とした灰がかった色彩へと移ろった。


「どうして、その名を……」


「だってジェームズが手紙にちゃんと書いていたから。『このたびマーシー修道会を通じて貴女へ奉公に送った養女マリーを宜しく頼む。追伸、探していた子猫の里親が見つかった』ってね」


 激していた先ほどとはまるで別人のようにテリーザは微笑んだ。「あんたは誰?ってカオしてるね」


「……テリーザ、よね?」


「違うよ、私はコードネーム、“ロバ”っていうの。とあるアイリッシュレジスタンス、んと今はジェームズ・ロイド帝国海軍中佐だっけ?その下でこき使われていた子供よ。テリーザが捨てた昔むかーしの人格、思い出、そんなとこ」


 長いことテリーザの心の奥に沈められていてたまにしか喋らせてもらえないのだとロバは嘆いた。


「でも今はテリーザが喋りたくないみたいだから、代わりになってあげてんの。せっかく仲間に出会ったのに彼女ってそっけないわよね。あなたと私って良い組み合わせだと思うんだけどなぁ」


「何が?」猫は戸惑っている。


「だって、ロバと猫が出会ったのよ。あなたはあの物語を知らないの?」


 まあいいわ、とロバは言ってぺろりと口元の血を舐めた。「とにかく、私が言いたいのはあなたは私によく似ているってこと。あなたも私みたいに何も知らなくて、これから散々使われて、それで使い捨てられてから気がつくの。自分はいいように利用されたぁって。もう手の汚れは落ちないんだって」


「……中佐を、侮辱したわね」


「忠告してあげてるのに。ふふ、あいつほど自分勝手なやつはいない。父親気取りに騙されちゃだめね」せせら笑う女。


「猫ちゃん。ころしは今日が初めてだっけ?」


 うなずく猫にロバは真面目な顔をして言う。「もうやるなよ。壊れちゃっても知らないよ」


 そうして彼女は再び元の沈んだ表情に戻った。ロバはテリーザに主導権を奪われたらしい。


「あなたに同行を許した私がとんでもない馬鹿だったわ」


「契約上あなたに協力するつもりだったけど本当は能天気なあなたにこの島で何が起きているのかを見せたかっただけ。最近は戦いもなくなっていたし、こんなことになるとは思わなかった」


 痛々しい沈黙がしばらくふたりの間に漂ったあと、テリーザは力なく呟いた。「マリー、あなたには私を恨む権利があるわ」


 猫は黙って聞いていた。


「きっと今夜のことは忘れられなくなる。でもあなたはまだ引き返せるわ。だからもう二度とここへ来てはだめ。あんなことをしては駄目よ」


 でも、その時だった。


 猫の指が引き金から離れた一瞬の間に、巨躯の戦士は短銃を憎き黒髪の少女へと向けた。その狙いは正確であり、弾道は少女の心臓を撃ち抜くことが確実だった。撃鉄が落ちる瞬間、テリーザは男に組み付いた。


 1発発射されて血が舞った。2発目は男の心臓を破裂させ、テリーザはずぶ濡れになって顔をしかめた。


「まだ、私は銃にさわれたんだ。人殺しの勘はまだ残っているのね」


「テリーザ!怪我は?」猫はよろめくテリーザの体を抱きしめた。


「どこに当たったの?嘘でしょう、血がたくさん出ているわ」


「心配はいらない。大丈夫よ」テリーザは深く、本当に深く息を吐いた。


「返り血を浴びただけ。怪我はないから」



 そうして、戦いはラウペパ王が勝った。残敵は夫を失った妻たちによって蹴り殺された。


 ふたりは英雄として祭り上げられたけれど、夜明けには村のほとんどが燃え尽きていた。テリーザはラウペパ王に頼んで息がある者を片っ端から村の端の白いバラック小屋に詰め込ませた。立て看板があって、そこに英語で「診療所」とそっけなく書かれている。


 猫は怪我人の傷の酷さに言葉を失った。ほとんどが銃創、つまり弾丸が抉った深い傷である。皮肉なことに戦槌の打撲では即死が多く、弾による傷では場合によって生き残り、患者を長く苦しめるようだった。高威力のライフル弾は容易に四肢を飛ばし、並んだ寝台の上は直視に耐えない。


 ――銃で撃たれるとこんなふうになってしまうなんて。


「こうなるともう、現代の(1870年代)最新医療を持ち込んだとしても助からない。こうして麻薬を与えて苦しませないように逝かせることがせめてもの処置なのよ」テリーザは猫と共に血まみれになりながら患者を寝台に乗せ終え、そばでふたりを手伝っていた偉丈夫に声をかけた。


「王さま。頼みたいことがあります」


「英雄よ。なんなりと」ラウペパ王は静かに答えた。


「手術中は村の者たちをこの診療所に近づけさせないようにして欲しいのです。混乱を引き起こしたくありません」


「……分かりました。では失礼」


 ラウペパ王が躊躇いがちに小屋から出て行くのを見届けて、テリーザは持ってきた革鞄を開いて中から大きな銀の刃物を取り出した。彼女はぎらりとしたその切断刀に、同じく鞄から取り出した水瓶からフェノール水を垂らし、清潔な布巾で拭った。マスクを付けた。


「マリー。その元気な青年を寝台に縛り付けなさい」テリーザは鞄から道具を取り出して長椅子の上に並べながら言った。「早く。ぶった切ってしまえば彼はまだ助かるかもしれない」


 青年は脚に被弾したのち失神して死人として放置されていたという。けれどそれでも怪我の程度は飛び抜けてマシだった。テリーザは寝台に並ぶ患者の中で彼が唯一の生還者になる、と思っていた。


 猫は暴れる褐色肌の青年を必死に押さえつけて紐で台に固定し終わると、「退きなさい」とテリーザに部屋の隅へ追いやられる。そこで黙って手術の成り行きを眺めた。



「偽善者。利己主義者なのよ」銀の鉗子を持って止血しながらテリーザはひとりごちた。


「なんのこと?」猫は硬い声で返した。


「私のことよ」テリーザは患者と向き合ったまま淡々と喋り出した。


「こんなことをしているのも罪滅ぼしのためだから。でも結局は罪を重ねているだけなのよ。私の治療で命を保った戦士たちが喜んで次の戦いに出て行くのを何度も見てきた。私が救ってくれると信じ込んでいるから、みんな恐ろしい戦いに狼狽えなくなっていった。私のことが知れ渡って新たな憎しみも生まれていった。私も戦いの火種を蒔いているーー、戦争の長期化に加担していると言ったのはそういうことよ」


「テリーザ。むかしに何があったのよ?数えきれないくらい殺したって言っていたけど」


「ボスに愛されたかったの。だから仕事をこなし続けた。たぶん、あなたに与えられた任務よりも少しばかり後味が悪い仕事をね」


 テリーザは白衣を真っ赤に染めて黙々と処置を続けていた。


「きっと自分を認めて欲しかったんだと思うわ。あのころは自分のことしか見ていなかった」


「そう……」


 猫はテリーザが自分を疎んだわけをようやく理解した。考えてみれば単純なことだった。


 ――わたしを昔の自分と重ねていた。そりゃわたしを見れば嫌気が差すわけね。


「でもある時、嫌なことがあったの。ころしをその子供に見られてしまったのね。もちろん子供も殺さざるを得なかった」


 テリーザは切り取った赤黒い脚を布で包む。青年はいつのまにか麻薬が効いて叫び声を上げなくなっていた。猫はその穏やかな顔を見て、固まった自分の体から緊張が解けていくのを感じていた。


「確か標的は来英していたロシアかプロシアだかの将校だった。標的は顔も名前もすぐに忘れたわ。でもあの時の子供の顔は毎晩夢に見るの。私は人を撃てなくなって、あっさり任務を解かれた。組織の専属医師になる道をボスから示されて、訓練のためだとクリミアの最前線の野戦病院に送られた。砲弾が落ちて同僚の見習い医たちがわんさか死んだ。それでも生き延びて戦争が終わったあとロンドンに戻ると私も死んでいたと気づいた。アジトの部屋は他の「けもの」に取られていたから」


「でも、どうしてこんな海の彼方の島へやって来たの?」


「経緯はほとんど偶然よ。身を寄せた修道会がたまたまこの地の宣教師の補佐を必要としていたの。ボスも私の大渡りを見逃してくれた。きっとここなら組織の秘密が広まる心配が無いと踏んだのね」


「あなたがいなければ、わたしがこの島に派遣されることは無かったと思う。あなたはまだ必要とされているのよ」


 猫のつぶやきにテリーザは甲高く笑った。「何年も放ったらかして必要な時だけボスは私を頼って下さるの。あの人はこちらが何を必要としているかしっかり見抜いていらっしゃる。丁度良く使える物を使っただけなのよ」


 猫は寒気がした。嫌な気持ちになっていた。


 ――わたしが中佐のもとのいるのは、ただわたしがイーストエンドで中佐の目に止まったから。そしていま島にいるのはお払い箱にされたから。


「そんなわけない。そんなわけがないのよ……」荒く息をする猫をテリーザはちらりと見て、怒ったように顔をしかめた。けれど顔色はいつもの健康的なピンク色が抜けて、青白くなっている。


「ねえテリーザ、どうしたの。顔色がすっごく悪いわ」近寄ろうとする猫をテリーザは手で制した。


「キリの良いところで休んだ方がいいって。昨夜からずっと作業しているでしょう」


「そんな悠長なこと言ってられないわ」煩そうにテリーザは心配をあしらい、話題を変えようと質問を投げかけた。「マリー。この島の銃はどうやって出回っていると思う?」


 怪訝な顔をする猫。テリーザは向き直って言った。


「不思議に思ったことはないかしら?なぜこの海の果て、南国の部族民たちが鉄砲や弾丸を持っているのか」


「それは……アピアで売っているからでしょう。護身用の武器を扱う商店を見たことがあるわ」


「けれどね、島民はアピアで使えるお金を持っていないのよ。それに小さな銃砲店ていどでは大勢の戦士たちの武器を集めることは無理があるわ」


「じゃあ、彼らはどこで銃を手に入れているの?」猫は降参といったふうに手を広げる。


「とんでもない話、儲け話があるのよ」テリーザはふうっとため息を吐いた。


「大半はプロシアンが、いえゴーデフフロイ商会が土地と引き換えにライフルをばら撒いているのよ。とくにタラボウ陣営にね。銃自体はベルギーの工業街リエージュの武器工場で密造された、帝国のエンフィールド小銃をコピーしたもので、いち会戦で壊れてしまうような安い乱造品。それを氏族へ高く買わせて広大な土地を分捕っていく。この戦争がもう何年も続いているのは、そういう油を注ぐ人々がいるせいというのもあるのよ」


 それだけを言いたかったのか、テリーザは話し終えるとまた猫に背を向けてしまった。


「ごめんなさい。悪いけれどそろそろ出て行ってくれないかしら。処置に集中したいの」


「でも……」


「あなた、”でも”が多いわよね。そうだ、王さまのところへ行って手術が成功したと伝えてきてくれないかしら」


 テリーザは綺麗な顔に愛らしい完璧な笑顔を浮かべて言った。「王さまはこの報告をずっと待っているわ。彼の生還を聞いたらとても喜んでくれると思うの」


 猫はその笑顔がポーカーフェイスには思えなかった。



 処置が終わるまで衛生を保つため、日が落ちるまで誰も入れてはいけない。そう言ってテリーザは診療所小屋から猫を追い出した。そのため修道医師シスター・テリーザが瀕死の状態で見つかったのは、言いつけ通り日が落ちてからになった。既に顔は真っ白になっていて、彼女が倒れた床には赤黒い血溜まりができていた。


 息を飲んだ猫を見てテリーザは穏やかなカオをして言った。「ほんとはね、きのう撃たれていたの。おなかに穴が開いてたのよ」


「なんで?」猫は理解できない、というふうに首を横に振った。


「なんでそれを黙ってたわけ?あなたは死にたかったの?」


 猫は生まれて初めて本気で怒った。ドイツ男に港湾料金をせびられてもこんなにはむかつかなかった。テリーザの白衣の胸ぐらを掴んだ。「命を使い捨てるってそういうことだったんだ」


「血に毒が回っていてどちらにせよもう助からなかったわ。だったら最期まで医者をやりたかったの」


 猫は真っ白な胸元から覗くほっそりとした身体に愕然とした。いったいどこにあの怪力があったのだろう?戦場に突っ込んで行く勇気はどこから来ていたのだろう?


「そんなに泣くな」テリーザはロバと一緒に猫を見つめていた。


「ロバはようやく重荷を下ろせて満足だよ。悲しいことなんてないのさ」


「いやだ!まだ聞きたいこととか、話したいことがたくさんあったのに!」


「やっと私に興味を持ってくれたわけね。まったく、遅いわよ。おっそいなぁ」


 寝台の上に載せられたテリーザの身体を少女は抱きしめ、さすって必死に温めた。ラウペパ王の呼びかけで村の戦士たちが集まった。祈祷師は神に小さな英雄の魂を連れて行かないように願った。


「マリー。覚悟を持ちなさい」糸のようにか細い声だった。猫がキスの間合いまで顔を近づけてようやく届くか、といった小さなちいさな声。けれどそこに迷いも淀みも無かった。


「ころしは殺しを生む。救命も新しい殺しに繋がる。助けなければ殺されてしまう。気楽な傍観者がそのリングに下りることを決めたなら罪と責任が生まれる。人を傷つける覚悟が必要になる」


 強い力で猫は手を握られた。「けものじゃなく、人として生きたいなら覚悟をなさい」


「けものじゃなく、人として生きる……」


「そう。人といっしょに生きていくってことさ」



 こうしてシスター・テリーザは大勢の村人に囲まれるなか、死んだ。


 死因は前夜の戦闘後に死亡した無数の島民の一部と同じく敗血症(セプテスィミア)であった。腹部被弾後の放置が原因と思われる。賢人会議の公式日誌にはそう簡潔に記され、以降衆目に触れることは無かった。


 帝国領アイルランドの首都ダブリンに本拠を構えるマーシー女子修道会は、ロイド中佐の名簿偽造によってあらかじめ登録されていたシスター・マリーをウポル島支部の後任に据えることとした。


 猫はテリーザを慕う村人たち、シャーロットやイヴァ、ヤシュパル、そして商会の子供たちが集まり、そして去っていった後のがらんとした丘の上の小さな教会にいて、薄暗い礼拝堂の長椅子にひとり腰掛けていた。


「これからどうしようか」


 猫は立ち上がり、堂を出て、すぐそばにある石造りの立派な墓の前にやって来た。それはシャーロットがアピアの石工に大金を積んでつくらせたテリーザの眠る場所だった。埋葬のとき美しく喪服を身に纏ったシャーロットは『怒ってるだろうな』と猫の隣で呟いた。聞き返す猫に彼女は憮然として返した。


『テリーザはこういう墓が嫌いだろうなって思ったんだ。でも彼女はそれだけ立派なことをしたんだ。氏族の人々といっしょに生きて、彼らといっしょに死んだんだから』


 その言葉が猫のなかにすとんと落ちた。


 ――あの人は氏族たちの戦争に軽い気持ちで関わってしまったことを罪だと言って自分を責めていた。けど最期まで彼らの戦争に付き合って責任を全うした。部外者だと距離を置かれても、彼女は居場所を村に置いて人として、人の中で生きたんだ。


 じゃあ、わたしはどうする?


 最期まで猫のまま、ロイド中佐の使い駒として生きるのか。いやもう使い駒ですら無いのかもしれないわ。


 猫は手に持ったロイド中佐からの返信文を見つめた。以前シドニーへ送った報告書(レポート)の返事がようやくやって来たのだった。そこにはただ一言「慎重に」と書かれていた。期待していた褒め言葉どころか指示も無かった。猫は無表情に小さくそれを折り畳んで修道服のなかに隠した。


 ――金塊はラウペパ王の近くにいれば有りかの手がかりが掴めそうね。この前の襲撃でわたしは英雄になったから、それは難しくないかもしれない。でもそれはまたころすということ。自分の心を擦り減らしてまで猫として任務を続ける意味があるの?


 猫は中佐の銃を捨てることはなかったけれど、当分触る気にはなれそうもなかった。鞄の奥底に仕舞い込んで見えないようにしていた。でもーー。


「でも、私は猫であることを止めるわけにはいかないの。だって任務を終了させなければ家族に逢えない。人として生きるにはまだわたしは早過ぎる、いやわたしにはそんなこと出来はしないんじゃないかな」


 そう言いながらも脳裏には炎のなか思い出してしまった両親の焼死体の転がる光景が張り付いている。少なくとも、もう両親には会えないのだ。


「中佐はわたしに嘘をつかない。だから家族の誰かが生きているのは間違いないはずなのよ」


 けれど彼のテリーザへの仕打ちを知った今となっては、無条件に彼の言葉を信じることに僅かな抵抗を感じるようになっていた。


「家族は、いるはずなんだ。私と一緒に生きてくれる人がいるはず……」


 墓石にもたれ掛かって、猫はぽたぽたと涙を落とした。立ち木の日陰となっているそこの石はひんやりと冷たかくて、心地よかった。


「ねえ、テリーザ。わたしどうしたら良いのかな」



 太陽が水平線に落ちかけて空がルビー色に染まったころ、猫は礼拝堂に戻った。お腹が鳴って、初めて空腹に気が付いた。テリーザの葬儀のとき軽く何かを口に入れてから、それ以降まったく何も食していなかった。母屋に入っていつも何個か芋が入っている木箱を開けると、すっかりネズミに食われて無くなっている。猫は仕方なく丘を下りてシャーロットの商会を頼ることに決めた。


「しまったわね。明かりを持ってくれば良かった」


 薄暗くなっていく森の中の獣道を下る途中で完全に日没を迎え、とうとう猫は道が分からなくなった。


「これまで何度も通ったはずなのに」焦りがさらに方向感覚を奪っていく。


「くそっ、サイアクだわ」


 とにかく猫は月の光と坂道の高低差を頼りに藪をかき分け進み続けることにした。目指すは商会の敷地かアピア、悪くても浜辺に着けば何とかなるだろう、と考える。


「こういうドジをいつも踏むから、中佐はわたしを見限ったのかもね」


 真っ黒な思考は不吉を呼び寄せる。そのとき猫は嫌なことに気が付いた。耳を澄ませると、虫たちの大合唱や鳥の鳴き声に混じって何かが聴こえるのだ。人の声である。


「や、やだ。やめてよ」


 猫は歩みを早めた。人の声も猫に付いてくる。何と言っているかは分からないけれど誰かが叫び声を上げている。それは島の言葉のようにも聞こえるし英語のようにも聞こえる。猫は暗闇のジャングルを走り出した。彼女の抜群の運動神経をもってしても当然無傷では済まない。何度も転んでしまう。


「怖いッ!怖いよ、来ないでよ」


 猫には恨まれる心当たりがあった。戦いの覚悟もなく射的の的のように面白半分で撃ち殺していった大勢のタラボウ軍の戦士たちだ。猫は怖くて、怖くて仕方がなかった。いまは銃も無い。


 猫は泣きながら、がむしゃらに走った。


 木の枝に服を裂かれ、転んで体を打ち、激痛に襲われる。けれど声は着実に猫を追ってきていた。


「ごめんなさい!ごめんなさいってば!」


 その瞬間、猫はつんのめって何度目かの転倒を経験した。無意識にそのまま立ち上がろうとしてまた転ぶ。足に何かが引っかかっていた。「ひっ」


「何これ?」


 それは意外なもの。大蛇のような太いワイヤーだった。


 明らかな人工物を目にして猫はそれを辿ることにした。少なくとも人がいるところへ導いてくれるはずだ。追いかけてくる声から逃げるため、必死に猫はワイヤーの先を探った。けれど猫はすぐに絶望する。


「何よ、どうなってるのよ?」


 ワイヤーは人のいるところどころか森の中にぽっかりと口を開けた狭い洞穴に続いていたのだった。穴は植物に隠れていて人ひとりが屈んで入るのがやっとという入口の狭さ。でも叫び声はなお迫ってくる。


「とにかくここに入るしかない。隠れなきゃ」猫は猫らしく四つ足になって穴に突入した。真っ暗の薄ら寒い穴の中に猫は身を通していく。不思議と穴の奥から仄かにエメラルドの光が漏れていた。猫はその光に吸い寄せられるように奥へ奥へと進んでいった。


 しばらく進んで猫はようやく立ち止まって、四つん這いのまま深呼吸した。もう謎の声は追ってきていなかった。猫は立ち上がった。穴は奥へ行くほど広くなり、小さなこの少女なら余裕を持って立てるほどになっていた。「ここは何なのかしら」


 壁一面が微かに光っている。湿った岩肌にむした苔が発光しているのだった。猫はその光を頼りに洞窟の壁沿いに敷かれたワイヤーを辿ってさらに奥へと進んだ。そして何回か曲がり角を曲がったあと、大人でも立てるほどの高さになった洞窟のお終いにやってきた。


 なんと扉がある。扉の下から漏れ出てくる光は苔のものではない。


 扉には鍵がかかっていたけれど猫はむしろ嬉しくなった。「鍵なら開けられるわ」


 スカートを捲っていつかの商館の部屋あさりの時のように道具を取り出すと、ものの数分でその錠の解除に成功した。中にもし人がいたら、という心配は頭になかった。むしろ人に会いたい気分だった。それほどの恐怖に震えていた。


 そこは小部屋になっていた。椅子と机があり、その上には明かりが灯ったままのランタンとノートブックと万年筆が載っている。ワイヤーは机のそばに据えられた何かの機械に繋がっている。そして部屋の奥にはまた一枚扉があった。


「これは……電信機だわ。ノートに何か書いてある」


 書かれていたのはその電信機が受信した通信内容だった。特に暗号化されていない、平文だ。その最新の内容は以下のような文面であった。


 『定時連絡11日午前。重大な異常なし。両軍の小競り合い』

 『定時連絡11日午後。サーファタで戦闘あり。死者多数。当方の被害確認中』

 『緊急連絡11日午後。先報の戦闘。当方に被害なし』

 『定時連絡12日午前。異常なし』

 『定時連絡12日午後。異常なし』

 『定時連絡13日午前。異常なし』

 『定時連絡13日午後。島南基地へ交代要員出発』


 猫は絶句した。文面にある11日午後の戦闘とはまさしくあの村での出来事だった。そして最後の通信記録である13日午後とは現在の時間帯を指す。つまり先ほどまでここに誰かがいて通信を受け取ったことになる。


「誰がこんなことをしてるのよ」


 猫はさらに通信記録を遡って読む。


 『定時連絡9日午後。異常なし』

 『定時連絡10日午前。異常なし』

 『定時連絡10日午後。電信線全線保守作業を秘密裏に達成』


 さらに遡ったところで猫はページを捲る手を止めた。目をまん丸に見開く。


 『定時連絡9日午前。島南基地に揚陸中のHMS Rose(軍艦ローズ号)。ペラ損傷を発見』


 「ローズ号だわ!あのローズ号が島にあるんだ。しかも、ばらばらになんかなってないんだ。ということは――」


 けれど猫はその先を口にできなかった。奥の扉ががちゃりと開き、驚愕の色を浮かべた白シャツの男がひとり現れる。男、イヴァはそれでも一瞬で腰からピストルを抜いた。


「お前、そこで何をしてる」


 猫は観念して両手を上げた。銃口はぴたりと少女の脳天を狙っていた。「え、えっと違うの」


「何が違うんだ。お前、それを読んだだろう?」


イヴァはその強面をさらに恐ろしく歪めて猫を睨みつけていた。「やはり、貴様は敵だったか。団長の言う通りだ」


「読んだけど意味は分からなかったわ。ねえ、何なのこれ?イヴァはなんでこんな洞窟の中にいるのよ」


「うるさい。意味が分かろうが分からなかろうがどちらも同じ。ネズミの言い訳など聞きたくもない」イヴァは舌打ちをして低く唸った。


「くそっ、どうやってここまで入って来やがった。まあいい、後でゆっくり吐かせてやる」


「どおした、イヴァ?何か――」部屋に入ってきた紺帽子のシャーロットは震える猫を認めて口をつぐんだ。


「団長、こいつに島南基地との通信記録を読まれました。侵入を許してしまい申し訳ありません」


「あの、違うんだって。ここへは本当にたまたまたどり着いただけなの。勝手に読んだことは悪かったわ。でも信じてってば」


 シャーロットは底冷えするような暗い視線を猫に向けた。


「イヴァ」


「はっ」


「こいつを、いつもの所まで連行しろ」


「了解」イヴァは猫の腕を掴んで引き寄せたかと思うと、豪速で彼女の腹に拳を入れ、その意識を断たせた。


      


 【CHAPTER1 完】






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