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少女海賊シャーロットが死んだ日  作者: NOTAROU
Chapter 1
11/13

11:金塊はどこへ行った



『しかし問題は多い。物事はそう単純でない』とロイド中佐は笑みを消して言った。二等船室の丸窓を開け、二日酔いの暗い顔に夜風を当てて目を細める。


『最大の問題はここまですべて推測に基づいているという点だ。あの海賊少女と赤ガラス海賊団を繋げるものは12年前のメルボルン銀行襲撃事件が主。彼女はそのとき消え、そして海賊団の構成員多数が捕縛された4年前の金塊強奪事件を機として島に現れたということ。加えて浮浪のガキとは思えない羽振りの良さ、集団で行動する点――、これは海賊の生き残りが証言したローズ号の()()()に充てがわれていたという異様な数の子どもたちの存在と合致する。が、直接の証拠とはならない』


『すばらしい推論です。さすが中佐』


『ど阿呆。このくらいオーストラリアの艦隊司令部(お偉がた連中)はとっくに気づいている。そもそもこれは当時司令官だったフレンチ伯爵が本国へ送った事件報告書に立脚するものだ』


 若干苛ついた表情に、ごくりと唾を飲む寝巻き姿の猫。


『だが艦隊の連中はまったくもってまともじゃない。奴らはシャーロット・ビーティーの名を知りながらもフレンチ前司令官が書いた報告書を取り下げていたのだ。それが信じがたく無責任な絵空事とけちをつけた上でな。10トンもの金塊を奪われる大失態を犯したくせに、更迭されたフレンチに責任を押し付けて、今はもう知らん顔だ。それだけではない。ローズ号が再び海に現れたという報告は受けているが、奴らはその討伐も果たしていないという』


 手を抜いているのだ、と中佐は吐き捨てるように言うけれど、その割に口角は面白がっているように上向きだった。『そして手を抜くのには必ず何か理由がある。それは俺が突き止める』


 中佐はいまいち状況が読み込めていない猫に、ちゃんと仕事しないとただじゃおかない、とでも言いたげな鋭い色を顔に浮かべて目を向けた。『長期戦になる』と彼は続けた。


『任務を怠る艦隊の連中の意図を暴き、有害な司令部要員を刷新する。そして健全な艦隊の力を借りて、今もローズ号を動かしている謎の赤ガラス残党を捕らえる。その正体を明らかにすればシャーロットが金塊に関わっているかどうか真偽は誰の目にもはっきりする。真ならば奴の国際手配へと進めるわけだ。とまあ正攻法はこれに違いないが、相手は腐っても正規海軍のいち部局。相手にするのは俺も少々荷が重い。十分な準備と時間が必要だ』中佐は突っ立っている猫の頭を軽くこづいた。


『そこでのーてんきなお前の仕事が別に必要となる。それが島での金塊探し、そして私兵団の動向調査だ』


『でも、それだってわたしには荷が重いような……。いえ、もちろん持てる全力を尽くそうと思っています。ぜ、ぜんぜん問題ありませんから』猫は振り上げられた拳骨に目をぎゅっと閉じた。


『艦隊からの情報があてにできないと言っただろう? お前の方がまだマシだ。とにかく金塊を探せ。見つけられないならば(きん)の匂いのする情報、役に立つ情報を寄越せ。仲違いする各国の領事たちがいっとき団結して海賊少女の徒党を全力で潰したくなるような、エキセントリックで大いに危機を煽るネタだ』


 口の端に意地の悪い笑みを浮かべて中佐は目をぎらつかせた。


『発端となる領事報告(レポート)を送ってきた帝国外交官、ウィリアムズは良いとして、ドイツ人、アメリカ人の領事たちが何を考えているかどうも分からん。彼らがシャーロットを怖がり、奴を島から追放させる決議を下すよう仕向けることができれば、最悪の場合、艦隊が動かなくとも俺がどうにか身柄を押さえる用意ができないこともない。あくまで最後の手段だが』


『わたしは金塊を探しつつ、シャーロットの罪をでっち上げる』戸惑う猫の頭上には疑問符が浮かんでいた。


『そうだ、ゴシップでも良い。ガキどもを我々が手出しできない島の中から引っ張り出すことができるなら、何であれ最後には金塊へ導いてくれるのだ。ゆめゆめ忘れるな、すべては金塊を手に入れるため。そのために行動しろ』


 中佐は扉の前で猫に背を向けて、呪文のように早口で呟いた。


『金塊の山は我が機関を存続、発展させる。さすれば我々は女王陛下のお力となり、連合王国に仇なすものを誅せしらめれる。資金調達の暁にはまず帝都に巣食うロシア、プロシアの諜報網を破断する。その成果を以って俺は海軍中佐などという中途半端な地位を脱し、いつか必ず海軍卿(大臣)に登る』


『中佐……』


『やっと、俺は故国アイルランドに顔向けができるのだ。ロンドンに渡った同胞たちも気分良く暮らせるようになるはずだ。もう、同胞を人さらいなどと呼ばせるものか』


 阿呆なお前にもこの崇高な夢が理解できるはずだ。中佐はそう締めくくり、ぐいっと顔だけ振り返って、ふいに柔らかく微かな笑みを浮かべた。それはこの任務が始まっていらい、無愛想な彼が見せるようになった珍しい表情だった。


『家族に会いたいんだろ?』中佐は扉を出て、猫が思うに彼はいつもの船内バーへ向かった。


「ええ。もちろん」


 猫はベッドから起き上がり、赤屋根屋敷の風通しの良い二階の窓を開けて午前の涼しい浜風に当たった。きらめく水平線の向こうから、漁に出た島民たちの外洋カヌーが戻ってくるのが見える。昨日まで猫を憂鬱にさせた雨はすっかり上がって、気持ちのいい朝だった。


「青いなぁ。綺麗な水たまりいろ。天国まで透けて見えそう」


 中佐がくれたグレーチェックのワンピースを身に着けて、猫は屋敷を飛び出した。賑やかな表通りに出て焼きたてのパンの木の実をシャーロットに貰った例のタブレット札で買ってみる。その日から猫はせめて食事だけは身銭を切ろうと決めてヤシュパルにも伝えていたのだった。


 猫の二倍は幅の広い島民の若い娘といっしょに道端に座り込んで、朝食を包む葉っぱを解いていく。塩をふりかけただけの単純なそれをもぐもぐ頬張っていると、隣の娘に背中をちょんと小突かれ、たどたどしい英語で話しかけられる。「あなた、小さい! 低い!」猫はむっとして睨みつけた。


「失礼ね。見てなさいこれから成長するんだから、って何? わたしにくれるの?」手のひらに焼きイモがずっしりと乗せられ、笑顔で見つめる少女を前にして、猫はその大きな実を少し無理をしておなかに納めなければならなかった。お天気の日に機嫌が悪くなるはずがない、と猫は思った。それくらい気分が良かった。


 その日も射撃場で「市民」たちの練習に付き合って、へとへとに疲れて部屋に戻った。テリーザはまだ教会に帰らず、その協力者として清々しいほどの非協力ぶりだけが、猫をわずかに不安にさせる。でも総じて気分は良い。「迷うことなんてなかったのよ」猫は机に向かいペンを便箋に走らせていた。早いサモアの一日が終わろうとしていた。


「中佐のことを疑うなんて、最近のわたしはおかしかったんだ。これは任務なのに。わたしがシャーロットのことを心配するなんて全くお門違いなのにさ」


 猫は頰をばしばし叩いて顔を赤くして自分に言い聞かせた。「すべては中佐の思うがままに。わたしはあんな軽い誘惑に負けるくらいの簡単な女じゃあない。もうおとななんだから」


 猫はひどく退屈なあの「観察」の意味がようやく分かったような気がしていた。結局のところ、この目で見たもの聞いたものをこうしてレポートに変えて送り続けることこそが、華麗に思える諜報活動の大部分を占めるのだと。落第少女スパイは首元をくすぐる黒髪をいじるのを止め、暗くなった机の上をろうそくの灯りに照らして一応は訓練された集中力をその身にやつし、夜は一睡もせず中佐宛の報告書を書き続けた。


 また、ある朝。「しまった。切手を買うのを忘れてた」


 猫は赤屋根屋敷の周りの木造のバラック長屋を訪ねた。そのなかに、例の紺色キャスケットを被った猫と同い年くらいの白人の少年がいる小さな受付があった。看板には「島最速の帝国郵便代行。シドニー行き郵便速達は14日以内の到着を保証」とペンキの赤い文字が誇らしげに並んでいる。


「切手はタブレット一枚、封蝋をつけるのにもう一枚。うちの速達便を使うなら、専用の封筒が要る。それにもう一枚と別途船便料金が五枚だ」


「ええと、足りるかな。封筒は専用のものじゃなきゃいけないのね」


「そういう決まりだ。お嬢さん、郵便を出すなら急ぎな。今日これから船が出るかもしれない」青い目の少年は少しつっけんどんにそう言って小部屋の奥から商品と封蝋の道具を取ってきた。


 少年は支払いをする猫の顔をちらと見て、そこで猫がちょうど顔を上げたので視線が交差した。「今日が出港日だって聞いてきたんだけど……、もしかして出ないこともあり得るの?」


「あ、ああ。航路の海象しだいではな。さっき、輸送船の班のやつが来て今日は出せないかもしれないって言ってたんだ」


「どうして?」猫は首を傾げ、空を見上げた。「お天気ってほどじゃないけど……雨もまだ降っていないのに」


「前の船便に乗っていた航海班が島に戻るとちゅう、遠くに雷雲を見たんだよ。今日は昨日よりだいぶ風は強くなってるし、嵐がこっちに向かってるんだと思う」


 真っ青な空に灰がかった雲が流れていく。心なしか肌を撫ぜる風も速い。


「せっかくいい天気が続いているのに、嵐だなんて」


 少年は溶けた真っ赤な蝋を丸く封筒に垂らして慣れた手つきで封をする。その上に「帝国郵便業務委託、ビーティー商会」と彫られたスタンプが押され、猫の膨らんだ封筒の中身は完全に秘密に包まれた。


「わかったわ。どちらにせよ、一番早い便はこれだもの」猫は封筒を預けると、長屋を抜けて桟橋に向かった。船が出るのか確かめたかったのだ。書き上げたレポートが早く届いて欲しかったから、居ても立っても居られなかった。


 近くで開かれる市場は相変わらず盛況だったけれど、桟橋にも人だかりが出来ていた。シャーロットの弟たちだけでなく、黒衣を纏った宣教師の男や、あろうことか初日に猫の有り金を没収したドイツ男も混じっている。みな何か深刻そうに話し合っているように見えた。どうやら、来たる大嵐について情報を寄せ合っているらしい。


「あ、あいつ……」


 市場の建屋の日陰から遠巻きに男を苦々しく見ていると、猫は声にならない悲鳴をあげた。腰に誰かの手の感触がした。思わず振り返ろうとするも、相手の方が早かった。ぱっと後ろから抱きすくめられ、咄嗟に抵抗もできずに固まった。観念した猫は目を瞑って、呟いた。「それ、やめて」


「君は隙だらけだな。イヴァが護衛を付けたいと言うのもわかるよ」


「うひゃっ、ちょっとどこ触ってるのよ!」猫はにやけ顔のシャーロットから逃げると両腕で体を抱いてしゃがみこんだ。


「ほほう。結構あるじゃない。僕より大きいなんて生意気だね」


「すけべ」上目遣いで睨みつけ、なけなしの意地を張る猫。


「ねえ、ヤシュパルから聞いたけど、屋敷の食事はもう要らないんだって? べつに遠慮することないぜ」


「いいの。お世話になりっぱなしは悪いから」


 ――敵に借りは作りたくないし。


「そ、それよりもさ、今日船は出るのかな。それが知りたくてここに来たの」


「もうそろそろ出港だよ。予定時間を前倒しすることなったんだ。サイクロンが接近しているから」


 猫は目を見開いた。「今日出した郵便はもう詰め込んだかしら。さっき出したんだけど」


「うーん、どうだろう。あ、あれだ」シャーロットは市場の中を人をかき分けて抜けてきたトロッコ馬車を指差した。馬車は線路の終わりの桟橋で止まり、さっきの郵便屋の少年が降りてくる。彼は話し合いをする男たちに何か声を掛けたあと、荷物を忙しく帆船に積み込み始めた。


「よかった。何とかなりそうね」猫は差し出されたシャーロットの手に掴まって立ち上がった。けれどシャーロットはその手を強く握ったままだ。離してくれない。


「ちゃんと専用の封筒を使った?」シャーロットは船を眺めながら何気なく問うた。「防水加工がしてある船便用の()()()()なんだよ。あれ」


「そうなんだ。ええ、使ったわよ」


「そんなら、良い」


 アピアで仕事があるのだろうか。その日はまたシャーロットも少年たちと同じ格好をしていた。彼女は大きめの紺キャスケットを片手で外して、豊かな麦色の癖っ毛を肩に流した。猫が危険を察して身を固くするとシャーロットは繋いだ手を離し、自分の口に当てて下を向いた。笑われている。


「怖がり過ぎだよマリー。何もしないってば」


「だ、だって信じられるわけないでしょうが!」猫は不本意ながら顔を赤くしてわめいた。



 そして二日後、雨季の終わりにその嵐はやって来た。


「今日はぼくの部屋にいて欲しい」ヤシュパルは真剣な表情を猫に向けていた。


「そ、それってどういう……」


「決まってるだろ、安全確保だよ。二階は窓が大きいから割れやすいんだ。いちおう屋敷の全ての窓を角材で補強しておいたけど、危ないから」


 それで朝から猫は言いつけ通りヤシュパルの部屋のベッドにおとなしく腰掛けて、窓の外の荒天を眺めていた。ちらりとヤシュパルの方を見る。彼は姿勢を正して椅子に座り、微かに揺れる壁を見つめていた。くしゃくしゃの黒髪はいつもより乱れ、健康的に引き締まった褐色のふくらはぎがそわそわ動いている。


「何もなきゃいいけど」ヤシュパルは不安そうに呟いた。すると猫の視線に気がついて、ヤシュパルはちょっと無理して笑ってみせた。「前にもあったし今回も大丈夫さ。でも今日は少し我慢してくれよ。ぼくらも嵐はどうにもならないからさ」


 そのとき窓の角材の隙間から、豪雨のなか屋敷の外に出て行く人影が見えた。「あの、バカ」ヤシュパルは舌打ちして立ち上がった。「すぐ戻る」


 しばらくして追いかけていったヤシュパルとイヴァがふたりともずぶ濡れになって玄関ホールに戻ってきた。ヤシュパルは転んだのか、顔に泥が付いていた。


「集合場所にうちの小隊の奴らが誰もいなかった。お前が何か指示を出していたのか」


「当たり前だ。みんなとっくに屋敷に帰らせたよ」


「勝手なことをするな。俺の部隊だぞ」大柄で筋骨隆々のイヴァが並みの男なら尻尾巻いて逃げ出しそうな恐ろしい剣幕でヤシュパルに詰め寄る。が、小さいヤシュパルも負けていない。


「馬鹿じゃないの。何でこんな時もパトロールをやろうとするんだ。今は誰も外に出やしないよ」


「なぜそう断言できる。みな混乱しているこんな時こそ敵にとっては絶好の襲撃機会だ。今からでも遅くない。パトロールはやる。団長が舐められてもいいのか」


「弟たちが怪我でもしたらどうする。風に飛ばされたら? 高波にさらわれたら? あんたはリーダーとして責任が取れるのかよ」


「ちょっと、喧嘩はやめ……」最後まで猫が言い切らないうちにイヴァは凄んだ。「部外者は黙っていろ」


「とにかく、今日はパトロールはなしだ。命がけでやるものじゃない」


「大げさな。これしきの嵐で引っ込むようでは団長を守れるか」


「それでシャーロットが喜ぶと思う? イヴァ、怪我でもしたらあの人は悲しむよ」


「……そんなこと、お前に言われなくとも解っている」


「もし天候が回復してきたらパトロールをやる。それでいいだろ?」


 するとイヴァは大きな手を伸ばしてヤシュパルの頰に触れた。どきりとして猫がそばで見ていると、彼はヤシュパルのつんと尖った鼻先を指でなぞり、泥を雑に払い飛ばした。ヤシュパルは少し驚いたふうに目を見開いているも、されるがまま。


 ――びっくりした。顔をひっぱたくのかと思っちゃった。


「わかった、いまはそれで良い。だがきっとだぞ」


「ああ。もちろん」


 その時、ちょうど玄関の大扉が開いて雨と共にシャーロットが入ってきた。「あーあ、全身びちゃびちゃだよ」


「団長。見回りご苦労さまです」


「うん。何とかなりそうだよ。これ以上悪化するとやばいけど。で、どうしたの。みんな揃ってさ」シャーロットは壁に立て掛けられたタライを床に置き、その上で少し前屈みになって濡れた長い髪を絞り始めた。「まさか、喧嘩してないよね」


「してません」ヤシュパルはイヴァの顔を見てにっと笑った。「必要な議論をしていただけです。そうだよなイヴァ」


「ああ、俺は団長の大嫌いな喧嘩などしていない。少々議論が熱くなっただけです」


「ならいいけど」シャーロットは二人の弟たちの間に入って肩を抱いた。「ね、みんないっしょにシャワー浴びようぜ。特に泥んこのヤシュパルはね。マリーもいかが?」


「わたしは別に……」と猫が言いかけたところでまたもイヴァが大声で遮った。「だ、駄目だ」


「どうして? 最近はつれないな」シャーロットはくすくす笑っている。


「もう俺は子どもじゃないぞ。俺はいいですから」


「ふたりともいいのか? ならヤシュパルと行ってくるよ」


 ヤシュパルは差し出されたシャーロットの手をとって嬉しそうにそれを見つめている。


「おい、何でヤシュも着いていくんだよ! お前も駄目だろう!」


「へ? ああ、ぼくはイヴァみたいにいちいち気にしないからね。ばーか」


「この野郎……ずるいぞお前」


 仲良くシャワーに向かったシャーロットたちをイヴァは恨めしそうに見ていた。後ろで猫は笑いをこらえながら、ヤシュパルの部屋に戻ろうとした。するとその時イヴァは唐突に振り返って猫を呼び止めた。「シスター・マリー」


「あなたに話がある。少し宜しいか」


 猫は彼の表情を見て笑みを引っ込めた。イヴァはさっきの子どもらしさをどこかへやって、厳しい目つきを猫へ向けていた。「な、なに?」


「この島はいま本当に危険な状況にある。あなたは柵の外のことをよく知らないだろうが、これからはそれを十分に理解していただく」


「大丈夫よ。わたしはこんな時に外へ出たりしないから」


「嵐の話をしているのではない」


 イヴァは低い落ち着いた大人の男の声を使った。それはさほど大きな声ではないのに雨音響くホールの中でよく通った。「もっと大きな危険があるのだ」


「なにが言いたいの?」


「団長があなたに射撃の教授を任せたのはなにも戯れのことでない。市民がその身を守るすべを身に付けなければ柵など簡単に破られるとよくご存知だから、なぜだか射撃に長けるシスター、あなたの手を借りたのだ」イヴァはゆっくりと猫に歩み寄って距離を詰めた。


「現に四年前入植街(アピア)の帝国領事館が手酷く荒らされている。氏族長(マタイ)の中には白人の横暴に恨みを持つ者も多い。特に我が義兄ラウペパを討たんと森を徘徊するタラボウの一派はな」


 戦争。部族間抗争。豪族の後継者争い。


 猫はそれらの単語をロイド中佐の資料から見つけることができていた。けれど戦いの様子はまだ見たことがない。それどころかまともに島の中に足を踏み入れるのもまだ。実感などもちろん湧かない。だって、みんなひょうし抜けするくらいのんびりした、悩みの無さそうな人々だもの。


「俺たちはいつも無意味に行進しているわけじゃない。そういった危険から極めて現実的に柵を警防し、商会の名誉に賭けて白人の住むアピアの見回りもしてやっている。その守護に与り(あずか)たくば、おかしなまねをして俺たちを敵に回さないことだ」


「なんのことかさっぱり分からないわ」猫は苦手なポーカーフェイスをもっと上手くなるよう練習をしておくべきだったと今さら悔やんだ。声も少し震えてしまう。「わたしが何かした?」


「俺は二度言わない。シスターはシスターらしく早く教会へ行け。この嵐が過ぎればシスター・テリーザも戻ってくるころだろう」


「言われなくてもそうするつもりよ」


「ではこれで。俺はあなたのように暇ではない」


「なっ」単純な猫は素直にかちんときた。わたしが暇だって? こんなにもわたしは任務のために身も心も粉に、って今はまあ、たしかに暇だけど。でもいつもはそんなじゃないつもりよ。


「どこへ行くのよ。さっきヤシュに言われていたじゃない」


「あなたには関係のないことだ」


「ねえ、わたしのことが気に入らないからそんなこと言うんでしょう? わたしは何もおかしなことなんかしてないもの」


 イヴァは何も言わずに銃を背負い、また屋敷の外へ出て行った。「ふん、わたしは止めたからね」


 ヤシュパルの部屋に戻った猫は落ち着いて椅子に座っていることができなかった。ヤシュパルが貸してくれた難しい本を読み続けることはさらに難しくなり、猫はそわそわ狭い部屋の中をうろついていた。


 ――なんで怪しまれた? わたし、まだ何もしていないのに。せいぜい屋敷の中をこっそり見て回ったくらいよ。


「そうか」猫は急に立ち止まって人差し指をぴんと立てた。それは大事な話をするとき中佐がよくするポーズだった。けれど真面目な顔をしてみても、頭の中が賢くなる訳ではない。


「そうよ、イヴァはわたしに嫉妬してるんだ。シャーロットのことが好きだから面白くないのね。さっきはきっとただ八つ当たりがしたかっただけ」猫は安心と可笑しさで楽しくなった。外が嵐でも気分は悪くなかった。「ふうん、イヴァも可愛いやつだな」


 考えなくていいことは考えない。見たくないものは見ないし、目が行ってしまうのは自分の欲しいものだけ。思慮も浅くいつも注意欠落。そんなふうだから見放されてしまう。ロイド中佐が根気よく指摘し続け、ここ数年はもはや猫に分からせることを諦めかけていたそのことは、猫も実は聞き流していたわけではない。時折思い出して反省することがあった。けれど大抵そういう時は気づくのが遅すぎてどうにもならなくなっている。猫は結局、イヴァの警告を真に受けなかった。


 嵐の去った朝に猫は珍しく早起きをした。それまでと違う部屋だったからかもしれない、と猫は思った。いいと言うのに部屋のあるじのヤシュパルはベッドを譲り、隣の部屋の男の子たちと一緒に寝ると聞かなかったのだ。屋敷を出ると辺りは立ち木がなぎ倒され、鍋やら弓やら吹き飛んだ長屋の屋根や壁、おまけに魚までもが地面に撒き散らされている酷いありさま。賑やかに片付けをする大人から子供までの大勢の人々を見て、それに加わりたいと思うのは猫にとって自然な成り行きだった。


 ――これはただ貸しを返しているだけよ。敵だからこそ、貰ったものはちゃんと返さなきゃ。時が来たら気分良くシャーロットから金塊を奪い取って逃げるんだから。


 午前のパトロールが終わって戻ってきたヤシュパルは、自分が柵を出た早朝とまったく同じように片付けをしている少女をみとめて目をパチパチさせた。どこかで転んでしまったのか、彼女は昨日の自分のように泥だらけのびしょ濡れだ。


「マリー、片付けを手伝ってくれてありがとう。でももういいよ」


 疲れただろう、と心配するヤシュパルに猫は屈託のない笑顔で首を横に振った。「大丈夫よ」


「水を飲んできなよ。この暑さで汗をたくさんかいているはずだから」ヤシュパルは猫の泥に汚れたワンピースを見て言った。「あとそれ、着替えたほうがいいね」


「うわっ、わたしいつ汚しちゃったんだろ」


「さっき団長が屋敷のところにいたから、着替えを貰うといいよ。あと水は屋敷のキッチンの井戸水を飲むんだよ。外の井戸は昨日風に飛ばされたゴミが溜まっているかもしれないからさ」


「わかった。そうする」


 屋敷に戻ると、玄関の前で10歳くらいの男の子たちが石畳の上で寛いでいた。出るとき屋敷の窓に打ち付けた補強材を取り外していた集団らしかった。みんな何か頬張っている。


「みんな何食べてるの?」


「これはサツマイモ! 焼いて食べるとすっごく甘いんだよ」少年のひとりが口を動かしながらにこにこして答えた。「先生が来るときにいつも持ってきてくれるんだ」


「先生?」


「算術のテリーザ先生だよ」


 猫はわずかに身構えた。ようやくシスター・テリーザが戻ってきたらしかった。美味しそうな黄色い焼きイモがもたらした空腹感が、ほんの一瞬でかき消される。島にやって来た日に感じた緊張を猫は思い出していた。焼きイモの誘いを断って、猫はホールへと入った。


「誰もいない。みんな外へ出て行っているのかしら。でも……」


 食堂の扉の向こうから話し声がした。猫は静かに扉のそばへやってきた。中からはシャーロットの声と、もうひとりの女性の声が聞こえてくる。


 ――おかしいな。なんでわたしはこんなに緊張しているの?


 ロイド中佐の昔からの知り合いということは聞いていた。任務について全く無関係の頼れない協力者だということも聞いている。それでも島に来てから自分をほったらかしているテリーザにひとこと言いたい気持ちが無いわけでもなかった。一方でもしかすると何か金塊探しのヒントをくれるのではないかという、淡い期待を抱く。自分ひとりの頭では到底シャーロットに太刀打ちできないと猫は分かっていたから。


 それと、少しの興味。――中佐の知り合いの女とやらのカオを見てみたい。


 猫は木目の大きな扉に耳をくっつけた。なぜだか扉を開けて入ろうという考えが浮かばなかった。


「――それで、テリーザ。東部アトゥアの村への往診はどうだった?」細やかな砂を桶に注ぐようなハスキー、少年じみた声。猫が最初に性別を騙されたシャーロットの声だ。


「穏やかなものよ。タラボウの戦士たちは島の西側に移ったみたいだから。それでも最後に訪ねた村で手持ちのモルヒネがなくなってしまったけれど」


「ラウペパ王は今どこへ?」シャーロットが少し声を落としたので、聞き取りにくくなる。猫は耳をそばだてた。


「表向きは南部の海岸にある彼の新しいサーファタ、野営地に。でもほんとうは追っ手を撒いてアピアのすぐ近くまで帰ってきているわ。軍勢はわずかだけど、元々ここ北部海岸一帯の村々は彼の賛同者で固められている。アピア周辺の8村は彼の手に戻ったと言って良いわ」


「さてこれからどう転ぶのかな。戦いがまた激しくなるのか、それとも力の天秤が釣り合って和平へ向かうのか。とにかくラウペパ王にぜひお会いしたい。いま彼の力が必要なんだ」


「なぜ?」


 沈黙。たぶんシャーロットのほうが咳払いをした。


「うちで採れたケシをまた送るよ。それでアヘンチンキを作れるんだろ?」


「助かるわ」


 テリーザの声は鈴を鳴らすよう。若々しい、でもどこか威厳があった。


「それと頼まれていた買い物はもう教会に届けてある。いつもの医学雑誌にヒマシ油に、なんだっけ?ドーフル散とモルヒネと、あとはエーテルとフェノール水、それから包帯包みが20箱、針がひと箱」


 そこで物音がして、会話が途切れた。何かを鞄から取り出すような音。


「これは前回のつけと今回の注文のぶん」


「うん。代金は確かに受け取った。でもそんなに奮発して大丈夫なの? 今回はやけに注文が多かったけど」


「足りなくなったものを買い足しただけよ。余計な心配はいらないわ」


「そう。お金が足りてるのかなって思ったんだ。何度も言うけど、うちの専属になってくれるならお金の心配はさせないぜ」


「子供が調子付くんじゃないわ。あんたが賢人会議から縁を切るというなら考えてあげても良いけれど」


「またそれか、それは有り得ないと言ったろ」


 シャーロットのため息が聞こえる。猫にはなんだかわざとらしいようにも感じられた。


「街の大人に関わるのはもうやめなさい。あんたはうまく彼らを操れているつもりかもしれないわ。でも思い出しなさい。あの大人たちは初め、あんたをゴミの如く捨てようとしたのよ」


「言われるまでもない。けど僕らの未来のためには汚い大人と付き合うことが避けられないのさ」


 いい加減自制なさい、とテリーザは一喝した。「あんたは火遊びをしているの。大人を甘く見過ぎなのよ。あんたは初心に返ってただ屋敷と柵を守っていくことだけを考えていれば良い。大きくなろうだなんて考えては駄目。いつか酷いしっぺ返しを食らうことになるわ」


「逆だよ。小さいままではいずれ潰される。僕らに逃げ場がない以上、そんな危険が少しでもあるなら取り除かなきゃいけない。大きくなることが僕らの生存戦略なんだから」


 ――シャーロットの金塊は爆弾なのかもしれない。


 それは絶対に手放せないし、おまけに死ぬまで誰かから狙われ続ける厄介な呪いらしい。内心で呻いた猫はその時、突然肩に乗せられた大きな手を視界の端に捉えた。「扉を」


「泥水で汚さないでいただきたい。シスター・マリー」


「あっ……、違うのイヴァ」猫は思わず口に手を当てて、本当に呻いた。


「そこで何をしている。なぜ盗み聞きをしていた?」


イヴァは刺すような視線を猫に向けていた。その殺気すら感じる眼と野太い声に、猫は萎縮して動けなくなった。


「そこに誰かいるの?」


 するとだしぬけに扉が開いて猫はバランスを崩し、シャーロットの白シャツの胸元で抱き留められる。「イヴァにマリー、そんな所でどうしたのさ?」


「この方がお二人の会話の立ち聞きを、いや盗み聞きをされていたので」


「あの、中でお話してたから入りづらくて。そういう風に思われたのなら、ごめんなさい」猫は慌ててシャーロットから離れた。


「ああそうだったの」


 シャーロットは笑顔で猫を見つめた。「それはごめんよ。扉を開けておけば良かったね」


「団長!」


 シャーロットは不服そうな声のイヴァに近寄って、大きな彼をにこりと見上げた。その筋張った強面の頬にさっとキスをした。「なっ!」


「イヴァ、ありがとう。君の警戒心は賞賛されるべきものだと思ってる。お世辞じゃなく僕はほんとうにそう思っているよ」


 途端にイヴァは顔を真っ赤にして俯いた。すると顔を上げずに猫を食堂へ押し込んで、ばたんと扉を閉めて走り去った。静かな屋敷の中で廊下を走る音が小さくなっていく。その場にいた皆それがはっきりと聞こえた。食堂の長テーブルについていた修道服の女性は立ち上がってそばにやってきた。


「ひどい。イヴァが可哀想だわ」


「え、どうしてさ? 僕は褒めたんだよ」シャーロットは珍しく困惑した表情を浮かべて、ぎこちなく微笑んだ。


「それは本気で言っているのかしら」


「嘘で褒めたりなんかするかい。イヴァは僕の大事な弟だ」


 きまり悪げなシャーロットは視線を猫の方へ移し、いつもの余裕ある雰囲気に戻った。


「ていうかマリー、きみすごい格好をしてるね」まじまじと猫の頭からつま先までを見つめたシャーロットは、感心したように言った。「大丈夫? 泥んこじゃないか。滑って転んだのかな」


「あー、そんなところ。気にしないで」


「マリー」シャーロットの隣に立つ小柄でくしゃりとした赤毛の女性が、ようやく猫のほうを見た。「あなたがシスター・マリーね」


 綺麗な女の人だ、と猫は単純にそう感じた。片頬に走る痛々しい一本の傷が何だか勿体ないように思えた。中佐とはどういう関係なのかしら?


「はい。シスター・テリーザ、これから長い間お世話になります」


「よろしく」けれどテリーザはすぐに興味を失ったようにシャーロットの方へ向き直った。「この子の面倒を見てくれてありがとう」


「どうも。でも僕としてはずっとここにいて欲しいくらいなんだけど」


「私の助手として働いてもらうんだから、あんたが甘やかす必要はないわ」


「じゃあ教会へ帰る前にせめてシャワーを浴びていったら? テリーザもさ」


「いや、けっこう」


 テリーザは席を立ち、床の上から背丈の半分はありそうな巨大な黒鞄を取り上げて、悠々と右肩にかけた。「シスター・マリー、早く荷物をまとめなさい。帰るわよ」


 すたすたと玄関に向かうテリーザに猫は慌てて二階の客室へ戻り、少ない荷物を旅行鞄に放り込んで待とうともしない修道女の後を追った。


「ま、待ってよ。……何でそう急ぐのよ」


 歩みの早いテリーザの後について森を抜け、丘の上の小さな教会に辿り着いた。彼女といっしょに歩くと以前シャーロットに連れてきてもらった時よりも拍子抜けするくらい早く到着した。「先に荷物だけ置いていくから鞄を寄越しなさい」とテリーザは言って自分の黒鞄と猫の持ち物を持って礼拝堂の隣の小さな母屋に入っていった。数分も待たずに戻ってきた彼女は、何か入ったバスケットをぶら下げて前回は行っていない礼拝堂の裏手に猫を連れていき、鬱蒼と茂る藪の中をぐいぐいと進んでいった。


「あの、どこへ行こうとしてるんですか?」


「行けばわかるわよ」テリーザはにこりともしない。


 猫が戸惑いながらついて行くとだんだん水音が大きくなってきた。目的地は小さな沢だったのだ。そこには猫の背丈ほどのこれまた小さな滝があり、その小さな淵の水は驚くほど澄んでいた。


「綺麗でしょう? これでも昨日の嵐の名残りで少し濁っているくらいよ」


 テリーザはバスケットを淵の辺に置いた。「さあ脱いで」


 きょとんとする猫にテリーザは焦れたように服を指差した。乾き始めてから猫はすっかり忘れていたけれどいまだ全身泥だらけだった。「それ、いま洗ってしまうから早く脱ぎなさい。その間にそこの淵で身体も洗うのよ」


「え、ここで脱ぐんですか?」


「他のどこでするつもりよ。ほら早くして。もし誰か来たら私が追い払ってあげるから」


「誰か来ることもある?」テリーザはそれを無視して手で催促をした。


 ――この怪力女、嫌なやつ。


 猫はくちびるを噛み、悔しさと恥ずかしさで赤くなった。しぶしぶ脱ごうとすると今度は待った、とテリーザは止めた。「なんて脱ぎ方をしているの。それじゃ生地が伸びるか破れるわよ。ちゃんとこう、腕を交差させて裾を持って、首から脱ぐの」


「……はい」


 猫は脱いだワンピースをテリーザに渡して肌着を外していると、まだテリーザが自分を見つめていることに気がついた。「あの、できれば見ないで欲しいんですけど」


「ああ、ごめんなさい。これは私の癖よ」


 猫は泳げもしない狭い淵に身を晒し、ため息を吐いた。どうやら医師という仕事がら健康なのかどうか知りたかったらしい。幸いテリーザは「背は低いけれどそれは健康に関係しないから問題ないわ。私も同じ年のころ似たようなものだったから」と合格の判定を下したのだった。


「あのシスター・テリーザ。ひとつ聞いてもいいですか」


 淵の辺に屈んで服の手洗いをしているテリーザは、少女の顔も見ずに答えた。「なに?」


「ジェームズ・ロイド中佐とはどういった関係なんですか?」


「むかし私の上司だった」テリーザは特に躊躇いなく口を開いた。


「お世話になったし、感謝をすることもある。彼のことは人として好きではないけれど」


 猫は水に濡れた目元を手の甲で擦った。「あなたは機関にいたことがあるんだ。ということはわたしがなぜ島にやって来たのか知っているのね。もしかして任務のことだって――」


「あの人、階級は上がっても勘は鈍ったようね。こんな能天気な娘を寄越すなんて」テリーザは小馬鹿にして言った。「あなた、血の巡りが悪そうだから一度だけ忠告をしておいてあげる。なんの保証があって私にそんなことを喋れるの。仕事を済ませたいなら変な勘違いはしない方が身のためよ」


「だって中佐とは知り合いなんでしょう?」


「それが私への信頼に繋がる根拠はなに。私が嘘を吐いていないという保証は? 上官のコードネームを私に明かす必要はあったのかしら」テリーザは丁寧に服の泥を指で落としながら、言葉で猫を追い詰めていった。


「シスター・マリー。あなたは修道会の命で私の助手として派遣されてきた見習い修道女。ここに私の手伝いをするために来たんでしょう? 違うかしら」


「いえ。その通りです」


「いつまでのんびりしているの。早く上がって、服を着なさい」


 テリーザのバスケットの中から乾布(タオル)を取り出して、テリーザに急かされながら身体を拭く。隅々まで丹念に水分を取る時間は与えられず、ほんのすぐ後にはテリーザと同じ修道服を身につけて、相変わらず先を行く彼女を追って歩き出していた。


 ――嘘な訳がないよ。この感じ、時間にけちなところも中佐とそっくりだわ。


 それから教会に戻った猫はさっそく雑巾と箒を渡され、礼拝堂の掃除を言いつけられた。長い間使われていないそこは埃っぽく、長椅子には以前猫とシャーロットが腰掛けたあとがくっきり残っていて、黒髪の見習い修道女をげんなりさせる。「神さまに仕える人間が礼拝堂を使わないなんて」


「仕方ないでしょう。ごくたまにしかここへは帰れないのだから。そう、あなたの役目はここを清めることよ」テリーザは臆面なくそう言ってのけた。


 ――とんでも無いやつ。こんな人と当分付き合わなきゃならないなんて。これならシャーロットのところにずっと居座っていたほうが……。「って痛い」突然、目の前に火花が散った。


 足がもつれた猫は礼拝堂の硬い床に身体を打ち付ける前にどうにか受け身を取り、憎らしげに足元の大きな木箱を見やった。「まったく。こんなところに荷物を置かないで欲しいわね」


 何気なく蓋を開けてみる。すると箱の中はガラス瓶や小さな紙箱でぎっしり詰まっていて、その上にひとつ茶色い紙袋が載っている。紙袋にはシャーロットの商会の名が刷られていて、猫は好奇心に駆られて中身を検めた。


「なにこれ」それはまったく見たことのない緑色の実だった。テニスボールよりも少し小さいくらいのつるりとした愛嬌のある球状のそれには、トマトのような冠と、サクランボのような細長い茎が付いている。「それはね」いきなり後ろからテリーザが現れ、猫の手を掴んだ。


「それは、ケシの実よ。果汁を乾燥させるとアヘンになる。さっき盗み聞きをしていたのなら、シャーロットが農園でケシを育てていると言ったのを覚えているでしょう?」


「あなたはアヘンを吸うの?」


 猫はアヘン(くつ)が人に何をもたらすのかは知っていた。小さいころに住んでいた移民地区(イーストエンド)を思い出せば、ふらふらの男や死んだように寝転がる女を怖いもの見たさで覗いた記憶が流れてくる。それはアヘン窟という気味の悪い場所だった。


「まさか、わたしはアヘンが大嫌いよ。これは吸うためじゃなく、アヘンチンキ、つまりローダナムを作るために必要なものなのよ」


 ローダナムといえば猫もそれを理解できた。スミスフィールドの街角にありふれたものだった。


 ローダナム、それはヴィクトリア女王の膝下ロンドンの薬局でごく一般的に販売される、認可を受けた万能薬酒。飲めばどんな種類の痛みも抑え、下痢にも風邪にも、はたまたコレラや結核にも効くとされ、おまけに安価な庶民の味方だった。幼かったころの高熱の夜、救貧院の保母にスプーンでひとくち舐めさせられ、ぐっすり眠りについた朧な思い出があった。


「アヘン窟のアヘンとローダナムが同じものからできていたなんて……」


「吸うのと飲むのとでは効き方が大きく違ってくるけれどね。どちらにせよこれは()()()()()のに使うわけじゃないわ。身体を抉られたり、斬り落とされる尋常でない痛みを抑える鎮痛剤として用いるのよ」


 猫は青ざめた。「か、身体を抉られたり、斬り落とされたりする人がいるの?」


「箱の中は見たいなら好きに見ればいいわ。わたしはこれから行くところがあるから」テリーザは腕時計を見て言った。「でも絶対に落としては駄目よ。特に吸入麻酔薬エーテル鎮痛用粉末麻薬(ドーフル散)は高価なの。注射針もね。落としたらあなたのボスに弁償させるから」


「そんなことしないってば」


 顔を上げたテリーザは困惑げな猫の視線を捉え、じっと見つめた。「あなたに期待はしていない。何も考えていないことが顔を見ればよく分かるし、ジェームズ・ロイドという男を満足させる実力を持たないということも分かるものよ。でもね」


 テリーザは足元の木箱に目を落とした。「これはジェームズがあなたをわたしに押し付ける代わりにくれたお金で買い付けたものよ。正直に言って今回はとても助かったの。だから、あなたの無能を神に感謝しなくてはね」


「ひどい! わたしは中佐に厄介払いされた訳じゃないわ」 猫はテリーザに背を向けて礼拝堂の外へ駆け出していった。「あんたなんて大っ嫌い」


 残されたテリーザは母屋に戻り、近くの村への往診の準備をした。最近はローダナムで事足りることが多く、安寧に彼女は喜びを感じていた。枯渇しかけていた薬剤も思いもよらぬ援助で手に入れることができた。人前でめったに笑わない彼女は、誰も見ていないことを知ったうえで、その時くすりと笑みをこぼした。


「あのジェームズ・ロイドがねぇ。父親にでもなりたいのかしら」




 それからの日々はテリーザと離れたかった猫にとって快適なものだった。朝起きてビーティー商会領まで丘を駆け下り、柵の中で食料を買って食べる。そのあとたまに射撃教官をやってタブレットを稼ぎ、それを使ってまた次の日も食べ物を買う。教会は月に二度、新聞を届ける商会の少年がやって来るほか、外から訪れる者はまるで居なかった。


「これじゃあ修道女のふりなんてする必要ないけど……」


 それでも猫は見真似のお祈りをし、礼拝堂を欠かさず掃き清めることは続けた。自分だけの礼拝堂に次第に愛着が湧いてきて、ぴかぴかに磨き上げることに喜びを感じるようになっていった。


「でもわたしはマリーを名乗っているのだから、怠けてしまうのは礼拝堂のマリア様に申し訳ないのよね」と信心深くないなんかないくせに妙な信仰心を育て始めてもいた。


 毎日テリーザは氏族たちから貰ってくる食料を持ち帰ってきて猫の食料とした。けれど商会で食事を取ることに味をしめた猫は甘いサツマイモを除いてあまり食べず、そうしてすぐにテリーザは何日も教会に戻らなくなった。お互いそれが快適だったのだ。


「もしかしたら、わたしの任務を察して気を利かせているのかもね」そう猫が思ってしまうほど、少女と女修道医師の交流は没になっていた。テリーザは猫を往診へ連れて行こうという意思を全く見せなかったし、金塊探しから逸れるため猫もあまり興味を示さなかった。


「あんなやつに馬鹿にされても悔しくなんかないわ。中佐が褒めてくれるのなら、優しくしてくれるのなら、それでぜんぶ吹き飛ぶんだから」


 けれど金塊探し、手掛かり探しは遅々として進まなかった。アピアの大人たちに言わせれば、そんなものが分かっているなら俺たちがとっくに手を出している、ということだった。


「ナビゲーター・アイランズの近海に宝が隠せそうな無人島はないの?」猫はアピアの港でイギリス商船の水夫に聞いてみた。あくまで海象について尋ねるついで、というさり気なさを保っているつもりで。


「お嬢ちゃん。もしかしてビーティー商会の金塊ばなしに興味があるのかい」


「少しね。有名な噂らしいじゃない」


 でも猫は期待を隠せない。突然詰め寄ってきた少女を前にした髭もじゃ汗臭中年男は、自分が実は水もしたたる色男なのではと錯覚するほどそれはそれは情熱的な瞳だった。「それで、どうなの? 宝島はありそう?」


「そ、そういうのはなあ……、もう粗方探し尽くされているはずだがな」


「本当に? ねえ、隠さないでよ」


「この四年間どれだけの人間が消えた金塊に夢中になったことか。でもな、未だに見つかっていないよ」


「まあ、そうよね……」


 現代に海賊島は存在し得ない、とロイド中佐は猫に語っていた。しかし彼は例外があるとも言った。列強国の緩衝地帯として国家機関の公式な調査が保留されたこのナビゲーターアイランズの周辺ならば、金塊を積んだローズ号を隠せるかもしれない。いや、むしろここにしか隠せないのだと。


 シャーロット自身も同じようなことを言っていたと猫は思い出す。


『船を奪って太平洋を彷徨ううちに、僕らはある無人島に着いて、そこで暮らすことを決めた。追手を撒くために()()()()()()()()()()()()()()()――』


 ――そもそもシャーロットは自分たちの大切な財産の隠し場所について、どうして噂なんかさせているんだろう? 商会の力をただ自慢するため?


 わからない。でもわからないではいられない。猫は唇を噛んだ。そうしなければ任務が終わらない。


「なあシスターさんよ。でもあんた、どうして金塊なんかに興味があるんだ? 神に仕える身にしちゃずいぶんと俗だな」


「愚問ね」猫は暗い顔を吹き飛ばしてせせら笑った。「わたしだって愚かなこの世の人間だもん。知りたいことはいっぱいあるわ」


「なるほどなぁ、おもしれぇ娘だぜ」そうして汗臭い船乗りはがははと笑った。


 ローズ号の残骸とともに隠された金塊の山がどこかにある。南太平洋のどこかに。


 この話は船員たちの好きな話題らしく、彼らは快く妙ちくりんな新米シスターに語ってくれた。けれど今もそれが見つかっていないという事実に変わりは無い。したがって新鮮味のある有益な情報はもともとありもせず、無駄に時間だけが流れていく。朝になり、スコールの昼は飛び去って、じめじめした夕方が来る。そして日が暮れて寝て、また朝になり……。


「せめて中佐からの返事が来るまでの数週間のうちに、何か手掛かりが欲しいのに……。ああ!もどかしい」


 聞き込みも楽では無い。ただアピアの街に向かうだけでも、猫は神経を使う必要があった。イヴァ、そしてヤシュパルの警ら隊がかなり頻繁に巡回をしているのだ。


 ――ヤシュパルならまだ言い訳が立つけど、もしイヴァに見つかったら面倒なことになるわね。絶対。いやそれならまだマシ、もし金塊探しをしていると知れたらたぶん屋敷か教会に縄で括られる。彼なら普通にやりかねないわ。そうだ!


 猫は変装をすることに決めた。そんなときに猫は自分の数少ない取り柄のひとつを活かすことができた。ロイド中佐との共同生活で培った初歩的な家事技能である。


「洗濯物がたくさんあって大変ね」猫はシャーロットから食堂での昼食に招かれたとき、窓の外ではためく大量のシャツ、下着用半袖膝丈タイツ(ユニオンスーツ)、靴下、茶色の半ズボン、そして紺帽子たちを眺め、これまたさり気ない感じを装って呟いた。イヴァはパトロールに出ていて屋敷にはいない。


「そうなんだよ。天気雨でしょっちゅうずぶ濡れになるし、弟どもはみんなすぐ汚すし、いつも替えをたくさん用意しておかないといけないんだ。糧食班が洗濯担当なんだけどさ、きりがないから僕も手伝ってるの」


「ねえシャーロット。洗濯物を取り込んで畳むの、わたしやるわ」


「ありがたいけど……いいのかい? 教会を空けてても」シャーロットはマグロのステーキを頬張りながら上目で猫を見る。


「やることはやってるから大丈夫。それにどうせ誰も来ないもの」


「そう。じゃあ任せた。畳んだ服は一階奥の脱衣所のところに置いてくれ」


「わかった。先に言っておくけどお小遣いはいらないわ。わたしがやりたくて、やるんだから」


「ね、きみさテリーザのところが嫌になったらすぐ戻ってきなよ。ヤシュパル、この子の皿にもうひと切れ。あと僕にも」シャーロットは嬉しそうに食器をかちゃかちゃ鳴らした。


 それからの日々、昼下がりに大量の洗濯物を畳むことが猫の新たな日課となった。昼ごはんをご馳走になるため、というのはもちろん建前。真の目的は畳んだ大量の洗濯物を一着失敬すること、ただそれだけだった。屋敷のなかが閑散とするのを狙い、こっそり教会に持ち帰り、使った後は戻す。誰も怪しむものはない。


 ――これで変装着が手に入った。おまけに毎日洗いたて。ふふ、わたしにしちゃ良くできた作戦だわ。


 猫はロンドンでもよくやった少年の格好を島でも再現しようと努力した。黒い髪は任務が始まってからだいぶ伸びてしまっていたから、シャーロットを真似して紺のキャスケット帽に無理やり隠し込んだ。任務のためと割り切って少し無理をした。さらしで締めて胸を平らに見せるのがぴりぴり痛いし、咳き込んで声を低くするのも楽ではなかった。それでもぱりっと半袖のミリタリーシャツを着て、半ズボンを履けば、少女は目つきの悪い生意気そうな少年に変身できた。


「エールをひとつ」


 猫はシスターが絶対に入れなさそうなところに行きたくて、果敢にもアピアの若者が集う浜辺の酒場に入り込み、カウンターに座った。主人の中年女はひどいフランス訛りで聞き返した。すると早速店の奥から歓待に若者たちがやってきて、猫の左右に立った。「よお」


「ここはぼくちゃんの来るところじゃねえよ。帰んな」


「ぼくは子供じゃない。金だってあるし、酒だって飲めるさ」猫はシャーロットに頼んでタブレットを換金して手に入れたペニー銅貨の小袋をじゃらじゃら鳴らした。いざとなればそれでぶん殴って逃げればいい、と猫はのん気に考えていたのだ。


「しかしよく見れば本当にちっちゃいな。まだおっぱいがお似合いだぜ」


「あ?」猫はグラスのエール酒を持ち上げて、喉に流し込んだ。ロンドン育ちの意地で猫は平然と飲み干して見せた。「お前らがでかいだけさ。うすのろ」


 二人組の若者は面白がって、猫の目の前にグラスを並べさせた。「エールなんてよせや。ぼくちゃんはラムで溺れさせてやろうか」


「ふん、ラムなんて砂糖水さ。いくらでも持ってこいよ」単純な猫はただ聞き込みに来たということをすっかり忘れて喧嘩を買ってしまった。


 それから半刻ほど経ち、だんだん女主人の迷惑そうな顔つきが深刻になり出したころだった。店の入り口からずかずかと背の高い細身の若者がカウンターまでやってきた。


「なんだ、この子供は」


「ああハインツ。教育をしてやってるんだよ。変なガキが来たからさ」


「子供でも!ガキでもない!」


「こんなちっこいのを虐めるなんてみっともねえな」現れた若者を睨みつける猫はグラスをまた飲み干して、がんと置いた。


「結構頑張るんだよ。こいつ、ガキのくせに」


「その辺にしとけよ。お前らもな、おもちゃじゃないんだから」


 ハインツという青年はカウンターにコインをひとつかみ置き、酔ってふらつく猫の手を引いて店を出た。日が落ちかけた夕暮れの浜辺に猫を座らせる。


「お前、どこのガキだ。いや、当ててやろう。ドイツ開拓団員の子供か、はたまた船に忍び込んだ浮浪児ってところだな」


「どっちでもいいよ」


「まあいいさ。アピア(ここ)は流れ者の街だからな。得体の知れない奴がいてもいい」


「あなた誰? ええと、ぼくはミカ」


「ハインツだ。ゴーデフフロイ商館の庭師をしている。さて」ハインツはにやりと笑って猫の帽子をさっと真上から奪い取った。「あっ!」


「お嬢ちゃん。声はもう無理しなくていい」


「返してよ!」猫は溢れた黒髪を両手で隠してわめいた。「くそっ、なんでわかっちゃうのさ」


 ハインツは呆れたような顔をして、猫の手の上にぱっと帽子を落とした。


「そんな下手くそな変装、誰でもわかるさ。女の子だと分かっていたから、さっきの二人も手は出さなかったんだぜ。あれで最低限の良心はある連中だからな」短い金髪を片手でぼりぼり掻きながら、ハインツはぼそりと続けた。「でも悪いことは言わんから、もうこんな所に来るな。まともじゃないどうしようもない奴らもわんさかいるからな」


「どうしようもない奴らって?」


「借金取りに追われて国を飛び出したやつ、賞金をかけられて逃げてきた殺人者、脱走水兵、そんなやつらさ。ここはどこの国の主権も法も及ばない新しい開拓最前線(フロンティア)だからな」ハインツは猫の隣にどっかりと腰を下ろした。「そうでないやつらも俺から見たらまともでないよ。みな先住民どもから土地を巻き上げることばかり考えている。うちのゴーデフフロイ様の真似ごとをして一攫千金を夢見てるんだ。アメリカのどっかのアホ新聞が開拓熱を煽ってからそんなやつらばかりさ」


「ふうん」猫はどうでも良さそうにうなずいて、帽子をまたすっぽり被った。


「ま、そういうことだ。なんにせよガキの来るところじゃない。早く家なり巣なりに帰れ」


「ちょっとまって。聞きたいことがあるの――」


 海に落ちかけた夕日を眩しそうに見つめながら猫は喋った。連日の無意味な雑談のせいでほとんど期待をしてはいなかったけれど、その予想外な返答に猫は思わず目を見開いた。酔いがさめた。このハインツと名乗る若い白人の男は、妙なことを言うのだ。


「シャーロットのところに本当に金塊があるのか、俺は怪しいと思うけどな」


「どういうこと?」


「あの娘が金塊を持っているとみんなが思うのは、あいつが赤ガラス海賊の生き残りだと信じているからだが……それが本当ならおかしいことがいくつかあるだろ?」ハインツはキザな口調で続けた。


 ひとつ。なぜ赤ガラス海賊は再び海を荒らすようになったのか。


「シドニー・アピア航路にはやり口が赤ガラスによく似た海賊が出るんだ。もっとも、ドイツ船を狙い打ちにするところや乗員を殺さないところはかなり違っているし、それが本当にローズ号と赤ガラス海賊によるものなのかはっきり分からねぇ。でもな、その”新”赤ガラスが四年前の逮捕劇のあと逃げおおせたという本物の赤ガラス船長一味だとしても、はたまた赤ガラス海賊の生き残りだということになっているシャーロットの仕業だったとしても、どちらにせよおかしいんだ。わかるか?」


 それは猫もずっと引っかかっていたことだった。シドニーで水兵マリオンから聞かされていたときから。


『君が旅人なら知らないのも無理ないけど、サモアに行く途中に海賊が出るんだよ。奴らはドイツの貨物船だけを襲う――』


「金塊を手にしたのなら、その後にせこい海賊業なんかやる意味がない」


「連中の脳みその作りを知らんから全くないとは言い切れないが、まあ論理的な思考の持ち主なら遊んで暮らせるお宝を手に入れた後あえてそんな危険を犯そうとはしないだろうよ」


確かにそうだ、と猫も思った。「ということはシャーロットが金塊を本当に持っているのなら、”新”赤ガラスの海賊船は本物のローズ号ではないということね。だって金塊はローズ号の残骸といっしょに隠されているはずなんだから」


 ハインツはうなずく。「大前提として赤ガラス海賊団は金塊輸送船を襲って確かに金塊を手に入れている。それは新聞に載ってみんな知ってる。そして今言ったように金塊を手にした人間は”新”赤ガラスに関わっていないと考えるのが筋。特にシャーロットが関わっていないことは確実」ハインツは続けた。「シャーロットは金塊の在り処、つまりローズ号の残骸の隠し場所を知っていることを自慢にしている。それなのにぴんぴんしているローズ号が今も海賊をやっていたらシャーロットの言うことと辻褄が合わなくなってしまう」


「そっか、そもそも”新”赤ガラスはシャーロットにとって都合の悪い存在のはずなのね」


「じゃあ、誰が今シドニー・アピア航路の通商を脅かしていると思うか?」


 猫は広い額に手を当てて、任務のために必死に頭をひねった。「ええと、まずシャーロットはあり得なくて、四年前逃げおおせた赤ガラス海賊も金塊を手にしたならわざわざこの海に戻ってくることは考えられないから……、あれ? ほかに誰か候補はいたっけ?」


「候補はふたつある。まずひとつはただ手口を真似ただけ、本物の赤ガラス海賊団と無関係なニセモン、つまり模倣犯だ。これはかなりあり得る話だし、シャーロットの言うことを信じる連中はそもそも”新”赤ガラスを赤ガラスと呼んですらいないくらいだ」


「でも真似るって、そう簡単にやれるものなの?」


「戦術としては単純だからな。洋上臨検をかける軍艦のふりをして商船を襲うってのが赤ガラス流の襲撃戦術だ。その実行に必要なものは、すなわち軍艦らしく見える船、それと英国海軍旗(ホワイトエンサイン)。軍艦そっくりに見せることはやろうと思えばそれ程むつかしくはない。快速帆船(クリッパー)の船体を黒く塗って甲板に大砲を積めば、それらしいものに仕立てられるからな。そしてただの旗なんか言うまでもない」


「それで、もうひとつの候補は?」


「まあ、焦るなよ。せっかく良いところなんだからさ」ハインツは浜に寝転んで伸びをした。その整った横顔が猫には少し子供っぽくも見えた。


「最初に言ったろ。シャーロットが金塊を持っているならおかしいことがいくつかあるって。まだおかしいことはあるだろ? 例えば大勢の船乗りが数年間探し続けている割に未だ木片ひとつ見つからないローズ号とか、あるいはそもそも金塊を手にしながらどうしてライム交易や郵便代行輸送なんていうみみっちい、俗な商売を続けているんだ、とかな。あれはもしかして趣味でやっているのか?」


「だからシャーロットは実は金塊なんか持っていないと、あなたはそう言いたいわけ?」


「うん。そう言いたいわけだよ」


「なんだかここにきて乱暴な論理ね。じゃあ、金塊を載せた本物のローズ号はどこへ行ったのよ」


 日の落ちた暗い浜辺には船を導くためのかがり火が点々と並んでいた。その明かりを受けて照らされる若者の顔はにやりと口もとを歪め、囁くように喋った。「沈められたんだ」


「はあ? どういうことよ」


「海賊団の大半は金塊強奪事件のあとに捕まったらしいぜ。そのときローズ号で逃げた海賊は数も少なく船を操作するのに手一杯だったはずさ。そんな状況で海軍の追撃部隊に追いつかれたらどうなる?」


「応戦は難しそうね」猫はのんびりとそう言ってから、あっと声をあげた。


「ふふん、気づいたか。もし艦隊が追撃に失敗したふりをしてひっそりとローズ号を仕留め、その金塊を奪って懐にしまっていたんだとしたら? そういうことだよ。ふたつめの”新”赤ガラス候補はオーストラリア駐留艦隊さ」ハインツはおかしそうに笑っていた。「要はな、奴らは皆殺しにした赤ガラスが生きているように見せかけたいんだ。おおやけにはローズ号の追撃に失敗して取り逃がしたことになっているからな。”新”赤ガラスは連中の自作自演なんだよ」


「ま、まって。いくらなんでもあり得ないわ。辺境の艦隊でも女王の海軍、ロイヤル・ネイビーのいち部隊なのよ」


「考えてもみろよ。赤ガラス海賊だって元はオーストラリア艦隊に所属した海軍の水兵どもだぜ。だったら他の艦の連中だって同じような奴らがいてもおかしくないだろ?」


 猫はマリオンの言葉を思い出した。『いやあ、ぼくも早く退治すればいいと思うんだけどね――』


『奴らに手を出すなっていう命令がここの最高司令官(コモドー)から出ているのさ』


 ――これもきっと自作自演を守るためなのね。ドイツ船のみを狙うのは帝国船に被害が出て帝国植民地の民衆から討伐願いが出るのを防ぐためだとしたら説明がつく。でも……。


「証拠は、決定的な証拠は何かあるの? あなたは何か知っているのね」


 猫にとってその新説は全くもって笑えないものだったのだ。これでは金塊を手に入れるという任務を完遂することが不可能となるから。そんな彼女にハインツは爽やかな笑顔で言った。


「そんなのただの庭師が知るもんかい。ぜんぶ空想さ」


 それ以上彼は何も言わず、眠ってしまった。猫はしぶしぶ教会に戻るしかなかった。

航海士諸島

ナビゲーター・アイランズ、ウポル島

挿絵(By みてみん)

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