10:迷い猫のレポート
「なんか、いいように丸め込まれている気がする」
島にやってきてからまだ何日も経たないのに、猫は自分のやるべきことがわからなくなりつつあった。赤屋根屋敷の二階、猫は窓辺の机の上に腰掛けて足をぶらぶらさせた。灰色の空をうらめしそうに眺める。
「いろいろありすぎて、もうわけわかんないよ」
ここのところずっと雨だ。晴れていたのは島に着いた日くらいのもので、それ以降昼間は穏やかな雨が降り続け、時折強烈なスコールが襲ってくる。今日も寝ぼすけ猫を起こしにやってきたヤシュパルは「いまは雨季だから」とあっけらかんとしてそう言っていた。『あとひと月もすれば乾季に入るはずだよ』
『そしたら、もう雨はおしまい?』
期待に目を光らせた猫にヤシュパルは哀れみの目を向けた。『いいや、雨季ほど降らなくなるってだけ。ここでは一年中雨から逃げられないと思ったほうがいいよ』
猫は雨も嫌いだった。雨の日はロイド中佐がきまって彼女に退屈で苦手な「観察」訓練を言いつけたから。そんな日は体が鈍り、芯から腐り始めるように思えてたまらなかった。足がむずむずして外に出たかった。
「外に出よう」猫は机からぴょんと降りた。そうだ、今はそれができる。
猫は館の少年たちからコウモリ傘を1本借りてきて、商会領の門を出た。ヤシの木立を抜けて小道を進んでアピア市街に入ると、やけに寂しかった。朝市はもう閉まって閑散としており、白壁の豪奢な教会塔の扉も閉じられている。
「へんなの。だーれもいないじゃん」
聞き込みでもしようと思っていた猫は拍子抜けして、あてもなく街中を歩きまわった。街の真反対にそれぞれ建つ英・独の領事館も平日のくせに店じまいをしていて、なんだか長雨を理由に街全体が休みを決め込んでいるみたいだった。都会人のロイド中佐がこんな有様を見たら、きっと面白い反応をするぞ、と考えて猫は少しおかしくなった。
「戦争だなんだって言っても、やっぱりのんびりしているんだわ。みんなおなかの時計の進みがロンドンとは違うから」
仕方なく引き返そうとしたとき、猫は後ろから声をかけられた。「おーい、マリー」振り返って見るとヤシュパルが手を振りながら近づいてくる。ぬかるみを踏むたくさんの靴音と、小銃担いだ二列縦隊を引き連れて。集団はあっけに取られる猫の前までやってきて、きれいな整列を見せた。
「パトロール小隊とまれ。シスター・マリーに敬礼」
半袖の白いシャツも紺のキャスケットも、そして少年たちの体格にはまだ大きなライフル銃も、ぜんぶずぶ濡れになっているのに隊列のこども兵たちはそれを気にした様子はない。
「こんにちはヤシュパル。こんな雨の中何してるの?」
「パトロールさ。これも警防班の大事な仕事だよ。こうやって毎日回ることで街に攻め込もうと企んでいる氏族のグループにコレを見せつけるんだ」ヤシュパルは肩にかけた威圧感のある武器を揺すった。「氏族たちはみんな銃の怖さを知っているんだ。なにせ自分たちが戦争で使っているくらいだし。これは彼らにとって聖剣なのさ」
「そうなんだ……」
「で、そう言う君は何をしにここへ来たの? 見たと思うけど今日は雨でどこも閉まってるよ」
「えっと、見物よ。島に来た日は落ち着いて街を見て回れなかったから」猫は雨に曇る街の家々を見つめた。「いくらなんでも雨で休みなんてお気楽なものよね」
「マリーも雨が嫌いなんだろ? そのうち彼らの気持ちが分かるようになるさ」ヤシュパルは笑って言った。
「ねえそこ濡れるでしょ。軒下に入ったら」
「ぼくらは雨なんて気にしない、こんなのへっちゃらさ。それにもう帰るから大丈夫だよ」
いっしょに帰ろうよとヤシュパルが言い、猫は彼らとともに道を引き返した。するとたちまち頭の中によれよれスーツを着た不機嫌なロイド中佐の姿が浮かんできて、彼のため息に猫はみぞおちが痛くなった。
ま、まあ雨だから仕方ないよね。
ヤシュパルが喋っているのを上の空で聞いていると、彼は猫の顔の前で手をひらひらさせてきた。「ねえ、ねえったら」
「ごめん。いまなんの話を?」
「副団長の話だよ」少しむっとしたように彼は言って続けた。「あいつがいかに頑固者なのかっていう話」
「副団長……イヴァだっけ?」ああ、この前会ったあの褐色肌の大男か。
「そう。パトロールはいつも街を5周するんだけど、今日は雨がひどいから1周減らしましょうって言ったらさ、怒られちゃったよ。本当融通がきかないやつ」
「あなたたちって雨を気にしないんじゃなかったの?」
「それとこれとは別さあ」ヤシュパルは舌を出した。「ねえ聞いてよ。イヴァはさ団長の言うことならすっごく素直に何でも聞くんだよ。イヴァは団長に惚れてるんだ」
その時、小道の脇の藪からそのイヴァが飛び出てきた。少し遅れて彼の隊列も出てくる。背の高いイヴァは仏頂面で猫たちを見下ろした。「俺の名が聞こえたのだが。ヤシュパル、俺がどうしたって」
「べっつに何も。というかなんでそんなところから出て来るんです?」
「同じ行動経路を使い続ければ待ち伏せを受ける危険がある。街の外はいつ襲われてもおかしくないと教えたろう?」
「わ、わかったよ。今度から気をつけるから、そんなに詰め寄らないでよ」
ヤシュパルはなぜか顔を赤くして目をそらし、首からペンダントを取ってイヴァへ手渡した。「こほん、第1小隊長より午前の警邏任務の終了を宣言する。隊章を後続の第2小隊へ引き継ぎ、帰投する。以上」
「了解した。第2小隊長は隊章と任務を引き継ぐ。……気をつけて帰れよ」
ヤシュパルが歩き出すとイヴァは顔を猫の方に向けた。「シスター」
「な、なに?」
「昼間とはいえおひとりで出歩くのは感心しませんよ。外出時は護衛を付けますから必ず私に報告するように。では」
「マリー、早く行くよ」
猫はヤシュパルに追いつくと、早速彼から愚痴を聞かされた。「見たろ? お堅いやつなんだ。体はおっきい癖して心配性が過ぎる。いつもこうだからね。……まあ、真面目なのは立派だと思うけど」
それから猫たちは商会の柵の中に戻った。また部屋に戻ってじっとすることが耐えられそうになかった猫は、シャーロットの執務室の扉を叩いた。するといつもはいないはずなのに、今日は扉が開いた。「や、マリー。入ってよ」
「あなたがこの部屋にいるところを初めて見たわ」
「そうかもね。僕は普段はあまり部屋にいないから。今日はこの雨だから久しぶりに溜まった書類の処理をしようと思ってさ」
シャーロットは猫を客用の椅子に座らせると、立ち上がって戸棚からクッキーの入った木箱を取り出し、皿に空けた。仕事机の上のティーポットを持ち上げてカップに紅茶を注ぎ、猫に差し出した。「ありがとう」
「それで、どうしたの? おっとそうだ。これを先に言っておかなきゃ」シャーロットは思い出したように言った。「毎朝弟たちにテリーザの教会へシドニーの新聞を届けさせてるからわかるんだけど、まだ彼女はそこに戻っていないみたいだ。一応伝えとこうと思って」
「そうなんだ、親切に教えてくれてありがとう。今日あとで教会を見に行こうと思っていたところだったから……。それで、ちょっとお願いがあるのよ」
数刻して猫は浜辺の商会市場のすぐそばにある射撃場にいた。シャーロットも上機嫌で隣に立ち、その目の前には大勢の帽子少年たちや、大人のサモア人「市民」たちがライフルを持って集まっている。「いやあ、君も律儀だね」
「そんなことないわ。ここまでして貰っているんだから、当然よ」
「ふふ、何か仕事をさせてほしいだなんて。いいね、そういう君が大好きだよ」
猫は咳払いをした。「そ、それでわたしはここで何をすれば良いの?」
「マリー、君は昨日ここですごい腕前を見せてくれただろう? それをうちの弟たちにも見せてほしいってのと、島民たちにそれをレクチャーしてあげてほしい。彼らは少しなら英語がわかるから」
猫は胡乱な大人たちの目、興味深そうにじっと眺める目、突然現れた少女に面白がっている目、いろいろな目にいっぺんに晒されて居心地が悪い。みなシャーロットの手前何も言わないけれど、猫の技量をかなり疑っているらしかった。「わかった。銃はどれ?」
「今日はこいつを使ってね。うちが持ってる最新最良のライフル銃、マルティニ・ヘンリーだ」
シャーロットはほほえみ、猫にずっしりと重いそれを手渡した。ヤシュパルら少年たちが持っていた短小銃とは違って銃身はフルサイズの長躯である。「レバーアクション式、つまりレバーを前後に動かして装填と空薬莢の吐き出しをするタイプだ。使い方はわかるかな?」
「もちろん! でもこんなものどこで手に入れたのよ。これ、去年帝国陸軍で採用されたばかりの最新式の軍用ライフルでしょう? すごいわ!」
猫は銃が好きだった。ロイド中佐が遊び道具に人形を与えることはなかったけれど、週末に町外れにある彼の屋敷森で好きな銃を撃つことを許していた。孤独の寂しさを忘れさせてくれるそれは、猫にとって大切で思い入れのあるおもちゃになった。
「よく知ってるね。話が早い」シャーロットは頰を赤く染めた猫に銃弾を渡し、その手つきをじっと見つめた。そしてシャーロットの期待通り、猫は100ヤード先の点のような的を撃ち抜いた。その撃つたびに修正を重ね中心に穴が迫っていく様に観衆は静まり返り、シャーロットは手を叩いて素直に喜び、呟いた。
――君は案外良い教官になるかもな。計画に必要な人材だ。
猫は夢中で手元に積み上げられた弾丸を撃ち尽くした。顔をあげて周りを見渡すと、誰も彼も口があんぐり開いている。真ん中で視線を一手に浴びる当の少女はきょとんとして、その次におろおろとシャーロットを目で探し始めた。
「じゃあ、あとは君に任せる。弾はそこにある分を好きに使って良いから。ひと通り終わったらお給料を取りに来て」
「任せるって、どうすれば良いの?」猫がぎくりとした時にはシャーロットはもう居なくなっていて、目の色を変えた生徒たちに取り囲まれてしまっていた。「マリー先生、コツを教えて下さい」「俺の撃ち方を直してください」「先に並んでいたのは僕だぞ」「お前、最初は先生のこと馬鹿にしてたくせに」「こういうときは名前順だろ」
「ちょっと、みんな押さないでよ」
猫は騒ぎ始めた人々に埋もれまいと必死に背を伸ばした。「話を聞いて」と小さく言っても誰も聞いちゃいない。命の危機を感じた小さな猫は怒りに任せ息を思い切り吸い込んで、
「話を! きけ――――――――!!」絶叫した。
「ねえ、わたしはひとりしかいないの。あんまりうるさくするとあなた達のシャーロットに言いつけるわよ」猫は木箱の上に乗り、さっきよりもっと真っ赤になって声を張った。「いつもあなたたちがやっているみたいに横一列で練習をしててよ。わたしが後ろでなるべく全員回るように頑張るから」
すると猫は不思議な光景を目の当たりにする。シャーロットの名前が出た途端みな急に静かになって大人しく並んで射撃の練習を始めたのだ。「さすが、団長ね。おっかないの」
「あなたは引き金を強く引きすぎなのよ。もっと優しくやってみて」
「……こんな感じですか?」
「そうそう」
猫は忙しく射撃手たちの後ろを動き回り、汗をびっしょりかいていた。人が多すぎてきりがないのだ。
「ぜんぜん当たらない? うーん、あなたは怖がりすぎ。体が跳ねてるからもっとリラックスしてみようよ。銃は友達、あなたを傷つけやしないから」
「気分が悪い? たぶん煙を吸い過ぎたのね。ちょっと外で雨に打たれてきたら」
「君は……まだ早いかな。もう少し大きくなったら参加しようね」
先生、先生、先生。マリー先生と呼ばれ続けて、猫は夕方にはクタクタになって赤屋根屋敷に戻った。「た、体力には自信があったんだけどな……。なんだかすごく疲れた」
「お疲れさま。今日はありがとうね」シャーロットはにこにこして猫に例のタブレット紙幣の束を渡した。
「こんなにくれるの?」
「感謝の気持ちと、修道女様を働かせてしまったことを天に謝罪するぶんと、それから今後もまたやって欲しいなっていう正直な気持ちが込めてあるんだ。遠慮しないで」
「ふふ、何よそれ」猫は笑った。初めて得た労働の対価は素直に嬉しくて、翌朝は寝坊せずにすっきり目を覚ますことができた。目覚めの良い朝は頭が良く働いて、冷静さを取り戻し、昨日自分を支配していた緊張と高揚感の存在に気がついた。疑問がふつふつと湧いてくる。
「なんで、あんなに大勢に射撃の練習をさせるんだろう? 弾や銃の調達だって楽じゃないでしょうに」
何か目的があるんだ。たぶん、シャーロットの理想郷とやらを作るために関わることなんだ。
「少なくとも彼女の私兵団が大きくなろうとしているのは事実よね。ここを守るためならヤシュパルやイヴァの警防班だけで十分だし、それ以上のことを目指しているって考えるのが筋よ」
金塊探しからはちょっと離れるけど、私兵団の監視も任務のひとつだ。それにこれは重要な情報――、中佐に報告したら褒められるかな。猫はわくわくして鼓動を抑えようと胸に手を当てた。「あっ」
その時猫はようやく気がついた。いや気がついていたけれど知らんふりをしていただけかもしれなかった。
「もし帝国が本気で動いたらシャーロットたちの商会なんて簡単に吹き飛んでしまう。帝国は多少無茶でもシャーロットたちを危険だと思えば絶対に動くわ。そしたら、今日の生徒たちはどうなるの? 友達になったヤシュパルは? あの無愛想なイヴァは?」
シャーロットは海賊として処刑されるかもしれない。いや、確実にされるだろう。大勢の未来が消えるんだ。
猫は船上での上官との会話がもうずっと前のように感じられた。あの時は中佐の珍しく嬉しそうな顔にとても心が温かくなったのに、今は真逆だ。初めて父親代わりのロイドを恐ろしいと猫は思った。
『シャーロット・ビーティー本人にはまだ手配はかかっていない。赤ガラスとの繋がりが今もはっきりしないからだ。それにオーストラリア艦隊もなぜか捜査を面倒がっている節があるからな。まあ、艦隊上層部のサボタージュはこれから俺がシドニーでどうにかするさ』
『そうしたら、どうなるんですか?』猫は無邪気に聞いた。
『そうだな、奴を晴れて国際手配にかけることができるだろう。そうなれば島の三人の領事たちの合意さえ得ることができれば島に直接踏み込むことも可能だ。シャーロットをこの手で捕まえて金塊の在り処を吐かせるのさ』




