純白に染む 二
男は、伯英と名乗った。
「王伯英だ。生まれは瑯県」
男は薬湯と薄い粥の椀をもってきてくれた。おそろしく苦い薬湯を飲み干し、そろそろと粥をすすっている横で、伯英は深く頭をさげた。
「まずは礼を言わせてくれ。おまえのおかげで命びろいした。感謝する」
何を言われているのか、よくわからなかった。空になった椀の底と男の顔とを見くらべ、ぽつりと尋ねる。
「……殺さないの」
男が一瞬息を止めたのがわかった。
「殺さないの。ぼくのこと」
伯英はまじまじと自分の顔を見つめ、それから顔をゆがめた。怒っているように。笑っているように。
「阿呆」
大きな手がのびてきて、髪をくしゃくしゃにかきまわされた。
「殺す気なら、こんな手間をかけるかよ。あそこに転がしときゃ、じき死んでたんだから」
それでもよかったのに、と思ったが、口には出さなかった。言えば、この男は怒るだろう。なんとなく、そんな気がした。
「おまえ、何を勘ちがいしてるのか知らんが、おれたちは盗賊じゃないぞ。まあ、あの状況じゃそう思われても仕方ないがな」
夜更けに屋敷に押し入り、主を殺し、火を放って逃げた。伯英と名乗る男の行いは、まるで夜盗のそれだ。だが、ちがうのだと男は語った。
「辛の野郎には貸しがあってな。おれたちはそれを返してもらいにきただけさ。多少荒っぽいことにはなったが、無関係な連中は手にかけてないぜ。無用な殺しも盗みも、おれの軍では厳禁だからな」
「軍……?」
「おうよ」
伯英はうなずいた。
「梁の義勇軍、王家軍だ。これでも王虎将軍なんてたいそうな二つ名までついているんだが、聞いたことないか」
その軍も将の名もはじめて耳にするものだったが、すぐに気に入った。王虎将軍。猛獣のようなこの男にぴったりの名だ。
「おまえ、名は。いくつになる」
どちらの問いにも、答えられなかった。
「年は……わからない」
「そうか」
あたりまえのように伯英はうなずいた。己の年もわからぬ捨て子など珍しくもないのだろう。
「だいたい十くらいか。名は」
「まえに……」
しばらく考えた末、かさつく唇を動かす。
「まえにいたところでは麗々と……」
「なんだそりゃ。女じゃあるまいし」
あきれ声をあげてすぐに、伯英は「悪い」と詫びた。
「おまえのせいじゃないもんな。辛の野郎の悪趣味ぶりには反吐が出るぜ。そんな名は忘れちまいな。本当はなんていうんだ?」
その問いにも、やはり首をかしげるしかなかった。
おそらくこの男が言う「辛の野郎」とは、つい先日まで自分の主だった男のことだろう。一年ほど飼われていたが、いまとなっては顔も思い出せない。
麗々。その名をつけた主人はもういない。では、その前、あの屋敷に連れてこられる前、自分はなんと呼ばれていただろう。
いくら頭をひねっても、まるで思い出せなかった。そもそもあの場所で自分に名などあっただろうか。あの、腐った沼底のようなところで。
「悪かった」
ぽんと頭をたたかれた。顔をあげると、伯英の大きな笑みが間近にあった。
「とりあえず養生しろ。傷は深いが大事なところは外れている。あと半寸ずれていたら左腕が使いものにならなくなっていたそうだ。おまえは運がいい」
ひとしきり傷の具合について説明した後で、伯英は「ところで」と尋ねた。
「おまえ、家族とか親戚とか、ただの知り合いでもいいが、とにかく頼れる先はあるのか」
これにはすぐ答えることができた。
「ない」
「そうだろうな。まあ、心配するな。おまえの今後のことはちゃんと考えてある。おれたちはじきに発つが、それまでにおまえの預け先も見つけて……」
「いやだ」
するりと、その言葉が口からすべりでた。伯英は意外そうな顔をしたが、一番驚いているのは自分だった。
生まれてこのかた、他人の意見に異を唱えたことなどなかった。そもそも、自分はこうしたいと主張したことすらなかった。だが、同時に「なんだ」とも思った。存外簡単なものなのだな、と。
「あなたのそばにいる」
目の前にある事実を、そのままなぞるように口にした。
伯英はしばらく黙ってこちらの顔を見つめていたが、ややあってあごをなでた。
「まいったな」
ため息まじりの声が降参のしるしだと、誰に教えられるまでもなく知っていた。




