風花
「南越の玉尤って知ってるか」
床に片肘をついて寝そべったまま、伯英は盤上に白石をひとつ置いた。
「知らない」
対面に座った子怜は、盤から顔もあげずに答えた。
相変わらず、見る者のため息を誘うほど繊細な面差しだ。だが、瑯に連れてきたばかりの頃にくらべて、目もとが凛と引き締まったように感じられる。実戦を経験した新兵によく見られる変化だ。
子どもの成長は早いもんだな、と、がらにもなくしんみりした心境にひたっていた伯英は、つづいて子怜が打った一手にがばりと身を起こした。
「おい」
白有利と見えていた盤面は、子怜の黒石ひとつでその様相をがらりと変えていた。
「あー……くそ」
負けたと宣言して、伯英は床に寝ころがった。
養い子から置き石なしの勝負を挑まれ、それはさすがに早かろうと余裕綽々で受けた結果が、このざまである。あいつとは二度とやりたくないとこぼしていた迅風の気持ちが、いまとなってはよくわかる。
「伯英」
「なんだよ。今日はもう終いだからな」
伯英はふてくされた声を返して横を向いた。この場に文昌がいたら、どちらが子どもですか、と呆れかえったことだろう。
江夏での戦を終え、瑯に戻ってきたのはひと月前のことだ。晩夏の夕べ、庭から吹きこむ涼風が肌に心地よい。
「そうじゃなくて」
子怜が盤上の石をさらいながら問うた。
「南越の玉尤がどうしたの」
「ん? ああ」
伯英はのそりと起きあがる。
「文昌が話してくれたんだよ。南越ってのは昔江夏のあたりにあった国だそうでな」
南越王には、玉尤という名の寵姫がいた。絶世の美女とうたわれた玉尤だったが、どういうわけか、まるで笑うといったことがない女人だった。
王はなんとかこの美姫の笑顔が見たいものだと、あの手この手を尽くしたが、玉尤の朱唇は固く引き結ばれたままだった。
ある日、王は宴席に道化師を招いた。滑稽な芸を披露する道化師に一同は笑いころげたが、玉尤は笑みのかけらすら浮かべなかった。
失望した王は、その場で道化師の首を刎ねさせた。不運な道化師の首が床に転がったとき、はじめて玉尤の唇がほころんだ。王は狂喜し、牢から罪人を引き出して、端から首を落としていった。
玉尤は笑った。それこそ玉のふれあうような声をたてて。
それからほどなくして、南越は滅びた。
罪人を残らず処刑した後、王は寵姫の笑顔見たさに、連日無辜の民を捕らえてはその首を刎ねさせた。暴虐な王への怨嗟の声は国中にあふれ、たまりかねた民は反乱を起こした。
王宮に踏みこんだ反乱軍の首領は、臣下に見放され、玉尤を抱いて泣き喚く王の首を一刀のもとに斬り捨てたという。
「笑った?」
唐突に、子怜が口をはさんだ。
「あ?」
「そのひと、笑った? 王の首が落ちたとき」
「……さあな」
笑ったとしたら、その顔はきっとこの少年の面差しとよく似ていたことだろう。はじめてあの笑みを見たときの、背筋に走った震えは、おそらく死ぬまで忘れまい。白い頬に血の赤が映えて、それは凄絶なまでに美しかった。
「しばらくしたら、また出征だ」
「今度はどこへ行くの」
「北だよ。いやな時期にあたっちまったなあ。ちょうど寒くなる頃だ」
敗死した趙都督の後任は、どうやら王家軍を徹底的に使い倒すつもりらしい。
虞朱圭という名の都督の側近が、瑯への道すがら賊に襲われ、あろうことかその賊が使者に成り代わっていたという事実は、官軍の面目を大いに損なった。そのあたりの事情をよく知る王家軍は、新都督にとってはひどく目ざわりな存在なのだろう。難敵とぶつかって潰れてくれれば幸いとでも考えているのかもしれない。
望むところさ、と伯英は胸のうちで笑みをもらした。戦って成果をあげれば、それだけ己の力も増す。現有の兵は五千。次の戦に勝てば万に手がとどく。いずれ都督を超えることも不可能ではないように思えた。この小さな軍師がいてくれれば。
「子怜」
名を呼ぶと、養い子は盤面から目をあげた。
「おまえをな、正式に養子にしようと思っている」
この思いつきを打ち明けたとき、文昌は反対しなかった。しないかわりに、先ほどの亡国の美姫の逸話を持ち出してきたあたり、義弟のいささか屈折した心情がうかがえる。
「これからは王姓を名乗るんだ。王子怜。なかなかいい響きだと思うんだが、どうだ」
「なんでもいいよ」
そっけない答えは予想済みだ。
「伯英の側にいられれば、なんでもいい」
「じゃ、決まりな。祭祀とか手続きがいろいろあるらしいんだが、どうせおまえ興味ないだろ。適当にやっておくぞ」
「うん」
あっさり問題が片づいたところで、伯英はもっと養い子の関心を引きそうなことを持ち出した。
「むこうに着く頃には冬がくる。おまえ、晴れた日に降る雪は見たことあるか」
子怜は首をかしげた。晴天に雪とはいったい、とその顔が語っている。伯英は笑って養い子の髪をくしゃくしゃにかきまわした。
「あれも綺麗だ。楽しみにしてろよ」
風に舞う雪に、きっとこの少年は手をのばすだろう。春の花に魅了されたときと同じように。
梁の末期に活躍した義勇軍、王家軍は、史に伝を残す英雄を数多く輩出した。その筆頭、王虎将軍の二つ名をもつ王家軍総帥のかたわらには、常に美貌の軍師の姿があったと伝えられている。
梁の最後の光芒と称される王家軍の中でも、その綺羅星はひときわ美しく輝いていたと、当時を知る者は夢見るような眼差しで語っていたという。




