薫風は南より 五
英雄になれ。その言葉に、伯英は笑った。朱圭のかわりに。
「あんた、酔ってるな」
「これしきで酔うものですか」
朱圭は真顔のまま首をふった。
「瑯に至るまでの道すがら、あなたと王家軍を称える声を耳にしない日はありませんでした。この擾乱の世にあって、民は切に英雄を求めているのですよ。あなたのような、ね」
いつか永忠も似たようなことを言っていた。どいつもこいつも、と伯英は胸のうちでぼやいた。よってたかって自分に重い荷を背負わせようとしやがって。
「わが主は、あなたを罠にかけました。ですがあなたなら、その罠も食いちぎることができましょう。嚇玄を討ち、さらなる高みへお昇りください。あなたにはそれだけの力がある。せっかく持って生まれたその力、活かさねば損というもの」
熱っぽく語る朱圭の顔は、やはり酔っているように伯英には見えた。酒ではなく、別のものに。
「あんたはどうなんだ」
夢から覚めたように、朱圭は瞬きをした。
「あんたの望みだよ。おれをけしかけて、あんたはどうしたい」
「……いま申し上げたとおりですよ」
数呼吸分の間をおいて、朱圭は答えた。
「わたしも、わたしの力を試したいだけです。あなたと同じ道ながら、あなたとは違うやり方で」
曖昧な返答だったが、言いたいことはよくわかった。つまり、この男は己が作った筋書きを実際に演じてみせる役者が欲しいのだ。その芝居で、伯英は名優たれと望まれている。
「……あんたのいいように使われるのはごめんなんだがな」
「逆ですよ。あなたがわたしを利用するのです」
よく言う、と伯英はあきれた。そもそも王家軍を捨て石にという策からして、この男の頭から出たものに違いなかろうに。
伯英は腹の底から大きく息を吐き出した。当面、ほかに途はなかった。命は下った。征けと言われれば征くしかない。
「とりあえず、ここの払いはあんたもちだ」
「それはもう」
朱圭はへらりと頬をゆるめた。
「ついでに知恵も貸せ。悪知恵でも無いよりましだ」
「これはひどい」
心外そうな口ぶりとは裏腹に、朱圭の顔は嬉しそうだった。話は終わったと、文昌とともに座を立った伯英だったが、そこで朱圭が「おや」と首をかしげる。
「泊まっていかないんですか。お姐さんたち悲しみますよ」
「あんたが慰めてやれ。おれはあんたの相手をして疲れたんだよ」
「子どもに留守番もさせていることですしねえ」
含みのある言い方に、伯英は再び腰を下ろした。
「ちょうどいい。ねえ、王虎将軍」
菓子でもねだるような気軽さで、朱圭は言った。
「あの子、わたしにくれませんか」
突然の申し出に、伯英は、わずかに目を細めた。
「あんた、まさか」
「あ、違います」
朱圭は顔の前でひらひらと手をふった。
「わたし、そっちの趣味はありませんので。やっぱり女のひとがいいですね。できれば年上で、色白でふくよかな、こう、腕のあたりがもっちりしているのなんかが最高に……」
放っておくと当人以外興味のない美女談義を延々と垂れ流されそうだったので、伯英は「だったら」と強引にわりこんだ。
「なんで子怜が欲しいんだ」
「なんでって、そりゃあ見どころがありますから」
「見どころ?」
「ええ。あなたも気づいておられるでしょう。あの子は賢い。それもずば抜けて」
昼間、この男は子怜と囲棋の対戦をしたのだという。
「ひさびさに冷や汗をかかされました」
「負けたのか」
「勝ちましたよ。わたしにだって意地というものがあります」
「置き石いくつで」
朱圭は片手の指をすべてひろげてみせた。つまり、おれよりこいつのほうが上か、と伯英は若干のくやしさを覚えた。
「ですが、かなりきわどかったですね。あの年でたいしたものです。しかも、あの子は囲棋をはじめてまだ日も浅いというではないですか。間違いない。あれは天賦の才です」
「あんた、あいつを囲棋打ちの名人にでもしたいのか?」
「いえ」
朱圭は口の端をつりあげた。
「軍師に仕立てたいと思っております」
軍師。あるいは謀士という。その智略をもって将を助け、戦を勝利に導く者。
「囲棋は、盤上の戦です。敵の胸中を量り、布陣を整え、よく攻め、よく守る。誰に教わるでもなく、あの子は息をするようにそれをやってのけている。あの才を囲棋だけに留めておくのは、あまりに惜しいというものですよ」
「ちょっと待て」
伯英は口をはさんだ。
「囲棋の才があるからといって、いい軍師になれるとは限らんだろう。実際の戦場は、盤上とは違う」
「ごもっとも。ですが、試してみる価値はありましょう。万一ものにならなくとも、別の道で身がたつよう世話をしてやるつもりです。どうです、悪い話ではないでしょう」
たしかに、悪い話ではなかった。都督の側近である朱圭のもとにいれば、あの少年の将来もずっとひらけたものになるだろう。文昌もこの話には乗り気のようで、かすかにうなずきながら朱圭の弁に耳を傾けている。
そう、悪い話ではない。ないが、しかし、
「……あいつには、もうちっと平穏な道を歩かせてやりたいんだがな」
「無理でしょう」
ささやかな伯英の願いを、朱圭はあっさりと否定した。
「あの才に加えて、あの容姿。あの子に凡夫の生は送れませんよ。まして、いまの世をお考えください。誰であろうと、いつなんどき濁流に巻きこまれるとも知れぬ世です。ならば、水を恐れて遠ざけるより、奔流の中を泳ぎきるだけの力をつけてやったほうがよほどいい」
「わかったふうなことを言うじゃないか。あんた、子どもはいるのか」
「残念ながら、妻すら迎えておりません。誰か紹介していただけます?」
「考えておいてやるよ。年増好みだったか」
「色白でふくよかもお忘れなく。もうひとつのほうも、考えておいていただけますか」
その問いには答えず、伯英は立ち上がった。
「いまの話、あいつには黙っておけ。話すとしたらおれからする」
口をひらきかけた朱圭を制し、伯英は念押しした。
「いいか、余計なことは言うなよ」
また寝床にもぐりこまれちゃかなわんからな、と声には出さずにつぶやいて、伯英は文昌とともに帰路についた。




