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玉蘭花伝  作者: いろは
11/17

春靄に惑う 一

 ぱちり、と小気味よい音とともに、盤上に黒石が置かれた。


 黒白の石がせめぎ合う盤上の戦。その形勢は五分と五分。いや、今の一手で黒がやや優勢となったか。


「やるな」


 床についた肘に頭をのせて寝そべったまま、伯英は対戦相手に声をかけた。盤をはさんで向かいに座る子怜は、無言のまま盤面を見つめている。


 空に薄雲ひろがる昼下がり。開け放った窓から流れこむ風はぬるく、湿り気を含んでやや重い。


 伯英はひとつあくびをもらし、のそりと体を起こした。手のなかで白石を弄びつつ盤をのぞきこみ、ややあってうなり声をあげる。


「……おい」


 黒が優勢どころの話ではなかった。勝敗は既に決している。これから白がどう攻めようと、そのすべてに鮮やかな反撃が用意されていることは明らかだった。


「まいった。おれの負けだ」

「まだ」


 澄んだ声が返ってくる。


「手はある」

「本当かよ」


 細い指がひらりと盤上を舞った。


「ここに一手。そのあと、ここに打たれたら、ちょっと面倒」


 伯英は盤面をにらみ、養い子の指摘が正しいことを確認した。


「どうする」


 続けるか、と眼で問われて伯英は首を横にふった。


「敵に教えられた手で戦えるかよ。どのみち、おれの負けは決まりだろ」


 伯英は床に置いてあった酒杯をとりあげ、子怜の眼の高さにかかげてみせた。


「強くなったなあ」


 賞賛の言葉にも、子怜は特に表情を変えるでもなく黙々と盤上の石を拾っている。だが、白い頬がかすかに上気しているところを見るに、それなりに喜んではいるのだろう。わかりにくいが、根は素直なやつだと伯英は思っている。


「もう置き石五つじゃ敵わんな。次からは四つにしてみるか」


 今のところは力の差がありすぎるため、子怜と囲棋を打つときは先に黒石をいくつか置かせてやっている伯英である。


「いいよ。すぐやる?」


 問いかけの形をとった催促だ。その証拠に、瞳が期待に輝いている。こういうところも見ていて微笑ましい。


「ちょっと休んでからな。頭が疲れた」


 子怜は聞き分けよくうなずくと、盤に石を並べはじめた。待っている間にひとりで策を練るつもりらしい。


 暇にまかせて教えてやったこの遊戯に、養い子の少年はすっかり心を奪われたようだった。放っておけば日がな一日、こうして盤に向かっている。おそろしいほどの速さで腕をあげる教え子に、師である伯英が追い越されるのもそう先のことではないだろう。


 祭りの日に県丞の馬永忠が訪ねてきてから、かれこれ半月が経っていた。


 しばらくのんびりすると永忠に宣言したとおり、伯英はこうして昼間から酒杯をかたむけつつ、養い子と囲棋に興じる日々を送っている。


「子怜」


 名を呼ぶと、少年は盤から顔をあげた。


「囲棋は好きか」


 子怜は黙って首をかしげた。


「おもしろいんだろ?」


 伯英は辛抱強く問いを重ねた。


 この少年と話していると、ときどきあいだに山でもはさんでいるような心持ちになる。こちらの声が届くまで、そしていらえが返ってくるまで、たいそう時がかかるのだ。なんてまだるっこしい、と迅風などは腹をたてているようだが、伯英はむしろこの迂遠なやりとりを楽しんでいた。


「……わからない」

「わからない? 難しいってことか?」


 子怜はかすかに首をふった。


「好きかどうか、まだわからない」

「まだ、ねえ」


 また愉快なことを言い出したな、と伯英は笑って杯を干す。


「いつわかるんだ、そいつは」


 意地の悪い問いだったかもしれない。じっと考えこむ少年の眉間を、伯英は指の腹でつついてやった。


「そう難しく考えるもんじゃないさ。一日中やってて飽きないんだろ? だったら好きでいいんだよ」

「そうなの?」

「そうだよ。ま、安心したぜ。その分なら、うまくやっていけそうだな」


 怪訝そうな顔をした子怜に、伯英は笑みを返した。


「おまえの預け先が決まってな」


 ぴし、と。秀麗な面に見えないひびが入った音が聴こえた気がしたが、伯英はかまわず続けた。


「文昌が見つけてきたんだよ。潘という商家でな、隠居した爺さまの身の回りの世話をする童子を探しているんだそうだ。なかなか偏屈な爺さまらしくて、ことにうるさいやつが大嫌いなんだそうだが、その点おまえなら大丈夫だろう。おまけに、その爺さまは無類の囲棋好きだってんだから、ますますおまえにうってつけじゃないか」


 子怜は黙りこんだまま長い睫毛を伏せている。その視線の先にあるのは、複雑に入り組んだ黒と白の陣。どちらが優勢なのか、伯英にはまるでわからなかった。


「それに永忠どの……あの小遣いくれた御仁と潘の爺さまは囲棋仲間らしいから、またちょくちょく会えるぞ。おまえはどうか知らんが、永忠どのはおまえのことを気に入ってるみたいだし……」


 山、えらく高くなったな。


 口を動かしながら、伯英はそんなことを考えていた。目の前にいきなり断崖絶壁があらわれたような気分だ。こちらの声が届いているのか、まるで心もとない。


 不意に子怜が顔をあげた。その唇がかすかに動いたとき、からりと扉が開いて文昌が顔をのぞかせた。


「伯英どの……」


 その場に漂う、どこかぎこちない空気を感じとったように文昌は言いよどんだが、すぐに義兄へ目を向ける。


「ご相談がありまして。今よろしいですか」

「ああ」


 伯英は腰を上げた。


「むこうで聞こう。悪いな、子怜。あとは迅風にでも相手をしてもらえ」


 そう言って立ち去る自分が、度し難い卑怯者に思えて仕方なかった。



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