1話 手のひらの中に
夏の終わりの空は、まだ少しだけ眩しかった。
蝉の合唱は弱まり始めているのに、昼間の熱だけはしぶとく街に残っている。駅前のアスファルトでは陽炎が踊り、道行く人々は手にした飲み物や日傘で残暑に抵抗している。
そんな中、陸徒は駅前の時計台の下で、スマートフォンを確認していた。
時刻は午前9時45分。
待ち合わせの時間までは、あと15分ある。
「……早く来すぎたか」
そう呟きながら、時折吹く肌を涼ませる風に、茶色い髪を靡かせた。
大学に入ってから半年近くが経ち、来年には成人を迎える。
慣れない講義や新しい友人との付き合い。アルバイトでの社会経験。少しずつ変わっていく日常の中、異世界ミドラディアスで剣を振るい、魔族と戦い、世界の命運に関わった日々を思い出すたび、今では遠い夢のように感じていた。
けれど、この先も忘れることは決してないだろう。
いや、忘れられるはずがない。こんな大切なことを、思い出させてくれた人がいるのだから。
「……陸徒」
軽く物思いにふけているところへ、名前を呼ぶ声がして、陸徒は顔を上げた。
そこには、白いブラウスにコーラルピンクのスカートを合わせたステラが立っていた。ブロンドのミドルボブを一ヶ所だけ三つ編みに結び、肩から小さなバッグを下げている。
ミドラディアスにいた頃と比べれば、服装はすっかりこちらの世界に馴染んでいた。
普段の堂々とした態度や、調子のよい得意げな笑みは変わっていない。けれど、今日はどことなくぎこちない雰囲気を感じる。
「待たせた?」
「いや、今来たとこだ」
陸徒は自然にそう答えた。
もちろん、それは嘘。勘づいたステラは少しだけ目を細める。
「本当?」
「本当だよ」
「アンタ、嘘をつく時、少しだけ目を逸らすんだよね」
「ったく……よく見てるよな」
陸徒がきまりが悪そうに苦笑すると、ステラも小さく笑った。
二人は正式に交際しているわけではない。少なくとも、言葉にして確かめ合ったことはない。周囲から見れば、仲のよい友人か、はたまた兄妹なのか。といった程度に見えるのかもしれない。
けれど、互いに大切には想っている。それが二人らしいところでもあるのだが、各々の性格ゆえに、関係の進展にはまだしばらく時間がかかりそうだ。
「それで、博物館だったよな」
「うん。ニュースで見たあれね」
ステラはバッグからスマートフォンを取り出し、画面を陸徒に見せた。そこには、地方の鉱山から発見された巨大水晶が、都内の博物館へ移送されたというニュース記事が表示されている。
二年半前に鉱山にて発掘された、淡い青白い輝きを放つ巨大水晶。正式名称は未決。世間では、世にも珍しい鉱石というだけの認識だ。
だが陸徒とステラには、それがただの鉱石ではないことはわかっていた。
「ゲートクリスタル……か」
「陸徒たちがこっちに帰ってきて以降、鉱山は封鎖された。それが今になって、クリスタルだけが持ち運ばれた」
ステラの表情が少しだけ引き締まる。
ゲートクリスタル。
かつて陸徒たちを異世界ミドラディアスへと送り込み、そして元の世界へ帰すために使われた、二つの世界を繋ぐ水晶。本来は隔てられている世界同士のパワーバランスを保つ、特別な力とされている。
「単純に、一般にお披露目させるためなんじゃないのか?」
「だったらいいんだけどね。ちょっと気になってさ」
ステラはそう言いながら、視線を下げた。
「……ま、会って早々こんな神妙になっても仕方ねぇ。とりあえず、博物館の前にカフェに寄って行かないか? 少し涼みたい」
「!」
陸徒の提案に、ステラの表情がわずかに跳ねた。
ゲートクリスタルのことは気になる。だから博物館に早く行きたい。でもこれは建前。今日のステラにとっては二の次。
久しぶりの陸徒とのデート。これが何よりの楽しみだった。
「ア、アタシも……喉が渇いてたし。別にいいわよ」
高鳴る鼓動と紅潮する顔を必死で抑えながら、ステラはそっぽを向いて口を尖らせる。
「よし、じゃあ行くか」
彼女の心情まで理解しているのかはさておき、陸徒も歯を見せて笑った。
近くのカフェへ向かい、駅前のアーケードを歩く。
途中、二人は周囲から好奇の視線を何度も感じた。
ステラは現在15歳の中学三年生。異世界のミドラディアス出身と言えど、ベースは欧米人と変わらない。体の成長は早く大人びており、当時は陸徒が見下ろす身長差だったが、今は目線がかなり近いほどまできている。加えて煌びやかなブロンドと桃色の瞳。注目を浴びるのも仕方のないことだった。
カフェに到着し、アイスラテをふたつ注文して席に着く。
「そういや、中学校生活はどうなんだ? 上手くいってるのか?」
陸徒はグラスの氷をストローで回しながら言う。
「レベルが低くて困るわ。まぁそれなりに楽しんではいるけど」
「おいおい、今通っているところも相当学力高いだろ」
こっちの世界でも、ステラの天才ぶりは他に類を見ないほどだった。
高校入試についても、形式上は試験を受ける予定だが、学校からの強い推薦もあり、国内トップで有名な高校への入学もすでに決まっている。
「相変わらずだなお前も」
「アタシは天才だからね」
「天才”法術士”、じゃなくていいのか?」
「こっちじゃ法術士なんて言っても伝わらないって」
「ははっ、そりゃそうだな」
ミドラディアスにいた頃と変わらない、他愛のないやり取り。
だが、陸徒が微笑みを見せるたびに、目が泳ぎ、頬が火照る。ステラはそれをごまかすように、手元のアイスラテを勢いよく吸い込んだ。
「ところで法術は、やっぱり使えないのか?」
「うん。呪文はちゃんと覚えているし、体の中に法力があるのも感じる。けど唱えても発動しないの」
「なるほどな」
「ただ……」
「ん?」
途中、ステラは何かを言いかけ、一瞬だけ奥歯に物の詰まったような顔をする。
「……ううん、なんでもない」
だが言葉を続けることはなかった。
自分の中で確証が持てないことに関しては、ある程度仮説が立てられるまでの材料が揃わない限り、口にすることはない。
そんなステラの性格も陸徒はよくわかっていた。だからこの時は、ただ訝しげな顔を返すだけだった。
一通り雑談を楽しみ、アイスラテも飲み干した頃合いで陸徒は席を立つ。
「それじゃ、ぼちぼち行くか」
「うん!」
「なんだ、やけにご機嫌だな」
「なっ。べ、別に……早く、ゲートクリスタルが見たいからだし」
ステラは目を逸らしながら、口をへの字に曲げる。
「だったら、急いで行かないとな」
そう言って陸徒は、ステラの手を取って外に出る。
「ちょっ——」
ステラはそれ以上言葉を出せずにいた。
下を向いて表情を必死で隠し、言われるままついていくだけで精一杯だった。
博物館は、駅から少し離れた高台にある。夏休みの終わりということもあり、館内には家族連れや学生の姿が多く見られた。
特別展示の案内板には、大きな文字でこう書かれている。
未知の巨大水晶展。鉱山より発見された神秘の輝き。
陸徒はその文字を見て、少しだけ眉をひそめた。
「神秘の輝き、ね」
「こっちの世界らしい表現だわ」
「あれの正体がなんなのか、誰も知らないからな」
「ミドラディアスなら、知らない者はいないけど」
「あの時、最後に俺がラディアセイバーでぶった斬っちまったが、こっちのそれがなんともないってことは——」
「たぶん、ミドラディアスでも元の形に戻っているはずよ。今でもスカイラインで安置されて、シェリル様がしっかりと管理しているはずだわ」
「シェリル……」
陸徒が遠い目をして呟く。
シェリルだけでない。アクシオやシルビア、モコ。向こうの世界にいる面々の顔を思い浮かべては、陸徒の胸に懐かしさが広がった。
「みんな、元気かな」
「きっと元気よ」
ステラは迷わず答えた。
「シェリル様は、変わらず今もアルファードのために尽力されている。モコだって、特殊騎士として頑張っている。あの巨乳剣士は、まぁどこかで憂さ晴らしだって暴れてんじゃない?」
「ははっ、それは想像しやすいな」
二人は目を合わせて笑う。けれど、その笑みはすぐに消えた。
特別展示室の入口に近づくにつれ、ステラの表情がわずかに硬くなる。
「……感じるわね」
「クリスタルの、か?」
「うん。波動みたいなものが」
当然、陸徒のようにこちらの世界の人間には、それを感じ取ることはできない。
ミドラディアスの住人だったステラだからこそであるが、彼女の表情はいつになく神妙だ。
イベント用に間取りが広く造られた展示室へ入る。
中央の強化ガラスケースの中に、巨大な青白い水晶が鎮座していた。室内の天井にまで届きそうなほどに。
陸徒は、鉱山で発見した時のことを思い出しながら、口を開けて見上げている。
周囲の来館者たちは、珍しい鉱物として感嘆の声を上げていた。
「綺麗」
「光ってるみたい」
誰も、その本当の意味を知らない。
陸徒は無意識に息を呑んだ。ステラも真剣な目でそれを見つめている。
——その時だった。
ゲートクリスタルの内側から光が瞬き、わずかに強まる。
「……?」
最初に気づいたのは、ステラだった。
青白い輝きが、まるで呼吸するように明滅している。
そして次の瞬間、ガラスケースの中の結晶から、隔たりをすり抜けて小さな光が弾けた。それはまるで流星の欠片のように、まっすぐステラの手元へ飛んでくる。
「ステラッ!」
陸徒が手を伸ばす。だが、光はステラの手のひらで静かに止まった。
「これは……」
栗の実ほどの大きさの、青白く輝くゲートクリスタルの欠片が、柔らかな蛍光のように閃いている。
「ゲートクリスタルの、欠片か? なんで……」
「わからない。けど、こういう思いがけないことが起きた時は得てして——」
ステラが何かを言いかけたその時、突然博物館全体が、大きく揺れた。
「っ!?」
床が軋み、展示ケースが震える。壁に掛けられた案内板が傾き、天井の照明が激しく揺れた。
来館者たちの悲鳴が方々から聞こえてくる。
陸徒はとっさにステラの腕を掴んだ。
「ステラ、大丈夫か!?」
「平気! まさに予感的中ってやつね。今の揺れ……ただの地震じゃない」
ステラはゲートクリスタルの欠片を握りしめる。
指の隙間からは、強い光が脈々と放たれていた。
「この魔力……外だわ!」
「外?」
再び地面が揺れる。
今度は、地震というより何か巨大なものが地面を踏み鳴らしているような振動だった。
二人は混乱する来館者たちを避けながら、博物館の出口へ向かう。
「嘘だろ……」
外に出た瞬間、陸徒は目を見開いて驚愕した。
博物館前のロータリーで、逃げ惑う人々が右往左往しているその中央。
視界の真ん中に映る異形のもの。それは巨大な体を赤黒い皮膚で覆い、丸太のような腕を垂らせて佇む。
その姿はまさに——
「ブラッディオーガですって!?」
「なんでミドラディアスのモンスターが、日本にいるんだよ……!」
かつてミドラディアスで、陸徒が初めて神剣ラディアセイバーを手にし、戦った相手だった。
両手を広げてブラッディオーガが咆哮する。
空気が震え、近くの窓ガラスが一斉に割れた。悲鳴、騒ぎ声、逃げ惑う人々。周りは大混乱だ。
「陸徒っ!」
ステラの声で、陸徒は我に返る。
視線の先のブラッディオーガは、転んだ子供へ向かって足を踏み出していた。
「くそっ!」
咄嗟に陸徒は地を蹴った。
あの時のように、戦う力はない。武器もない。それでも、体は動いていた。
「こっちだ!」
陸徒は子供を抱え上げ、横へ飛び込む。
直後、ブラッディオーガの拳が地面を叩き割った。コンクリートが砕け、破片が飛び散る。
「うわっ!」
背中に衝撃を受けながらも、必死で子供を庇った。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
「走れるよな? 早くここから離れろ!」
子供は泣きながら頷き、母親のもとへ駆けていく。
ステラも周囲の人々へ声を張り上げていた。
「みんな! 建物から離れて向こうの広い道へ! 押さないで、慌てずに逃げるのよ!」
大きな声でありながらも、落ち着きがあり不思議とよく通っていた。
ただの中学生の少女ではない。かつて法術士として戦場に立ち、仲間を支えてきた者の姿だった。
「陸徒! 右側にまだ逃げ遅れた人がいる!」
「わかった!」
二人は必死に動いた。
現状、ブラッディオーガと戦うすべはない。だが人々を逃がすことはできる。
陸徒は倒れた自転車をどかし、動けなくなった老人を支える。ステラは混乱した人々を誘導し、転んだ女性を助け起こす。
だが、ブラッディオーガの動きは速く、陸徒たちの救助活動を阻むかのように、巨大な体を揺らしながら暴れ回った。
バス停の屋根を引き剥がし、街灯をへし折り、ロータリーの車を踏み潰しながら闊歩する。人々のパニック状態もさらに悪化していった。
「法術は……やっぱり、使えないよな?」
「さっきも言ったけど、呪文を唱えてもなにも発動しない。この世界では法術そのものの概念が無いからよ!」
ステラは悔しそうに唇を噛む。
「天才のアタシが、こんな状況でなにもできないなんて!」
「十分やってるだろ!」
怒鳴り声のような陸徒の叫び。だがその表情は真剣だった。
「お前が誘導してくれてるから、みんな避難できてるじゃないか」
「そんなの、当たり前よ! アタシを誰だと思ってるの!」
声は強がっている。それとは裏腹に肩はわずかに震えていた。
ブラッディオーガが、そんなステラへ視線を向ける。
「ステラッ!」
陸徒が気づいた時、すでに巨大な腕が伸びていた。
「っ!」
ステラは咄嗟に避けようとしたが、足元にある地割れで隆起したコンクリート片に躓いてしまう。
一瞬の遅れ。
ブラッディオーガの手が、ステラの体を掴んだ。
「きゃあっ!」
「!!」
陸徒の顔から一瞬にして血の気が引く。
赤き巨鬼はステラを片手で持ち上げる。小さな体が宙に浮かび、苦しげに身をよじった。
「は、離しなさい……! この、下等なモンスター……!」
ステラは勢いよく叫ぶ。だが、その声には恐怖が混じっていた。
ブラッディオーガの口が大きく開かれる。
牙。唾液。血の臭いのまざった不快な異臭。その口元へ、ステラの体がゆっくりと近づけられていく。
「やめろ……」
陸徒は走った。
決して間に合わない距離。それでも動くしかなかった。
「やめろぉぉぉっ!!」
必死に叫びながら手を伸ばす。けれど、届かない。
ラディアセイバーがあれば。あの時の力があれば。
そんな思いが頭をよぎる。
だが、次の瞬間——
——肉が千切れる、嫌な音が陸徒の耳を襲った。




