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ー降参のあとと、帰らなかった守り手ー

 マリーが本を開くと、マトリスは小さなクッションの上で、布の端を一度だけつついた。


 今日は、きちんと敷かれている。


「前のお話では、劉備が曹操を頼りましたね。今日は、その曹操が、別の相手を迎えるお話です」


「コッ」


「ただし、今度は助けを求めてきた人ではありません。曹操と戦う前に、降参した人です」


     *


 曹操が軍を進めた先に、宛城という城があった。


 そこにいたのは、張繡という武将だった。


 張繡は、曹操の大軍と戦うべきか、考えた。


 その相談に乗ったのが、賈詡である。


「賈詡は、どうすれば生き残れるかを、よく考える人です。今回は、曹操を迎え入れるように勧めました」


 張繡は、その勧めに従った。


 降参し、曹操のもとへ挨拶に向かう。


 曹操も喜んで受け入れた。


 大きな戦いをせずに、相手が味方になったのだ。


 兵を失うことも、城を壊すこともなく、話が済んだように見えた。


「コッ」


「ええ。ここで終われば、よかったのですけれどね」


     *


 曹操は、宛城にとどまった。


 そこで、張繡の亡くなった叔父の妻である、鄒氏という女性を知った。


 曹操は鄒氏を自分のもとへ呼び、そのままそばに置くようになった。


 それを知った張繡は、ひどく腹を立てた。


 降参して迎え入れた相手が、自分の身内にまで手を伸ばしてきたのである。


「曹操は、戦わずに迎えてもらいました。けれど、迎えてくれた家の人たちがどう思うかを、軽く考えてしまったのですね」


 張繡の怒りは、曹操にも伝わった。


 すると曹操は、今度は張繡を危険に思い始めた。


 恨まれたまま、近くに置いておいてよいのか。


 反乱を起こされる前に、始末したほうがよいのではないか。


 その考えを、張繡の側も察した。


 降参したはずなのに、今度は自分の命が危ない。


 張繡は、再び賈詡に相談した。


     *


「ここからは、降参した人が、もう一度武器を取るお話になります」


 マトリスが首を伸ばした。


 曹操のそばには、典韋という強い武将がいた。


 大きな二本の戟を使い、曹操の身を守っている。


 曹操を襲おうとしても、この典韋が立ちはだかれば、簡単には近づけない。


 そこで張繡の側は、先に典韋の備えを崩すことにした。


 胡車児という男が、典韋に酒を勧める。


 そして、典韋が酔って眠ったすきに、大切な二本の戟を盗み出した。


「コケッ」


「前のお話では馬でしたが、今度は武器が奪われました。しかも、これから襲う相手の武器です」


 その一方で、張繡は兵を動かすための口実も整えた。


 曹操の陣の近くを通っても、不審に思われないようにする。


 曹操は、それを許してしまった。


 危険は、すぐそばまで来ていた。


     *


 夜になった。


 突然、曹操の陣に火の手が上がった。


 叫び声が響き、張繡の兵が押し寄せる。


 眠っていた兵たちは、慌てて起き上がった。


 どこから敵が来るのか。


 どちらへ逃げればよいのか。


 暗闇と炎の中で、味方の姿さえ見失う。


 典韋も飛び起きた。


 だが、いつもの戟がない。


 探している時間はなかった。


 典韋は、手近にあった刀をつかみ、曹操のいる場所の入り口へ向かった。


「武器がないから逃げよう、とはしなかったのですね」


 マトリスは、動かずに聞いていた。


 典韋は入り口に立ち、押し寄せる兵を食い止めた。


 曹操が逃げる時間をつくるためだった。


 一人を退けても、次の一人が来る。


 前からだけではない。


 矢も飛んでくる。


 典韋は傷を負い、それでも戦い続けた。


 やがて、手にした刀さえ使えなくなった。


 それでも入り口を離れなかった。


 だが、一人で防ぎ続けることには、限りがあった。


 典韋は、ついにその場で命を落とした。


     *


 その間に、曹操は逃げ出していた。


 けれど、曹操の乗っていた馬も、矢を受けて倒れてしまった。


 追っ手は迫っている。


 そこで、自分の馬を差し出したのが、息子の曹昂だった。


「父上は、この馬で」


 曹操は、その馬に乗って逃れた。


 馬を譲った曹昂は、戦いの中で命を落とした。


 曹操の甥の曹安民も、この夜に亡くなった。


 降参を受け入れ、安心していたはずの場所で、曹操は大切な人たちを失ったのである。


 マリーは、そこで一度、言葉を切った。


 マトリスの羽が、静かに体へ寄せられた。


     *


 生き延びた曹操は、散り散りになった兵を集めた。


 そして、典韋の死を深く悲しんだ。


 自分を守るために踏みとどまり、帰ってこなかった人だった。


 曹操は、その働きを忘れず、典韋の家族を厚く遇した。


 けれど、どれほど悔やんでも、この夜に亡くなった人たちは帰らない。


「曹操は、強い軍を持っています。人を見る目もありますし、考える力もあります」


 マリーは、本の端に指を添えた。


「それでも、自分のしたことで、相手がどれほど怒っているかを、見誤りました」


「コッ……」


「張繡も、一度は降参した人です。最初から、この夜の戦いが決まっていたわけではありません」


 迎え入れたあとに、何をするか。


 迎え入れられた相手を、どう扱うか。


 戦いが終わったと思ったあとにも、選ぶことは残っていた。


     *


「前のお話では、張飛が馬を奪ったことで、劉備たちが小沛を離れることになりましたね」


 マトリスが、マリーを見上げた。


「今回は、曹操自身の振る舞いが、曹操を危険にしました。そして、その曹操を逃がすために、ほかの人たちが命を落としたのです」


 マリーは、しおりを挟んだ。


 いつものように、本をすぐには閉じなかった。


 マトリスも、布の端をつつかなかった。


 しばらくしてから、小さく一声鳴く。


「コッ」


「ええ。典韋は、最後まで守ったのですね」


 マリーは静かに答え、本を閉じた。

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