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リセット  作者: ナオ
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67話 事件

 廊下へ出ると、部屋の中より空気が少し冷たかった。

 でも、その冷たさで頭がはっきりするわけじゃなかった。


 晴人は、もう1人の若い男と並んで、何も言わずにエレベーターを待った。

 男の方も喋らない。

 喋らないというより、喋ると急に現実になるのが嫌なんだろうと晴人は思った。


 女は部屋から出てこなかった。


 男だけが前を歩く。

 その後ろを、晴人たちが少し遅れてついていく。

 まるで何かのバイトの集合みたいだった。


 池袋では、そういう普通っぽさのまま深い方へ入る夜がある。


 エレベーターの鏡に3人の顔が映る。

 男は普通だ。

 若い方の男は少し青い。

 晴人も、思ったより普通の顔をしていた。


 そこが逆に気持ち悪かった。


 もっと怖がってる顔なら、途中で逃げられたかもしれないのにと思った。


 ビルを出ると、東口の明るさがまだ残っていた。

 コンビニの灯り。

 ゲームセンターの音。

 サンシャイン通りへ流れていく人の群れ。


 その全部の横を、自分たちだけが別の方向へ運ばれていく感じがした。


 男は歩きながら、スマホだけ見ている。

 指示が来るたび、立ち止まるわけでもなく、短く返している。

 晴人はそれを横目で見た。


 チャットの内容までは見えない。

 でも、男が考えて動いているんじゃなくて、上から来た順番どおりに足を進めているのは分かった。


 そこが一番な所だった。


 この夜って、目の前の男が全部を決めてるわけじゃない。

 もっと見えないところで決まっていて、目の前の男ですらそれをなぞっているだけなのだ。


「名前、なんだっけ」


 隣の若い男が小さく言った。


「晴人」


「俺、拓真」


 それだけだった。

 仲間になるわけじゃない。

 でも、名前を知らないままなのも少し怖かったのだろうと思う。


 晴人も同じだった。


 こんな夜に、隣にいるやつの名前だけは知っていたい気がした。


 東口から少し外れたところで、男は立ち止まった。

 大通りではない。

 でも人気がないわけでもない。


 池袋のそういう場所がそれなりにまずい。

 叫んでも目立ちすぎるし、静かにしていれば誰にも見られない。


 男は2人を見た。


「ここからは、言われた通りでいい」


 その言い方が気持ち悪かった。

 何が“いい”のか分からないからだ。


「話が違うと思ったら」


 晴人が言いかけると、男は少しだけ笑った。


「話なんて最初からしてないでしょ」


 その一言で、晴人は何も返せなくなった。


 たしかにそうだった。

 仕事内容も、場所も、相手も、何もちゃんと聞かされていない。

 でも、聞かされていないままここまで来たのは自分だ。

 そこを突かれると、人は急に弱くなる。


 拓真が小さく言った。


「俺、やばいのは無理なんだけど」


 男はその言葉に少しも驚かなかった。


「みんな最初そう言う」


「でも、ここで帰る方がやばいこともある」


 その返しは脅しみたいで、でも怒鳴ってはいない。


 だから逆に現実だった。

 ここまで来て帰るって、どう帰るのか分からない。


 女の部屋も知ってる。


 顔も見られてる。

 名前も言った。

 服も見られた。


 その状態で「やっぱりやめます」が通るほど、池袋の夜はやさしくない。


 男のスマホがまた鳴る。

 短く見る。

 それから、今度は初めて2人にちゃんと向き直った。


「これ、ただの確認だから」


「騒がせるな」


「余計なことはするな」


 その言い方で、晴人は少しだけ足元が冷えた。

 ただの確認、っていう言葉が一番怖い。

 何か大きいことをするとは言わない。

 でも、小さいことだとも言わない。

 ただの確認で人が夜に集められるはずがないのに、そう言われると少しだけ軽い方へ考えてしまう。


 そうやってここまで来たのだと、晴人は今さら思った。


 歩き出す。

 人通りがさらに減る。

 でも完全に暗いわけじゃない。

 マンションの灯り。

 小さい駐車場。

 コンビニの裏口。


 池袋のはずれって、生活の匂いが残ってるのに、そのすぐ横でまずいことが起きる。


 そこが……嫌だ。


 拓真が、少しだけ呼吸を荒くしているのが分かった。

 晴人も多分同じだった。

 でも、どっちも立ち止まらない。


 立ち止まるタイミングを、もう少し前で失っているからだ。

 男は途中でスマホをポケットにしまった。


 それが逆に怖かった。


 ここから先は、もう指示が来なくても足が分かっている感じがしたからだ。


 前にも何回かやっているのだろうと思った。

 池袋の夜でこういう役をする男って、目立たないくせに、同じ道だけは何度も歩いている。

 それで普通の顔を保てるやつだけが残る。


「お前ら、金欲しかったんだろ」


 男が急に言った。

 返事はしなかった。


 でも、それが一番嫌な問いだった。


 正論だからだ。

 正論で押されると、人は変な反発もできない。


 晴人はただ、金が欲しかった。


 それだけだった。

 今週をどうにかしたかった。

 家に帰る前に、少しでも自分の情けなさを消したかった。


 でも、その“それだけ”でここまで来ている。


 たぶん拓真も同じだろうと思った。

 同じ夜の、同じくらいの弱さで拾われてきた顔だったからだ。

 目的地が近づいた時、男は初めて声を落とした。


「ここから先、変なことしたら終わる」


 その終わる、の意味を晴人は聞かなかった。

 聞かなくても、だいたい分かる気がしたからだ。

 池袋の夜で“終わる”っていうのは、死ぬとか捕まるとかだけじゃない。


 顔が回る。

 名前が回る。

 次から別の場所でも使われなくなる。


 そういう終わり方の方が現実に多い。


 建物の前で、晴人は一度だけ空を見た。


 空なんてほとんど見えない。

 でも、見えない空を見ようとする時って、人は少しだけ戻りたいのだと思う。


 戻れる場所なんて、もうあまり残っていないのに。

 男はドアの方を見たまま言った。


「最後に聞くけど、やめるなら今」


 その言い方が、妙に静かだった。

 だから本気なのかと思った。

 でも、その“今”がもう遅いことも分かっていた。


 晴人は喉が少し乾いていた。

 拓真は下を見ていた。


 池袋の夜っていうのは、多分、こういう瞬間のために明るい場所をたくさん持っているのかもしれない。


 マルイ前でも、サンシャイン通りでも、カラオケ横でもいい。

 最初の一歩は、普通の待ち合わせみたいな顔で始まる。


 だから人は途中まで、自分が“事件の側”へ寄っていることを認めなくて済む。

 でも、本当に遅いのは多分ここだ。


 何をするのかはまだ全部見えていないのに、もう引き返せないと身体の方だけが分かっている瞬間だ。


 晴人は黙ったまま立っていた。

 拓真も同じだった。

 男はそれを見て、何も言わなかった。

 その沈黙だけで、答えになったのだと思う。


 それで3人は、ドアの向こうへ進んだ。


 あとになって晴人が何度も思い出したのは、何をしたかより、その直前の池袋の明るさの方だった。


 マルイ前。

 サンシャイン通り。

 人の多い交差点。

 ゲームセンターの音。


 あの普通の夜の続きに、そのまま事件が置かれていたことだけが、ずっと気持ち悪く残った……

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