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リセット  作者: ナオ


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3話 親切な人

 息子から電話が来なくなって、3日目だった。

 

 杉山和枝は、池袋西口の古いマンションの4階で、昼なのか夕方なのか分からない薄い光を見ていた。

 

 カーテンを開けても、隣のビルの壁しか見えない。

 

 昔は狭いと思っていた部屋が、夫が死んでからは広すぎた。

 

 テレビはつけっぱなしだった。

 音がないと、急に誰にも見つからなくなる気がした。

 

 和枝は74歳だった。

 

 足が悪くなってから、買い物も病院も近場で済ませるようになった。

 

 息子は埼玉にいる。

 月に1回か2回、顔を出す。

 来る時は優しい。

 帰る時は忙しそうだ。

 

 責めるほどでもない。

 

 でも、時計の音だけがやけに大きい夜がある。

 その日もそうだった。

 

 昼過ぎ、固定電話が鳴った。

 

 今どき固定電話にかけてくる相手なんて営業か、役所の連絡か知り合いくらいのものだ。

 

 和枝は少し待ってから受話器を取った。

 

「もしもし、杉山さんのお宅でよろしいでしょうか」

 

 男の声は若かった。

 落ち着いていて、やさしかった。

 

「はい」

 

「突然すみません、警察の方からご家族の件で連絡が回っておりまして」

 

 そこで和枝の喉が固まった。

 

「ご家族って」

 

「息子さんです」

 

 和枝は椅子から立ち上がりかけて、また座った。

 足に力が入らなかった。

 

「息子が、どうしたんですか」

 

「大きなお怪我とかではないんですが、今ちょっと、示談の話が出てまして」

 

 ……示談。

 

 その言葉だけが、やけに生々しく耳に残った。

 

 内容はうまく頭に入ってこなかった。

 

 相手に怪我をさせたとか会社の人の物を壊したとか酒が入っていたとか、そんな話だった気がする。

 

 和枝は何度も聞き返した。

 

 男はそのたびに、急かさず少しずつ説明した。

 

 それが逆に怖かった。

 雑な詐欺なら、まだ疑えたかもしれない。

 

 でも、その男は本当に困った人を相手にする時みたいな声を出した。

 

「今なら、まだ表沙汰にしない方向でまとまりそうなんです」

 

「息子と話したいです」

 

「それが、今ちょっと携帯を使える状況じゃなくて」

 

「でも、本人の声を」

 

「お気持ちは分かります」

 

 男はすぐそう言った。

 その言い方が、妙にあたたかかった。

 

「なので、本来なら警察署か弁護士を通すんですが先方もあまり大きくしたくないそうで」

 

 和枝は受話器を強く握った。

 

 気づくと、手が震えていた。

 

「いくら、必要なんでしょうか」

 

 自分からそう聞いてしまったことに、和枝は電話を切ったあとで気づいた。

 その時点で、もう半分終わっていたのかもしれない。

 

 相手は金額をすぐには言わなかった。

 少し間を置いてから、申し訳なさそうに言った。

 

「80です」

 

 80万。

 和枝は目を閉じた。

 

 年金だけで暮らしている今の生活には大きい額だった。

 

 でも、出せない額ではなかった。

 夫の死亡保険を崩した分が、少しだけ残っている。

 

 自分の葬式代くらいはと取っておいた金だ。

 その金額が頭に浮かんだ時、和枝は変な安心をした。

 

 払える。

 払えば、息子は助かる。

 

 その考え方自体が、もう罠の形をしていた。

 

「今日中ですか」

 

「できれば」

 

 男は言った。

 

「先方も待ってくれている状態なので」

 

 待ってくれている。

 

 怒っている相手に対して使う言葉じゃないのに、その時の和枝には、なぜか救いのある言い方に聞こえた。

 

 電話を切ったあと和枝は息子へ何度も電話した。

 出ない。

 留守電にもならない。

 LINEも既読がつかない。

 

 こんな時だけ、スマホというのは薄情だと思う。

 

 いるのか、いないのかも分からない。

 画面が静かなままだと、そのまま人まで消えたみたいに見える。

 

 再び固定電話が鳴ったのは、その20分後だった。

 

「すみません、先ほどの件で」

 

 同じ男だった。

 落ち着いた声。

 慣れている人の間の取り方だった。

 

「銀行は近くにありますか」

 

「ありますけど」

 

「ご本人が動けるなら、ATMより窓口の方が確実です」

 

「あの……警察には、本当に」

 

「そこは私もそうしたくないです」

 

 私も。

 

 和枝はそこで、少しだけ泣きそうになった。

 

 味方みたいな顔をして近づいてくる人間が、1番危ない。

 

 そんな当たり前のことを、この年齢になってから思い出すのは遅かった。

 

 和枝は通帳と印鑑を鞄に入れて、足早にマンションを出た。

 

 エレベーターの鏡に映った自分の顔が、思ったより老けていた。

 

 駅前の支店は混んでいた。

 整理券を取って座っている間も、固定電話で言われたことを何度も思い出していた。

 

 示談。

 

 表沙汰にしない。

 今なら間に合う。

 

 窓口の若い女性が丁寧に対応してくれた。

 口座から引き出したいと言うと、一応の確認だけされた。

 

「高額出金ですので、用途だけ伺ってもよろしいですか」

 

 和枝は一瞬だけ黙った。

 本当のことを言えば止められるかもしれない。

 でも、止められたら間に合わない気がした。

 

「家のことで」

 

 自分でも驚くくらい、するりと嘘が出た。

 

 女性はそれ以上聞かなかった。

 プロらしい笑顔のまま、手続きを進めた。

 

 数分後、分厚い茶封筒が手元に来た。

 重かった。

 現金の重さではなく何かを差し出す時の重さだった。

 

 銀行を出ると、また電話が来た。

 

「今、どちらですか」

 

「駅前の銀行を出たところです」

 

「ありがとうございます、では西口の交番前まで行っていただけますか」

 

 ――ありがとうございます。

 

 それもおかしな言葉だった。

 

 なのに和枝は、言われた通り歩いた。

 

 途中、雨が少し降ってきた。

 

 交番の近くには、若い男が立っていた。

 

 黒っぽい服。

 頼りなさそうな顔。

 悪いことをする顔には見えなかった。

 

 だからこそ、和枝は一瞬だけ安心してしまった。

 

「○○さんから頼まれて」

 

 男はそう言った。

 名前はちゃんと、電話口で聞かされていた偽名だった。

 

 和枝は封筒を抱え直した。

 

「息子は、無事なんですか」

 

 男は少しだけ目を逸らした。

 

「……自分、受け取るだけなんで」

 

 その答えを聞いた瞬間、和枝の背中が冷えた。

 受け取るだけ。

 

 それはつまり、何も知らないか、何も言えないか、そのどちらかだった。

 

 いや、違う。

 

 どちらでも同じだ。

 

 この人も中身のない通路の1つなんだと、和枝は遅れて気づいた。

 

「これで、終わりますよね」

 

 男は答えなかった。

 

 でも急いでいるのは分かった。

 

 スマホが震えるたび、顔色が少し悪くなっていた。

 

 和枝は茶封筒を差し出した。

 指先が離れる時、ほんの一瞬だけ戻したくなった。

 

 けれど、もう遅かった。

 男は封筒を持ってすぐに離れた。

 

 あっけないほど普通の歩き方だった。

 走りもしない。

 振り向きもしない。

 

 その背中を見ているうちに、和枝は急に立っていられなくなった。

 

 近くのベンチに座る。

 

 雨は少し強くなっていた。

 

 電話はもう鳴らなかった。

 息子からの連絡も来なかった。

 交番はすぐそばにあった。

 あと10歩も歩けば届く距離だった。

 でも、その10歩がひどく遠かった。

 

 しばらくしてから、和枝はようやくスマホを取り出した。

 

 息子に電話をかけると、今度は繋がった。

 

「もしもし、母さん?」

 

 いつもの声だった。

 寝起きみたいな、不機嫌そうな声。

 

 和枝は何も言えなかった。

 

「どうしたの」

 

「……あんた、今どこにいるの」

 

「家だけど」

 

 和枝はそこで受話器を落としそうになった。

 

 家?。

 

 何も起きていない声。

 

 示談も警察も、最初から1つもなかった。

 

 息子は何度か名前を呼んだ。

 

 和枝は答えられず、通話を切った。

 

 交番の前では、若い警官が雨を見ていた。

 

 ニュースで何度も聞いた言葉が、頭の中に遅れて流れる。

 

 不審な電話には注意してください。

 現金を手渡ししないでください。

 

 家族を名乗る連絡は、必ず確認してください。

 全部知っていたはずだった。

 

 知っていて、渡した……。

 

 その夜、息子は慌てて駆けつけた。

 部屋に入るなり、早口で言った。

 

「なんで俺にすぐ電話しなかったの」

 

 和枝は少し笑いそうになった。

 

 何度もした。

 出なかったのはそっちだ。

 

 でも口には出さなかった。

 

 息子は警察に行こうと言った。

 通帳も見せてくれと言った。

 被害届を出そうと言った。

 

 全部正しかった。

 

 正しすぎて、和枝には少し遠かった。

 

「ごめんね」

 

 和枝がそう言うと、息子は黙った。

 

「いや、母さんが謝ることじゃないだろ」

 

 その言葉で、少しだけ泣けた。

 金を取られたことより、息子の声を疑えなかったことの方が痛かった。

 

 もっと言えば、知らない男のやさしい声を、一瞬でも頼ってしまった自分が痛かった。

 

 翌日、通帳を記帳すると、数字だけがきれいに減っていた。

 

 80万。

 

 機械の字は薄くて冷たかった。

 

 窓口で対応した若い女性は、今日も同じ笑顔で別の客を案内していた。

 

 駅前の大型モニターでは、また特殊詐欺の注意喚起が流れている。

 

 街は何も変わらない。

 

 人を騙す声も、人に騙される声も、少し離れればただの雑音だった。

 

 和枝は通帳を閉じて、鞄にしまった。

 

 失ったのは80万だけじゃなかった。

 

 でも、何を失ったのかを人に説明するには、その金額では足りなかった。

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